毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

ゆっくり育てる 思考回路も作物も

2016年06月29日 10時58分33秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「自他一体」 と言ったところで、他者の存在をそっくり否定するわけではありません。

そういう見方もある ということ。

そして、新たな視点が現れることで 自他分離一辺倒でなく 状況に応じてさまざまな見方が選べるのだとわかると、人生が変わります。




自他一体を少しずつでも受け入れられるようになると、被害者の視点が いかに自分の足を引っ張っていたかが よくわかります。

自分は他者のせいでこんなことになったのだ、悪いのは向こうだ、仕返ししてやる、謝らせてやる。。。。心の奥に潜むこういった意識が すべてを自分が起こしていたと氣づくのを遅らせ、現状に足止めします。

相手への攻撃は 結局自分に返ってきて、また他者に腹を立てて・・・・・と どこまでも堂々巡りが続きます。




「他者は自分の鏡」 という見方は、外にぶつけた悪口雑言の物差しを 自身に向けるときは 勇氣がいりますが、いったん 「うわ~、自分も同じことやってたよ」 と氣づいて そんな体験が積み重なると、自他一体の視点への信頼が増し、堂々巡りを抜ける 大きな力となります。

不遇を他者のせいにするのをやめ、どうやって状況を変えようかと 進んで考えを巡らせ始めるとき、すでに望まぬ環境から 半ば抜けているのです。




分離の視点は、それ自体が悪いというのではなく、どこでどう使うか ですね。

他者の存在を認めるから 家庭や友情や恋愛が楽しいのだし、みなで力を合わせて何かを成し遂げる喜びも 他者あってのこと。

被害者視点も 自他一体に向かうプロセスの一部と思えば 決して無意味なことではありませんが、あまり長く引っかからないに越したことはないでしょう (^_^;)

異なる視点を自在に行き来することで、視野が大きく開け 人生が一段と豊かになります。




こんなふうにさらさら書いていると さも順風満帆といった印象ですが、実際は 今でもしょっちゅう小我の過去視点に引き戻されてはアタフタの、「三歩進んで二歩下がる」 を地で行く 牛の歩みです

自分のクセに氣づいたからといって 一瞬で負がすべて消えてなくなるわけではない、引き戻されては抜け出し、引き戻されては抜け出し、の繰り返しです。

そして、その繰り返しによって 新しい思考回路を鍛え上げ、確かなものに育てているのだと思っています。

畑仕事や保存食作りと同じく 地味でスローで氣の長い私にぴったりの、地道で実り多い作業です (^o^)























ほんとうにあった 自己否定 続き

2016年06月28日 15時58分21秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の続き。




あの温泉の母娘から氣づいた 責め立てる者への怒りと 責め立てられる者への怒り、その一方は、もともと私のものではなかったのでした。




わが母の 幼い私へのいら立ちは、今思うと 自身の日ごろのフラストレーションを 多分に上乗せした、しつけというよりも 不当な八つ当たり感が強いものでした。

そして それはそっくりそのまま、私自身の 不当で的外れな自己否定にすり替わりました。

この無自覚な自己否定が 知らず知らずのうちに さまざまな形で人生にトラブルを呼び込んでいたのです。

「こんなヤツは 生きている値打ちがない」 「ダメになってしまえばいい」 腹立ち紛れの 激しい否定の言葉が、意識せぬまま 心の奥底で湧き起こり、その言葉通りに さまざまな厄介ごとを引き起こしていたのです。

自分がトラブったパソコンに吐きかけたくなる決まり文句から それに氣づいたときの驚きといったら。

そんなからくりを抱え込んだままでは、穏やかな暮らしや心持ちが なかなか実現しないのも もっともなことでした。




さらに見えてきたことがあります。

思い起こせば、他者を責めるとき いつも胸のうちに 瞬時の快と共に かすかな痛みがありました。

相手に腹を立て こちらからも派手に切りつけてやりたいと思えば思うほど、その痛みは大きくなっていきました。

母のわがままに振り回されていたころ、よく仕返しの場面を思い描いたものですが、リアルに想像すればするほど 意地悪い満足感と共に うずくような痛みや悲しみが膨れ上がるのが、不思議で心地悪くてなりませんでした。

