毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

う~ん。。。

2014年06月30日 12時22分29秒 | 自然


きのう漬けた梅、早くも水分がどんどん上がってきています♪

よく熟した梅は、やっぱり安心♪

そばを通るたび 容器の中をのぞき込んでは にこにこ顔の貴秋です(*^^*)




が、ひとつ問題が。

去年漬けた分の梅干しなんですが、一部固いのが混じっているようで。。。

おそらく 昨夏の不順な空模様のせいです。

いくら山間部は天氣が変わりやすいといっても、一点にわかにかき曇り、ぐらいのことなら、絶えず空を注視していれば 先手が打てます。

でもね、カンカン照りのまま しれっと「キツネの嫁入り」状態になっちゃったりするのですよ。。。それも 一日や二日のことでなく、しかも日に何度も (T_T)

どう防げと?

だいたいそういうおかしなことになるのは 本来一番日差しが強いはずの午後の時間帯なので、昼食が済むと 玄関の上がりかまちに腰を下ろし、いつでも飛び出せるよう サンダルつっかけた状態で 本など読みながらも 絶えずチラチラ表に目をやり、神経はいつも梅をずらりと並べた盆ザルに(と あと洗濯物にも)注がれている、という、ストレスの多い土用干しが 10日ほども続いたわけです。

おまけに この「キツネの嫁入り」、夜にも起こることがあるのです (^◇^;)

満天の星空の下、突然細かい雨が 音もなく・・・って、こんなの たまたま外に出てでもいない限り、見えも聞こえもしないではありませんか

という次第で、空模様に神経とがらせっぱなしの 連日の緊張に耐えかねて、昨年はついに夜干しはあきらめたんですね。

そんな変則的な干し方のせいで、干し上がりにムラがあったのかなぁ



このままというのはなんだか口惜しいし、固いのだけ寄り出して、今年の分と一緒にもう一度干してみようかなぁ。

そして、今年は徹夜で 夜通し表に陣取ってでも 夜干しを敢行しよう

この辺は、真夏でも 明け方はタオルぐらいかけてないと 寒くて目が覚めるぐらい 昼夜の寒暖差が大きいので、夜干しにはうってつけなんですが、晴れた夜空のゲリラ雨なんて、からだ張って見張ってでもいなければ 氣づきようがありません (- -;)

それもこれも、美味しい梅干しを完成させるためだ、うんうん





それにつけても、ここ数年の天候のおかしさ、不安定さは、やはり氣がかりです。

和歌山で家を借りて住むようになって 10年近く経ちますが、最初のころは 土用干しにここまで苦労することなんてなかったもの。

今年は 冬の積雪も尋常じゃなかったし、梅雨の晴れ間の氣温の上昇も半端ない。

梅雨が明けたら どうなるのかなぁ。。。

どうか からりと夏らしい 健やかな夏になりますように、と祈る氣持ちです。





















みんな大事♪

2014年06月29日 07時22分28秒 | ふと思うこと


私、長いこと 思い違いしていたんですね。

自分は、視野が狭く なにかと不自由な三次元世界から より高次の世界を目指している。

三次元世界は 生まれたときから当たり前にそこにあるけれど、高次の世界は、その存在を知って そこに行こうという意思を持ち 努力しなければたどりつけない。

だから、高次の世界は 三次元よりすごいところなんだ、そして、より高次にアクセスできる人ほどすごいんだ、って。



(*・・*)



今思うと、すっごく恥ずかしい。。。。



たしかに たゆみなく努力したとは思うし、そんな自分を「いっしょうけんめいやったよね」「どんなに苦しいときも あきらめないでくれてありがとう」ってねぎらう氣持ちや ひそかな自信みたいなものもある。

でも、そこに優劣という物差しを持ち込んでしまったおかげで 見誤っていた部分も 大いにある(- -;)



まあ・・・ね、カン違いしちゃったのも仕方ないかって思うところもあるんです。

五感の世界しか知らなかったころのことを思えば たしかに不自由でつらいことが多かったし、五感を超えた世界に目を開かれるほど 明るい氣持ちになれて 生きやすくなったのも 確かだから、こっちのほうが ダンゼンいいじゃない~ って。

で、三次元 < 高次 っていう図式が なんとなく頭の中にできてしまったのだけれど。



一時期、この目に見えるからだを持った自分を すごくないがしろにしていたときがあったんですね。

もっともっと楽になりたい、本来の自分に近づきたい、戻りたい。

そんな氣持ちを突き詰めると、この肉体という枠組みさえ 自分を縛り 限界を押しつける 疎ましいものに思えて、こんな形 さっさと手放してしまえればいいのに、というところまで




でも、あるときふと思ったんです。

いくら いろいろなものが見通せるようになっても、それを体験できなきゃ つまらないな、って。

たとえ 神の視座に戻れるとしても、その結果は この三次元のからだを持つ自分を通して味わいたいな、って。




ん?あれれ?

