毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

生きてる!きょうも生きてるよ

2012年08月29日 21時21分23秒 | ふと思うこと
きょうも一日中ほぼ曇り、午後はひとしきり激しく雨が降りました。

セミの声がほとんど聞こえない。。。セミさんたちどうしているんだろう?

入れ替わるように秋の虫の声がどんどん大きくなってきています。

昼間なんか悠然と家の中に入ってくるんだよね、コオロギとかバッタとかカマキリとか。

子どもの頃は平氣で素手で捕まえられたけど、今はちょっと。。。(^_^;)

ビニール袋にすくい取って 外に出してやる毎日です。





もうかれこれ10年近く前になるのかな?

とある栄養補助食品に関ったことがあって、そのとき「からだの働き」や「細胞」についていろんな本を読んで勉強したんですね。

昔から理系苦手の私には難しい話が多過ぎて、もうほとんどのことは忘れてしまったんですが(笑)、わずかに残ってるいくつかのこと、その中のひとつにこんなのがあります。

人間の始めの一歩、受精卵のお話。


たった1個の細胞から始まるこの受精卵、お母さんのお腹の中で分裂を繰り返しながら、やがて子宮の中を転がっていって内膜に着床し、どんどん成長して胎児の形になっていくというのです。

この「自力で転がって着床」というところが、なんかすごいと思っちゃった。

すべて受身でお世話してもらうがまま、じゃなくて、自分の力でここだ!っていう場所にたどり着く、っていうところが、ね。

私たちって、ほんの数個の細胞の塊のときから、そんなダイナミックな生命力を持っていたんだね。

そのちっちゃな細胞の塊が、さらに分裂・分化を繰り返して、やがて数十兆もになったのが、今の私たちのからだなんだ~。



。。。私の頭を通ると、せっかくの科学情報も 学者さんたちが「なんじゃそりゃ?」と思うような情緒的・物語的世界に変換されちゃうんですが(^◇^;)


でもね、私たちを作っている数十兆の細胞一個一個に あの「自発的に生きる力」が備わっているんだと思うと、それだけでなんだか無性に勇氣が湧いてくるんだなぁ♪






もうひとつ、これは心筋細胞のお話。

私たちの心臓がドックンドックン打っているのは、この心筋細胞の一個一個がドックンドックン(いや、一個だと小さいからピックンピックンかな?)打っているからなんだそうですが。

この心筋細胞を取り出してバラバラにして置いておくと、みんなてんでんバラバラなずれたリズムでピックンピックンやってるんだそうです。

でも、バラバラの細胞を寄せ集めてやると、だんだん連携して やがて一糸乱れずそろって あのドックンドックンが生まれるんですって。



心筋に限らず、私たちの数十兆の細胞たちは、みんな考えられないほど見事なチームワークで 互いに連携しあって働いて、私たちを生かし続けてくれている。

その調和が何らかの理由で乱れると 「あれ?ちょっと調子悪いかな?」になり、乱れが大きくなると 「病氣」ということになるのかもしれないね。




さらにもうちょっと考えてみる。

私たちの細胞をさまざまに働かせ、心臓をドックンドックン打たせ続けてくれている力って、いったい何なんだろう?

これが掃除機や扇風機なんかだったら、原動力は電氣で、コンセントを差し込んでスイッチ入れれば動き出すってわかってるんだけど。

でも、私たちを動かし 生かし続けている力っていうのは どんな力で どこから来てるんだろうね?

しかもこの力、私たちの意のままにはならない。

「きょうはスイッチ切ってしばらくお休みね」なんてわけにもいかないし、いったん止まると決まれば、いくら「もう少し動いていたいよ~」と思ったって、動かし続ける術はない。



この何かわからない不思議な力に、私たちはきょうも生かされ続けているんだね。




いま、日々いろいろなことが起こって、いろいろな課題にぶつかっては取り組んで、を繰り返す毎日。

また、私の大切な家族や友だちも、それぞれにいろいろなことを抱えては まっすぐ向き合い真摯に取り組んでいるようで。

さらに、もっと引いて見てみれば、世の中のあちこちでも いろいろなことが起きていて、そこでも無数の人たちがけんめいにそれを乗り越え、生きようとしている。

そんなふうに思えたとき、ふとこんな話をしてみたくなりました。

私たちには、生まれつきすごい力、生きる力が備わっているんだって。

心身の調和が乱れることがあっても、もう一度努力して整えて、健やかな力を取り戻すことができるんだって。

そして、心臓がドックンドックン打ち続けている限り、私たちを生かしている力は「生きなさい。思いっきり生きていいんだよ」って背中を押してくれているんだって。



自分自身と、そしてここを訪れて下さる縁ある方々への、ささやかなエール♪



そう、きょうもね、生きてるよ、生かされているんだよ















 

