毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

梅雨明けて夏空

2019年07月26日 11時24分30秒 | 自然


梅雨明けた~ \(^o^)/


梅雨明け3日目の青空

        


                                           


朝6時ごろからセミさんたちの大合唱♪



これはけさ見つけた抜け殻、中身はたぶん合唱団の一員ね (*˘◡˘*)



ことしは氣候のせいか トマトもオクラもひとり生えの苗が見当たらず、去年は茂み状態だった青じそも4本だけ、貴重な恵みです。

代わって登場してくれたのが、生ゴミから発芽したカボチャ♪


        

右の写真に見える棒は 蔓の誘引用、思いがけないところに出てきたので 放っておくと自転車の通り道を塞がれちゃうのです (^_^;)


今年はゴーヤの種を播きそびれ、苗も入手しそこねて グリーンカーテンはあきらめていたのですが、きのう行ったホームセンターで 「劣化の為」 ということでワンポット50円で投売りされてたゴーヤ苗を4本ゲット!




狭いポットの中でよくがんばったね。。。大丈夫、きっとみんな元氣にすくすく育って大きくなるよ (*^ー^*)


同じく安売りされてたバジルもわが家へ、うれし~♪

ひとつのポットに4本入ってたんだけど、根がぎっちり巻き過ぎて 二つに分けるのがやっと。


   

君たちもきっと大丈夫、思いっきり根っこ伸ばしてのびのび過ごしてね




「日照不足」 から一転 「熱中症注意」 へと マスコミの天候絡みのニュースは相変わらず不安げですが、貴秋に言わせれば 夏は暑くてナンボ。

うへ~蒸し暑いなどとこぼしてみたりはしても、夏らしい青空やセミの声がないまま過ぎてしまうことを思えば やっぱり本来のギンギラ太陽の到来はうれしい。

さすがにフランスやスペインの40℃越えなどは氣がかりにもなりますが、日本の34、5℃ぐらいであそこまで悲観的に騒ぎ立てなくても。。。。と毎年のことながら つい思ってしまいます。

もちろん適切な対処は必要だし お年寄りや幼い子どもやからだの弱い人などへの氣配りは大切ですが、注意や助言と不安を煽ることとは別物。

まあマスコミの方々は日ごろから悲惨なものを見聞きすることも多いでしょうし、ついついああいう論調になってしまうのも仕方ないことなのかもしれませんが、私たちは この二つを混同することなく冷静に向き合うほうがいいでしょう。

自分がフォーカスしたものが 自分の現実となるのですから。

からだの声によぉく耳を傾け いたわった上で、夏ならではの景色や暑さをうんと楽しもうではありませんか。















人生を 「快 ・ 好き ・ 楽しい」 で埋め尽くせ

2019年07月20日 14時25分51秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


物事にいい ・ 悪いはない。。。。このところしょっちゅう思うことです。

「私」 の本質は意識体だと認めると、外からの判断解釈よりも 内側からどう感じるかのほうが重要になってきます。

正誤や良し悪しよりも、快か不快か ・ 選びたいか選びたくないかといった基準で物事を決めるようになります。

快不快 ・ 選ぶ選ばないというのはこの上なく主観的で、大事なのはもっぱら自分が楽しめるかどうか、氣分いいかどうかだけ。

一方 正誤や良し悪しには、他者の価値観も関わってきます。

対象が自分の好みに合わないと判断するだけでなく 好みに合わないものを否定しようとするため、価値観が異なる者との軋轢が生じ、結果好まないほうにばかりフォーカスし エネルギーを注いでしまうのです。

もちろんそれすらもいい悪いではないので、そういう体験をすることにもしっかり意味があるのですが。




好きなものであれ嫌いなものであれ 関わることを望んで関わっているのなら問題ありませんが、もっと楽しく暮らしたいのに意に反して出会うのはイヤな奴ばかり、起こるのはイヤなことばかりと思っているのなら、あれは良くない ・ これは正しくないと批判し責め立てたくなる自身の感情とじっくり向き合うことをお勧めします。

引きの視点から見れば 正誤や良し悪しはなく、ただそれぞれの世界 ・ それぞれの体験があるだけ。

そして五感の視点に戻れば、その中から自分が好きなもの体験したいものを選び、そうでないものからは離れればいいのです。

好きなものばかり選んでいいし、好きなことばかりしていて構わない、だって世界は自分が創っているのだから、誰かの取り決めた世界につながれている必要はないのだから。

そう思うことに不安や罪悪感を覚えたり そんなのムリだよという反発が即座に上がってきたりするなら、ただ意識の奥に それを認めない思い込みが潜んでいるというだけのこと。

