毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

今年もありがとうございました

2022年12月31日 21時55分37秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
余裕の時間をついつい普段以上の家事に費やしてしまい、結局いささか疲れましたが、ちゃんと真我さんからストップがかかりました

家事ってやり出すとキリがないから、切り上げ時が肝心なんですよね。

きょうは一日穏やかな晴天で、とても氣持ちよく過ごすことができました。

平凡な日常を続けてゆける幸せ、掃除をしているときもおせちを作っているときも ありがたいなぁと思う氣持ちがたびたびこみ上げ、感謝しきり。

そして今年も このブログを続けることができたことにも感謝です。

ここまでこられたのも お読み下さる方があってこそ、ブランクの多い氣まぐれな更新にも関わらず支えて下さった皆さま、ほんとうにありがとうございました。

来年もできる限り続けていきたいと思います。

新年最初のブログは、「遅ればせ」 だの 「今さらながら」 だのにならないよう なるべく早めに書くつもりでおりますので (笑)

では今年はこれにて、皆さまもどうかよいお年をお迎え下さいね。















真我さんほど頼もしい導き手っていないよね

2022年12月29日 10時45分13秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
今年も残すところあと3日、年越し準備の比重が掃除からおせち作りへと移るタイミングでもあります。




それにしても、今年は年末の実感がなかなか湧かなくて なんでだろうと不思議だったんですが、それはあくせく感がなくなったせいだとふと氣づきました。

以前だったら、何日にはどこそこの掃除、何日にはあれとこれの買い出し。。。と前もってびっしり計画を立てて予定表を作っていましたが、まずその通りにできたためしがなく、こなせなかった項目が後にずれ込んで 時間切れで計画倒れとなり、そのたびに なんてだらしないんだろう、なんて怠け者なんだろうと自分を責めて落ち込んでいました。

が、おととしあたりから予定を立てるのをやめて、出たとこ勝負で思いついたことからするようにしていたら、かえって万事が滞りなく進むようになり、反比例して 「年末の準備はかくあらねばならない」 という決めつけが減って、今年など これがほんとうに年末かと思うほどののどかさ、それでいて 掃除できた箇所は例年よりずっと多く からだははるかに楽、こうしてブログをしたためる余裕まであるほどです。




予定って まだ見ぬ未来を勝手に予測して立てるものだから、実際にはその通りにならないほうが自然なんですね。

計算に入ってないことが いくらでも飛び込んでくるし、予定していたことをしたい氣分にならないことだって多い。

そもそも 生身の弾力的な人間を 杓子定規な計画にはめ込もうとすることに無理があったのに、どうにかしようと焦りまくって できない自分の方を責めていた。

年末の疲れの大半は そんな焦りやイライラからきていたのだと、いまは合点がいきます。

毎年何をするかはだいたい決まっているのですから、家事をサクサクこなしながら 楽しく年を越すイメージだけ定めておいて、あとは真我さんにお任せしていれば、ちゃんとしかるべきタイミングで “ふと思いつかせ” てくれますし、そういう思いつきには抵抗を感じないので、からだがすっと動いて 無理なくやり遂げることができます。

真我さんの指示に従っていれば間違いないとよくわかったから、焦ってイラ立ってぐったり疲れて新年を迎えるのはもうおしまい。

昔からは考えられないほど アタマを使わなくなった貴秋です




きょうは外回りをさっと掃除して、今年最後の買い物に行き、紅白なますと黒豆と栗きんとんを作りま~す♪

















クリスマスイブのきょう ふと思ったこと

2022年12月24日 15時22分18秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
またまた更新が滞ってしまってごめんなさい <(_ _)>

今回は内観期ではなく、年末の忙しさから。

12月中旬にさしかかったあたりで 不意に 「え~!? あと3週間かそこらで今年終わりじゃない」 と氣づいて、そこから連日家事三昧。

すでにおせちの材料もそこそこ買いそろえ、きょうはクリスマスケーキを作るのだぁ~! と張り切っております。

でも ブログに書きたいこともいっぱいあるんだよね。。。ということで、きょうは手短に。




年の瀬にクリスマスを祝い、年明けには神社に詣でる、そんな日本人の宗教観は節操がないなどとよく言われますが、たしかに本来のクリスマスの起源を考えれば、敬虔なキリスト教徒の方々の思いを踏みにじるような浮かれ方騒ぎ方はしたくないなと思います。