ちょっと待ったぁ~


それって、私たちが “大いなるひとつ” であったときに感じてたこと そのまんまじゃない?




そうでした。

もともと 完璧な存在だったんですよね、私たちみんな。

それが、自分の素晴らしさを体験的に知りたくて、わざわざ不自由な世界を創って 小さく分けた分身たちを生まれさせた。

それが 今の私たちなんですね。

今いるここは、自分たちが来たくて来た世界。

なのに、それを忘れて、今生きている、生かされている この三次元の場を 劣ったもの扱いしたところで つまずいちゃったんだね(^^ゞ

。。。。と氣づいたところから イメージ修正。




この三次元世界で生きる私たちは、植物の 地上に見えている部分。

五感を超えた世界は、根が伸びている 地下の見えないところ。

日々「生きてるな~♪」って体験をするのは 地上にある このからだを通してだけれど、それを支えているのは 地中の見えないところに のびのび広がる根っこ。

見えないけれど、根っこが元氣で よく育って 養分をしっかり吸収してくれるからこそ、地上の部分も 生き生きと葉を伸ばし、花を咲かせ、実を結ぶんだよね

そう、どっちが上とか特別とかっていうことじゃなくて、どちらも大事なんだ、助け合っているんだ。

私が 見えないところで いろんなことに氣づかせてもらって 心が軽く明るくなっていくことで、ご飯が美味しく食べられたり、漬物がうまく漬かったり、お散歩が楽しかったり、と Happyな日常が過ごせて、そこからまた もっと見えない世界を探求しようっていう意欲が 湧いて来るんだ。

毎日の暮らしを楽しむこと、自分の内側をじっくり見つめること、どちらも同じように大切で、どちらも私の生きる喜びなんだ (*^ー^*)




と思えたら、それまで 知らず知らずのうちに「本来の自分に近づきたいなら もっとがんばらなきゃ」って、「~ねばならない」が入り込んでいたことに ふと氣づき、そのがんばり もうや~めた、ということに。

この力の抜け具合が、「ありのままの自分を受け入れる」っていうところと 重なっていったんですね




すっかり忘れてたけど、この世は “リーラ”、神々の戯れ・遊び場なんだもの♪

「眉間にシワ寄せて修行」みたいなのは、もういいよね

せっかく生まれてくるチャンスをもらったんだもの、不自由な部分もひっくるめて うんと楽しめばいいよね





夕べのうちにアップできるかと思っていたこの話、寝落ちしてしまって けさになりました

夜中は雨が降っていたけれど、今は 青空がのぞいて やわらかな日ざしに包まれ、清々しいお天氣。

きょうはこれから、お友だちにもらった 無農薬の梅を 梅干しに漬け込みます♪

見えない世界に支えられて、きょうもいい日、決まり~ \(^o^)/






















メッセージ

2014年06月28日 08時01分10秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


あれはたしか 中学2年生のときのこと。

どういう話の流れだったのか忘れましたが、父が突然 こんな話をしてくれたのです。




1次元の生き物は、直線の世界しか知らないんだ。

だから 直線上で 左右に動くことしかできない。


2次元になると、今度は 直線に奥行きが加わって 面の世界になる。

だから、面の中なら どの方向でも自由に動き回ることができる。

だが、高さというものは知らない。


そこへさらに 高さが加わった 立体の世界が 3次元。

われわれの住む世界だ。


1次元の生物には、2次元の生物の動きが 理解できない。

2次元の生物には、3次元の生物の動きが 理解できない。

自分の認識を外れた 奥行きとか高さとかいうものがわからないから、そこを動くということがどういうことなのか わからないし、それをやってのける相手の動きが ありえないこととしか思えない。

それと同じように われわれも、4次元以上の世界の生物の動きが 理解できないんだ。


たとえば、目の前の相手が突然消えて、次の瞬間離れたところに立ってたりしたら 信じられないだろう。

ありえないと思うだろう。

1次元の生物から見た2次元、2次元の生物から見た3次元というのは、そのようなものだ。

そして、4次元以上の世界が もしあるとしたら、われわれの目にも それは わけのわからない 信じがたい 不思議な世界に見えるはずだ。




あのとき、なぜ父が唐突に 理数系の苦手な娘に そんな話をしたのかわかりません。

ブルーバックスとか よく買って読んでいたから、たまたま自分が感銘を受けたところを 話さずにいられなかっただけなのかもしれないけれども。

今尋ねても、そんな話をしたことすら 覚えていないんじゃないかなぁ




ただ、なぜか あのときの話には インパクトを感じたのです。

今でも こうやって記憶しているぐらいだもの。

後日 友だちと下校する道すがら、なぜか無性に その話をしたくなって とつとつと受け売りしたのを 覚えています。

快く聞いてくれたけれど、彼女も なんでそんな話を聞かされているのか わからなかったんじゃないかな (^_^;)




