毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

「影と生きる」 ~ 村上春樹さんのスピーチに思う

2016年11月28日 14時32分35秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「ハンス ・ クリスチャン ・ アンデルセン文学賞」 を受賞された村上春樹さんのこの受賞スピーチを読んで以来、ずっと 「影」 のことが 頭の片隅にありまして。

アンデルセンの短編 「影」 は、どこぞの図書館でか 書店での立ち読みでか覚えていませんが 見かけてなにげなく手にとり ショックを受けた記憶があります。

アンデルセンの童話は 「人魚姫」 「すずの兵隊」 「赤い靴」 「マッチ売りの少女」 などなど ただ楽しいだけのお話でないことは 子どものころからなんとなく感じていましたが、それにしても このラストの衝撃は・・・・・・

その後すっかり忘れていたこの物語を 村上さんのスピーチで思い出したわけですが。




今の貴秋には、この話に出てくる 「影」 が 肥大してひとり歩きを始めた小我 ・ マインドに思えます。

そしてそれが 進み過ぎて人間の手を離れて暴走する人工知能のイメージとも重なるのです。

「影」 の元主人への仕打ちは、「2001年宇宙の旅」 のコンピューターHALの反乱を思い起こさせます。




ここでまた 地図と現地の例えを持ち出せば、私たちが言葉 (言語および 絵画や写真、音楽なども含め 五感に働きかけるものすべて) で紡ぐ地図にも 現地があります。

それが 五感ではつかめない “何か” 、五感を超えて感じる “何か” なのですね。

“何か” を感じ、それが思いを呼び、思いを言葉にして伝えたくなり、またそこから形あるものが生まれる。




が、地図は 必ずしも現地がなくても 好きなように描くことができます。

同じく言葉も、今ここにないものでもあるかのように 知らないことでも知っているかのように 言うことができます。

だから、“何か” を感じ取れなくても しゃべって動いて生きてゆくことはできる。




しかし、現地と結びつかない地図は 人を迷わせます。

指し示すものを持たない あるいは結びつかない言葉も 人を迷わせます。

終わりの見えない戦争、拡大する貧富の差、汚染される一方の大氣や水や土、次々と絶滅してゆく動植物、今差し迫っている数々の問題は、いのちの源から切り離され 左脳ばかりが突出する意識で 目先の利益を その場しのぎで無理やり確保し続けた結果なのではないでしょうか。

このまま突き進めば、アンデルセンの物語の主人公同様 私たちも 自分が生み出した 「影」 に 命を奪われかねない。。。。そんな氣がしてなりません。




光だけの世界に 光を遮る形ある私たちが出現し、遮られた部分が影となって 光と影に二分される二極世界が生まれました。

もともと絶対で唯一の存在である光が、光本来の性質を映し出す光と その対極の性質を映し出す影とに分かれました。

それは、もともとの私たちである “おおきなひとつ” が、自分ではないものを通して 自分を体験的に知ることを望んだから。

高いがあって低いがわかる、暑さがあって寒さを知る、そんなふうに 自分というものを味わってみたかったから。

つまり 「影」 とは、私たちが体験することを望んだ 「本来の私たちではないもの」 ということになりますね。




二つで一対の光と影、片方が大きくなれば もう片方も大きくなります。

私たちの足元の影と同じく、切り離してなくしてしまうことはできません。

そんな影を あくまでも見て見ぬ振りで通すのか、勇氣を出して対峙するのか。

答を先延ばしする猶予は もう残されていない氣がします。






















魔法

2016年11月22日 11時43分02秒 | 自然


ぐずついたお天氣が3日続いた後の





晴れ!!


陽光に 空の青さに なんて心躍ることでしょう \(^o^)/

溜まりに溜まった洗濯をせっせとやってます♪

布団も毛布も目一杯干すぞ~♪




しっとりした空氣に



ヒイラギの花が香り立ち



サザンカのつぼみがぐんぐんふくらんで



一番乗りはこの子かな?


