毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

続 ・ あらゆる問題の根底に潜む お金 ・ 時間 ・ 法律にまつわる催眠を解く ~ その16

2020年12月28日 09時52分36秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
私たちはこれまで 五感の世界がすべてと思うことにあまりにも慣らされてきたので、意識を知覚できない領域に広げるなど 浮世離れした話に聞こえるかもしれませんが、「その10」 にも書いたように 私たちはすでに当たり前にその領域にアクセスしながら日々の暮らしを創造していて、あとはそれに氣づくか氣づかないかだけです。

私たちが自身の創造力に氣づかないままでいれば、あの “バグ” に翻弄され これからも意のままにならない人生をそれと氣づかず創り続けることになるでしょう。

一方、自分が人生を創造しているという情報に 仮説で構わないので心を開いて試してみれば、いまの状況からは思いも及ばない展開が待っているかもしれません。




以前は 「悟りを開く」 的に眠っている意識が覚醒すれば ものすごい変化が起こるのかと期待していましたが、実際にそんな劇的な展開を見たことはありません。

そもそも意識が変わったことさえ 最初はほとんど氣づかなかったぐらい。

ただ ふとしたはずみに 以前と違う反応をしている自分に氣づくようになり、その数がじわじわ増えるのと反比例して 心の重荷は少しずつ減っていって、やがて最近ネガ思考よりポジ思考のほうが多くなったかな? となり、そのうち意図しなくても自然と明るいイメージを思い浮かべている自分に氣づくようになった。。。。といったところでしょうか。

そんな顕在意識でキャッチできる変化の地味さとはうらはらに、“なぜか勝手に見えてくる、わかってしまう” 情報は格段に増えた氣がします。

もちろん潜在意識や無意識は知覚できないし これからもできないままでしょうが、知覚できない領域への信頼が厚くなるにつれ、現実に起きていることから 潜在意識がいま何をさせようとしているのか見当をつけられるようになってきました。

これはストップをかけられている、これはもっと内面をよく見ろということだ。。。。そんなふうに出来事の意味を読み解くことに慣れてくると、目に映る景色はこれまでと同じなのに、そこから見えるものは変わってきます。





この知覚できる領域とできない領域では、受け取る情報が真反対であることが多いようです。

形ある世界では 相反する両面のどちらか一方しか見ることができないのに、知覚できない領域は時間空間を超えて 二面を同時に感じることができるからでしょう。

今回のコロナ騒動も 五感を通せばうれしくないことばかりですが、引きの視点からは その裏側に 騒動の解決のみならず これまで世界が手をつけられないまま抱え込んできたさまざまな矛盾の解消のチャンスが潜んでいることが見てとれます。

どんなネガ事象であれ それもまた私たちの意識が起こしたことであり、そのおおもとには あの “バグ” があります。

起きた出来事は、「ここにバグがあるよ」 と示してくれる指標でもあるのです。

バグを解除したければ、その出来事にまつわる負の感情を避けずに見つめて終らせればいいのです。

負の感情も 魂レベルでいえば ぜひともこの世界で体験したかったこと、だから一度しっかり味わえば それで終わりです。

そのように知らされていなかった私たちは、ネガ感情を避け続けて 潜在意識レベルで負の上塗りを重ねてしまいましたが、それでも根氣よく取り組めば やがてはいい変化が起きることは、貴秋が身をもって実証済みです。

ただ、あまりにも深く傷ついている最中に痛みを直視しろというのは酷な話ですから、これはできる人からということのようです。

からだ全体で健康な細胞が増えるほど健康レベルも上がるように、痛みを乗り越え本来の自分を取り戻した人の割合が上がるほど 人類全体の傷も癒えるもの、全体が活氣を取り戻すに従い ダメージの大きい人も立ち直りやすい環境が整ってきます。

現在の状況も、取り組みようによっては コロナ騒ぎをただ収めるだけでなく、それ以前から社会に巣食っていた不条理や不公平を正して 例外なく全員が幸せで充実した人生を送れる世界に創り変えるチャンスとして活用することができるのです。

いまの貴秋は、それが叶った世界をありありと目の当たりにすることができます。




今回のテーマはここでおしまいとさせていただきます。

なんとか年内に終えることができて ほっとしています。

お読み下さった皆さま、ありがとうございました。









続 ・ あらゆる問題の根底に潜む お金 ・ 時間 ・ 法律にまつわる催眠を解く ~ その15

2020年12月27日 13時16分11秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私たちは誰も、自分がどんな顔や姿をしているか 知っていると思っています。

でも、ほんとうにそうでしょうか?