テーブルの同じ側

2012年08月29日 00時32分55秒 | ふと思うこと
台風15号の影響か、夕方から断続的に けっこうな雨が降りました。

おかげで今夜の涼しいことといったら。。。いや、涼しいどころか ノースリーブに素足では寒いぐらい。

コオロギさんたち秋の虫の鳴き交わす声を聞いていると、今が8月だということを忘れてしまいそう(^_^;)






ネットニュースで ずっと続いている原発やいじめの問題・さらには尖閣諸島の問題などを見るにつけ、「テーブルの同じ側に立つ」という言葉が頭をよぎります。

初めてこの言葉が浮かんだのは、かれこれもう7年ぐらい前になるでしょうか。

「テーブルを挟んで向き合っていて 問題の解決は図れない」ということです。

ちょうど地元に NTTがFOMA用の強力なアンテナを建てようとする件で揉めていたときのこと。

あのときは、せっかくこういうイメージを授かったというのに、まったく生かすことができなかった。

まだ怒りがたくさん溜まったままだったからね(^^ゞ




原発やいじめなどのように 人のいのちがかかっている問題では、まずはきっぱりと立ちはだかって「NO」を言うことも大事だと思います。

いのちを省みないほうへ突っ走ろうとする流れを確実に止めるために。

それで いっとき対立が生まれるのもやむを得ないことでしょう。

ただ。。。それはあくまでも「緊急避難的」というか「応急処置」というか、そんなようなものだと思うんです。

そのあとでじっくり根本から解決しようというときには、テーブルを挟んだ対立の構図を崩すところから始めないと、結果を出すことはできないんじゃないかなという氣がします。



こんなふうに考えられないかな?

立場や視点は違うけど、同じ問題の解決に携わる者どうし、同じゴールを目指して力を出し合う仲間どうし、って。

それが テーブルの同じ側に立つ、いや、いっそのことテーブルを取っ払ってしまうということになるんじゃないかな。


たしかに、圧倒的に力のある者から 自分たちの利益や満足のためには 他の人のいのちや心や暮らしがどうなろうと構わない、っていう姿勢を見せつけられれば、腹も立ちます、人間だもの。

でも。。。そこで対決姿勢を強めれば強めるほど、相手を大きくしてしまうんだよね。

北風が強く吹きつけるほど 旅人がコートをしっかり着込んで手放そうとしない、あのからくり。

ほんとうに問題をゼロに戻そうと思ったら、ここでしなければならないのは、相手をじっくり見つめ、相手の声にしっかり耳を傾けることなんじゃないかと思います。


言うのは簡単でも、実行するのは難しいんですけどね




以前にも書いた、ミヒャエル・エンデの「モモ」。

人々のいのちの時間を奪おうとする“灰色の男たち”にたったひとりで立ち向かった女の子モモがしたことは、戦いではなく、相手の心にじっと耳を澄ませることでした。

相手の心の中に入っていって、そういう行動を起こさせる根っこに何があるのかを聞き取ろうとしたんですね。

そして言うのです。

「それじゃあ、あんたを愛してくれる人は誰もいないの?」(本が手元にないのでうろ覚えなんですが、たしかこんなような言葉を)

これを聞いた相手は ぶるぶる震え出して、秘密だったたくらみ、つまり本音を 心ならずもしゃべってしまうのです。




どんな問題でも、その発端には バランスを崩した人の心があると思うんです。

人がどうなろうと構わない、とか、ひどい目にあわせてやる、とか、そういう氣持ちや行動を生み出すおおもとが。

根本解決には そこを見ることが不可欠なはずなんだけど、こちらが怒りに燃えて対決姿勢だと、とてもじゃないけどそこまでの心の余裕がないんですね。


難しいことだとは重々承知しています。

なにせ 怒り猛る心をもてあまし、コントロールしきれないまま 半世紀を過ごしてきた身ですから(- -;)