ほかにも続々











そんな中



ミニトマトに




オリヅルランも まだかわいい花を咲かせ



きょうの赤










鉛色の空を見つめ続けた後だから 久々の晴天に こんなにも心がときめく


これが 二極世界の素晴らしさ、コントラストの魔法なのですね (*^^*)

























人だからできること、人にしかできないこと

2016年11月21日 10時48分49秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の記事に続いて また人工知能のお話を。

人工知能が私たちにもたらすかもしれない危機のひとつとしてよく挙げられるのが、「ゆくゆくは われわれの仕事の大半が 人工知能に取って代わられるのではないか」というもの。

でも 貴秋は思うのですね、人工知能が簡単に代わりを務めてしまうような仕事を人間がやっいてることのほうが むしろ問題なんじゃないかなって。




この1~2月に行った印刷会社の印刷物の仕分けや検品なども かなり機械的な作業で、チャップリンの 「モダン ・ タイムス」 をふと連想したりしたものですが、同じ動作の繰り返しとか ひたすら早く正確にこなすとか 機械のほうが強そうな仕事は、それこそ人工知能の助けを借りて ロボットにでもなんにでもどんどんお任せすればいいのではないでしょうか。

一方 私たち人間は 誰もが生まれる前に 今生でぜひとも成し遂げたいことや追求したいテーマをあらかじめ決めているはずで、それは間違っても 機械に代わりが務まるようなことじゃないと思うのです。

だから人でなくてもいいところは 機械に肩代わりしてもらい、ぜひともやりたいこと、人ならではのこと、人にしかできないことに思いっきり打ち込むのがベストだという氣がします。

あくまでもそんな従の立場での人工知能の発達発展なら 賛同もできるのですが。




先日 ロボットをテーマにした番組で、動物を精巧に模した 動いたりまばたきしたり鳴いたりするロボットや 人型で 人の言葉に受け答えしたり 人そっくりの動きを見せたりするロボットなどが登場し、感嘆の声がさかんに上がっていました。

そういう生き物と見まごうようなロボットに 癒される人も多いそうです。

たしかに こちらの声がけに反応したり表情があったりする相手なら、自分の思いに応えてもらったようで うれしくなることもあるでしょうね。

でもそれは、胸に届いた相手の思いを受け止めたのでも 共感したのでもない、「こういうときはこう反応する」 と教え込まれたパターンが格段に増えて複雑になったがために 命あるように見えているに過ぎない。

最初の珍しさが薄れるにつれて、やっぱりなんか違うという気持ちが湧いてくるのではないかしら。

人なら 何も言わず 黙ってそばにいるだけでも 伝わるものがあって慰められるなんてこともあるけれど、しゃべりも動きもしないロボットがかたわらにあっても それはただ物が置いてあるだけ、いずれはその違いを感じることになるでしょう。

目には見えない 魂 ・ いのちのエネルギーを感じ合えるのは、生き物ならではの力。

人にあって物にはない 五感では捉えきれない “なにか” の存在は、案外そんな体験から感知されることもあるのかもしれませんね。




機械に仕事を奪われたからといって 嘆くことはありません。

むしろ人にしかできないことに打ち込むチャンスと思えばいい。

そしていざ 実際にそんな時代が来たときに苦しいのは、人でありながら 内なる声に耳をふさぐことに慣れ マインド肥大の機械的反応ばかりで生きてきた人ではないかしら。

前記事アップのあと こんな記事を見つけて ぎょっとしました。

なんてこった、未来を担う子どもたちに すでにこんなことが。。。。。

そしてそれ以上にぞっとしたのは、肝心の問題提起したはずの大人たちが なぜ 「読めない」 のか、「読める」 ようになるためには何が必要なのか 現時点では 「わからない」 とあっさり述べているくだり。

幼いころに 全身で感じる、遊ぶ、体験することを十分味わわせず、計算ができるとか漢字が読めるとか 左脳偏重の詰め込みばかり施してきた結果だってことが どうしてピンとこないんだろう。

大人がすでにマインドに呑み込まれ 感じ取る力を失っていませんか?