あれは、相手と自分を重ね合わせてのことだったのです。

他者が 自己の受け入れられない部分が投影された姿でもあるならば、自他は くっきり線引きし切れない、別だけれど一体という あいまいなつながりとなります。

そう見れば、他者を傷つければ 自分に痛みが走るというのも なんとなくうなずけること。

嫌いなはずの相手に哀しみを覚えるのも、大切に守っているはずの自分を 無意識に傷つけてしまうのも、この別々であり またひとつでもあるという 相反する視点が同時に成立する この世界ならではでしょう。

そして この他者とは、人以外の動物 ・ 植物 ・ 物などについても同じこと、自分以外の何を傷つけても 負のエネルギーは 必ず自分に返ってくるのです。




幼いわが子を 年老いた親を 虐待した、殺してしまった、などというニュースに触れるたびに、その加害者被害者双方が感じたであろう痛みが 身の内にフラッシュバックします。

昔受けた理不尽な仕打ちに仕返ししようと どれだけ暴力を振るっても、満足する瞬間は決してやってこず、むしろ痛みや悲しみがどんどん大きくなるばかり。

相手 = 自分であり ほんとうは大切にしたいのに、仲良く一体感を感じていたいのに、分裂した意識のまま傷つけ合わずにいられない辛さです。

虐待がどんどんエスカレートするのも、怒りを抱えた人の数や 怒りの度合いが増す一方なのも、そうと氣づかないまま 外に向かって怒りを叩きつけ続けるから、そうするしか思いつけないから、なのでしょうが、暴力を振るうほうも 振るわれるほうも、そのままどこまでいっても 救われることはありません。

自他一体という理屈を超えたありようが成立することが 得心できて初めて、他者への暴力が すっかり鳴りを潜める日がやってくるのでしょう。

内なるせめぎ合いや子どものケンカから 国家間の争いまで あらゆるもめごとや暴力沙汰を解消するカギは、まず自身の中の否定や葛藤が幻であると氣づくこと、そして 自分と他者は 別々でひとつだと腑に落ちることにあるとの確信を深めた貴秋です。




氣づきに伴い、私の心も人生も この先どんどん肯定的に変わっていくでしょう。

そんな変化が ちっちゃな個の私を超えて もっともっと大きくどこまでも広がりますように、やがては地球丸ごと穏やかに平和になりますようにと願わずにはいられません。

























ほんとうにあった 自己否定

2016年06月28日 01時32分05秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


“無条件幸福”に目を開かされるのと並行して、否定的な観念についても 大きな発見がありました。




子どものころ 人からされて辛かったことを 自分も他者に対して行うようになるとは、以前から言われていること。

幼少期に虐待を受けた人が 自身も子どもを虐待する親になる、などは その典型ですね。

この 「他者」 を 「投影された 自身の姿」 と見ると、自分がされて辛かった仕打ちを 自分で自分にするという、妙な構図になります。

自分で自分を責めさいなむ 自己否定というこの現象も 内的探究ではよく取り上げられていますが、自分がそういうことをしているという実感が なかなかつかめずにいたのですが。




もうかれこれ6~7年前のこと、バイトしていた旅館で 仕事の後温泉に入っていて、ちょうど居合わせた 若いお母さんが 小学生になるかならないかぐらいの娘をヒステリックに叱りつけているのを目にして、母と娘の双方にいら立ちを覚え、おや? と思ったことがありました。

お母さんはともかく なんで娘さんにまで? とわれながら不思議だったのですが、そのとき不意に、同じようにヒステリックな叱り方をすることの多かった 自分の母親のみならず、叱られてビクビクおどおどしていた当時の自分にまでも ずっと不快感を持ち続けていたらしいことに 氣がつきました。

自身を守り 反撃できなかった不甲斐なさに 怒っていたということ?