でも、そうやって身のうちから湧き上がる怒りにさんざん振り回されてきたからこそわかるんだなぁ。。。

対立したままでは 力づくで相手を押さえ込むことしかできないし、それではほんとうの解決にならないってことが。



相手の心をじっくり見ようとする。。。もちろん自分のしていることが理不尽で正しくないことを心の奥でわかっていればいるほど、相手は本音を隠そうとします。

そこで感情的に責め立てられれば、ますますウソをウソで塗り固めたり、がっちりと殻に閉じこもってしまったり、ときには逆切れなんてことも。

でも、そのさらに奥の奥では、意識してなくとも ウソも怒りも手放して ほっとしたい氣持ちもあるんじゃないだろうか。

ただ、自分ひとりの力では 長年固めた鎧を手放すことができないだけで。

そんな人ととことん向き合おうと思ったら、まずは自分の心の調和がしっかりとれていないとキビシイでしょうね。

自分の中の怒りが解消されていること、感情をコントロールできること、自分のほんとうの氣持ちがわかっていること。

そして、自分を限りなく透明にし、相手を感じながら、時間をかけて 本音を誘い出して。



難しいことだけれど、でも こういうことができる人になろうと思います。

そういう人がおおぜい必要な時期なんだと思います。

いじめも原発問題も ずっとずっと前からあったことだけど、以前だったら黙殺されていた弱い立場の人たちの声が、いまや無視できないほどになってきている。

不当なことは許さないという宣言には まっすぐな怒りや拒絶の意志がこもっていていい。

でも、そのあとには 深く温かい思いやりの心が どうしても不可欠なんじゃないだろうか。

自分の感情に左右されず 問題の根元から静かに見つめるまなざしが、今とても大切なんじゃないだろうか。




まだまだ“修行”が必要な私ですが、内なる羅針盤が指し示すままに 精一杯の高みをめざそうと思います。



























あれから一年。。。

2012年08月24日 19時29分30秒 | ふと思うこと
風呂上り、部屋に飛び込んでいた蛾を逃がそうと、ビニール袋で捕まえたのを持って お隣小学校の校庭に行きました。

まだわずかに青みの残る空には縦半分の月が白く輝き、芝生の上を吹き抜ける涼しい風に虫の声。。。昼間は夏でも、晩はもうすっかり秋の風情。

しばらく立ち尽くしていたら、ふいに去年の水害を思い出しました。

あのときも、夕方から晩にかけて よくこうやって校庭で涼んだっけ。

昼間は普段にないざわつきを見せた集落も 晩になるとうそのように静まり返って、ほっとしながらも、ぱっと見いつもとさして変らない景色が どこか見知らぬもののように感じられるのを 落ち着かない氣持ちでかみしめたものだったなぁ。


あれからもうすぐ一年か。。。


あのとき大きく崩されたのは、土地や建物、暮らしの秩序以上に、すべてが当然のようにこのまま続いていくという 私たちの根拠のない思い込みだったのかもしれないね。




過去からふとわれにかえって、再び落ち着きを取り戻した今の暮らしを 心からありがたくいとおしく感じました。












還ろう。。。ひとつに

2012年08月21日 11時04分36秒 | ふと思うこと
ちょうど2年前に話題になった クリストファー・ノーラン監督・レオナルド・ディカプリオ主演の「インセプション」という映画がありました。

DVDを買ってから1年近く、もう20回じゃきかないぐらい見てると思います。

先月奈良から戻った少し後にも 久々に見たんですが。



え~っと。。。こういうときに「ネタばれ注意」って表示するものなのかな?