私たちは、自分の顔や全身像を直接自分の目で見ることはできません。

知っているつもりの顔や姿は 鏡に映ったものや写真やビデオで撮影されたもの、でも鏡の像は左右逆だし、写真やビデオの像は過去の自分でいまこの瞬間の自分じゃない。

私たちがリアルタイムで直接見ることができるのは 手足や胸から下の前面など限られた部分を限られた角度からだけ、背面や内部の臓器などはまったく見ることができないのです。

では、鏡もカメラやビデオもない大昔、人間はどのように “自分” というものを捉えていたのでしょう。

また現代の私たちも、もし目が見えなくなったり見え方が変ったりしたら “自分” というものの捉え方はどのように変るのでしょう。




もし私たちの本質が外見にあるのなら、それは事故などの損傷や、あのジル ・ ボルティ ・ テイラー博士の脳卒中体験や 「ヒューマニエンス ・ 49億年のたくらみ ~ 自由な意志 それは幻想なのか?」 で示されたような脳の機能の変化によって いくらも変り得るもの、外的要因で簡単に変えられたり損なわれたりする もろくはかないものということになってしまいます。

でも、自分という枠組みを知覚できない領域にまで押し広げるなら、“定点を持たず遍在し 無限で決して損なわれることのない自分” を感じることができるはず。

私たちは これまで自分というものを小さく狭い範囲で捉えるよう教わり続けてきたせいで、あまりにもちっぽけで無力な存在として過小評価してきたようです。

そして コロナ騒ぎをきっかけに世界丸ごと揺さぶりをかけられている今この時、誰もが真のセルフイメージと人としての尊厳を取り戻すチャンスを手にしています。




先日12月8日はジョン ・ レノン没後40年の命日でしたが、いまなお世界中で愛され歌い継がれているあの名曲 「イマジン」 の歌詞にならってちょっと想像してみましょう。

戦争や内戦による難民、自然災害などの被災者、さまざまな犯罪の犠牲者に 貧困 ・ 人的不和などで辛い家庭生活を送る人たち、心身に問題を抱え 社会に適合できない人たち、貧しさゆえに教育を受けることができず 望まぬ労働を強いられる人たち。。。。もしいま 現行のお金のシステムというものがなかったら、誰もが生きていくのに十分なものを難なく手に入れることができ、安全な生活環境を保証され、なんでも自分の好きなことしたいことに存分に打ち込み、疲れたら気兼ねなく休息をとって 心の赴くまま自由に生きてゆけるとしたら、この人たちはどう変ることができるか、そもそもこういう人たちが生まれるだろうか。

誰もがただ生きるためだけに人生の大半を費やして働かねばならないなどという苦労なしに、のびのびと生きて食べて寝て、自身の人生の物語を望むままに紡いでいける、そんな環境にあったら、どうして犯罪などに手を染める必要があるでしょう、どうして怒りやフラストレーションを他者に叩きつける必要があるでしょう、どうして周囲の顔色を伺いやりたいことを我慢する必要があるでしょう。

自然災害や病氣をすべてなくすことはできなくても、誰もが例外なく十分な補償や治療を受けられるとわかっていたら いまとはずいぶん様子が違ってくるのではないでしょうか。

もし誰一人としてしたいことができなかったり、本意でないことを強制されたり、後ろめたさを押し殺してよくないとわかっていることに手を染めたりする必要がなくなったら、世界はどのように変るか。

ジョン ・ レノンは 思いが現実を創るということをよくわかっていたのでしょうね。

貴秋はさらにもうひとつ、「想像が実現しないと感じるなら その痛みと向き合ってごらん、催眠が解けて世界が変るから」 と付け加えたいと思います。

「イマジン」 を歌う人はいまなお世界中におおぜいいるのに、それでも世界が変らないのは、想像し創造する力を あの “バグ” が奪っていると思うから。

いくら想像したところで 自分には世界を変える力なんてないと思い込まされている人がたくさんいると思うから。

でもそれは真実じゃない。

私たち全員が例外なく、その個性に見合う形で古いものを手放し よりよい新しいものを形にするアイデアや情報や実行力を持っているのです。

いまそれを思い出すことで、私たちみんなが人としての尊厳を取り戻し、国だの人種だの年齢だの性別だのの垣根を越えて協力し合って 新しい世界を創り出すことができるのです。










続 ・ あらゆる問題の根底に潜む お金 ・ 時間 ・ 法律にまつわる催眠を解く ~ その14

2020年12月25日 11時45分07秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
前の記事で使わせてもらった 「ワンチーム」 という言葉は、2019年のラグビーワールドカップ日本代表チームのスローガンから広まったもので、昨年の流行語大賞にも選ばれたのでしたね。

全員一丸となって事に当たる。。。頼もしく胸熱な光景をイメージさせるこの言葉が多くの人の心を捉えたのはわかる氣がします。

そんな 「ワンチーム」 にも、この二項対立の世界では 二通りの意味が読み取れるように思います。

ひとつは相反するものの存在を想定し それに立ち向かうために結束するという意味でのワンチーム、もうひとつは文字通り例外なく全員がひとつにまとまってのワンチーム。

前者は日常のあちこちに散見されるけれど、後者は理想に過ぎないと思われるかもしれません。

が、いまのこのコロナや経済危機や人種対立や異常氣象などの複合カタストロフを切り抜けようとする私たちに必要なのは、まさにその後者のワンチームなのです。




この二項対立世界では どんな価値観にも必ず対立する価値観が存在し、自身の価値観にそぐわないものは よくない ・ 間違いと見えるため、否定したい氣持ちが湧き起こってきます。

このとき 形ある世界の私たちは、よくない ・ 間違いと思えるものを自分の外に見つけようとします。

ホラー映画で 殺人鬼から逃げ回りながらも 相手の姿や所在を確かめずにおれない犠牲者の姿がよく描かれますが、顕在意識としての私たちは 形の見えない不安や恐れをそのまま抱えているのは耐えられないんですね。