が、感覚フォーカスがまだ身についていなかったころのこととて 思い出すだけで苦しい記憶や感情を それ以上深追いする氣になれず、そこでストップしたまま棚上げになっていました。




自分が辛かったから、弱い立場の相手、とりわけ子どもに対して感情を荒げるのは 極力控えるようにしていましたが、我慢はしても 真の解決には至れぬまま。

そして、人にはぶつけられないいら立ちを 物にぶつける長年のクセがあり、それが パソコンに対して特に激しく出るのが ずっと氣になっていました。

パソコンの動作が遅くなったりおかしくなったりするたびに、異常なほどかんしゃくが募り、罵声を浴びせたい衝動が抑えられなくなるのです。

この 「スムーズに動かないパソコン」 を 自身の鏡と見立て、感覚フォーカスしながら掘り下げていったら、思いがけないものが見えてきました。




「動作が遅い」 と 「いら立ち」 この二つのキーワードから思い浮かぶのは、まさに幼いころの自分と母親。

生来のんびりやでアダージォ (音楽用語 ・ ゆるやかに の意) な私は、しょっちゅう早く早くとせき立てられ テンポに乗り遅れては 叱られていました。

感情の波立ちを抑えられなかった母は そんな私のクセに ことさら厳しく当たり、そのきつい叱り方に こちらも大きな怒りや反発を覚えるようになっていました。

そこまでは以前から自覚していたのですが、もうひとつ 母の私へのいら立ちが、幼い私の脳に いつのまにかそっくりそのまま刷り込まれている事実を、長いあいだ見落としていたのです。

「なにをぐずぐずしているの!」 という怒りに満ちた母の声が、「ぐずぐずしていたらまずい、また叱られる」 という 怯えを伴った緊張から 「ぐずぐずしていちゃダメ!」 という 自分への戒めに変わり、やがて 無意識のうちに 母そっくりに自身を責め立てる声になった。

あの温泉で 小学生の娘さんに覚えたいら立ち、そして 動かないパソコンによく感じていた激しい怒りは、私本来のものではなく、その昔 母からそっくりそのまま写し取られた 母のいら立ちや怒りのコピーであり、それをいつのまにか 自分自身のものと思い込んでしまっていたのです。




長くなりそうなので、続きは次に。
























過渡期

2016年06月26日 18時29分51秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


日曜のこれぐらいの時間にさしかかると、ふと 憂鬱なような 寂しいような 物悲しいような 名状しがたい感情がこみ上げてくることがあります。

これは 子どものころの記憶のお名残り、他人が苦手で 学校が好きでなかった私は、日曜の夕方になると 明日からまた学校か~、と 会社嫌いのサラリーマン並みに氣が重くなる子だったのです (^^ゞ

そして今でも ふとした拍子に、日の傾き具合や 夕刻の時報、サザエさんのテーマ音楽なんかがスイッチになって、当時の感情がよみがえるんですね。




思い出の場面と そのとき味わった感情は、しっかり結びついて記憶されるようです。

そのため、出来事が感情を生む、出来事が先で 感情があと、という印象になりやすく、不快な思いを味わったのと同じシチュエーションは避けたくなるし、幸せな氣持ちを呼び覚ますものなら 追いかけたくなります。

でも、幸せになるのに なにがしかの出来事が必要だとしたら、それは 「条件付き幸せ」 であり、幸せかどうかは つねに外側の状況に左右されることになってしまう。

私も長いこと そんなふうに思い込んでいましたが、実はそういうものでもないらしいと知ったのは、津留晃一さんのこのようなメッセージから。


               「豊かさの本質」   「意識の焦点」


空が冴え冴えと青いから、吹き抜ける風が心地よいから、陽の光が 花が美しいから 幸せなんだと思い込んでいたけれど、空や風や日ざしや花は もともと私の中にあった幸福感を誘い出し その存在を思い出させるきっかけに過ぎず、それらと出会う前から 幸福感は いつでも私のもとにあったのだ、と氣づかされ、意識が変わり出しました。