時を経て 今。

ブログでは「高次の世界」などとしょっちゅう書いていますが、じゃあ 高次だの多次元だのってどんなものか ちゃんとわかっているのかと言われたら、理論的には まるでわかりません

わからないんだけれど。。。でも以前には考えられなかったような 新たな視点がどんどん育っているのも またほんとうのこと。




五感でがっちりつかみ 実証できる 確かな情報しか信じなかった私が、「直感」などというものに 自分をすっかりゆだねて、保証も確信もない わけのわからない世界に ぐんぐん足を踏み入れている。

五感を超えた感覚だの パラレルワールドだの 高次の視点だの 多重露出だの、そんな世界に生きる日がこようとは、あの話を聞かされた中2のころには 思いもよらなかった。

でも・・・・今思うと、あのエピソードもやはり きょうに至る伏線・布石だったんだなぁと なんとなく思うのです。

時間は一直線、人間現世がすべて、死んだらそれでおしまい、と固く信じている父、まさか自分がそんな伏線の担い手になっていようとは 夢にも思うまい(笑)



来ようと思って来たわけでもないけれど、摩訶不思議な流れに乗って 氣がついたら こんなところに来ていました。

なんでこんなところに? と思う氣持ちもあり、うんうん 来たなぁ というようでもあり。

現世視点で、身のまわり数メートルの狭い視野から もうひとりの自分を「?」氣分で眺める自分と、もう少し引きの視点から、「?」状態の自分を あたたかく見守る自分。

あの中2の日に聞いた話を当てはめると、感慨深いものがあります。





今知覚できている世界が すべてではない。。。

そうだね、この先もまた 想像の斜め上を行く どんなことが待ち受けているか わからないね(^^)

あの話、今という時に向けて 数十年前から届いたメッセージなのかもしれません。



























割り切れないというありよう

2014年06月24日 11時36分49秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


今でこそ 理系は至極苦手、中でも数学は大・大・大っ嫌~い、の貴秋ですが、実は 小学校のある時点までは(小学校なら「算数」ですね)、けっこう好きだった時期もあったのです。

加減乗除のやり方を覚え 計算問題をわっせわっせこなすあたりまでは、むしろ得意だったといってもいいぐらい。

優等生の私、ルールを読み取って それに従い ことを進めていくのは 慣れ親しんだ頭の使い方だったし、その中でうまくやれているうちは どこかほっとするような氣持ちもあって、誰よりも速く大量の問題をこなしていく自分を ひそかに誇るようなところがあったのです。

それが、急にキライになったのは、今でもよく覚えているんですが、割り算で「余りの出る計算」が出てきたときから。

クイズのように あいまいさのない ぴしりと割り切れる たったひとつの答えにたどりつくのが算数でしょう、と思い込んでいて、そこに当てはまらない「余り」なるものが 公然と存在を認められるのが がまんならなかった。

あのころの私には、割り切れないもの・きっちり線引きできないものは、不安材料でしかなかったんですね。

そして、そんな感覚を引きずり、むしろますます強固にしながら、何十年もの年月を過ごしてきたわけです(^_^;)




そんな私が、いつごろからか 方向転換して「かえる」道のりに足を踏み入れた。

もうね、大混乱ですよ。

それまで拠り所にしてきたものを、進んで片っ端から叩き壊していくわけですから (>_<)

自分の足場を 自分で崩す 心もとなさ。

導いてくれる人や本にも 数多く出会ったけれど、始めのうちは なにを言われているのかさえ さっぱりわからなかった。

それでもどうにかこうにかここまで来られたのは、そんな道のりのどこかに 常に心地いい吸引力を感じていて、また 進めば進むほど しんどいけれど 安らぎも喜びも大きくなっていくことを実感できたからでしょう。




「かえる」道のりは、ひたすら これまで握り締めていたルールや線引きに疑問を覚え、それが意味をなさないばかりか むしろ自分を苦しめてきたものであることに氣づいては 手放していく、その繰り返し。

そんな中で、きっちり形をつかめないものに対する不安や落ち着かなさが、いつしか つかみどころのないあいまいさこそが心地よい、という感覚に 置き換わっていったようです。




世界を 頭できっちり把握したつもりになって 初めて安心できる、というのは、今思えば ものすごく疲れることでした。

そもそもあいまいで形のないものに 強引に形をつける、というところに 無理があるのですから。

しかも、どれだけ頑張って正確につかんだつもりでも、ほんとうはできるはずのない「つかむ」ということをした時点で、それはもう本来と大きくズレた有り様になってしまうことを避けられない、実に虚しい行為なんですね。