だから、否定したいものを投影する相手を 自分の外の世界に見つけ出し、攻撃する。

しかし、否定したいものは 実は私たちの内にあるのです。

自分の価値観は 無数にある可能性の中から自身の好みで選び出したものであり、その裏には必ず相反する思想や見方がセットで潜んでいます。

ここで思い出していただきたいのが、高低 ・ 寒暖のように一見正反対の要素は、実は程度の差でしかないということ。

状況次第では 自分でも氣づかないうちにじわじわスライドしていって、はっと氣づいたら対極にいたなんてこともあり得るのです。

平和を守るために戦うとか 神の愛を謳う人が他の宗教には容赦ないとか、一見矛盾と思えるようなことがしばしば起きるのは そのため。

そんな不安定なありようを意識の奥ではわかっているからこそ 余計に自分の基準にこだわり、反するものには我慢がならないのです。




しかし。

我慢ならない、許せないと感情的になっているときの私たちは、自身の創作した物語の登場人物、つまり体験者のポジションにあります。

感情はこの体験の世界になくてはならないアイテムで、感情を覚えるからこそ 私たちは喜怒哀楽さまざまな体験にとっぷり浸り込むことができます。

が、この場合はこの感情の性質が仇となり、対極の価値観を持つ相手に反発すればするほど、私たちは俯瞰の視点を忘れ 物語の世界から抜け出せなくなります。

五感の世界には人の数だけ正義があり、誰もが認めるただひとつの絶対的答えなんていうものは存在しませんから、こうなるとどこまでも対立する二極のあいだで争いもがきながら、なぜ正しいはずの私の意見が理解されないのかと悩み続けるしかなくなります。




最近 「持続可能な社会」 という言葉をよく耳にしますが、貴秋が世界のあらゆる問題のおおもとと見なしている現行のお金のシステムは、まさにこの持続可能であった地球の循環システムを壊す元凶となりました。

大きさも内包する資源も一定の地球で 成長する一方の経済システムが続くはずはなく、コロナ騒ぎも手伝って いまや崩壊は目前です。

ここで私たちが迫られている選択は、対立の物語の内にい続けて自滅を待つか、物語を俯瞰で眺める視点を取り戻し解決策を見出すか。

言い換えれば、「顕在意識 = 自分」 という見方を手放さずこのままいくか、「知覚できない意識も含めて自分」 という人間本来のありようを取り戻し、無意識領域から得た答を持ち寄って 力を合わせ事に当たるか、ということ。

もし後者を選ぶなら、現行のお金のシステムについてまわる 「権力者と一般大衆、富を持つ者と持たざる者」 という対立概念も 必然的に手放すことになります。

対立の感情を残したまま 顕在意識の外に出ることはできないのですから。

顕在意識だけのあり方から一歩外に出れば、いま権力を握り世界の富を欲しいままにする人たちとて すべてであるひとつの意識の一部であり 体験するためにこの世界にやってきた魂であることに変わりなく、また一見非情で強欲に見える彼らだって 庶民同様 その裏に真反対の性質を含み持っていることを きっと思い出すはず。

折りしもきょうはクリスマス、対立概念を手放し すべての人間に共通の本質を見出して、愛と寛容の精神から世界が真のワンチームとなり問題解決を図れるかどうか、天は私たちに問うているのかもしれません。











続 ・ あらゆる問題の根底に潜む お金 ・ 時間 ・ 法律にまつわる催眠を解く ~ その13

2020年12月23日 11時00分23秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
以前からこのブログをお読みくださっている方はご存知のように、貴秋は理数系が大の苦手です。

数学、物理、化学等の授業にまつわる記憶は いまでも悪夢以外のなにものでもありません。

そんな貴秋が この歳になってにわかに量子物理学や数学の世界に興味を持つようになったのは、五感を超えた領域の探究過程で なぜか導かれたから。

そして知ったのです、言葉も五感も及ばず時間も空間も存在しない領域のことを、仏教では空 (くう) と呼び、数学ではゼロと呼び、量子物理学では量子の波と呼び、脳科学や精神医学では無意識領域と呼ぶ、呼び方はそれぞれ違うけれど、指し示すものはひとつなのだと。

さらに もとはひとつなのに無数の捉え方があるのにも意味があり、偏った視点しか持たない個の私たちは めいめい見えるものを持ち寄り互いの死角を補い合ってこそ 真の答えにたどり着けるのだということもわかってきました。




貴秋がまだ仮説であった感覚フォーカスの実証実験に勤しんでいたころ、たびたび心細い思いをしたものでした。

形を持たずつかみどころのない領域に打ち込んでいて ふと五感の世界に意識が戻ると、自分のしていることが狂氣の沙汰に思えて猛烈な不安に襲われるのです。

そんなとき力をくれたのが、量子物理学の二重スリット実験ジル ・ ボルティ ・ テイラー博士の 「奇跡の脳体験」 など 理数系の世界を通して見える五感超え領域の情報でした。

自分が探究している世界は 決して幻覚でも妄想でもない、理論や実証を重んじる理数系の人たちからも認知されているのだから、と思うことが、大きな心の支えとなったのです。