そもそも人の本質そのものである幸福感の存在を そこまで感じ取れずにいたのは、それを覆い隠す 積年の不安や恐れが あまりにも多過ぎたから。

真我を忘れ、小我のがんばりで なにもかも乗り切ろうとしていたから。

感覚フォーカスで 分厚い覆いが薄くなるにつれて、雲間から漏れる光のように ときおり 何の理由もなく幸福感がこみ上げるようになり、やはりきっかけなしでも感じられるものだったのだという体験が重なって、意識の変革に拍車がかかり始めました。




今でも 空や風や日ざしや花で 幸せになれるけれど、それが条件というわけではなく、特別なきっかけなしでも そう感じようと思えば 幸せになれるのだ、との実感が、少しずつ深まってきています。

また、自然のみならず 無機質なものの中にも これまで感じ取れなかった美しさや感動を覚えることが多くなりました。

知らず知らずのうちに生まれていた 「自然の対極にあるものは 美しくも心地よくもない」 という偏見が、並行して薄れてきているんでしょうね。




ちょっとしたきっかけひとつで、心は幸せにも不幸せにも すいっと傾く。

そんなこの世界の二極性を活かして 幸福と不幸のギャップを味わい楽しむのもありだけれど、そんな行き来に なんとなく疲れを覚えるようになった今、幸福というものの概念が大きく変わってゆく過渡期にさしかかっているようです (^^)





















振り子

2016年06月25日 09時10分43秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


自身や物事の否定的な面が表に出てくることは、見ようによっては大きなチャンスですよ♪ という話の続き。。。。かな、ちょっとだけね (^^ゞ




なんであれ、いやなこと ・ 苦しいことを アタマ (理屈) でどうにかしようとすると、“二極で一対” のからくりにはまります。

ネガを避けるか解決するかして ポジに移ったとしても、いずれまたネガがやってくる。

それは、ネガとポジ、ひとつのものの相反する二面を どこまでも往復し続ける 終わりのない振り子です。

ブレイクスルーのカギは、ネガをどうにかしようとしないこと。

ネガがあると認めた上で それを変えようとしたり そこから逃げたりするのでなく、ただその 「ネガと思われているもの」 を 無心に眺めるだけ。

それが 実体のないもの、そもそもないはずのものだと得心できたとき、すでに 合わせ鏡のように対をなすネガポジを超えた境地にいるのです。




イギリスのEUについての投票で、勝った離脱派が 一時の勝利に酔いしれても いずれまた なにがしかの問題が起こってくるのは必定、負けた残留派の人たちも そのうちなんらかの問題をきっかけに 再び戦いに身を投じることでしょう。

このどこまでも続くパワーゲームに留まるか 抜けるかは、各人の思いひとつです。























それ以外の世界

2016年06月23日 14時54分55秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


イギリスのEU離脱か残留かを問う国民投票がまもなく始まり、日本でも参院選に突入、政治経済から氣象まで 世界中であらゆる分野に 解決すべき問題が山積みの感があるきょうこのごろですが、きのうもお話したように これもまたある意味 いいことなんだと思います。

問題そのものが見えないまま なんかヘンなほうに行ってるよねって不安ばかり募るよりも、はっきり五感でつかめる実体があるほうが はるかに取り組みやすい。




ここ3ヶ月ほどの流れで こうやって書いている小我の自分が サブの位置に下がるという決断を下して思うのは、小我って つくづく言葉で成り立ってるよなぁ っていうこと。