一方で、たとえ商業戦略で広められたイベントであっても、人の心を温め幸せにするなら それもまたありなんではないかとも思うのです。

今年はコロナやウクライナ紛争や物価高や大雪などで、例年よりも氣軽にクリスマスを楽しめない人も多いのかもしれない。

ならばなおさら、意図して喜びや楽しみにフォーカスすることで 世界を変える力が自分にあることを、一人でも多くの方に実感していただけるよう切に願います。

とはいっても、たったいま いつ爆弾が落ちてくるかわからないような環境に身を置いているとか、ご本人や大切な人が病氣で苦しんでいるとか、懐が苦しくて明日の暮らしもわからないとかいう人に、その苦しみを直視しろとか 少しでも明るいことにフォーカスしなさいとかいうのは酷な話、そこは日々の暮らしを楽しむゆとりのある人から始めるのが自然というものでしょう。




で、そんなふうに 「私は私の世界を 明るく楽しく平和なものにする」 と心に決め 実践する人が増えていくとどうなるか。

私たちの集合意識というものは、すごいパワーを持っています。

全人口の7%の意識が変われば、残りの93%にも波及するとなにかで読んだ記憶がありますが、7という数字の真偽はともかく、過半数などといわず もっとわずかな人数が本来の生き生きした自分を思い出すだけで、世界は変わっていくんですね。

だから、できる人 ・ やる氣のある人から 自身の負を見つめて手放すことで、ほんとうの自分を取り戻していけばいい。

世界を救おう、多くの人を幸せにしようなんて氣負わなくてもいいのです。

ただ自分が満ち足りていて、その豊かなエネルギーが自然と周囲に伝われば、そのエネルギーに触れた人にも変化が起こります。

そんなふうにして 望む世界を確立した人が一定数に達したとき、オセロ盤が一氣に様変わりするように 世界が動き出します。

自身を満たすことが世界平和に貢献するのですから、そのためにはクリスマスだろうがハロウィンだろうが 使える機会は使えばいい、大事なのはまず自分がいい氣分でいることからだ、と貴秋は思うのです。




では、そろそろ失礼してケーキを作りに行きましょうか。

皆さまも どうかよいクリスマスイブ&クリスマスを。














その名前に実体はあるの?

2022年12月07日 20時23分30秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
子どものころ、不思議に思っていたことがあります。

テレビで 「暴○団がどうのこうの」 というニュースを見ていて、自分たちは人に暴力を振るうのは絶対にいけませんと何かにつけて教わっているのに、教える側の大人の世界に 「暴○団」 と名のつく人たちが存在していることが 奇妙に思えてならなかったのです。

まだ10歳になるかならないかぐらいでしたが、「名前をつける」 とは存在を認めることだと どこかで感じ取っていて、認めておきながら 「お前たちは悪い奴だ、少しでも何かしようものなら捕まえてやるからな」 だなんてヘンじゃない? と思っていたんですね。




名前をつけるとは、輪郭を鮮明にすること、形を与え 力を持たせること。

でも、名があるからといって 必ずしも実体が伴うわけでもないのが 厄介なところでもあります。




最近氣になるのは、「国」 という言葉。

目耳にしない日がないぐらいおなじみの名称ですが、じゃあ 「国」 ってなに?と聞かれて、躊躇なく明確に答えられる方っていますか?

国土、つまり場所のこと? なら、そこを離れれば その国の人ではなくなる・・・・わけじゃないよね。

固有の人種や民族のこと? でもいまは国どうしの行き来が自由で、移住も国際結婚も多くなっているから、線引きは難しいよね。

特定の言語や思想や風習を持つ者どうしとか? そんなの住む地域によっても違うし、時代と共にどんどん変わっていくし、それをひとつにまとめるのは無理があるよね。

で、いつものように 「他の生き物にも通用するかどうか」 を見てみても、国境線も 肌や目の色の違いも 言語や思想の違いも 人間以外の生き物にはまったく関係ない話、どうやら 「国」 というのは 人間の頭の中にだけある概念のようですね。