以来 貴秋のアンテナはこれまで苦手だった分野にも広がっていったのですが、やがて自分とは逆に、理論系の学問に打ち込む人たちが 理屈を超えたものの見方を受け入れることも必要なんだと思うようになりました。




つい先日見たBSハイビジョン特集の 「数学者はキノコ狩りの夢を見る ~ ポアンカレ予想 ・ 100年の格闘 ~ 」 は、宇宙の形を問う数学上の難問 「ポアンカレ予想」 を見事証明したロシアの数学者グリゴリー・ペレリマンが その功績を高く評価されながらなぜか姿を消してしまったという話をもとに、世紀の難問に全力で取り組む天才数学者たちの奮闘の軌跡を描いた番組。

見ていて感じたのは、言葉も形も及ばない領域を探究する真摯で懸命な努力への共感と、「でも言葉や形で証明するのは どこかの時点で諦めるしかないんだよね」 という思いでした。

五感を超えた領域に迫りたい氣持ちはよくわかるのですが、言葉や形を超えるものを言葉や形で完全に把握するのは土台無理な話、深入りし過ぎると 頭の中だけが現実世界から分離して 人としてのバランスを保てなくなるのもわかる氣がするのです。

それを知っている禅のような世界は、言葉や理屈で解き明かそうとはせず、人々の心がおのずとそれを感じ取れるよう言葉を介して導こうとするのですね。

前回お話ししたように 私たちひとりひとりが自己実現し かつ自立分散制御システムで協力し合っていこうとするなら、言葉を超えた領域を感じることと 感じたことを言葉に置き換え形にすること、この両輪のどちらもが大切であり、どちらか一方だけではこの世界のさまざまな課題を完全にクリアすることはできないと氣づく必要があるように思います。



貴秋の仮説では、宇宙のあらゆるところに 過去も未来も含め すべての答えや情報が形を持たぬまま遍在していると想像されます。

そんな答えや情報が形になるのは、求める側の受け取り体勢が整ったとき。

雷が条件のもっとも揃ったところに落ちるように、こちらのエネルギー周波数が求める答えや情報のそれと合致したとき ひらめきが起こるのだと思います。

私たちはみな独自の視点を持っていて 関心のありどころも求める答えや情報も人それぞれ、数学者は難解な数式を解きたいと望み、職人は新しい技術を追求し、家庭の台所番は新メニュー開発のヒントを求める。

そんなふうに立場や興味の対象はばらばらでも、答えの出所がひとつなら それらが必要に応じて調和しないはずはありません。

昨年のラグビーワールドカップで 「ワンチーム」 という言葉が流行りましたが、未曾有の困難に直面している今こそ、形を持つ世界と持たない世界が分かれ分かれでいる場合ではないと氣づいて、世界中のあらゆる分野からそれぞれが得た智恵を持ち寄り ワンチームで事に当たる必要があると思うのです。











続 ・ あらゆる問題の根底に潜む お金 ・ 時間 ・ 法律にまつわる催眠を解く ~ その12

2020年12月21日 09時38分42秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
「その7」 で東京工業大学名誉教授の森政弘先生の造られたロボット 「みつめむれつくり」 についてお話ししましたが、この「自立分散制御システム」 は 私たち人間の世界にも活かせると思うのです。

というか、もともと私たちは 「自立分散制御システム」 の下で生きていたはず。。。恐れから生じた 「身の安全を図ろうとする欲求」 に押されて 力のあるものが力のないものを支配する構図が生まれ、自然界の循環システムが滞り始めるまでは。

これが本来の私たちから遠ざかる 「行き」 の道なら、いまは本来の「自立分散制御システム」 に立ち戻る 「かえり」 の道。

そのために必要なのが、顕在意識 = 自分 というセルフイメージから一歩踏み出すことです。




個の私たちひとりひとりには、唯一無二の個性が備わっています。

顕在意識オンリーでの強引な統一は、この個性を押し殺すことを強います。

いまの社会は基本ピラミッド構造で成り立っていて、トップがやろうと決めたことを 手足となる実行部隊が支えて実現させる仕組みになっていることが多いですが、この場合手足の人々は 自身の好みや得意技とは関係なく 上から求められたことをこなさねばなりません。

が、潜在意識を仲立ちに 集合無意識から情報を受け取れるようになると、決まったリーダーなしに ひとりひとりが自身の個性を最大限に発揮して独自に活動し、それが必要に応じておのずと調和するようなことが可能になります。

大きな道路でたくさんの車に混じって運転しているとき、それぞれの車の性能や状態も 目指す目的地も ドライバーの氣分や体調もまちまちですが、ルールに従い流れに沿って安全運転に務めるという一点で結束することで、みなが無事めいめいの目的を果たすことができる。

同じように、職人 ・ 学者 ・ 家庭人 ・ アーティスト ・ 政治家 ・ 冒険家 ・ ビジネスマン ・ 学生。。。。と立場も生き方も目標もてんでんばらばらな私たちが、宇宙の叡智に従い いのちの流れに沿って生きるという一点で心をひとつにできるなら、これ以上の犠牲を出すことなく 円滑な豊かさの巡りを滞らせる現行のお金のシステムから脱し、誰もが望む生き方を曲げることなく また他の生物を脅かすこともなく、めいめい曇りのない心で充実した人生を送ることができるのです。