そんな徒労の連続でしか得られない安心感で 心底安らげるはずもなく・・・・こんな繰り返し、疲れないわけがない (T_T)




あいまいなものを あいまいなものとしてそっとしておく。。。それは、余りの出る計算を とにかくそういうものなんだと認め 受け入れることに通じる感覚。

やたら仕切りたがって力んでいた自分が、やおら深呼吸し 力を抜いて、静かに後方に下がり 腰を下ろした、そんな変化だったんですね。




この世は、互いに矛盾する見方が同時に成立する、理屈では割り切れない世界。

さらに、さまざまな次元、すべての時間が 今・ここに同時に存在する、多層構造の世界。

一度にひとつのものしか見えなかったときは、すべてがすっきりくっきり映し出され、また 過去から未来に流れる「直線時間」というものが存在するように捉えていたけれど、複数の視点を認められるようになった今、世界は多重露出の写真のように混沌と見えます。

しかも、これでさえ あくまでも今の自分に見合った様子で見えているのであって、これがほんとうのありようというわけでもないのでしょう。

これからも 世界の見え方はどんどん変わっていって、ああ、前はあんな大雑把にしか見えていなかったんだ~( ̄∇ ̄*)ゞ って振り返る日が きっとやってくる。

そうとわかった上で、もう 自分勝手な鋳型に 押し込めるはずのないものを押し込もうとやっきになっていた 難儀な(笑)自分がいないことに、どこかほっとしてもいるのです




理屈に理屈を重ねて、どこかにあるはずの安らぎを探し回っていた私。

「理屈」も「どこか」も、いや、そんなものがあると信じ込んでいた自分こそが幻だと氣づいた足元に、ずっと前から 安らぎはあったんだ~、と はたと氣づいて。

まさに「青い鳥」のお話そのものですね(^^)


























野菜生活♪

2014年06月23日 11時44分24秒 | 紡ぐ暮らし


2~3日続いた雨が止んで、きょうは曇り。

晴れ間はまだ見えないけれど、空がだいぶ明るくなってきました。

午後から ちょっぴりでも青空がのぞいてくれるといいな



洗濯には今ひとつのお天氣なので やめにして、きょうは台所仕事が主だな☆

ニンジンサラダでも仕込むかな~♪



白浜の従食では 肉や魚なども いろいろなメニューで出していただいてましたが、家に戻ってからは もっぱら野菜が主。

去年からずっとお氣に入りなのが、千切りキャベツ乗せバゲット。

細目の千切りにしたキャベツを マヨネーズとマスタード、粗塩少々にワインビネガーもちょっぴり加えて和え、スライスしたバゲットに乗せるだけ。

バゲットだけ 先に軽く焼いておくこともあるし、キャベツを乗せた状態でさっと火を通すことも。

キャベツごと焼くと、キャベツが心持ちしんなりするんだよね♪

シンプルなんですが、バゲットの厚さや キャベツの細さの加減、和えてすぐ食べるか 少し時間を置くか、などで、歯ごたえや舌触りが毎回微妙に違って、何回作っても飽きがきません(^^)

暑い日は ビネガーを少し多めにいれるとさわやかな味に♪



ニンジンサラダは ずっと前から氣に入っているメニュー、白浜にいたときも 野菜が不足しがちな食事の補いに、寮の部屋にチーズ卸し持ち込んで、近所のスーパーでニンジン買ってきて、休みの日にまとめて仕込んで 冷蔵庫に入れてました

ニンジンを 粗めのおろし金でおろすか 細切りにして、レーズンを混ぜて 自家製蜂蜜梅酢で和え、冷やしてなじませておくだけ。

ニンジン臭さがほとんどなく、野菜というよりフルーツのような味わいです。

これもシンプルだけど、いろいろとアレンジできます。

食べる直前に オリーブオイルや亜麻仁油なんかをちょろっと垂らしてもいいし、ナッツ類との相性もバツグン♪

粗みじんのクルミや ココナッツフレークなどを さっとから煎りして、香りがたったところでぱらりとかけると、一段と美味♪

ニンジンの鮮やかなオレンジ色を ところどころに混じったレーズンが引き締めて、こんもり盛り付けたてっぺんに ミントなんか飾ったら、見た目も麗しく 食欲をそそられること必至です



いったん氣に入ると えんえん同じものを食べ続けて飽きない性分なので、この二品なんて もう何べん作ったやら。

白浜では 多少のストレスもあって、食事もしっかりとれば 甘いものの間食なんかもついついしちゃって、からだを使う仕事だったにも関らず 体重が3kgぐらい増えていたんですが、おかげさまで もうすっかり元に戻りました。

食べたいものを食べたいときに作って 好きなように食べられる 自由氣ままな暮らし、やっぱりいいなぁ

これで 素材の野菜から自家製にできればなによりなんだけど。。。と思いつつ、空き地のあちこちに植えたり自生したりした パセリやらシソやらネギやらを、きょうもありがたくせっせといただいております