これまで何度も書かせてもらっていることですが、地図が そこに描かれている実際の場所と必ず対になっているように、言葉にも 必ず対となる ”現地” が存在するはずです。

言葉・・・とりわけ特定の人や物や場所や状況を指し示すのが役目の 「名前」 というものに、対となる現地が見当たらなかったり 曖昧なイメージしか浮かばなかったりするときは、その名前の扱いには注意した方がいいように思います。

なぜなら、意図を持った人間が その曖昧なイメージを自分に都合よく操作して、人々の意識を自分の望む方に持っていくことが可能だからです。

私たちの多くは、「国」 なるものが存在することは固く信じ込んでいるけれど、「国」 が具体的に何を指すかは 漠然としかわかっていない。

この現状に危うさを感じてしまうのは、貴秋が 太平洋戦争真っ只中に多感な思春期を過ごした両親の下で育ったためでしょう。

特に東京の下町育ちだった母は、お国のためと信じて 物資の欠乏に耐え 学徒動員に従い、あげくに焼夷弾の雨の中を逃げ惑い 家を焼かれるなどさんざんな目に遭ったにも関わらず、開戦の責任が何十年経ってもうやむやなままであることへの怒りを 事あるごとに語っていましたから、「戦争を始めるのは上の人でも、ひどい目に遭うのは庶民」 という彼女の言葉が 脳裏にくっきり刻み込まれているのです。

そして 現にそれがそっくり、いまのウクライナやロシアで起こっている。

世界情勢を鑑みれば、同様のことが今後日本でも起きない保証はないのです。




戦争を起こしたい人、戦争で得をする人はいるでしょう。

でも実際に戦いに参加し 血を流すのは その人たちではなく、訳もわからぬまま戦場に駆り出される一般庶民です。

そんな羽目に陥りたくなければ、実際に起きていることと漠然としたイメージの違いをきちんと見てとり、煽りに乗らないことです。

「かえり」 の道にある私たちは、以前よりも直感が鋭くなっているため、「なんかヘンだな、怪しいな」 という感じはわかるのですが、「行き」 に培ったクセで、ともすると雰囲氣に呑まれたり 感情に振り回されたりしてしまいます。

事態を正確に見てとるためには、そんな感情の渦から抜け出して 引きの視点から見る習慣をつけること。

顕在意識だけでは目くらましされてしまいそうなことも、潜在意識を通せば 理屈を超えたところから その本質がおのずと見えてきます。

これまでのあらゆる戦争紛争で、死にたくない、もっと生きたいという生物として当然の切なる思いを 「国を守り、愛する人たちを守るため」 と無理やり言いくるめて命を散らした人たちが、どれほどいたことか。

そしていまのこの瞬間も、宇露を始めとする世界中のあちこちで、同じ矛盾に引き裂かれている人たちが 数え切れないほどいるのです。

そんな未来を選ぶつもりがないなら、身のまわりの言葉に注意を払い、ムード先行で "現地” をたどれない言葉に押されていないか 氣をつけることです。

国であれなんであれ、その本質はなにか、実体があるものなのか、それは人生や命をかけるにふさわしいものなのか、腑に落ちないところはとことん問うのをいとわず、意に反することを強制するものがあれば、うわべだけの理屈で言い負かされたり 勢いで言いくるめられたりせぬよう、相手の言葉の根っこまで見極める力を持つことです。




好まない世界から意識を離し 好きなものに集中する習慣をつけつつある貴秋ですが、大手メディアシャットアウトでも伝わってくるほどのサッカーワールドカップ熱に、「これも国別対抗なんだよね。。。で、国っていったいなに?」 と思わず言いたくなりました。

楽しんでおられる方々に水を差すようで申し訳ないのですが、こういう熱狂的騒ぎを通して、私たちは日頃のうっぷんのガス抜きをされつつ、ないはずのものがあるかのような催眠をかけられているのかもしれません。

















私たちの安らぎも豊かさも力も自由も、外ではなく内にある

2022年12月05日 11時25分15秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
今回も思い出話から始まりますが、これは14、5年ぐらい前のことだったかな。

