毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

蚊のいない世界?

2018年06月16日 08時52分00秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の記事の続きになりますが、虫相手にもうひとつ面白い発見がありました。

初夏の庭仕事の大敵といえば、蚊。

立ち止まっての作業のときなど たちまちうゎ~んと取り囲まれるので、除虫菊100%の蚊取り線香を腰からぶら下げてしのいでいましたが、線香が残りわずかになってしまい 困っていたときのこと。




最近庭の木々や草花がとりわけ親しい友のように思えて 朝な夕ないそいそと庭に降り立つのですが、あるときふと氣づいたのです、氣分が高揚しているときは まったくガードなしでも なぜかほとんど蚊に刺されないことに。

反対に じりじり焼けつくような日ざしやうまくいかない作業にいら立つと、たちまち耳元におなじみのプ~ンという羽音が聞こえ、ボコボコに刺されます (^◇^;)

貴秋が異種間コミュニケーションに興味を持つようになったきっかけは、前記事に書いた J ・ アレン ・ ブーン著 「動物はすべてを知っている」 ですが、その後 愛読ブログ 「世にも奇妙なフツーの話」 でも こんな話こんな話を読んで いっそう関心が高まりました。

で この氣分と蚊の関係に氣づいたとき思い出したのが、アシュタールの 「蚊については エネルギーフィールドに入ってこられないようにするといい」 という言葉。

こちらが和やかでわくわくしているときと いらついているときでは、当然発する波動も違うはず。

氣が荒れているときほどよく蚊に刺されるということは、蚊の波動は人のネガティブな感情の波動と近いのかもしれない。

こちらが浮き浮きわくわくでエネルギーが高まっているときは シンクロしないから寄ってもこない。。。。というか、もしかすると こちらがわくわくの波動に見合った蚊のいないパラレルワールドに移行したということなのかも☆

まあそのへんの詳しいことはわかりませんが、とにかく日に何度も出入りのある庭で こちらの氣分次第で刺され方が大きく違うのは毎回同じ、幸せ氣分のときは 蚊取り線香をぶら下げているときよりよっぽど刺されません。

また、庭に限らず 夜分外を歩いているときなどもやはり同じようです。




では、たまたま氣分がよくないときに 庭に出る必要が生じたらどうするか。

ここで登場するのが 「ホ ・ オポノポノ」 です。

イハレアカラ ・ ヒューレン博士の本で知った 「ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛しています」 の4語による潜在意識の記憶のクリーニング (消去) 、以前から受け入れ肯定しているのに なぜかいくら試しても手応えが感じられず 保留になっていましたが、こちらの記事に書いたようないきさつで復活して以来、「これはいい」 と なにかにつけて唱えるように。

目に見えてはっきりした変化が現れたわけでもないのですが、以前手応えがないと感じたのと同様に 今回はなんとなく効果が上がっていると感じるのです。

で 件の4語を小声の早口で唱えながら出てゆくと。。。。

ホ ・ オポノポノでガードしてる感が強いときは 対立意識や敵意がまだ色濃いのでしょう、やはり蚊が寄ってきますが、唱えることで氣持ちが落ち着くと 素足にサンダル履きでもまったく大丈夫♪

蚊が怒りやいら立ちなどのネガ波動に同調するらしいことへの確信が強まると同時に、ホ ・ オポノポノも 身を守ろうなどの余計な意図なしに無心で唱えたほうがいいらしいことがわかってきました。




もしかすると、蚊は 人間の負の感情が形になったものなのかもしれないなぁ。

だとすると、蚊のいる世界といない世界の行き来は こちらの意識のありようのバロメーターとなってくれているのかもしれませんね。

いや~、庭での時間がますます楽しみになってきたわ

















初夏の庭に教えられたこと

2018年06月15日 09時42分31秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


6月半ばの実家の庭、ことしも満開のクチナシの花が甘い香りを漂わせています。

草取り、剪定、球根の掘り上げにポット苗の植え替えと、この季節の庭はさまざまな作業で大忙しですが、そんな例年の営みも ことしはなんだか違うのです。

生き物のお世話をしている感が これまでになく強いのです。

言い換えれば、これまでは 「物ではなくいのちなんだ」 とわかっているつもりで、実は 動かず言葉も発しない植物に どこか物を扱うように接していたということでもあるのですが。。。。