感覚フォーカスで 言葉がぴたりと止まると、小我はどうがんばっても存在しようがないのです。

真我だの小我だのという区別も これが自分だっていう認識も すべて消え失せ、ただ在るものが在るだけ、感じているだけ、っていう感覚しか残らないのですから。

いや、その 「在る」 「残る」 という意識や言葉すらも存在しないのが、真我の世界。




ニュース等で EU離脱派 ・ 残留派双方の意見や、参院選立候補者の主張、有権者の希望などを見聞きするにつけ、そのほとんどが 「自分にとっての いいこと」 を語っているように思えてなりません。

私にとって 都合がいいか悪いか、損か得か、みたいなこと。

それ自体の是非について言及するつもりはありません。

ただ、そのときの 「私」 も 「いい悪い」 も すべて言葉で成り立っているっていうことは 押さえておいたほうがいい氣がします。

「私」 という語が幅を利かせる世界は、小さな個に分離した世界であり、それぞれの人が 自分を主人公とする物語を持っている世界です。

それぞれの数だけ答があり、それぞれの数だけ正義がある。

そんな分離の世界に、すべての人にしっくりぴったりくる答など あろうはずもないのですね。

EU離脱だろうが残留だろうが、どの政党が勝とうが負けようが、のちのち必ず またどこからか不満が噴出してくるのは、火を見るより明らか。




でも、ここへお越しくださる方の多くは、「私」 には 小さな個としての小我だけでなく、はるかに大きな すべてである 「私」 という視点もあることを 頭ごなしに否定はなさらないだろうと思います。

すべてであるとは、それひとつしかない、ということ。

この視点に立てば、答はおのずとひとつにまとまります。

一番根っこの思いや答は 論ずるまでもなく そもそもひとつ、そしてその表し方は 各人の自由。

好きなだけ自由におのれを表現しても 他者を傷つけたり邪魔したりすることがなく、反対も妨害もされないのが、この視点から形作られる世界。

そんなイメージは、おなじみのこれこの記事、また 「パパラギ」 や ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュの 「神との対話」 、ミヒャエル ・ エンデの 「モモ」 、長島龍人の 「お金のいらない国」 などをもとに なんとなく出来上がってきたものですが、「想像できるものは すでに存在する」 ということで、これからもいろいろと見聞きして ますますイメージを具体的に研ぎ澄ませつつ、そんな世界に生きる氣満々の貴秋です。

私も 論戦や多数決の世界でがんばっていた過去がありますが、そちらはさんざんやり尽くして答が出たので、もう選ぶつもりはありません。




小我の世界しか知らないあいだは その中でベストを尽くすだけですが、いったんそれ以外の視点、それ以外の世界、それ以外の選択肢があることを知れば、その先は それぞれが自由に選び 決めること。

これをお読みくださったあなたは、ご自分のために どんな世界を実現なさるのでしょうか?





















災い転じて福と成す

2016年06月22日 18時59分21秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


最近あまり読みませんが、奈良に住んでいたころ 高校生ぐらいから アガサ ・ クリスティが大好きで、エルキュール ・ ポアロも ミス・マープルも トミー&タペンスも パーカー ・ パインも ハーリ ・ クインも、ハヤカワミステリ文庫で出版されたものは ほとんど全部といっていいぐらい読みました。

クリスティの魅力を語り出したらきりがありませんが、そのひとつに 何不自由なく暮らしていた人々が 事件に巻き込まれ、過去の過ち露見の危機とか 人間関係のもつれとか 経済的困窮とか 不意に襲い掛かるピンチにさらされ、その真の姿があぶり出される、というシチュエーションがあります。

寛大と思えた人が 実は狭量だったり、勇敢に見えた人が 実は臆病だったりと、みな容赦なく 見目よい上っ面を剥ぎ取られ 真実の姿をさらけ出すところまで追い込まれるのですが、いやおうなくほんとうの自分を見つめざるを得なくなるからこそ、ひとわたりジタバタあがいたあとは 素直になって よりよい選択をし、これまでと違う人生を歩み出すチャンスが生まれます。