その思い込みと向き合い 手放せばいいのです。




遊んでばかりいたら将来ろくなことにはならないとか 対価と引き換えでなければ欲しいものは手に入らないとか 幸せは苦労の果てにあるのだとか さんざん刷り込まれてきた貴秋、それはそれで意味ある体験だったと思うけど、楽しくないことはもうお腹いっぱいノーサンキュー、観念を書き換えて宗旨替えです。














複数の視点を生きるすばらしさ

2019年07月19日 10時33分22秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


15日にアップした 「世界より大きい私」 で 「目に映るものはこれまでと同じ、ただその見方 ・ 解釈が変わってくる」 と書きましたが、正確には これまでとまったく同じ視点にこれまでと見方解釈が異なる視点が加わり、二つのあいだを行き来する感じです。




たとえば、映画やドラマの悲しい場面が胸に迫り 涙する。

これはストーリーに入り込んで同化した個の視点です。

そうして胸痛むものを味わっていると、不意に意識がすっと引いて それを眺めているもうひとつの視点が言うのです、「すてきだよね こんなふうに泣けるって。からだや五感や感情があって初めてできることだよね」 と。

するとむせび泣いていた心の乱れがすぅっと落ち着き、味わいたかったものを十分味わった満足とともに 物語の世界から抜け出してもとの自分に戻ります。

まだ残っているからだの違和感は、ゆっくり呼吸しながら見つめていれば やがて収まります。




魂の望みどおり からだをもってさまざまな体験をし、さまざまな感情を味わう。

個の視点だけでもこれはできるのだけれど、困るのは 否定的体験にはまりこんだまま抜けられなくなったとき。

さんざんな目に遭い 疲労困憊し、どうにか事が収まってひと息つくと、また同じような事態に見舞われる。

おおもとである自身の否定的観念を手放すまで、それは繰り返されます。

引きの視点を併せ持って初めて、ネガ観念もネガ体験も確実に終らせて 先に進むことができます。




引きの視点が加わって、自分のからだや五感の世界を以前より愛おしく思い 大切にするようになりました。

これらがまさしく私たちを楽しませるために与えられた贈り物だということが よくわかったからです。

内的探究に没頭していたころは どちらも疎ましいものでしかなく、こんなものがなければこんなにつらい思いをすることなくさっさと至高の世界にたどりつけるのにと しょっちゅう苦々しく思っていました。

でもいまは、これを使わせてもらっているからこそ 魂が望んだとおり 本来の自分ならざるものも含めていろいろなことを体験的に知ることができるのだと、事あるごとにうれしくありがたくなります。




度重なる感覚フォーカスの果てに貴秋が受け取ったのが、新しい (といってもほんとうはもとからあったのだけど) 第二の視点。

できれば避けていたいような感情や感覚に 来る日も来る日も進んで身をさらしてヘトヘトになり、それでいてこれがうまくいく保証はなにもない、そんな不安でいっぱいの日々をがんばって過ごしたご褒美のようなものかなって思っています (^^)















居場所と名前

2019年07月18日 18時18分01秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


“こんまりさん” こと近藤麻里恵さんは 世界にその名を馳せる片付けコンサルタントですが、そんなこんまりさんの番組 「KonMari 人生がときめく片づけの魔法」 が米エミー賞候補にノミネートされたと聞きました。

4月に見たこんまりさんの 「NHKスペシャル ・ 密着ドキュメント 片付け ~ 人生をやり直す人々 ~」 は、和歌山引き払いのため怒涛の片付け&処分を体験した直後ということもあり、とても印象深い番組でした。

見始めてじきに、こんまりさんが数年前に見たドラマで仲間由紀恵さんが演じた「のりまきさん」 のモデルだったと氣がつきましたが、調べてみると そもそもこのドラマの原作がこんまりさんのご著書だったんですね。

こんまりさんの言葉はどれも心に響きますが、そんなこんまりさんのアドバイスのひとつに 「手元に置くものにはすべて居場所を与える」 というのがあります。

たしかに 仮の置き場でさえ作る氣にならないものなら、それを持つ意味も必要もないわけですね。

ここでふと思ったのです、「もの」 を 「思考」 「思想」 「情報」 などに置き換えると、居場所を与えるというのは 名前をつけることなのではないかと。

エコ、スピリチュアル、などというのは私が生まれた頃にはなかった言葉だけれど、ある程度人々の意識に浸透すると 話題として取り上げるのに便利なようコンパクトな名称を与えられ、ますます話題に上りやすくなって存在が強化され 市民権を得る。