このあと どうしても映画の内容に触れることになりますので、まだこの映画見てなくて これから見るから内容知りたくないよ、っていう方はごめんなさい、この先は読まないでくださいね m(__)m






*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *







これまでは、“インセプション”というミッション遂行のプロセスに関心があったんだけど、今回なぜか意識が集中したのが 主人公コブと奥さんのモルのエピソード。

モルは 映画が始まった時点ですでに亡くなっていて、画面に登場するマリオン・コティヤール扮するモルは、コブの思い出の中の妻か、あるいはコブの深層意識の投影、言い換えれば 別人の姿を借りたコブの意識の側面なんですね。

この投影のモルは、コブの妻に対する罪悪感から生まれているので、他人の意識にもぐりこむという非合法ミッション(犯罪行為)真っ最中のコブの前に現れては、その邪魔をする。

メインストーリーである サイトー(渡辺謙)の依頼のときなど、自分だけでなく 仲間の命まで危険にさらすことになってしまいます。

クライマックス、メンバーのひとり・アリアドネ(エレン・ペイジ)と共に 自分の夢の中に赴き、モルと向き合うコブ。

さまざまな感情に揺り動かされながらも コブは、モルと夢の中に居続けるのでなく、仕事をやり遂げて子どもたちの待つ現実の世界に戻る決意を固め、アリアドネのサポートもあって、モルとの和解を果たします。



以前これを見たときは、「自分の心の問題も解決しつつ サイトーの依頼を無事完了して 『子どもたちのもとに戻る』という望みを叶えたコブ」というお話だと捉えてたんだけど、

今回は、「分裂した意識を統合することで 本来の力を取り戻し、その結果仕事を成功させて 新しい一歩を踏み出したコブ」の物語に思えたんです。

私の中で、モルとのエピソードのほうがメインになってるんですね。


ちなみに、ラストシーンの“コマ”は、どちらの場合でも 私的には当然のごとく「倒れた」となっております \(^o^)/

「コブ、おめでと~♪」ということで(笑)





前に書いたアニメ「レイアース」の話とも被ってくるんですが、どういうものか、最近しきりと この「分離 → 統合」というテーマに意識が向かいます。

本を読んでも 映画を見ても ニュースを見聞きしても、もちろん日々の暮らしのいろいろな場面でも。

このブログでも、確かなことは読み返してみないとわからないけど、深層のテーマはすべてここに集約されているかもしれません。




きのうも書かせてもらったように、うんと小さい頃に ふとしたきっかけで 不安や恐れ、怒り、悲しみなどの感情が心の奥に焼き付けられ、しまいこまれます。

そして、そんなものがいつどのようにして自分の中に入ったのかわからぬまま、その影響を引きずって生きていきます。

いや、それが後づけで入ったことさえわからないかもしれないね。。。もともと自分はこういう性格なんだと思い込んでいて。



でもね。

生まれたての赤ちゃんを見てみて。

確かに「不快」に反応して泣くことはあるけれど、それ以外にどこにネガティブの影があるでしょう?

いのちいっぱいに輝いて、あるがままで満ち満ちていて

誰でもみんな、最初はあんなふうだったんだよね

出会う人すべてを魅了する笑顔の持ち主だったんだよね



本来自分のものではなかったはずの 違和感ある感情を刷り込まれるたびに、その部分は成長を止めて “本体”から分離し、いつかおとなになった自分が解決しにやってくるのを待つのだ。。。という氣がします。

そのために、成人した身にさまざまなことが降りかかっては 「ここにいるよ、早く連れに来て~」と注意を引こうとするのだと。

実際私、ここ数年がかりで 事あるごとに かなりの“分身”を回収しております

連れ戻したはずが また元に戻っちゃったりするのもいるので、一筋縄ではいきませんが(笑)



なにか感情に引っかかることがあったとき、以前なら「なんでこんなことに~(T_T) 」とか「あいつが悪いんだぁ」などと 自分の外に向かって反応してましたが、今は「これは私になにを知らせようとしているんだろう、このことの根っこになにがあるんだろう」と 自分の内に目が向きます。

そうすると、時間差はいろいろありますが、必ずなにかが出てくるんです、幼い頃のエピソードが、ね。

ああ、こういうことだったのか、と丸ごと全部の自分が納得できたとき、その引っかかりはもう引っかかりでなくなり、歩みを止めていたチビ助は 本来の年齢に追いついて 今の自分とひとつに溶け合うんだ。。。と そんなふうに思ってます♪

いきなりすとーんと腑に落ちることもあれば、頭から始まった理解が全身にまわるまでに時間のかかるものもあるので、いつも即効でクリアというわけにはいきませんが(^^ゞ

「ただいまの回収率何パーセント」みたいに表示してもらえるとうれしいんだけど(笑)