狭い庭に無計画に植え込まれた何本もの庭木たちは、虫がついたり伸びた枝で通路が確保できなくなったりするのを防ぐために 梅雨前にしっかり刈り込んでおく必要があるのですが、ことしはそれ以上に 「じめじめした季節でも木々たちが氣分よく過ごせるように」 という氣持ちで作業していたように思います。

また以前は 卒業記念樹のように由来がわかっていて思い出深い木や美しい花を楽しみにしている木と そうでない木とでは 関心の向け方がまるで違っていたのですが、ことしはこれまで名を知ろうともしなかった木々もみな等しくいとおしく思え、一本一本としっかり向き合い 名前から適切な手入れの仕方まで改めてきちんと調べるようになりました。

「木という物体」 ではなく、それぞれ表現 (姿形や性質など) は違えど どれも輝くいのちの現れであることに変わりはないんだと、いつのまにかナチュラルに思えるようになっていたのです。

さらに面白いことに、手入れ法の検索で たいていの木は大して間違ったこともしていなかったとわかり、剪定時期を間違えていたものも 書かれているようなトラブルはいっさいなく元氣に育ってくれており、そこでふと 氣持ちよいかどうかを問うことで 今してほしいことをその木に教えてもらっていたのではないかという考えが浮かびました。

彼らに親しみのこもった氣持ちを向けることでひとつになって意識を共有し、結果彼らの望みや感じていることが そのままこちらの意識に映し出されたのではないか、と。

声も表情もない植物との交流は 動物よりずっと難しいと思い込んでいましたが、それは相手と自分が別物だと決めつけていたためで、実はそれと氣づかずとっくに意識を通わせていたんですね。

ことしの庭からは、教えられ氣づかされることがことさら多いようです。




氣づきは 植物相手だけではありません。

去年父の仕事部屋のグリーンカーテンにと植えたゴーヤは ことごとく新芽の部分を食べられて枯れてしまったのですが、ことしの二本の苗の一方を同じくやられたとき その原因を見つけました。

ダンゴムシに食われていたのです。

一瞬ムカッときましたが、虫に対してもこれまでになく穏やかな氣持ちになっている今、酷いことはしたくありません。

ネットで調べて とりあえず残る一本を守るべく酢水やコーヒーかすで追い払いましたが、そのあとで思い出したのが J ・ アレン ・ ブーン著 「動物はすべてを知っている」 に載っていた あるエピソード。

ストロングハートという名犬との関わりから 異種間コミュニケーションの可能性を探究するようになり、さまざまな動物や虫たちと心を通じ合えるようになったブーン氏が、夕食にたかっていたアリと紳士協定を結んで立ち去ってもらうことに成功したという話です。

そうだ、抵抗すれば相手は強くなる、このままいけば ダンゴムシとの絶えざる闘争で心が荒み、ゴーヤもきっとまたダメになってしまうだろう。

だったらダンゴムシと協定を結び、残る苗を守れないものか?

さっそく心の中で 成長点の新芽や茎をかじられたら ゴーヤ全体が枯れてしまう、そうしたら私にもあなた方にも困ったことになるのだ、いのちに沿って素直に生きる賢いあなた達なら きっと私の言葉をわかってくれるだろう、と伝えました。

翌朝おそるおそる苗を覗き込んでびっくり、前日はゴーヤの根元にびっしり集まり 茎にも数匹登っていた集団が、茎から1~2センチ離れたところに丸くドーナツ状にすき間を空けて固まり じっとしているのです。

こちらの願いを聞き入れたという意思表示と受け取り、厚くお礼を言いました。

以来3日ほど経ちますが、成長点や茎を傷つけたり 葉をことごとく食い尽くしたりといったことはなく 下のほうの葉が数枚かじられて枯れただけ、ツルはぐんぐん伸びて つぼみがいくつかつき、すでに一輪目の花が咲いています。




これもやはり向こうから起きてきていることですが、なんだかいろいろと自分がいいほうに変わり、それに応じてまわりで起こることもどんどんいいように変わってきている氣がします。