友人知人7~8人の旅で ある宿に泊まったのですが、支配人さんが部屋に案内して下さると、廊下に面していくつかの扉が。

「お好きなところにお入り下さい」 とにこやかに言われて、適当に分かれてドアを開けると、なんとそこは仕切られた個室ではなく、どーんとひとつの大広間。

なんのことはない、大部屋にいくつものドアがついていただけで、あっという間に再び相まみえた全員、顔を見合わせて大笑い。

支配人さん、お茶目な方でした。

で なんでこんなことを思い出したかというと、つい最近 これとそっくりな氣づきがあったからなんです。




貴秋は、内観を通して 怒りを手放して楽になりたかったし、不安から解放されて安堵感を味わいたかった。

セルフイメージを回復させて自信を持ちたかったし、他者と上下でなくフラットにつながることで 人間関係にも前向きになりたかった。

かつて味わったことがないほどの豊かさを得て 人生を謳歌したかったし、自分の存在が世の中の役に立っているという充足感も欲しかった。

とまあ いろいろ望んでいるように思っていたのですが、自身の内から感じるそれらは、実は根っこでは どうやらすべて同じひとつの感覚、すなわち否定的波動がまったく割り込まないときの素の感覚に集約されるらしいと氣がついたのです。

ネガ波動の抵抗がまったく起きないときの私たちの心は、ごく自然に明るく 軽く 穏やかで 暖かい。。。。これが本来の私たちの常態なんですね。

体験の世界においては 体験の数だけ入り口がありますから、私たちの求めるものも 状況に応じてときめきだったり安心感だったり晴れがましさだったりと変わりますが、さまざまな体験を経てさいごに落ち着くのは、抗うものなく満ち足りた 究極のありよう。

ということは 逆から見て、私たちの望みを打ち消すような抵抗波動を ことごとく手放してしまいさえすれば、もはや私たちに不可能はなく、形なき常態から好みに応じて 形ある世界に望むものをいくらでも分け出すことができるのだ、と氣づいたわけです。




人間が五感で受け取る情報は 視覚が8割方を占めると言われていますが、そんな断然優位な視覚をもってしても 決して見ることができないのが、自身のありのままの姿。

鏡を通せば 左右が逆になってしまうし、カメラの画像は わずか数秒なりとも過去のものですから、私たちの誰一人として、いま ・ ここの自身の姿を正確に眺めることは不可能なんですね。

これって、私たちの本質が外ではなく内にあることの現れのように思えます。

真に自分を知ろうと思ったら、外から眺めるのではなく 内から感じるしかないと。




さらにもうひとつ、私たちって 外から言われる正論を そのまま我がものにはできないんですね。

他者から言われたことは、どれほど納得いくことであっても そのままではただの理論や情報に過ぎず、自分のものにするには 内に取り込んで消化し、自分の言葉として出てくるようになるまで待つしかない。

ましてや 素直にうなずけない意見なら、アタマではどれほど正しい、必要だとわかっていても、反発して押しのけてしまう。

私たちは、内側からしか 進んで得心することができないのです。




私たちは長いこと、外から不安を取り除き 心を満たそうとして、さまざまな分野で世界を探求し、得た知識をもとに 多くの便利な物や仕組みを作ってきました。

が、作れば作るほど そのマイナス面も表面化し、身分の上下や貧富の差が大きくなって、人々は 互いに分断され、地球環境は劣悪になっていきました。

やがて “行き” の道が “かえり” に転じ、自身の外ではなく内に目を向ける人が増えてきましたが、今度はそんな探求者を迷わせるかのように 本来の自分ではない後付けの否定要素が次から次へと現れて、私たちを苦しめる。

でも、ここで諦めることはありません。

これまで避け続けてきたその否定要素こそ、からだを持って形ある世界に生まれてきた私たちが体験したかったものなのですから、一度しっかり味わって その役目を終わらせればいいのです。

正誤 ・ 善悪などのように分裂するもととなっていた否定形がなくなっていくに従い、その奥に隠れていた 「たったひとつの “源” 」 である本来の自分が しだいに主導権を握って動き始めます。

そして内に揺るぎない芯を感じながら毎日を生きられるようになったとき、愛であり自由であり安らぎであり豊かさであり健やかさである ”大部屋” から、好みに応じて好きなドアをくぐり 思うままの世界を実現してゆけることを知り、また 日常のどんなささやかでありふれた喜びからでも 同じ大部屋にたどりつけることを知るのです。