でも、具体的な数字に置き換えることはできなくても、以前より自分の中が穏やかになったなぁっていうことは、なんとな~くわかりますから(^^)



こんなふうに、あちこちに置き忘れていた「分離した自分」を連れ戻して 再びひとつに還る。。。なんかね、今ってそういう時期なんじゃないかなって氣がします。

世の中のあちこちでいろんなことが起こって、もしそういう目で見てもらえるなら、私だけでなく 同じように感じる多くの人たちもそっと背中を押されてるんだって。。。

「還っておいで、ひとつに」 ってね (*^ー^*)






















書き換えられるよ、望みどおりに♪

2012年08月20日 17時41分36秒 | ふと思うこと
物から心へ、見える世界から見えない世界へ、と さまざまな思いやひらめきが湧き起こる毎日です(^^)



先日断捨離の話のときに「幼い頃からずっと抱えていた不安のおおもとが鮮明に見えた瞬間」があったことを書いたんだけど。

内容自体は詳しく書くわけにはいかないんですが、ひとつ言えるのは、そのおおもとっていうのは うんと小さい子どもの目を通してのイメージだっていうこと。

つまり、おとなになった自分を左右していたのが、ほとんど赤ん坊に近い子どもの世界観だったんだと。

その縮尺の違いが、とんでもなく歪んだ認識を刷り込んじゃってたんですね。



生まれたての赤ちゃんのときは、たぶんなんの不安も不満も抱えてなかったと思うんです。

愛して愛されて、すべてがなめらかにすぅっと流れていくものと 当たり前のように思ってた。

それが、突然 ごつん!となにかにぶつかって。

なんの疑いもなく開ききっていた心に衝撃が走り、それ以来世界が恐ろしいところに変ってしまった。



子どもをお世話するおとなのほうは、すでにいろいろと抱えていますから。

笑顔を返さなかったとか 要求を見落としたとか すぐに応じようとしなかったとか、おとなにとっては些細なこと。

その奥に 感じること・心通わせることを忘れてしまった自分がいることを、どれほどの人がわかっているでしょう。

わが子の無条件の信頼に応えなかったことなど 氣づきもしなかったかもしれない。

ましてや、生涯にわたって影響するほどのショックを刷り込んでしまったなんて 氣づくはずもない。



でも、幼い子どもにとって お世話してくれる人は「世界そのもの」であり「生命線」。

拒絶されたと感じることは、死の恐怖にも等しい。



で、どうしたかっていうと、自分ひとりでは受けた衝撃や痛みをどうすることもできないと思い、それらを心の奥にしまいこんでいったん忘れ、“保留”にした。

いつか自分の力で解決できるときがくるまでお預け、ということで。

やがて 保留の課題があることなどすっかり忘れ、そのまま成長しておとなになった。

子どもの目で見た 子どもにとっての「不安」や「恐怖」を、そっくり心に残したままで。

そして、それと氣づかないまま 何十年も振り回され続けた。



今になって、自分の身に起こってたのはこういうようなことだったんだとわかります。



以前何かの本で、「解決のつかない悩みや不安を 人は無意識のうちに繰り返し再現する」みたいな話を読んだ記憶があるんですが。

今回 これまでの自分を省みて、これって「保留のまま忘れている問題がありますよ。そろそろ解決の時ですよ~」と氣づかせてくれるための再現なんじゃないかなと ふと思いました。


実際私も、同じようなタイプの人と そっくり似通ったトラブルを繰り返すとか、同じようなピンチに何度も自分を追い込んでしまうとかいうことが 過去にえんえんと起こっているし。

そこへもってきて、例の実家での氣づきっていうのが、ふとした家族とのやり取りの中で思い出した幼い頃の出来事と それに伴う恐れや痛みが、その手のトラブルのたびに味わっていたそれとそっくり同じなことに思い当たった、っていうものだったんです。

なんかね、バラバラの記憶の断片が ピピピッと一氣につながった感じで。

幼い子どもには足元から大地が揺らぐほどの脅威でも、おとなの自分なら片手でやり過ごせるほどのこと。

なのに、その受け止め方の差に氣づかないまま影響され続けて、小さい頃と同じような恐れを生むシチュエーションを おとなになってからも果てしなく再現し続けては、「なんでこんなしょっちゅうイヤなことばっかり起こるのかなぁ」って自信をなくして、いつも冷たい隙間風が吹き込むようなうすら寒い思いを抱えて生きてきたんだね。