これこそが 「自立分散制御システム」 によって実現される新しい生き方と、そこから生まれるアフターコロナの新しい世界の、もっとも好ましいありかたなのではないかと 貴秋は思っています。

そのためには、まずは私たちが 本来の自分ではないものに氣づいて手放し、知覚できない領域も含めた本来の自分に戻って自信をつけ自立することです。




「ヒューマニエンス ・ 49億年のたくらみ ~ 自由な意志 それは幻想なのか?」 が教えてくれたように、私たちの顕在意識は 外からの操作が可能で、私たちが自分の意志で選び取ったと思っていることも 果たしてほんとうにそうなのか怪しくなってきます。

そして実のところ、私たちはそのウソやごまかしの部分に 薄々でも氣づいているんですね。

行きの世では見て見ぬふりで通せたことも いまのかえりの世では隠しおおせなくなってきた、それに輪をかけているのが 今回のコロナ騒ぎに端を発した不安定な世のありさまです。

庶民の手には入らない薬を使える人や 悠々自適のステイホーム生活を送れる人もいれば、何の落ち度もないのに 職を失ったり学校に行けなくなったりと我慢を強いられるばかりか 食べる物にも事欠く人もいる、ああしろこうしろと指示を出しながら自分は守らない人もいれば、マスク着用だの業務自粛だのを守りたくなくても守らざるを得ない人もいる。。。。すべての人の命の価値も自由の度合いも本来等しく同じはずなのに、いまの私たちの世界はそうじゃない。

そうわかっていても 自分の力ではなにも変えることができない、いくら考えても苦しくなるだけ、だから考えたくない・・・・もしそのように思っておられるなら、ご自身はほんとうにそんなに無力な存在なのかどうか いま一度内に問うてみることをお勧めします。

顕在意識に問えば 答えはYESでしょうが、言葉を止めて頭を休め 潜在意識にアクセスできたとき どんな答が飛び込んでくるかは 予測がつくものではありません。

知覚できない領域からやってくる答は、いまの意識の延長線上にはないのですから。











続 ・ あらゆる問題の根底に潜む お金 ・ 時間 ・ 法律にまつわる催眠を解く ~ その11

2020年12月19日 15時02分08秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
「ヒューマニエンス ~ 」 では 人の意識の知覚される部分とされない部分について 氷山をモデルに説明していましたが、無意識部分については、あの図では描かれていませんでしたが さらに下の方ではすべての意識がつながってひとつになっていると思われ、その領域を集合無意識などと呼ぶようです。

人の手になぞらえれば、氷山の上部は指と同じように別々に分かれているが 、底の方は 手のひらと同じくひと続き、ということでしょうか。

私たちはそれぞれが個性を持つばらばらの個人であり、同時に “すべてであるひとつ” の意識に属してもいるのですね。




「神との対話」 と同じく貴秋が旅に外出に持ち歩き とことん読み込んでいた本、パウロ ・ コエーリョ著 「アルケミスト」 に、“マクトゥーブ” というアラビア語が出てきます。

「それは書かれている」 という意味だそうですが、貴秋の中では この “マクトゥーブ” とアカシックレコードという言葉が重なります。

アカシックレコードとは 元始からのすべての事象、想念、感情が記録されているという世界記憶の概念のこと (Wikipediaより) で、「宇宙の図書館」 「高次元のホストコンピューター」 などとも称されるようです。




量子は 形を持つ 「粒子」 と形を持たない 「波」 の二つの性質を持ち、形なきエネルギーの波に私たちの意図や感情が作用することで 形ある粒子に変わり、意図した物質世界を創り出すと言われています。

この波動エネルギーが遍在する領域は 何にでも変わり得る可能性の域で、そのあらゆる可能性が “すでに書かれている” のがアカシックレコードなのだと貴秋はイメージしています。

「神との対話」 にも 「あらゆる可能性は事実として、完了した出来事として存在する。すべてはすでに起こっている」 という話が出てきますが、ここで神が例えに使うのがコンピューターゲーム。

「コンピューターが遊び手のあらゆる操作にどう応じればいいか知っているのは、事前に想定しうるすべての動きと適切な対応がCD-ROMに読み込ませてあるからだ」 と説明する神は、さらに 「宇宙の車輪をCD-ROMだと想像すれば、すべてのエンディングはすでに存在していて、宇宙はただあなた方が今度はどの動きを選択するかを待っている」 とも言われるのですが、そのCD-ROMに当たるのがアカシックレコードだとすると、個の私たちがまっさらなオリジナルだと思っているどんな思いつきも、実はすでに宇宙に読み込まれている情報をダウンロードしたに過ぎないことになる、それが “マクトゥーブ” 、すなわち 「 (なにをどう思いつこうと) それは (すでに) 書かれている」 ということなのだと貴秋は思っています。

で、この過去も未来もひっくるめてあらゆる情報が網羅されている 「高次元のホストコンピューター」 が存在する領域こそ、あのひと続きになった氷山の底 ・ 集合無意識だと思うのですね。