変わりたい ・ もっとよくなりたいと望むなら、自分を変えようとするより まず自分でないものに氣づいて手放すこと、この説 完全に事実認定です。




















「かえり」 の道はどんな道

2018年06月14日 10時20分08秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


時すでに6月半ば、一ヶ月近くブログを更新していなかったことに氣づいてびっくりです、ご無沙汰しております <(_ _)>




「ほんとうの自分として生きるには ほんとうでない自分を手放せばいい」 ということを 「雲が消えれば太陽が顔を出す」 とたびたび例えていますが、実際にそうなってみると、雲が薄れたときのように 明るさが増すとか青空が覗くとか 不意に雲間から一筋の光が差し込むとか すぐそれとわかるのではなく、ぱっと見いつもと同じような日々が淡々と続くうち、あるときふと 「あれ? そういえば私 ずいぶん変わってない?」 と氣づくようだと書いた記憶があります。

これは そもそも五感を超えた世界というのが くっきりした境界線のない領域であり 時空の感覚も曖昧なためというのともうひとつ、まず先に生じるのが 「新たに何かが起こる」 変化ではなく、「よく起きていたことが起こらなくなる」 変化なためではないかと。

目の前の世界は自身の意識から創られているので、ほんとうの自分でない要素 (絶えず不安に駆られているとか しょっちゅういら立つとか) を手放すに従い そういう事象が現れる頻度も落ちてゆくのですが、変わりようが地味なので しばらく後にならないと氣づけないんですね。

太陽と雲の例えでいうと、太陽が現れる瞬間はわかりやすいけれど、雲が次第に薄れてゆく変化というのは目につきにくいものだ、ということでしょうか。




そんな 「そういえばだいぶ明るくなってきたな」 的変化が、「あ、光が差してきた」 に転じたと氣づいたのは、疼くような喜び、微かなときめき、言い知れない温もりとでもいうようなものが なんの前触れもなくぽちっと胸の中に灯ったとき。

ことさらうれしいことがあったとき じわっと沁み出すその感覚は 滅多にはもらえない特別なご褒美のようなもので、わけもなく突然現れるなんて かつてなかったこと。

理由なく現れる不安はいやというほど体験していても その逆はまずないことだったので、驚いたのを覚えています。

ただそれも ささやかにほんのいっとき灯っただけで じきにまた消えてしまったので、さほど強烈な印象は残さなかったのですが、その後 この 「わけもなく現れる喜び」 が、出現頻度も持続時間も徐々に増してゆくようになるのです。

不意に訪れた至福の境地に浸ったまま 長い時間を過ごせる幸せよ

その合間合間には 相変わらず不快な記憶がやっても来るのですが、それはいじらずそのままにしてやり過ごすこともできるようになり、喜びと不安の比率が逆転した感があります。

となれば、明るく前向きでいることも 以前ほど難しくはありません。




「主よ、願わくば 変えられないものを受け入れる心のゆとりと 変えられるものを変える勇氣と その二つを見分ける知恵をお与えください」

以前にも何度か取り上げたと記憶している 「従容の祈り」 ですが、“スピリチュアルな変容” とでもいうような領域については この 「変えられるもの」 というのは どうも想像していたよりはるかに少ないようだと思うようになりました。

ほとんどのことは、こちらが変える ・ 起こすのではなく 向こうから変わる ・ 起きてくるのです。

貴秋がしたことといえば、とにかくジタバタあがきまくったあげく 「からだに浮かぶ感覚を 言葉を使わずただ感じる」 という手立てを見つけて ひたすら実践しただけ。

その間マインドがやたら動き続けていたため ついいろいろなことを一杯したような氣になりますが、実際自分から進んでしたといえるのは ほんとこれだけなのです。




新しく何かを生み出すとか立ち上げるとかいうときは すること ・ 起こすことも多いのでしょうが、本来の姿に 「かえる」 ときは 「行き」 の道でいっぱいくっつけてきたものをこつこつ手放すぐらいしかないのかもしれません。

こうなると、最初からそうと知っていたら ジタバタをぐんと減らしてもっとラクにやれたのになぁとため息をつきたくもなりますが、一方で そのジタバタから氣づけた多くが今の自分の財産でもあるのだと まんざらでもない氣分なのです