人が人らしい意識や情緒を忘れ ロボット化する先に 幸せな未来はありえない。

マインド主導からハート主導へ、人ならではのあり方を取り戻すことが 最重要課題である時代に 今まさにさしかかっている氣がします。
























形なきところにこそいのちは

2016年11月20日 22時55分13秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


もう1週間前になるんだなぁ、NHKスペシャル 「終わらない人 宮崎駿」 を見たの。

こちらの記事にもありますが、番組内の 宮崎監督が人工知能によるCG動画に苦言を呈する場面で ふと脳裏をよぎったのが、さらに前に見た 「東ロボくん」 という人工知能が 東大受験を諦めたというニュース

これを見たとき 人工知能とはどういうものなのか またひとつわかった氣がしたのです。




東ロボくんが苦手なのは 「自然言語処理技術」 なのだとか。

貴秋はよく 言葉とその言葉が指し示すものを 地図と現地に例えますが、人間の 「現地」 とは 体験または その体験から感じるもの。

ニュースによれば 東ロボくんに欠けているのは 知識や常識だということですが、私たちの知識や常識は 体験によって裏打ちされ おのずとインプットされます。

例として出されている 「暑い中を歩いてのどが渇いた」 というのも、私たちは 実際の体験から 苦もなく 「暑い ~ のどが渇く ~ 冷たい飲み物」 をつなぎ 言葉に置き換えることができるんですね。

そして そんな現地を他者にも伝えたいという欲求があるからこそ、地図を作って見せたくなる。

が、東ロボくんは 言葉と情報のみの存在です。

与えられた条件に沿って 言葉を選んだり組み合わせたりすることはできても、体験という現地も伝えたいという欲求も持たない。

暑い中を歩いたときの体温の上昇やのどのひりつきも そこに冷たい飲み物をひと息に流し込む爽快感も知らず、自身の体験を誰かと分かち合いたいという衝動も起こらないのです。




理由がいまひとつはっきりしないまま ずっと人工知能のことが氣にかかっていましたが、今回わかったのは 貴秋の中では 人工知能 = マインド という位置づけになっているということ。

そんな貴秋にとって、マインド主体からハート主体へと移行しようとしている今、人工知能を巡る世の動きは 逆にマインドをより強化するというデンジャラスな方向に進んでいるようにしか見えません。

もちろん 人工知能にも素晴らしい面はたくさんあります。

情報処理の速度などは 人の限界を軽く超えているそうだし、そういうところを部分的にお任せする分には 利も多いことでしょう。

が、感じる = 五感を超えたいのちの世界 という 肝心の現地、すなわち私たちを私たちたらしめる根っこの部分なしに マインドだけがどんどん肥大し ひとり歩きするというのは、がんばり過ぎるマインドにさんざん振り回された経験から見るに あまりにも危なっかしい。




マインドの働きも 言葉という道具の性質も その用い方も、これまで繰り返し書かせていただいたように 確かなようで 実はこころもとないものです。

だまし絵などの例を待つまでもなく 五感のだまされやすさやカン違いしやすさは 周知の通りだし、言葉は ある特質を分け出すと同時に それ以外の情報をすべて落としてしまうようにできているし、その言葉に付与する意味も 人によって少しずつ違っていたりするのは 「長蛇の列」 「黒山の人だかり」 などの表現からイメージされる人数がまちまちなのを見ればわかること。

だからこそ、言葉だけでできている人工知能は 与えられた情報を少しでも外れる事柄を察知する力が著しく劣っているのです。

私たちにとって大切なのは 地図ではなく現地のほう、現地あっての地図のはず。

その大切な現地を左右する判断を 現地を持たない人工知能に任せるなどということが どれほど危険かは、すでに マインド主体で切り回してきた 私たちの世界の現状を見れば、十分予測がつくでしょう。




冒頭のNHKスペシャルに話を戻せば、CG動画については 宮崎監督 川上会長 それぞれに言い分がおありでしょうが、「人間が描くのと同じように絵を描く機械を」 との意向に 宮崎監督が思わずもらした 「地球最期の日が近い氣がするね」 というつぶやきには、貴秋も深くうなずきたくなります。

今のこの時代、マインドの働きを強化するより先に 私たちの原点である “いのち” に立ち戻ることを もっと重視していいのではないでしょうか。






















 

戦地に咲かせる花

2016年11月20日 11時29分26秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


敬愛する。。。。といってもお目にかかったことはないので 貴秋が一方的にそう思っているだけですが、自然療法の動物病院 ・ しんでん森の動物病院院長 森井啓二さんのブログ 「ひかたま」 から、きょうは二つの記事をご紹介。