ですから、この集合無意識から受け取る答えに沿って事を運ぶ限り、解消不能な対立や意見の不一致などということはあり得ないはずなのです。

「その7」 の終わりに書いたように 人類が力を合わせて現在のピンチを切り抜けられるかどうかのカギが この 「おおもとの意識と同調し 情報を得て動けるかどうか」 にあると貴秋が確信しているのは、このゆえんです。




「神との対話」 の著者 ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ氏は、ご自身のキリスト教的信念に真っ向から反する文言を書き留めるに及んでようやっと 対話の相手が自身の妄想でも思い込みでもなく神であることを信じられるようになったと書いておられましたが、貴秋もずいぶんと思いがけないものをいろいろと見せられることになりました。

前の 「あらゆる問題の根底に潜む お金 ・ 時間 ・ 法律にまつわる催眠を解く ~ その1~10」 に書いたような世界観は 身につけようと思ってつけたのではなく、古くからの思い込みやわだかまりを手放すにつれて なぜか向こうからひらめきの形をとって勝手に脳内に入り込んできたのです。

そんな体験を重ねるうち 貴秋は確信するようになりました、「顕在意識を駆使してどれほど調べたり実験したりしても得られない答えや情報を、集合無意識からは得ることができる」 と。

たとえ今回のコロナ騒ぎやそこから派生した経済的苦境 ・ 人種対立のような世界規模の問題であっても、アカシックレコードに問うて得られない答などあろうはずがない、いまこの瞬間も貴秋はそう信じて疑いません。











続 ・ あらゆる問題の根底に潜む お金 ・ 時間 ・ 法律にまつわる催眠を解く ~ その10

2020年12月14日 10時39分56秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
「ヒューマニエンス ・ 49億年のたくらみ ~ 自由な意志 それは幻想なのか?」 で いとうせいこうさんがいみじくも言われたように、知覚できない意志の存在を知るということは 「自分とはなにか?」 という問いに直結するんですね。

知覚できる個の意識、すなわち顕在意識だけを自分とすれば、知覚できない意志の存在は異様に思える。

でも、その知覚できない意志も含めてすべてが 「自分」 だとしたら、自分というものの定義自体が変ってくるわけです。

五感を通して知覚できないものは、たとえ科学的に存在が証明されていても 自分にとってはないのと同じこと。。。と考えれば、「その8」 や 「その9」 でご紹介した実験結果は落ち着きの悪いものになりそうですが、実際には 私たちは 氣づいていようといまいと すでに知覚できない領域から個を超えた情報を引っ張り出して、毎日の生活に役立てているのです。




顕在意識 = 自分 だと思っていると、過去の体験から論理的に導き出す以外に知識や情報を得るなど思いもよりませんが、しかし世の中には時として ぶっ飛んだことを思いつく人がいます。

衛星写真もロケットもない時代に地球は丸いと言い出したり、翼もない身で空を飛ぶことを夢見たり、誰もが呆れ顔で耳を貸さない、いやそれどころかヘタをすれば狂人扱い ・ 村八分 ・ 処罰などの憂き目に遭いかねないとわかっていても 突拍子もない思いつきをどうしても捨てられず追求し続けた酔狂な先人たち。。。彼らが常識だの社会通念だのに屈せず信念を貫き通してくれなかったら、いまの私たちのこの豊かで便利な生活もないわけです。

いや そこまで大きなことでなくとも、夕べのおかずのリサイクルアイデアでも新規事業の開拓でも便利な道具の発明でも、私たちは日常の多くの場面で それまで自分の情報圏内になかった思いつきを 顕在意識の守備範囲を超えたところから得て 日々の暮らしに役立てている。

そう思えば、顕在意識が行動を決める前から脳の活動が始まっていても、理詰めでものを考える自分だけではない、知覚しないところで着々とことを進めている自分だっているんだと認識を改めても構わないのではないでしょうか。




実のところ、私たちが自身の意図と違うものにコントロールされていると感じるのは、物事がうまくいってないときではないかと思います。

幸せになるつもりで進学 ・ 就職 ・ 結婚したのに、事は思い通りに進まず 思惑とかけ離れたほうにどんどん運ばれていってしまう。。。。そんなとき、自分の望みに耳を貸さず立ちはだかる壁のような存在を感じるのではないでしょうか。

そしてその自分をはるかに超える強大な力の持ち主を神とあがめ恐れるようになった。

自分を操る力を自分の外に置く、自己の分裂の始まりです。

そしていま、私たちは分かれた自己を再びひとつに戻す時期にさしかかっている。

知覚できない力を恐れるのでも強引に統制しようとするのでもなく、その性質や役割を理解し 協力し合うために。




知覚できない意志が 私たちを望みとかけ離れたほうへ連れてゆくのは、意識の知覚できない領域に生じる “バグ” のためです。

それが、私たちが氣づかぬうちに意識に入り込み いつのまにか定着している あの 「三つ子の魂百まで」 のもと。

周囲の大人と意識を共有することで 未完の脳に言葉を介さずコピーされ、無条件に採用されて自身のものとして働き続ける負の観念、それが “バグ” の正体です。

でもそれは真の自分とは別物の いわば幻ですから、きちんと向き合い直視すれば やがて消えてゆきます。

こうして 遺跡以外の部分を削り落とすことで遺跡が掘り出されるように 次第に姿を現した本来の自分は、すでに統合され 形なき領域の知恵を形ある領域で行動する力に変えることのできる自分です。