クリスティの筆致には 「そういうものなのよね、人って」 とでもいうようなあたたかいまなざしが感じられ、事件解決と共に 万事収まるところに収まって、関係者一同新たな人生に踏み出してゆく、そんな安定の物語の運びと 作者の登場人物への愛情と思いやりが たまらなく魅力的でした。




これって 物語の中だけのことではなく、実生活での私たちも同じことなんですね。




いやなこと まずいことが起これば、誰だってネガティブな感情をかき立てられます。

連鎖的に うれしくない記憶が呼び覚まされ、からだに不快な反応が起こり、そのままにしておけば そこからネガ感情が続々と湧き上がって、身も心も不快の渦に引きずり込まれます。

一刻も早く なんとかしてこれを消さねば、と必死になるのも当然ですが、実は この 「不快感があらわになる」 こと自体が 同時にそこから解放されるビッグチャンスでもあるのだ、ということを、この数ヶ月の体験から思い知りました。




幼いころ どうする術もなく 心の奥に押し込んだままになっていた辛い記憶は、知覚できない意識の底に沈み、こちらが氣がつかないうちに 私たちの人生を左右しています。

当然幸せを望んでいるはずなのに、そう努力しているはずなのに、なぜかそうならない、そこにこの 氣づけないままの否定的な記憶が影響しています。

そんなネガ記憶がもとで起こる ネガティブな事態は、そのもとになった記憶そのまま、もしくはそれとそっくりの辛いストーリーや、そこから派生する 当時そのままの怒りや痛みを、今ここに再現してくれます。

存在自体が氣づけないほど深く埋もれ隠れていたものが、五感ではっきりキャッチできるほど鮮明に 姿を現すのです。

そうなればこっちのもの、無心に見つめ 真我の光を当てることで、長い間解決不能で持ち越しになっていた出来事を 分別あるおとなの感覚で受け止め、終止符を打つことが可能になります。

幼いころはどうしていいやらわからず 手をつけられなかったものが、今 成長した自分の力で 受け入れ 味わって おしまいにできるのです。

できれば避けたい、なしで済ませたいと思うような出来事は、その出来事を生み出す原因となっていた 隠れた負の思いを 手の届くところに呼び出し、同じことが二度と繰り返されないようけりをつけるために起きていた、と見ることもできるようです。




クリスティの物語のこの点に魅かれたのは、物事の否定的な面を明るみに出すことで 根本からの解決が図られ、人生を大きく好転させることができるという真理に共鳴し 心地よく感じるところが 自分の中にあったからだったんだな、ってわかりました (^^)




BSで 夕方ときどき ポアロシリーズのテレビ化されたものをやっていて、父とお茶しながら見るのが 最近のお楽しみのひとつになっている貴秋です☆























十分可能

2016年06月21日 13時34分09秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私たちは 幼いころから、真実であると証明されたことを信じるように仕向けられてきました。

が、実際のところは どうも逆なようです。

自分が信じたことが、自分の真実として実現するのです。

すなわち、誰かに保証されるのを待つことなく、なんなりと望ましい状況を 実現すると信じて疑わない氣持ちでいることが、望む世界の実現につながります。

が、保証なしで 心底信じ込むということは、マインドの説得ぐらいでは そうそう簡単にはいきません。

証明されないことは信じられないという長年の刷り込みが 強力に働いているからです。

そんな 自身の意図の及ばないところにまで作用している かたくなな思い込みを解除し、思い通りの世界を創り出すために、何ができるでしょうか。




まだ言葉を持たない幼少期に ダイレクトに意識に入り込み根付いた観念を あとから言葉で書き換えようとするのは、無理があります。

が、その観念が ほんとうにもともとの自分の一部かどうかは、無心に見つめてみれば わかります。

ほんとうの自分でないものは、見つめれば やがて消えます。

そして それを重ねるうちに、後付けの観念が消えて 空いたスペースに、信じる氣持ちが おのずと湧いてくるようです。




からだにも、筋肉や関節のように 自分の意志で思い通りにできる部分と、心臓や消化器官のように 意のままに動かせない部分があるように、心の動きにも 小我の意志でコントロールできるものとできないものとがあります。