                      「モスル奪還」    「催涙ガス弾に花を植える女性」



貴秋が信じているように 目に映る世界が 自身の心の投影なら、この二つの記事に登場する光景は、私たち人間は 平和な世界を破壊することもできれば 破壊された世界に平和を取り戻すこともできる と語りかけているように思えます。


二つ続けて読み終えたあと 鉄条網にかけられた催涙ガス弾容器の花の写真を眺めていると、「植えつけられた思い込みを手放す努力を続けなさい」 と優しく励まされているような氣持ちになります。




ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 で 「ヒトラーは天国へ行った」 という話を初めて読んだときは、なんで!? と信じられない思いでした。

あの悪名高い人が・・・・と あのころは 彼をそういう目で見ていたのです。

が、“ヒトラー” の要素が自分の中にもあることをつきつけられてのちは、その要素を形にするとどういうことになるかを体現して見せるために 彼は存在したのかもしれない、と思うようになりました。

ある意味 彼はその役目を果たしたと見ることもできるし、その先をどうするかは 今度は私たちの役目。

自身のヒトラー要素をどう扱えばいいのかわからないときもあったけれど、今は 手をこまねいて破壊を撒き散らすか 真剣に向き合い平和を選ぶか 二つにひとつ。

そんな貴秋に あの花を植える女性は、これでもかという過酷な体験の渦中にあっても 平和を実現する意志を持つことも 実行することもできるのだと教えてくれているようです。























主従交代

2016年11月18日 15時44分24秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


当ブログにたびたびご登場いただく津留晃一さんのメッセージ集、きょうもその一節から始めましょう。


痛みに反応する自分がいます。しかし痛がっている人はあなたの中のほんの一部分です。「痛い」と思っている人は自我です。そして自我という意識の集合体の中の痛みを伝達する役割の部分さんです。 (中略) 

あなたとは「痛いと思っている人」を癒す人で、痛いと思っている人ではありません。痛みがやってきたときに「痛いなー」と思っている人から、「あっ、痛みがここにあるということを理解する人」になって下さい。どんなことであれ、反応しているのはあなたそのものではありません。そんなあなたはもう観察者です。あなたの世界から痛みが消える瞬間です。あなたは痛みがどんなモノかを知っている者であり、痛んでいる者ではありません。   (津留晃一メッセージ集 「反応」 より)





小我 = 自分 と当然のように思い込み 疑いもしなかった貴秋が 小我以外の自分の存在を初めて意識させられたのは、かれこれ4年ほど前のことでしょうか。

もう何で読んだか忘れてしまいましたが、「しゃべり 動き 感じている自分を見つめる もうひとりの自分」 に言及した文章を目にして ピンと反応し、自身の内の “見つめるもうひとりの自分” を見つけようと探り始めたのです。

“見つめる自分” の存在は 文章を読んだ瞬間受け入れましたが、それがどういうものかもわからないまま 実際にその視点を捉えるのは難しく、半ば強引にそういう自分がいるものと決め込み なんとかその感触をつかもうと 躍起になってトライし続けたものです。




その後 感覚フォーカスがすっかり板につき さまざまな痛みやわだかまりのもとである体感を 外から見つめる習慣が定着したところで、それまで当たり前に 「私が苦しい、私が痛い」 だったところに 「苦しい、痛いと感じている部分がある」 という新たな見方が出現しました。

小我と自分、ぴったり一体化していた両者の間に 隙間が生じ、「部分である小我」 と 「小我を見ている自分」 に分かれて、後者の存在に 光が当たり始めたのです。

小我はもはや 自分すべてではなくなり、そのウエイトが次第に小さくなるのと反比例して 「見ている自分」 の存在感がじわじわ増してゆき、やがては こちらが “自分” の主体なのだと思うまでになりました。

そうはいっても 小我がそう簡単に沈黙できるはずもなく、「アタマがひとしきりぐるぐるしたあげく ふとわれにかえって また出しゃばったことに氣づく」 がえんえん繰り返されて今に至るわけですが、以前は考えられなかった 「パニック寸前のマインドからハートの自分に戻る」 なんて難易度の高い移行ができるほど 真我 ・ ハート = 主 小我 ・ マインド = 従 というバランスに慣れ親しむようにはなってきました。