通り過ぎるもの

2014年06月23日 08時21分35秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「Let it go」の話で、自分を抑えつけたり ありのままを受け入れてくれなかったものに対する反発の氣持ちについて書きました。

私も 責任転嫁をせずにおれない者の常で、周囲の他者や状況に しょっちゅう腹を立てていたものですが、あるとき突然氣がついたんですね。

誰よりも 一番怒りを向けていたのは、自分自身に対してだったんだ、って。




そういう氣持ちがあるものだと聞いてはいましたが、それまでは 自分にもあるものだとは夢にも思ってなくて。

自分は他者を悪者に見立てての 他者攻撃専門、みたいな氣でいたので、自分を憎む自分の存在に氣がついたときの衝撃は半端なかったです。

はっきりとは覚えていないけれど、まだ1年と経ってない日のことだったと思うな。。。




怒りがあまりにも凄まじいと、それが手近なものへの破壊行為として噴出してしまうことがあって、ずっと それははずみというか 勢い余ってのこと、なんらかの形で発散しないと収まりがつかないものね、ぐらいにしか思っていなかったのですが、あのときふと疑問が湧いたんですね。

自分の持ち物を壊す、というのは、自分に損害を及ぼすこと。

その物を失うことになるわけだし、壊れたものの後始末に手間がかかる場合もある、また 自分の手などを傷めかねないような壊し方をしてしまうことだってあるし、なによりも ただでさえ荒んでいる氣持ちがますます荒むのを抑えられない。

いくら腹立ち紛れとはいえ、他者に怒っているはずなのに、自身へのマイナスばかりが大きい行為に なんで走るのか。



それって、自分で自分を苛めてない?



自分がそう考えたというより、問いかけのほうが 思いもよらず ふっと湧き上がってきた感じで、最初はまさかと否定しかかったんですが、それでもなにかに促されるように 自分の中に降りていって 確かめてみたら。。。




怒ってた。

すさまじく怒ってた。




自分を責める・侵犯する・妨害する他者以上に、そんな他者から自分を守ろうとしなかった自分に対して。

愛であるはずの自分にこだわり過ぎて、怒りを認めようとも表現しようともせずに なかったことにして いい子ぶっていた自分に対して。

その昔、子である私をかばうよりも 寛大で分別ある対応を優先し、私を傷つけた相手をとがめなかった親に対して、それはもう大きな怒りを抱いていたはずなのに。。。

自分で自分に おんなじことしてた。

そんな自分を恨み 憎み 激怒するもうひとりの自分の存在に、そのとき初めて氣がついたのでした。



お前なんか いくらでも困った羽目に落ち込めばいい。

ケガしたって自業自得だ、痛い思いをすればいい、壊れてしまえばいい。

憎むものと 憎まれるもの、どちらも自分。

なんて救いのない ざらついて とげとげしくて 殺伐とした感情。

こんな氣持ちがあったなんて・・・・とショックだったなぁ。




そこから、自分が自分の一番の味方になる、ありのままの自分を認めて受け入れる、と迷いなく思えるようになるまで、まだ大分かかったわけだけれど。

でも、その日を迎えるための下地として あの氣づきがあった、あれがあったからこそ 今みたいに自分を受け入れることができるようになった、とも言えるんだよね(^^)

自分に対して怒っている最中は、怒るものと怒られるものに分離していたけれど、どんな自分でも自分なんだ、そのままを表現していいんだ、って氣がついたときから、またすぅっとひとつに戻れた氣がします




そして、「Let it go」のところでも書いたけれど、この氣づき自体がゴールなわけではなく、いわばゴールに向かう足場固め、みたいなものかな?

ゴールではないけれど、この1歩を飛ばしたままゴールに着くこともありえないんだって氣づいたとき、その先の道のりがなんとなく見えた氣がしました。

個としての自分はひとつになれた、今度は「自分と他者」に分かれていたものが ひとつになる歩みに入るんだ、って。

だって、「他者」と呼んでいるものも 鏡に映った自分の姿、やはり分裂したままの自分っていうことだもの。

こうやって ばらばらになったかけらをひとつひとつ取り戻して進んでいくうちに、やがては “大いなるひとつ” “愛である自分 ” にたどりつく。。。。といった感じで続いていくんだろうな、って。

そして、たどり着いたら それでおしまいというわけでもなくて、またその先に新しい道が見えてくるんでしょうね、きっと♪





ついつい ゴールばかり見据えて 到達おめでとう!の瞬間にばかりフォーカスしてしまっていたけれど、実のところ 道のりのほとんどは 通過地点の景色なわけで、あとから振り返ってなつかしいのは むしろこちらのほうなんでしょうね。