恐れや 不信の念に 「恐れるな」 「信じろ」 といくら命じたところで、まず効果はありません。

ムリに 恐れまい、信じよう、とがんばると、「抗えば相手は大きくなる」 の法則どおり、かえって恐れや不信が募ったりします。

が、今の自分を見つめようとする意志や勇氣を持つこと、それと並行して 内面のフォーカスを 少しずつでも明るい方へとずらしてゆくよう努めることなどは、進んで意図してできること。




最近、「ああこれが 『前向きな氣持ち』 『開いた心』 というものか」 と言いたくなるような心地が ちょくちょく湧き上がってくるようになりました。

それそのものを意識的に呼び覚ませたわけではなく、ただ それが起こりやすいありようを整えることは あれこれ試みる中でできていたのかもしれません。

前向きになれ、明るくなれと命じて すぐさまそうなれるわけではない、でも そうなるようにもっていくことはできる、努力して自分を創り変えることは 十分可能だと 確信を持てたと言っていいような氣がする きょうこのごろです(^^)























意識のシェイク、そして書き換え

2016年06月20日 21時28分55秒 | ふと思うこと


変化、続いております。

まあ 常に変化はしているのだから とりたてて言うようなことでもないのですが、真我の自分ってこんなんか~ と思い知る機会が増えてきた感じかな?




「あんたが大将」 などと真我に言っておきながら、相変わらずピーチクパーチク前面にしゃしゃり出てこずにいられない小我の私ですが、それでも 自分がすべてでも主役でもないと悟った時点で なにがしかの目覚めはあったのでしょう、その現れのひとつなのか 「ピラミッドの頂点などではない、他の生物と同等の ひとつの種としての人間」 という視点が じわじわ拡大しつつあります。

小我は 「私」 という 全人口分の一の意識に特化していて、万事を自己の利益中心に見るのが当たり前になっていましたが、そんなちっちゃな個を超えた真我の存在感が増した結果 起きた変化なのでしょう。

きざしは半年~一年ほど前からありましたが、これほど 人間社会の枠組みを外れた一生物として 物事を見、考えるようになったのは、初めてのような氣がします。





この視点を通して 日々のニュースなど眺めていると、人間という存在の異質さ ・ いびつさが、いやおうなく浮き彫りになります。

これまでも 何かにつけて感じていたことではありますが、喉元過ぎればという感じですぐ忘れていたものが、真我の出現率アップにつれて 「ヘンだよ、人間」 という氣持ちが常駐するようになり、「パパラギ」 の酋長ツィアビのような目で 自分たちの所業を眺めていると氣づくことが多くなりました。

自然破壊や環境汚染は その際たるもの、自分で自分の居場所をわざわざ壊したり汚したりして 命を縮めるようなマネをする生き物なんて、人間ぐらいのものでしょう。

そして、そんな異様な行動にも 人間ならでのそれなりの理由が ちゃんとあるんですね。

小我としての自分しか知らず、自分と他者はまったくの別物でバラバラ、自分はこの大きな世界のほんのちっぽけな一部に過ぎない 無力な存在、という認識に、この世は恐ろしいところ、いつなんどきどんな悪いことが起こるかわからない という不安や怖れが加わると、何よりもまず自分を守らねばとの本能から 目先の安全や利益ばかりに目がいき 優先せずにいられなくなるのも 無理ないこと。