だからこそ「そんな今にそぐわない世界観はさっさと手放してしまいなさい」と繰り返しつつかれ続けていたのか~。。。なるほどね。

子どもの目で見た恐怖が おとなになった自分にどのように映るかを 改めてしっかり認識すれば、もう子どもじみた不安を抱え続けることもないし、いらぬトラブルやピンチを繰り返し招きよせる必要もなくなるんだよ、っていうことだったのね。




正体がわかってみれば、とんだ身の丈違いの世界観にほとんど半世紀も振り回されて。。。なんてこった。。。 (- -;)

でも、今ここで氣づけたって ありがたいことだよね♪

長年信じ込んでいたものの見方を根本から変えるっていうのは楽なことではないけれど、見えるものも起こることもこれからはがらりといいほうに変るんだって思えば、打ち込む氣力も湧いてこようというもの♪

というわけで、今はもうその不安や痛みはいらないよ、私は守られ愛され続けてここまで来られたのだし これからも安心していい人生を送れるんだよ、と せっせと自分にささやきかけては 脳内情報の書き換えに精を出す毎日です















まずは安らいだ心から

2012年08月19日 22時55分04秒 | ふと思うこと
夕方 ちょっとの間だったけど雨が降ったせいか、とても涼しい晩です。

お盆がずっと雨で、そのあと 昼間は相変わらずの夏空だけど、朝晩の空氣はもうほとんど秋そのもの。

毎年この時期、うだるような暑さの中に ちょっとした空氣の変化や日ざしの角度、影の濃淡などから ひと足早く秋の氣配をかぎ取るのがお楽しみのひとつだったので、今年はちょっぴり拍子抜け。。。かな

でも ま、いっか~☆

その分 この二つの季節の行き来をうんと楽しませてもらおうっと♪

深夜や早朝は熱々のホットコーヒー、昼間はひんやりわらび餅なんていうのもいいじゃないですか♪

昼間は存分に汗かいてデトックス、消耗した分 晩はぐっすり眠れるのもうれしいしね♪





ここしばらく 毎日のようにどこか一箇所は片付けものをしていたのも どうやら一段落したみたい。

すごいときは、朝起きぬけに寝床の中で「あれをこうしてああして」とひらめいて、そのまま起き出して 着替えも洗顔もせずにガタガタと物を動かし始めたりしてたけど(^^ゞ

棚や台の下、廊下の脇などに積まれていたものが減って 掃除がしやすくなり、押入れの中も奥のほうまですっきり見渡せるようになって、なかなかにいい氣分


片付けの最中にふと思い出したんだけど、私、子どもの頃から 物欲や所有欲が心の安らぎや充実と結びつかないことに ずっと違和感を感じていたんですよね。

いちばん古い記憶では まだ幼稚園に行くか行かないかぐらいの歳だったと思うんだけど、レンゲの花が敷き詰められたように咲いている田んぼの前に立っていて。

あまりの美しさに心が激しく揺れ動いて、それがなぜか「これ全部持って帰りたい」という欲望に向かうんです。

で、手当たり次第に花を摘んで 大きな花束をしっかり握り締めて どきどきわくわくしながら帰宅するのですが。。。

せっかくのレンゲは、子どもの手の熱でぐったりしおれ 生き生きしたつやをなくして、さっきの魅力がすっかり消えうせている。

母が水を入れたコップにさしてくれて いったんは元氣を取り戻すんだけど、それも束の間、一日二日のうちに 花びらがぽろぽろと落ちて 残った花もすっかり色あせてしまう。

こんなことを何度も繰り返すうちに、いくら花を自分のものにしても 心は満たされないんだということを 深く思い知らされました。

なのに、それでもなお「欲しい!」と突き上げるような氣持ちは消えてくれないんだよね。。。



もう少し大きくなると、今度はお店で売っているものに心魅かれることが多くなりました。

中でもよく覚えているのが、ちょくちょく行く手芸屋さんのショーウィンドウに飾られていた ガラス細工の三羽の白鳥と 前足を片方上げた黒い馬。

もう欲しくて欲しくて、しょっちゅう店に行ってはウィンドウを覗いて。

お小遣いを溜め、ついにそれらを自分の物にしたときは、まさに天にも昇るような心地だったのを覚えています。

が。

ごたごたした子ども部屋には それらをステキに飾るスペースがどうしても見つからなくて。

仕方なく、白鳥はスチール棚から下げた飾りかごの中に、黒馬は勉強机の上に置いたのですが、なぜか あのショーケースの中にあったときの魅力が感じられず、日が経つにつれて 自分のものにした喜びがどんどん薄れていって、置いてあるのを見てもなにも感じなくなり。。。