そう思うと、まだまだ欠けだらけの自分や 今後もジタバタしながら進んでいくのであろうこの先の歩みが、なんだかかけがえのない愛おしいものに思えてくるのです (*^ー^*)






























「アナと雪の女王」 ~ 「Let it go」によせて ・ その4

2014年06月21日 12時50分54秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


この「Let it go」を最初に聴いたのは 松たか子さんの吹き替え版動画でだったんですが、次に 原語に沿った訳詞を念頭に置きながら イディナ・メンゼルさんの英語バージョンを聴いたとき、面白いことに氣がついたんですね。

それまでは 映像のエルサの喜びに溢れた様子ばかりが目についていたんだけれど、よくよく見ると、そこに ただ幸せ~っていうだけでもなさそうな表情や仕草が交じってるぞ、って☆

憂いに満ちた表情で ひとり暗い雪山を歩くエルサ、それが「Don't let them in, don't let them see」のあたりから、目を上げてぐっと大きく見開いたり、こぶしをぎゅっと握り締めたり、何かを払いのけるように 手をさっと振ったりといった動きが加わり、やがて 片手に残った手袋をにらむように見つめてから ぱっと空に投げ上げる、そのあとで初めて表情がふわっと明るくなる。

そこからは うってかわって活き活きした笑顔を見せるエルサですが、その合間合間に やはり「好戦的」とでもいいたいような表情や動きが見受けられ、極めつけが 髪飾り(ティアラ?)をぽ~んと投げ飛ばすシーン。

ここを初めて吹き替え版で見たとき、「花咲く氷の結晶のように 輝いていたい もう決めたの」という歌詞と 空をにらみつけるようなエルサの表情がいささかそぐわない感じで「え?」と思ったのを覚えています。

あと、おしまいの「The cold never bothered me anyway!」と歌いながら 勢いよくドアを閉める、ここのエルサを「どや顔」と評しておられたブロガーさんがおられて 思わず笑ってしまったんだけど、たしかに言い得て妙というか ただHappyでにっこりっていうのとは どこか違う印象があるんですよね。

こういったエルサの様子と 歌詞の内容を重ね合わせて、ふと思い当たるところがあったのです。




「その2」で書いたように このシーンのエルサと似た氣持ちを つい最近体験した私ですが、最初に「そっか、ムリにガマンせず 今の自分らしく もっと怒ってもなにしてもいいんだ」と氣づいたとき まずむらむらと湧き上がってきたのは、なにかに腹を立てているような 反抗的な氣持ちでした。

もっと早くこんなふうになれたらよかったのに・・・これからは存分に思いのまま生きてやる、もう二度とあんな苦しい思いに引き戻されたりしない、誰にも邪魔なんかさせるものか!みたいな。

あの瞬間の私は、被害者の心理になっていたんだと思います。

自分がもっと早くこんな氣持ちを味わえなかったのは、無理やり抑え込まれ、自由に感じたり行動したりする力を奪われたからだ、という口惜しさがあった。

そして、次の瞬間「あ、私まだ怒りの中にいる」と氣づいて 被害者の立場を手放せたのは、これまでの内観の積み重ねのおかげですね。

被害者のドラマがどのようなもので いかに自分を毒し 縛っているか、さんざん思い知らされてきたし、それを手放さない限り その先には行けないことも 身に沁みていたから。

で、恨みつらみに貼りつきそうになる心を「えいっ」と引っぺがした直後、今度こそほんとうに解き放たれて ふわ~っと軽くなり、春風が吹き込んだような心持ちに。

ここで初めて、喜びに満たされて ありのままの自分を受け入れられたんだと思います。




以前も書いたと思うけれど、新しいスタートを切る原動力としては、「見返してやる」みたいなネガティブベースのエネルギーも 有効なんですね。

ただ、どこかの時点で 自分が被害者の立場を選んでいることに氣づいて 脱け出さないと、いずれは 否定的な力が自分の身に返ってきてしまう。

エルサはきっと もともと真っ直ぐな暖かい心の持ち主で、私ほど恨みつらみをどっさり溜め込んでいなかったのでしょう、だから ネガベースでも そのネガに絡め取られることなく 自分を肯定できた。

といって、怒りや反発する氣持ちがまったくなかったわけでもないのでしょう。

そもそも「解き放つ」といっても、この場合 自分を受け入れてくれなかった世界に背を向けることで手にした解放だから、ほんとうの意味での自由には まだ至っていないわけで、それが エルサの背後でバタンと閉じられたドアに象徴されている。

真の解放は まだ先の話で、ここから一波乱も二波乱もあるのでしょう。。。って、私 肝心の映画見てないんで、ここから先のストーリー知らないんです~

まあ、そうでなければ ここでお話終わっちゃうから、当然といえば当然の設定なんだけど(笑)