そんな不安ベースの人間が増えた結果が 今のこの世界の奇妙なありさま、ということでしょうか。




そして そういうものが 今の私の目に映る世界であり 人間であるなら、それは紛れもなく 少し前の小我の私の意識が生み出した結果であり、私自身の世界観が そんな不安に満ちたものだったということ。。。。。目に映るすべては、私の意識の投影なのですから。

となれば、いつもながら 変えるべきは世界ではなく 自分の意識 ということになりますが、マインドの不安や怖れを 言葉で説得しようとしても なんの効果もないのは、これまでお話してきたとおり。

今思いつける最善の選択は、すべてであり すべての答を知っている真我の先導に任せること、真我の視点を通して万事を見、そのひらめきに従うこと。。。。。と、結局そこに戻ってくるんですね (^^ゞ




小我の思い込みや怖れが織り成す恐怖の物語は、真我の視点を通せば 仮初めの姿でしかないことが露呈して やがて消え去ることは よくわかりましたが、不慣れなゆえか フォーカスがすぐ小我に戻ってしまうせいで、天国と地獄の間でシェイクされるような日々が いまだ続いています ( ̄∇ ̄;)

同時に、何度引き戻されようとも あきらめず真我にフォーカスし続ける その繰り返しこそが、小我 = 自分 という見方に慣らされていた意識をじわじわと書き換え、真我 = 自分 という新たな認識を創り上げ がっちり固めてくれている、とも思えるのです。

そして、これまでにないありようの自分を感じる機会も少しずつ増え、よくはわからないけれど、なんかこれまでにないすごい時を過ごしてるんじゃないかな、と。

折に触れ、そんな新たな意識にふと映るものを ちらほらスケッチしてみようかと思います。



























還ってきた

2016年06月09日 20時04分59秒 | ふと思うこと


ひさびさのフォトブログ、きのう投稿しそこなったので 一日前の写真ですが (^^ゞ


しばらくカメラの存在を忘れるほど 内にばかり氣がいっていたけれど、そんな間にも 季節は確実に変化していて♪





今が盛りの紫陽花







年ごとに赤味が増してきたのは、土の成分が変わってきているから?

私は淡ブルー系が好きなので ちょっと残念だけれど、これはこれで美しいよね



くちなしも咲き始めて 風に乗って えもいわれぬ香りが





オリヅルランも。。。。可憐な花





ミニトマトも 次々花をつけ





いちばん最初の実が色づきました





今年もこぼれ種から生えた青ジソが 庭のあちこちに、毎日のようにありがたくいただいています (^^)





そして うれしいこれ



切られてしまったローリエも ひこばえがすくすく育って 葉っぱをたくさんつけたよ \(^o^)/



こんな小さな庭にも、季節に応じて さまざまないのちの形がお目見えし、心楽しませてくれます




内側の変化も 着々と進行中、もう少し時間が経って 距離を置いた視点からでないと くわしいご報告はできそうにありませんが、「他のどんな生物よりも強大な力を持つ人間様」 という立場から、いのちのひとつの形というか 表現というか、個性はあっても特別ではない 地球の一メンバーへと、立ち位置がじわじわ変わりつつある氣がします。

自我さんのとりとめないおしゃべりが聞こえたり テレビのニュースに目がいったりすると、批判や自己卑下ではなく 「なんだこのけったいな生き物は」 なんて氣持ちが ふと起こったりして、そんなよくも悪くも独特な人間という種が 本来のいのちそのもののあり方に 今かえろうとしていることが 無性にうれしく思えたりするのです。

もう特別な何かになって 評価されたいなんて思わない、思いつくままに ちょこまか動いて ささやかな暮らしを紡ぐ この平凡で穏やかな日常が、じんわり幸せで かけがえのないものに感じられる毎日。

特別な者になろう、すごいと思われようと懸命だった人生から、一周まわって還ってきた、この穏やかさが もともとずっと自分の下にあったのだ、という感覚に、苦笑しつつも そのありがたさをかみしめる日々です。