ということは、目の前から消えてほしい物や事や人を 戦ってどうにかしようとするのは逆効果だということです。

戦えば戦うほど その名を口にする頻度も相手への注目も増し、かえってがっちり脳裏に場を占められてしまうのですから。

ほんとうに自分の世界から消し去りたいなら その逆をいく、つまり相手への注目を外し 印象が薄れ忘れ去られるに任せること、相手を再び “名なしのゴンベさん” に戻してしまうこと。




名を与えるとは、漠然としていた対象物にくっきりした輪郭を与えて分け出すこと。

これが言葉というものの力です。

言葉を付与することで分け出されて個として確立し、言葉を外されて再び境界のない “おおきなひとつ” に戻る。

では言葉を外すとはとういうことかといえば、言葉というレッテルを越えて そのものの本質に焦点を定めることです。

面白いことに これをとことん進めてゆくと、対象に向いていた目がくるりと反転し 自身に向かいます。

対象が物であれ事であれ人であれ、それに氣を留めたのも名を与えていのちを吹き込んだのも 他ならぬ自分であることに氣がつくからです。

スクリーンに映し出された光景を変えたいなら スクリーンに向かってもダメで、向かうべきは映写機のほう、ということですね。




自身に目を向け さらに本質へと踏み込んでいくと、見えてくるのは過去の記憶やそれにまつわる感情。

これらから言葉を取り去ると、残るのはからだの感覚だけ。

ここを見つめて初めて 消えて欲しかったものがじわじわ輪郭線を失い、次第に影響が薄らいで やがてほとんど氣にならなくなっていきます。

そしてあるとき そういえばあんなことがあったっけ、とふと思い出し、いつのまにか自分の中からすっかり姿を消していたことに氣づくのです。

真に消えるとは、消えたということさえ意識に上らないということなんですね。

















視点が変わると見えてくるもの

2019年07月17日 11時39分22秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「愛する」 という言葉がずっと苦手でした。

愛が動詞になるということがぴんとこなかったのです。

愛とは 「すること」 なのか?

愛したり愛しなかったりと、スイッチを切り替えるようにできるものなのか?




本質的なことは、すべてといっていいぐらい 「する」 のではなく 「起きてくる」 ものなのだと思います。

愛も感謝も尊敬も安らぎも豊かさも “ありよう” であり、 本来動詞にできるものではないのだと。

それを動詞に置き換え 「努力すればきっとできるようになる」 と思わせたのは、マインドのトリックというものでしょう。

だから、「愛が重い」 「うわべだけの感謝」 「平和のために戦う」 なんて矛盾した現象が現れたりする。




「自分の本質は自我ではなくそれを見つめる意識のほうにある」 と認めるのに抵抗がなくなるにつれ、これまで見えなかったものが見えるようになってきました・・・・いえ、霊とか超常現象とかそういうことではなくて (笑)

そのひとつが、ずっとわからなかった 「しなければならないことはなにもない」 という言葉。

「神との対話」 をはじめ あちこちでよく出くわす言葉なのですが、そのころの貴秋は問題山積みで、「しなければならないことがない」 とはとうてい思えなかったのです。

いま思うのは、ここでの 「しなければならない」 とは 「新たにつけ加える」 ということなのではないかということ。

「愛することができるようになろう」 「感謝できるようになろう」 とは、これまで自分に欠けていた愛だの感謝だのという要素を新たに引き寄せ 自身の一部に加えようとするイメージがあります。

が、愛や感謝はそもそも人の本質そのものであり、それがすんなり表に出てこないのは 遮っているものがあるというだけのことなんですね。

だからそれを取り除きさえすればいい。

彫像製作でも遺跡の発掘でも 完成形は製作者 ・ 作業者の内にすでに存在しており、それ以外の部分を取り除いてやれば やがて外の世界にも姿を現します。

取り除く作業を 「しなければならないこと」 とみることもできますが、その場合のそれは 足し算ではなく引き算です。

だから、「しなければならない = つけ加えなければならない」 ことはなにもない。

そんなふうに見えたとき、「しなければならないことはなにもない」 がやっと余すところなく腑に落ちました。




自我からもっと大きな意識へと重心が移るにつれ、これまで死角にあって見えなかったものが 次々姿を現しつつあるようです。

そんな 「見えてきたもの」 について、これからも少しずつお話ししていければと思います。







p.s. 