そして、この形ないものを形あるものに置き換える役目を果たしているのが、私たちの脳なんですね。




これまでの私たちは 知覚できる世界がすべてと思い込んできましたから、脳の使い道も 知覚できる領域 = 顕在意識の守備範囲内に限られていました。

でも 本来あるべき姿に戻った私たちは、知覚できない領域 すなわち潜在意識や無意識から送られる情報をひらめきとして受け取り、言葉に変換してアイデアとして活用することができるのです。

真の自分に目覚めた私たちは、今度こそその知恵や力を 自分たちを悩ませ苦しめるためではなく 自分たちを幸せにするために使うことができます。











続 ・ あらゆる問題の根底に潜む お金 ・ 時間 ・ 法律にまつわる催眠を解く ~ その9

2020年12月11日 13時18分15秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
前回に引き続き 「ヒューマニエンス ・ 49億年のたくらみ ~ 自由な意志 それは幻想なのか?」 から。

ご紹介の順序が逆になりましたが、番組で最初に出てくる実験は、ベンジャミン ・ リベットというアメリカの生理学者が1983年に行なったもの。

番組内の再現実験で 被験者は好きなタイミングでキーボードのエンターキーを押すように言われますが、このとき被験者の前のモニターには0、5秒間隔でアルファベットがランダムに映し出されており、被験者はキーを押そうと決めたときに現れていた文字をその都度申告する、これを何度も繰り返します。

同時に別室では被験者の脳波が測定されており、その複数人分のデータを解析して平均的な脳波の動きを割り出したグラフと 被験者たちの動きのタイミングを照らし合わせると、被験者がキーを押そうと決断する1~2秒前にすでに脳活動が発生し 高まりを見せていることがわかったのです。

この実験は 以来37年間複数の科学者によって検証されており、結果はほぼ同じだそう。

ならば 私たちが動こうと決めるより早く脳に活動を起こさせているのはいったい何なのか、ということになりますが、貴秋はこのグラフの謎の立ち上がり部分、体験的にわかる氣がします。




貴秋が日ごろ知覚しているのとは別の意識が自分の中にあると初めて明確に感じたのは、2001年に住み慣れた奈良を離れ 和歌山に移ることを決めたとき。

いまと違って未知の土地や人に極度に臆病だった貴秋に とてもじゃないがそんな決断ができるはずもなく、自分の好みや感情とは別の何かに強く促される形で 清水の舞台から飛び降りる氣持ちで家を出ることになったのです。

その二年ほど後 車中泊の旅がマイブームとなり、地図をお供にあちこち走り回る中で、再びこの “何か” の存在を感知することに。

機械オンチの貴秋はカーナビではなくペーパー地図の愛用者なのに 「地図の読めない女」 でもあるおかげで、道を間違えるのはしょっちゅう。

そんな度重なる 「あ~あ」 の中で あるとき氣づいたのです、正しい道と思い込んでいるのとは別の道に ふと氣を惹かれる瞬間があることに。

そして後から、その氣を惹かれた道が 実は正しい道だったとわかります。

これを繰り返すうち、この 「ふと」 という感覚がだんだん掴めるようになり、自分の判断よりも 「ふと」 のほうを選ぶこともしばしば、その情報の確かさに「ふと」 への信頼が次第に増していきました。

そして 2005年に伊勢に行ったときのこと。

当初の目的地は能登半島で これをぐるっと一周し、琵琶湖畔まで戻って とりあえずは目についた道の駅で一泊することに決め、休む前に銭湯を探そうと走っている最中 ふと目にした 「伊勢○○km」 の標識に、なぜか突然自我とは別に 伊勢に行こうという意志が湧き上がり、「さっさと道の駅に戻ろうよ~」 と訴える自我の声をものともせず 伊勢へと車を向かわせたのです。

えー なんでなんで!? と騒ぐ自我の声は大きくうるさいのに、その意志は微笑む女神か慈母のように優しく静かで穏やか、でもやかましい自我にまるで影響されることなく淡々と意を通し、そしてなぜかからだは自我ではなくそちらに従う。

この静かな意志は 憑依でも他者のコントロールでもなく自分のものだとわかりますが、それでいてその思い付きや意図は 自我のそれとは明らかに違っています。

和歌山移住の件以来 個の自分よりもっと大きな力があることは認めていましたが、自我と 自我を超えて自分を動かす意志、別々の二つの意識の存在を同時にあれほどはっきり感じたのは初めてです。

以来、この不思議な意識と 日常のあちこちで出くわすようになっていきました。




番組に話を戻すと、トークパートナーのいとうせいこうさんが、小説の執筆で 冒頭に生じた矛盾をそのままに話をどんどん展開させ、自分でも結末がどうなるのかわからないまま書き進めていたら、不意のひらめきで解決がつき 無事書き終えることができたというような話をされていました。

いとうさんは、このひらめきがきっと起こるという信頼のもと 執筆を続けながらゆったり待ち構えておられるようでしたが、貴秋も どう解決したものかわからない問題をノートに書き出し、あとは天に丸投げしてしばらく経つと 不意に答が下りてくるという体験を いく度となくしています。