子ども心にも虚しさを覚えました。

あんなに夢中で欲しかったのに、願い叶って手に入れたとたんに なぜこんなに喜びを感じられなくなっちゃうんだろう?

それまでにも似たような思いは何度もしていたんだけど、あのときは有頂天氣分とそのあとの落差があまりにも激しかったので、ことさら記憶に残っているのだと思います。

結局、白鳥は かごが外れて落ちたときに一羽のつばさが折れてしまい、黒馬も うっかり机のすきまから落として脚が折れてしまって、もう見るのもいやになり、机の奥にしまいこんでしまいました。



それからウン十年、物で心を満たそうとする虚しさを どれだけ重ねてきたことか。


今ではよくわかります。

自分がほんとうに欲しかったのは、物そのものではなく、安堵や安らぎの思いだったのだと。

欲望を満たしたときの ほんのいっときの小さな小さな満足、それを 深い心の充足と取り違えてしまっていたんですね。

氣づくのに ずいぶんかかったものだねぇ(^_^;)



二、三年前 知り合いの子どもに文具やアクセサリーをプレゼントしたとき、物だけが喜ばれた感じがして それ以来贈り物をする氣をなくしてしまったことがありました。

そのときにも思い出したんだよね。。。ああ、自分もこんな子どもだったなぁ、って

いつも心のどこかにつきまとっていた不安をなんとか解消しようと(無意識にだけど)必死だった私には、物しか見えていなかった。

それを贈ってくれた人の優しい思いは届いていなかった。

贈り手の人は、そんな私に氣づいていただろうか。

がっかりさせてしまっただろうか。

不安がどれほど人の心を狂わせ、愛を出すことも受け取れることもできなくしてしまうものかを思い知らされ、幼い頃の自分や 今の自分がプレゼントしようとした子の心の内を思いやって なんともいえない氣持ちになりました。



今、あちこちすっきりした家の中をながめながら思います。

まずは 心の中の不安をとりのぞいて あたたかく満たすことが先なんだなって。

心の調和が実現して初めて 過不足ない物たちとの楽しいおつきあいが出来るようになるんでしょうね♪

それに、物を仲立ちにした 人どうしの素敵なおつきあいもね♪

半世紀の時を経て、私の心もやっと穏やかに平和になってきたのかな(^^)























続・断捨離

2012年08月10日 22時50分04秒 | 紡ぐ暮らし
久々の雨~

といっても、朝・雨 → 昼・晴れ → 夕方からまた雨、っていう妙なお天氣だったけど(笑)

日中はいささか蒸し暑かったけど、この時間は氣温も下がって過ごしやすく。


そういえば、猛暑といわれているこの夏だけど、おととしなんかと比べればどうってことないでしょ。。。と思うのは私だけ?

わが家のあたりがたまたまそうなのかな?

カンカン照りの昼間、午後1~2時前後の暑さのピークでも 汗をかきつつも扇風機だけで楽勝だし、夜中から明け方の涼しさといったら 秋?と思うこともあるぐらい。


そんなふうに寒暖の差が激しいので、からだの切り替えがしにくいのが 早朝のひんやりと心地いい空氣が 日が昇るにつれてじわじわと温められていく時間帯。

こういうときは、涼しさに執着するよりも からだをどんどん動かして さっさと体温を上げてしまうのが一番♪

進んで汗をかいてしまえば、上昇中の温度も かえって涼しく感じられるものなんですね♪



というわけで、奈良から戻って以来 午前中にせっせといそしんでいるのが、家の中の片付け。

実家の大片付けの最中に、自分もまだまだ物を持ち過ぎてると痛感したことがきっかけなんですが。

服とか靴とか器とかは 度重なる引越しのたびにシビアに整理してきたからいいけれど、今回猛然と手放しているのは、いつか使うだろうと溜め込んでいた 保存食用の空きビンやらペットボトル、紙袋・包装紙・梱包用パッキング材、いずれ読み返すだろうととっておいた新聞の切り抜きやサイトのコピー、パンフレット、そのうち何かに作り替えようとしまいこんだままだった古シーツや古カバーの類い。