  しばらくお休みしているあいだに ブログに大幅な変更があったようですね。

  リアクションボタンというものができて、どなたがどのボタンを押してくださったかが編集画面に出るようになったのですね。

  これ、とても励みになります。

  おかげさまで 少しずつでもまた書けるようになってきました。

  押してくださったみなさま、ほんとうにありがとうございます。














世界より大きい私

2019年07月15日 11時15分20秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


“悟り” に憧れがあったころ、悟ると世界の見え方がどのように変わるのか考えたことがありました。

いまとまるっきり違うものが見えるんだろうか。

最近わかってきました。

目に映るものはこれまでと同じ、ただその見方 ・ 解釈が変わってくるのだと。




世界は私の中にある。

そんな感覚が育ちつつあります。

私は私を包み込む世界の中で生きている。

そしてそのすべてが私の内にある。

世界は私の中にすっぽり収まってしまうほどの大きさ、私は世界の内にあって 世界より大きい。




かれこれ十年近く前になるか、熊野の山中を散歩していて 不意に浮かんだイメージがありました。

私のお腹のあたりから出たなにかがどんどん広がり、私ごと周囲の世界をすっぽり包み込んで 再び私の中に戻ってくる。

立体メビウスの輪の無限循環のようなこのイメージは、いま思うと 個の自分 (物語の登場人物) とすべてである自分 (物語の創り手) の関係を表していたようです。

長いこと個の自分の意識だけで生きてきたけれど、それを引きの位置から見つめる視点に氣づいて 少しずつ強化してきた。

この 「見る意識」 が個の意識と同等かそれ以上になると、メビウスの輪の廻りが滑らかになり安定するのでしょう。

貴秋の輪はまだ 「見る意識」 の存在感が弱いためかギクシャクしていますが、それでもすべてが自分の中にあると見ることへのためらいはなくなってきました。




登場人物である私は 物語の世界にどっぷり浸かって喜怒哀楽さまざまな感情を味わっていますが、それを辛い苦しいと感じたら その感覚をじっと見つめます。

そのときの私は 外から観る者 すなわち作者の視点にあり、登場人物の意識から離れているんですね。

だから痛みも苦しみも消える。

作者の視点から見つめられると、どんな心の傷もわだかまりも幻であることが露呈し それ以上留まれなくなるようです。

こうしてたびたび作者の位置から見直すことで 個の意識が変わり、人生という物語の書き替えが可能になります。




このところ 思いを言葉に置き換える作業がなぜか氣が重くてブログが進みませんが、この氣の重さも いま見つめる必要があるものなのでしょう。

目下の最優先は、幻をできる限り手放して 創造者の意識をより拡大させることにあるようです。

まだしばらく更新が滞りがちになるかもしれませんが、氣長にお付き合いいただければ幸いです <(_ _)>

















セミさんの力を借りて

2019年07月09日 19時58分27秒 | 自然





晴れに向かうか雨に向かうか決めかねているような不安定な曇り空が続く奈良。

写真はことし初めて出会ったセミの抜け殻、門柱にくっついているのを先日見つけました。

いよいよこの季節がやってきたんだなぁとうれしくなると同時に、この天候の中 殻の主が夏の日差しを浴びて高らかな鳴き声を上げる日がやってくるだろうかとの思いもふとよぎり 複雑な氣分でしたが、おとといのちょうど9時 不意に差し込んだ淡い日差しに響き渡ったセミの声、もしかしたらあの殻の子かもとわくわくしながらしばし耳を傾けました。




そのちょうどひと月前、母方の従妹が亡くなりました。

ドイツ人と結婚してドイツ在住だったのが 病気療養のため帰国して2~3週間後のこと。

斎場の都合で一週間近く延びたお通夜と告別式のため 翌週久々に関東に足を運びましたが、戻ってからぱたりとブログの更新が止まってしまいました。

前回の記事はほぼ完成して下書き保存してあったものをアップしましたが、ほかにも4記事ほど書きかけていたのを見返す氣にもなれず、別に疲れや悲しみのためというのでもないのに なぜかブログに向かう氣が起こらない日が一ヶ月近く。

正直いまも少々氣が重いのですが、お伝えしたいことがなくなったわけでは決してないので、そろそろきっかけをつかんで戻るべしとここ数日ひっそり内から促す声に押され、久々に投稿画面に向かいました。

内なる思いを言葉に乗せて外に送り出す流れが復活するよう セミさんが突破口を開いてくれることを願って。