毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

「する」 ことと 「起きてくる」 こと

2017年06月28日 16時05分07秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の記事で 「答えが向こうからやってくる」 ことに触れましたが、貴秋の自己探究では、小我が意図して 「する」 ことと 小我の意識を超えたところから 「起きてくる」 こと、この二つを取り違えたがために 数多くの混乱や回り道を体験することになりました。




例えば、「うまくいかないことの多かった人が 『もうほんとうに自分が好きなこと ・ やりたいことしかしない』 と決心してそのとおりにしたら、事態が好転し 万事順調にいくようになった」 みたいな話を読んで、これはいい手がかりだとピンときて さっそく試してみたことがありました。

が、いくら好ましいことだけに意識を向けようとしても ふと氣がつくと イヤなこと ・ 否定的なことに氣がいってしまっているのです。

不快な記憶や妄想が どうにも止まらないのです。

自分のものでありながら 心とはこれほどまで思うとおりにならないものかと 頭を抱える思いでした。




思いが現実を創るという観点に立てば、何を思うか ・ どんな感情に焦点を結ぶかは とても大事です。

イヤなことにフォーカスすれば イヤな現実を生み出す、楽しいことにフォーカスすれば 楽しい現実を生み出す。

その意味で、「好きなこと ・ やりたいことだけする」 という決心が 楽しく前向きな人生の実現につながるというのは 大きくうなずける話でしょう。

が、こういう情報を受け取るのはマインドです。

マインドは五感の世界の産物なので、つねに五感で受け取った情報に即して考え行動し 五感にとって意味のある結果を出そうとします。

何かを 「する」 ことで 自身の存在を確認し満たそうとする、それがマインドなんですね。

しかし、「する」 ことというのは、同じく五感の世界の産物である二項対立の影響を受けざるを得なくなります。

イヤな現実は創りたくないから いいことだけ考えよう、そんなふうにマインドは考えますが、ポジを追いかければ いやでもネガがついて回ります。

望みを追求すればするほど、その正反対の要素に付きまとわれることも避けられなくなります。




さまざまな体験を経て、マインドが 「する (起こす) 」 ことだと思い込んでいたものの多くが、実は結果的におのずと 「起きてくる」 ものであることがわかってきました。

マインドが起こせることというのは 思っていたよりはるかに少ないようです。

ふと思いついて 「する」 のつもりが 実は 「起きてくる」 ことだったと氣づいたものを書き出してみたら、


    ・明るいイメージ、考えを持つ

    ・ネガティブなことをしたり考えたりしない

    ・前向きなセルフイメージ

    ・これまで否定してきたことに ”許可を出す”

    ・無条件の愛、肯定、感謝


このリスト、まだまだ増えそうです (^_^;)




内的探究について書かれた文章には このような肯定的あり方に言及する記述がよく見受けられますが、その多くは そのようにあることが重要だ大切だとは述べても それをしなさいとは言ってないのですね。

が、マインドがこれを読むと、「よっしゃ~、こうなるようにすればいいのね」 ということになってしまう。

現状に対する不安が大きいほど この傾向も強いようです。

そして、しようしようと頑張るほどに その対極の要素もどんどん強くなるという "コントラストの悪夢” にはまり込んでゆくわけです (T_T)




こんな試行錯誤の中、「する」 ことと 「起きてくる」 ことの区別が次第に見えてきたのは、感覚フォーカスを年単位で重ねた先でのことでした。




















答えは必ずやってくる

2017年06月21日 11時17分45秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


今だから言えることですが、感情と向き合っていたときは、自分の内を見つめるという方向性は間違っていないはずだが このまま何十回何百回繰り返しても出口は見えなさそうだと なんとなく感じてはいました。

一方 感覚フォーカスでは、このやりかたで間違いないけれど、それ以外になにか足りないもの ・ 見落としているものがあるという印象を受けていたのでした。

ただ あのころは マインドが煮詰まりすぎて混乱し、「どうしたらいいんだろう、わからない」 という叫びばかり大きくて、こういうひそやかな氣づきは意識に上ることなく その存在すら認められていませんでした。




が そんなふうに心の声を読み取り損ねていたにも関わらず、答えは向こうからやってきてくれたのです。

古傷として残る感情を追いかけていたときは、前回のブログでお話したとおり 「感情ではなく からだの感覚に注目しなさい」 という大きな手がかりをもらいました。

そして 内の変化が目に見える結果につながらない件については。。。。。




そもそもこの探究は、「今のままの自分ではいやだ」 という思いから始まりました。

「幸せになりたい」 と言えば 前向きに聞こえますが、その奥では 自分の性格も 置かれた状況も 氣に入っていなかったのです。

そんなところからスタートを切ったおかげで、まず 「こうなりたい」 という理想像ありきで、それに現実を近づけようとがんばっては 「まだ違う、まだ達していない」と否定的に現状をを見るクセがついてしまいました。

そして、なかなか理想が実現しないと嘆く氣持ちが まさにそのとおりの 「実現しない」 という現実を創り続けていたのだ、だから現実がいつまでも変わらなかったんだ。。。。というのが 今回ぱっとひらめいた答でした。




さらに、理想の境遇や環境についての具体的なイメージが 実現させたい望みの形を限定し 狭めてしまっていることにも 氣がつきました。

ほんとうの望みは 真の自分に戻りたい、不安や怒りに苛まれず いつも自由で満ち足りて安らかでありたい というところにあったのに、それがどのような形で叶って欲しいかにまで注文をつけ過ぎて、それ以外の形での実現の可能性をわざわざ奪ってしまっていたのです。

そうとわかったおかげで、迷いから停滞しかけていた探究が 再び動き出しました。



この二例に限らず、貴秋がこれだ と躍り上がるような答と出くわしたとき、それはいつも向こうからやってきました。

こっちは五里霧中で不安に苛まれていたり アタマを使いすぎて逆上寸前だったりというありさまで、とてもじゃないけど自分から答を導き出せるような状態ではなかったにも関わらず です。

そういえば、あの 「神との対話」 のニール ・ ドナルド ・ ウォルシュさんもそんなふうだったらしいのですね。

仕事も私生活もさんざんで、神に宛てて怒りに任せた問いかけの手紙を書いていたら、不意にペンが勝手に動き始めて 神の言葉を書き記した、これが そこからえんえんと続く神との対話の始まりだったというのです。




答えが 「向こうから」 やってくるということは、「マインド = 小我 の範疇を超えたところから」 ということ。

マインドの意図も計算も及ばないところから 事が動くのです。

そんなコントロールの及ばない力が 必ず望むほうへと導いてくれると信じて、小さな個の自分だけでどうにかしようとあがくのをやめ 流れに身を任せる、それが 魔法の杖をうまく使えるようになるコツだったようです (^^)v