この「いつか」「いずれ」「そのうち」って考え方、けっこうクセモノなんですね。

いつ、どう使うとか、はっきりと具体的なイメージがないまま溜めるだけ溜めて、はっと氣づくとかなりの量になっている。


今回、実家とわが家と二軒分の片付けの中で氣づいたのが、そんな漠然としたイメージの向こう側に隠れている“不安”。

あれば役に立つだろう、という前向きな氣持ちが、いつのまにか いざというときないと困る、というネガティブな動機に変っている。

亡くなった母は、実際太平洋戦争の物のない時期に苦労を重ねた人だったから、そういう氣持ちもわからなくはないのだけれど、それにしてもこれだけ物が溢れかえっている時代に なんでもかんでも捨てられずに溜め込んでいたのは、いつまたあんな恐ろしい日がやってこないとも限らない、という不安が常につきまとっていたから、のような氣がします。


そんな親の元で育って、豊かな時代しか知らないくせに 似たような精神構造を受け継いでしまった自分の心の中をじっくりのぞいてみると。。。

この世界はとても危険に満ち満ちていて、今は平和で豊かでも、いつなんどき どんな恐ろしいことが起こるかわからない。

そして、世の中や世間の人間は信用ならず、自分は守られていないから、いったん何か起こったら 自分を守るのは自分だけ。

だから、いつ何が起きてもいいように、常にがっちり備えておかなければならない。

そんな不安で一杯の世界観が いつのまにか根付いていて、無意識のうちに思考や言動が影響されているのが見えてきます。


自分の中に こんな思いがあったとは。。。これほど正面きって見つめたのは初めてのことだけど、この不安、もっと漠然とした 言葉化されない曖昧な形で、幼い頃から常に心の底に潜んでいたようです。


実は、実家に滞在中、この不安が生まれたおおもとのところが不意に鮮明に見えた瞬間があって。

なにかに突き動かされるようにやっていた大片付けのおかげかもしれません。

ほとんど半世紀抱え続けた感情だから、そうそう一度にきれいさっぱり払拭というわけにもいかないけれど、少なくとも その正体が見えたおかげで これから先もずっとしがみつくほどの根拠のあるものではないことを、心のどこかで納得できたのでしょう。

それ以来、もっと身軽になりたいという氣持ちに拍車がかかりました。



面白いことに、実体のない不安に惑わされなくなると、物を持ちすぎていることのほうが耐えがたく思えてくるんですね

そして、しまってあるものを見たり思い出したりしたときの感情の動きで、その要不要がぱぱっとわかるんです。

これは持ちすぎてるなって思うものに触れると、氣が重くなったり なんとなく心がざわついたりして、それを手放すと すぅっと心地よい風が通り抜けたみたいな爽快感と共に 広々と空いた空間が無性にうれしくなる。

間違っていた世界観が正されたことで、もともと備わっていたセンサーが正しく働くようになったのかもしれないね♪



      
前に書いた「断捨離」の、

      断=入ってくる要らない物を断つ
      捨=家にずっとある要らない物を捨てる
      離=物への執着から離れる

っていうのは、無駄なく素直に物を巡らせることのできる 調和の取れた心のありかたを言っているのかもしれない。。。今はそんな氣がします。















戻ったら夏♪

2012年08月02日 18時26分36秒 | 自然
ほんの3~4日の実家滞在のつもりが、氣づけば3週間以上。。。出発時は梅雨の雨空だったのに、戻ってみたら夏真っ盛り

夕刻になると、ひぐらしの声が山の中から響いてきます。

面白いんだよね。。。3時半ぐらいに一度鳴いて、しばらく休んでから、日没前後にまた鳴き出すの。

南紀に来るまでは、ひぐらしの声なんてほとんど聞いたことなかったのに、今ではこれを聞かない夏なんて考えられない。

じっと耳を傾けていると 心が和みます(^^)