台風の後、ほんとうにすとんと秋に切り替わってしまいました。
朝晩なんて、涼しいの通り越して寒いぐらい(^_^;)
昼間はさすがに30度前後ぐらいまでは上がるようだけれど、あの猛暑をくぐり抜けた後で そんなの暑いうちに入りません
お日さまの威力がこれ以上落ちる前に、と、タオルケットやらカーテンやら 厚地のものを 連日洗っては干し、洗っては干し。
カーテンレールのほこりも取って、窓やサッシもきれいに拭いて、洗い立てのカーテンを下げると、まあなんて清々しいんでしょう♪
夏のいささかくたびれた空氣を秋の新鮮な空氣と入れ替えて、家の中が少しずつ明るくなっていくのがうれしい毎日です。
夕べは中秋の名月、雲ひとつない夜空に 磨き上げたようなまぶしいお月さま
深夜、お隣小学校の芝生で ひとり見とれていました。
彼岸花も咲き始めたし、鹿の初鳴きも聞いたし、日の長さもどんどん短くなって、巡ってるねぇ、季節♪
ここしばらく、思いや氣づきはたくさんあるのだけれど すっきり言葉にならない日が続いていましたが。
あらためて、万事がすごく単純なことだったんだと思えてきました。
行って 返る 行って 帰る 行って 還る
それだけのこと。
そもそも、母のおなかの中にいる時点で、「行って」はすでに始まっていたんですね。
本来の自分でないもの、形ある“いつわり(誕)”の存在として生まれ出て、まわりからいろいろと影響を受けて 曇りをどっさり増やして 悩んだり苦しんだり、そんな中でだんだんと氣がついて、本来の自分に「返る・帰る・還る」ことを始めて。
薄紙を剥ぐように 自らつけた曇りをひとつひとつ取りながら、いつかまた 夕べの満月のように 澄んだ輝きを放つ自分に戻っていくんだ、と
やたら頭でややこしく考えて、すべてがものすごくもつれて訳わからなくて混乱していたときもあったけれど、
どうも 見ていたものは ずっと同じだったらしい。
私のフィルターの目が粗いほど、すくい取れるものも少なくて、世界が混沌として見えていただけのこと。
頭をぶつけては氣づき、ぶつけては氣づきするうちに、ちょっとずつ整理されてきて、手のつけようもなくごちゃごちゃだったものが、実はとってもシンプルなつくりになっていたのがじわじわと見えてきました(^^)
サンスクリット語に、「リラ」とか「リーラ」とか呼ばれる言葉があるそうです。
「神々の遊び」「神々の戯れ」っていうような意味なんだって。
すべてであり 完璧である存在が、自分の素晴らしさをもっと味わい 実感したくて、この世界を創り、さまざまな形に分かれて いろいろな体験をすることにした。
私たちは、その大いなる存在のかけら、“神であることを忘れた神”なのだと。
自分でないものになって、またほんとうの自分に戻っていく。
それが生きるということであり、ひとりひとりが授かった人生そのもの。
そんなふうに見るとね、
かつての頭を抱えるような思い出、できればなかったことにしたいというような出来事さえ、すべて予定調和のプロセスの一部、なにひとつ否定しなくていいんだな、と、おおらかに受け止めることもできる氣がします。
混沌しか見えなかったときは、キリキリ舞いしてのたうちまわって、今振り返ると つくづくご苦労様だなぁ、あんな大騒ぎしなくても良かったのにね、とため息つきたいような氣持ちにもなるんですが(^^ゞ
でも、そうやってジタバタあがいたからこそ ひとつずつ殻を脱ぎ捨てて ここまで来られたのであって、やっぱりなにひとつムダ・無意味なことはないんだなぁと、あの頃の自分のがんばりに 心底お礼を言いたくもなるのです。
・・・って、繰り返し同じこと言ってるなぁ
それはそうだよね、ずっと同じものを見ていたんだから。
ただ、より精密に より鮮明に 見えるようになって、ありがたみも増してきたというだけのこと。
いつわりの中で 本氣であがく自分に加え、すべて自ら仕掛けた「リーラ」であることを なんとなくわかってる自分が 少しずつ育ってきて、
複数の視点を行ったり来たり(自在に、とまではいきませんが)できるようになって、生きることが一段と楽に 味わい深くなった氣がします。
深刻になるよりは 面白がって、苦闘ではなく 遊びであることをわかって。
表向きやっていることには 大した違いはないんだけどね
さて、きょうからまた奈良に行ってきます。
密に関る人が増える環境で、またまたおおいに遊んできます (⌒∇⌒)ノ