毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

念のため ・ 感覚フォーカスは万人向きとはいえません

2018年05月19日 15時36分36秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前回 ・ 前々回とお話した感覚フォーカスですが、念のため申し上げれば 貴秋はこの手立ては万人向きではないと思っています。

「言葉を使わない」 というのは瞑想などですでに行なわれていることですし、またよく言われる 「ワクワク」 は 負の思いなどすっ飛ばして ダイレクトにワクワクの高い波動に焦点を合わせること、こういったことが最初からすんなりできるのなら わざわざネガ感情にフォーカスする必要などないのです。

が、この世界には いろいろな人がいます。

湧き上がる言葉をそう簡単には止められない人もいれば、不安や恐れや怒りの感情が強過ぎて ポジに焦点を合わせようとしてもすぐまたネガに引き戻されてしまう人もいるわけです。

感覚フォーカスは そういう方向けの手立てのひとつとお考えいただければ幸いです。

空回りせずハートとつながったマインドや肯定的な意識へと切り替える前段階の地ならしのようなもので、あくまでも 手立ての 「ひとつ」 です。

手ごわいブロックを抱える人についても さまざまなカウンセリングやヒーリングやメソッド、ボディワーク、催眠療法などが目白押しな昨今、貴秋はそのあたりのことには詳しくないのですが、多くの人が支えられ 助けられていることでしょう。

自身の抵抗波動が強い場合、他者の視点や力を借りることは ことさら大きな助けになると思います。

また、味方がそばについていてくれるというだけでも おおいに励まされるでしょうし。

それでも他者の手は借りたくない ・ 借りられない、自分ひとりでなんとかしたいという方がおられるなら ヒントのひとつにはなるかもしれない。。。。感覚フォーカスとはそのようなものだと貴秋は位置づけています。

貴秋自身まだまだ探究の途上なのですから、よろしかったら参考になさってください以上のことを言えるはずもありませんが、ただ 肝である 「言葉を使わない、切り離す」 という点は 注目していただいてもいいかなと。

前回も書いたように 強固なブロックほど言葉にならない形で入り込んでいるようなので、言葉や理屈を超えたところで働きかけるのがポイントになるかと思います。




ほんとうの自分を取り戻す道、ほんとうの望みをかなえる道は、きっと人の数だけあるはず。

最初は借り物の手立てでも、長く続けるうちに 必ずといっていいほど自分なりのオリジナルが生まれてきますものね♪

それを持ち寄って バイキングのメニューが増えてゆくように 新しいアイデアや選択肢がどんどん増えてゆけば、覚醒の道のりも みんなの力が合わさって にぎやかで楽しいものになるんじゃないかな、とそんな氣がしています (^^)



















感覚フォーカスがもたらしたもの

2018年05月11日 09時25分49秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の記事で 「この三次元世界での私たちの暮らしや人生は 言葉で創られ 言葉で成り立っている」 と書きました。

五感の世界での表現手段はもちろん言葉だけではありませんが、例えば絵や写真でも そこに意味が生じるのは 私たちが無意識のうちに言葉を乗せているからなんですね。

「これは赤」 「これはバラでこっちが花瓶」 「これはネコで 種類はマンチカン」 というように 言葉による意味づけがあって初めてそれらは認識され、私たちの暮らしに入り込んでくる。

言葉がなくなれば 言葉による解釈も成り立たなくなり、「あるものがあるがまま ただ目に映っている」 ということにしかならないわけです。

音だって味だって匂いだって同じこと、「あ 鳥の声」 「これ甘くておいしい」「なんて清々しい香り」 といった言葉をすべて (頭の中からも) 取り去ってしまえば、ただ鼓膜に 舌に 鼻の粘膜に触れてくるものを 受身で感じているしかない。

五感に受けた刺激を言葉に置き換えることで 私たちはそれらを体験として味わうことができ、さらにそこからさまざまな感情 (これまた前記事に書いたように 言葉があって成り立つもの) が生じて、その積み重ねが人生という名のストーリーとして展開してゆくんですね。

私たちがさまざまな体験をしたくてやってきたこの三次元世界で、言葉は欠かせないツールのようです。




この言葉と体験の世界において もっとも厄介なのが、言葉を持つ前、すなわち脳の配線が未完の幼児期に入り込んで定着してしまう思考。

「三つ子の魂百まで」 のことわざ通り、一生にわたって影響するような思い込みのことです。

それが幸せにつながるものなら問題はないのですが、自己否定のような負の意識を抱えたままでいると 生き辛い人生を歩む羽目になります。

これの厄介な点は、言葉という形をとらずに入り込んでいるため 言葉での書き替えが効かないところ。

言葉を持たない赤ん坊を言葉で説得できないのと同じことです。




私たちが言葉で分け出すから、五感に作用する刺激に意味が生じて 体験や感情が生まれる。

ならば、言葉で書き換えられない観念については 逆に言葉を切り離すことで解除できるのではないか。

これを仮説として地道にこつこつと検証したのが感覚フォーカスなわけですが、年単位の試みの結果どうなったかといえば、まさに 「雲が消えれば太陽が顔を出す」 でした。

何かを起こしたのでも新たに作ったのでもない、ただ事あるごとに これまでにない肯定的な反応を示す自分に氣づくようになったのです。

「これまでにない」 というのは ただ覚えていないだけで、実際には本来の自分がもともと備えている思いや感情なのでしょう。

後付けの観念が消えたか弱まったかしたため、もともとのそれらが前面に出てこられるようになった、と。

また、前の記事で書いたように からだに起こる感覚がぐんと和らぎ 余裕ができたので、すかさずここに 「幼時のこの体験からこういう思い込みが生まれたんだな」 という認識を挟み込むと、抵抗なくすんなりうなずけるようになってきました。

ブロックが消えたおかげで マインドの説得が受け入れられるようになったのかもしれません。




もうひとつ興味深いことがありました。

「ホ ・ オポノポノ」 のクリーニング ( 「ありがとう ・ ごめんなさい ・ 許してください ・ 愛しています」 の4語を繰り返し唱える) については 試してみておおむね肯定ながらも いまひとつピンとこなくて保留にしたままでしたが、あるとき 感覚フォーカスでからだの不快感がすーっと消えてゆこうとする瞬間、「ハイ、ここで 『ホ ・ オポノポノ』 唱えて!」 と ドンと背中を押すような “声” が内に響いたのです。

言われるままに唱えると、なんだかすっきり風通しよく 晴れ晴れした氣分になりました。

ここから立てた仮説は、「ホ ・ オポノポノ」 は有効な手立てだけれど、否定的な思い込みやわだかまりが強い場合は 効かないか 効きが悪くなるので、まず感覚フォーカスでブロックを弱めてから唱えると ぐんと効果が上がるのかもしれない、というもの。

以来これを念頭において両者を併用していますが、床に散らばるあれやこれやをまず片付けてから ホコリをきれいに拭き取るようなイメージで なかなかいいようです。

科学的に立証できるようなものではありませんが、自分的には手応えを感じるので このまま進めてゆくつもりです。

まあ、私自身が氣持ちのいい人間に変わってゆくことが 何よりの証明ということでしょうか。

そのうち イハレアカラ ・ ヒューレン博士のように 自分の中の他者の負までクリーニングして、周りの人も環境も丸ごとみんなですっきり氣持ちよくいられるようになったらいいな、と夢が膨らみます (^^)