真我に浸る時間が増えるほど、悩みとは小我の自作自演だったのだという思いが強くなります。

真我であるとき 悩みや怒り、不安などは その影すらも見当たらないからです。

悩みとは 解決するものではなく ただそこから離れればいいだけのもののようです。

すでに小我によって 五感の世界にがっちり形作られたいくつもの問題が この先どうなってゆくのかはまだわかりませんが、真我の占める割合がさらに大きくなるに従い おのずと収束していくことだけは確かだと思えます。

解放されたい悩みや問題があるのなら、あれこれ策を講じるよりもまず マインドからハートへと向かう道を行くこと、今ならためらいなくそう言える氣がしています。



















昇華

2016年11月16日 13時18分55秒 | ふと思うこと


14日のスーパームーンは 残念ながら雨で見られなかったけれど、きょうは朝から快晴



ヒイラギが可憐な花を咲かせ始めました♪



この花の清々しい香りが好きで好きで

葉っぱはトゲトゲで愛想なく 落ち葉のトゲさえも硬く鋭くて 夏の草取りの間 どれほど痛い思いをしたかわかりませんが、この香りだけで すべて許せてしまいます(*^^*)



南天もすっかり色づいて





サザンカの蕾もほんのりピンクが見え始め





そんな中でもまだ美味しい実を恵んでくれる けなげなミニトマトに感謝





そうそう、以前 かのアイリスの中にさりげなく混じって伸び始めた枝を 「キミはだれ?」 と載せた記憶がありますが、こんな実がつきました♪



ムラサキシキブだぁ~ \(^o^)/

ただ、このアイリスの群生の中でこのまま大きくするのはちょっと・・・・だし、通路の確保の問題もあるので、どうしたものか ただいま悩み中 (-_-; )

せっかくの天の恵みを生かせるよう いいアイデアが浮かびますように。。。。





*           *           *           *           *






怒りのおおもとをずっとたどってゆくと やがて純粋な悲しみに行き着く・・・・と 以前書きましたが、最近この 「ピュアな悲しみにたどり着く」 頻度が増しています。

そしてそのたびに思うのです、ああ すべてはここから始まったんだな と。

まだまだ神に近かった幼い子どものころ、違和感に突き当たり 万事が順調に思い通りに運ぶわけではないことを知ったとき まず感じたのが、この 「純粋な悲しみ」 だったのでしょう。

そのまままっすぐ受け止め 味わい尽くせれば それでおしまいだったはずが、素直に悲しみを表すことを許されず 押し殺して感じないようにしてしまったそれは、不快感が高じて怒りに転じ、どんどん上書きされ 膨らんで その後半世紀も自身を悩ませることになった、と。

率直な感情を抑圧することの恐ろしさを 改めて思います。

しかし、感覚フォーカスを重ねることで どれほど大きくねじれたネガ感情でも 逆にその源へとたどってゆけば いずれは解放できるのだともわかったことは、大きな救いです。

荒れ狂う嵐のような体感にじっと耐え 感じ尽くしたその先には、そんな破壊的なものと結びついていたとは信じられないような静謐な悲しみだけが残り、やがてすぅっとすんなり消えていきました。




高く高く澄んだ秋の空は そんなピュアな悲しみをまっすぐ吸い込み 昇華するのにふさわしい。。。。などと思いつつ きょうも光溢れる青空を愛でる貴秋です (^^)

























お勧め動画

2016年11月09日 12時43分29秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


                「地球が壊れる前に」



※18:30追記

 今見たら 残念ながら非公開になってしまったようです。

 間に合わなかった方ごめんなさい。





愛読させていただいている misaさんのブログでご紹介いただいた動画です。



〔動画解説文より〕

この番組は、アカデミー賞俳優であり国連平和大使であるレオナルド・ディカプリオの2年間にわたる旅を記録したものである。

この旅の中でディカプリオは気候変動が絶滅に瀕した生物や生態系などにどんな影響を及ぼすかを扱っており、オバマ大統領や潘基文国連事務総長、ローマ教皇フランシスコなどとの対談も行われている。製作総指揮はマーティン・スコセッシ。




無料配信8日までの予定が延長されているようです。

まだ途中までしか見ていませんが、これはぜひとも拡散 (ささやかなりとも) させていただこうと 取り急ぎ。




番組紹介ページはこちら

misaさんのブログはこちら




ひとりでも多くの方のお目にとまりますように。