こういう個の意志や思考とは別に 不意に答を投下してくる “何か” 、自我とは別に常に自分の中にあって ぐらつきも傷つきも間違いもしない “何か” 、これこそあのリベットさんの実験で 最初に脳を動かし始めた意志だと 貴秋は思うのです。

この “何か” は 自我とは違い、時間空間の縛りを超えて知恵や情報をもたらすことができるらしい。

この “何か” の存在を思い出し 信頼してその力を使うことで、私たちはこれまでの人間の限界と考えられてきたものを突破することができそうです。













続 ・ あらゆる問題の根底に潜む お金 ・ 時間 ・ 法律にまつわる催眠を解く ~ その8

2020年12月09日 21時25分14秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
このところやたら不安を煽るような報道等はシャットアウトして、一週間分のテレビ番組予定表から 氣を惹かれた番組のみ予約録画し 時間のあるときに見ていますが、これが当たりが多い。

当たりとは タイムリーな情報が得られたり内側から刺激されたりするような番組のことで、あのユヴァル ・ ノア ・ ハラリ氏や森政弘先生の番組などがそうですが、今回またひとつ大当たりに出くわしました。

BSプレミアム 「ヒューマニエンス ・ 49億年のたくらみ」 の 「自由な意志 それは幻想なのか?」

私たち人間は どんな選択も決定も行動も自分の自由意志で行なっていると思っているが、脳科学の世界から見れば それは錯覚であり幻想であるというお話です。




番組内では脳にまつわるいくつかの実験が紹介されていましたが、なかでも人間の意志が無意識によって簡単に曲げられてしまうことを示した実験はインパクトがありました。

ヘッドホンのような特殊な装置をつけた被験者は、地面にまっすぐに引かれた赤い線に沿って歩くよう指示されます。

普通ならなんでもない簡単な動作ですが、ここで当人も氣づかないほどの微弱な電気刺激を装置に流されただけで 線を大きく右に左に外れていってしまうのです。

これは 前庭という平衡感覚を司る感覚器に弱電流が流れたことで 重力の方向が斜めに変わったように伝えられ、重心が斜めになったと感じた被験者が倒れないよう踏ん張ったため横にそれるように動いてしまったのだとか。

ひとつの塊に見える私たちの脳は 実はそれぞれ働きの異なる何百ものパーツに分かれていて、呼吸や心臓の拍動など生命維持に必要な働きは いちいち意識して動かそうとしなくても 自動化されて無意識で処理されており、この無意識の領域は私たちの自由意志の管轄外。

意識全体のうち 私たちが知覚できる部分は1割程度に過ぎず、あとの9割は知覚できない無意識領域なので、圧倒的多数の無意識によって 私たちの自由意志は簡単にくつがえされ得るというのです。




また別の実験では、さらに厄介な脳の特徴が露わになります。

男性被験者に二枚の女性の写真を見せ、好みのタイプのほうを選ばせます。

これを何度も繰り返しながら ときどきなぜそちらを選んだのか理由を尋ね、答えてもらいます。

実はこれには仕掛けがあって 写真を提示する実験者はプロのマジシャン、理由を尋ねる際に巧みに写真をすり替え 選んでないほうの写真を見せているのですが、被験者は示された写真にしっかり目をやっているにも関わらず 選んでないほうを見せられているとはまったく氣づかず 堂々と理由を答え、あとから種を明かされると信じられないと困惑の表情を浮かべます。

二枚の写真は目鼻立ちや髪型などの特徴は似せてありますが、並べれば違いはわかるのに、なぜかほとんどの被験者がこういう結果になってしまう。

これは脳の後付け再構成といわれる現象で、脳が自分の解釈を書き換えて 自分が選択したように思い込ませているということ。

こういう自分にとって価値があるかないかの判断は 側坐核という領域で無意識に行なわれ、理由は後付けなのだが、本人は自分の意志で決めたと思いたいので 「これこれこういう理由で自分が決めたんだ」 と思い込む、これが私たちの脳の仕組みなのだそうです。




私たちは 日常のさまざまな場面において、自分の意志で決断を下し行動することで 人生をコントロールしていると思っています。

が、私たちが知覚できるのは 全意識のたった10%に過ぎず、そのわずかな領域さえ外部から操作誘導されてあっさり手綱を奪われる可能性があるのですね。

貴秋はさらにここに、あの 「三つ子の魂百まで」 現象も加えたいと思います。

脳が未完で言葉を持たない幼児期に無条件に意識の奥深く入り込んで居座った他者の観念が、それと氣づかぬまま自分の意志としてその後の人生を左右し続けるという現象。

こう見てくると、自分の力で人生を切り回していると信じ込んでいる私たちの脳内イメージと 実際に起きていることのあいだに いったいどれほどの乖離があるのかと考えさせられてしまいます。

とりわけいまのようにウイルスの蔓延やら世界規模の経済危機やら桁外れの自然災害やらの複合カタストロフの時代、このような危なっかしいクセを持つ脳をどのように使って 私たちは生き抜いていけばいいのでしょう。

貴秋は その手がかりも番組内に見出せたように思います。