で、改めて自分の心の動きを振り返ってみると、これって 反抗期の子どもの心理なんですね。

そうわかると この歳で?おいおいって感じだけれど、考えてみれば、幼い子どもの身で 周囲の抑圧にあらがうことも不可能なら、感情を抑え込んだまま生きるのがどれだけ大変なことかも わかりようがなかったんだもの、ここまで引きずってきちゃったのも しょうがないよね。

素直に受け止めれば それ以上害になることのない感情も、無理に抑え込んでしまうと 大きなひずみを生む、これはもう 身をもって十分体験したから、遅まきながら そろそろ次に行っていいよ、っていうことなのかもしれない。

そして そこからさらに思うのだけれど、私だけでなく 今 世の中全体が、自らを抑えたり縛ったりしてきた不自然さに目覚め、つかえを外して解放されようという流れに乗っているのかもしれません。

だからこそ この「アナと雪の女王」という映画や主題歌「Let it go」が 世界的に支持されて大ヒットしたのであり、また この映画が多くの人の目に触れることで、ますますその流れが加速してゆく、そんな相乗効果があるのかもね(^^)





そういえば、このお話って アナとエルサのWヒロイン姉妹の物語なのに、アナにまつわるストーリーってほとんど知らないし、4回にもわたったブログの中でも アナについては まったくといっていいほど触れてない Σ( ̄□ ̄;)


いつかこの映画を見ることがあったら、そのときにまたここで書かせてもらうことになるのかもしれませんね♪


とりあえず、「Let it go」にまつわるお話は これで終わりかな。。。


長文をお読み下さって ありがとうございます
























「アナと雪の女王」 ~ 「Let it go」によせて ・ その3

2014年06月19日 22時42分42秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「Let it go」の訳詞探しをしているとき、こんなエピソードを目にしました。

このエルサというのは 当初は悪役のはずだったのだ、と。

それが、できあがった「Let it go」という曲が 製作者たちのエルサに対する思いを変えさせ、Wヒロインのひとりに変更されたのだと。

元の記事はこちら。





この記事で見る限り、この曲が生まれた時点で エルサはまだ悪役設定、そして「Let it go」は 今のままのこの曲だったようですね。

そのときの映画のストーリーやエルサの役割・立ち位置がどういうものだったのかはわからないけど、悪役の女の子にこの曲を歌わせようとした作曲者、ロバート・ロペスさんの思いって どんなだったんだろう?





いろいろな方が惜しげもなくブログ等に載せて下さった 原語に近い訳を読み重ねると、やはり最初のほうは、「こんな力を持っていることを誰にも知られないよう隠して、精一杯普通の女の子のように振舞ってきた」「けど いまや秘密を知られてしまった」「もういいわ、これでいい、背を向けてドアを閉めよう」といった内容のようです。

そう決心したことで 氣が軽くなったのか、そこから「もう恐れに支配されることも 泣くこともない」「ルールなんてないわ、私は自由よ」「完璧な女の子はもういない、自分の力を解き放つわ」と ぐんぐん自己肯定の力が増していく。

しかし、この自己肯定は あくまでも「もう私をわかってくれない世間なんでいらない」「悪と呼びたいなら 悪でけっこう」という開き直りのような決意が前提で、エルサがありのままの自分を認めれば認めるほど 「異分子としての自分」をも認めることになってしまい、世間との隔たりも大きくなる。

結果、エルサは「雪の女王」として、自分だけの世界に閉じこもってしまうんですね。




悪であることを 自ら堂々と認めたことで、エルサはれっきとした悪役の位置についた。。。当初はそういうニュアンスで書かれた歌だったのかな。。。

エルサを悪役にふさわしい立場に導くための歌、エルサが「悪」と呼ばれるにふさわしい存在になっていく過程を見せるための歌、そんな歌のつもりだったのかな。。。





で、ここから先は、私・貴秋の頭の中だけの、あくまでも想像に基づいたお話なんですが。

作曲者のロペスさんは、悪役のエルサのために この曲を書いた。

でもね。。。。曲のほうが 当初のロペスさんの意図を上回る力を持ってしまったんじゃないかと思うんです。





私が子どものころの漫画やアニメ、それに大人向けの時代劇や刑事ものなんかも、当時は「勧善懲悪」が主流だったように記憶しています。

登場人物をいちいち「これはいい人?悪い人?」と分類しながら見るのが当たり前のようになっていました。

その意識を 日常にも持ち込んで、善を選び悪を切り捨てるのが 人として正しい生き方だと思い込んできました。

たぶん、世の中全体が そういう傾向にあったのだと思います。





こういう分け方って、「行って かえる」の「行き」の道のりには しっくりきてたんでしょうね。

でも、今 流れは逆転している。

世のあり方も 人の心も 変ってきている。

かつて信じられていた「善と悪が存在する」という概念自体が、今は「そもそもそんなものなかったんだ、幻に過ぎなかったんだ」という認識にとって代わられようとしている。

「悪を滅ぼし 善が勝って めでたしめでたし」なんて価値観でやっていける時代じゃないんですね。





悪の役割を背負わされかけたエルサだけど、彼女の思いを歌い上げた「Let it go」には、ロバート・ロペスという素晴らしい作曲家によって そんな陳腐なレッテルを超えた力がこめられていて、映画製作者の方々は それを強く感じて、エルサをWヒロインのひとりに変更したんじゃないかという氣がします。

「これでいいの」と消極的にであれ、「ありのままの自分になって」と積極的にであれ、自分を肯定し 受け入れるということは、善悪の物差しを握り締めたままでは 決してできないことだもの。

「善」と それに対立する「悪」、こう二分した時点で、「悪」は 受け入れられるどころか いやおうなしに消され 滅ぼされ 切り捨てられる運命にあるのだから。

ありのままに受け入れるっていうのは、そもそも善悪とか正誤とか そういう線引きの必要自体ないんだと認めること。

そう思うと、この曲の持つ力によって エルサの役割が 悪役からヒロインに変更されたというエピソードが、私たちの価値観も信じるものも 「行き → かえり」という変化を経て 大きく変わったんだ、自分の中から見えてくる新しい答えに導かれて生きる時が来ているんだ、ということを象徴しているように見えてきます。

この「Let it go」は、今この時代に 生まれるべくして生まれてきた曲なんですね。

そして、そんな歌が大ヒットして 世界中で歌われているって、なんだかすごいことのような氣がするなぁ(^^)




25ヶ国の歌手が歌う「Let it go」




















「アナと雪の女王」 ~ 「Let it go」によせて ・ その2

2014年06月19日 09時35分50秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


子どものころから、理不尽な仕打ちや納得いかない状況に怒りを覚えても 表現することを許されず、次第に自分で自分の感情を抑圧することに慣れ、あげくの果てに 半端ない量の怒りや恨みを溜め込んでしまった私。

そんな自分のありさまに目を開かれるにつれ、向かう先が 本来の“愛そのものである自分” だということは わかってきました。

しかしここで 厄介なジレンマに直面することに。



長年の抑圧の後遺症で、怒りを感じても、それをすぐさま表に出すことが 怖くてできないのです。

だから、ちょっと時間を置いて どうすればいいのか考えよう、と思うのですが、怒りのスイッチ自体は入りっぱなしなので、時間が経つにつれて どんどん膨れ上がり、より陰湿に変化していく。

抑えつけた怒りは、毒を溜め込みながら はけ口を その怒りを誘発した相手へと向け、心の中で相手を悪者にし、繰り返し攻撃しては 暴れ回ります。

そのたびに「私は本来の自分である『愛の人』に戻るのだ。こんなこといつまでもしていられない」と思うわけですが、ここで思いつける選択肢は 二つだけ。



ひとつは とにかく怒りを表に出すこと。

しかし、このときすでに 待たされたままの怒りは大きく膨れ上がって、しかも恨みがましく変形し 禍々しい毒氣を放っています

こんなものを相手につきつけても ますますこじれるだけ、とてもじゃないが 解決になるとは思えない

それではと、さまざまなアドバイスを頼りに 日記に書きつけたり 手紙にしたためて燃やしたり あれこれ試してみたのですが、一見うまくいったように見えても、後になって やはり恨めしい氣持ちがしっかり残っていたと思い知らされる、そんなことの繰り返し。

そのうち、内観や からだの感覚に注目することで、猛る氣持ちを静めたり 怒りが手に負えなくなるほど燃え盛る前に手を打って、時には相手に伝えることもできるようになりましたが、それでも怒りそのものがなくなったわけではなく、言葉に出して言うと決心するまでの逡巡や葛藤も相変わらず、ようやっと口に出したところで 後味の悪さが残るのも避けられない。



もうひとつは、一刻も早く 怒りを忘れ 愛である本来の自分に戻ること。

引き寄せの法則をはじめ さまざまなところでよく聞くのが、「なりたいと思っているうちは、その裏に潜む『まだそうなれていない』という氣持ちの方に意識が向き、そちらを実現してしまう。『すでにそうである自分』の氣持ちになりきり、そのようにふるまうことだ」というようなアドバイス。

これをいっしょうけんめいやってみたのです。

でも、できない。

こちらも うまくいったような氣がすることはあるのですが、しばらくすると「やっぱり怒っている自分」に戻ってしまう。



結局のところ、暴れまわる怒りを抑え続けるしんどさに負け 後味の悪さは覚悟の上で ぎごちなく相手に伝えるか、いくら表現してもすっきりおさまらない怒りと向き合うのに疲れ果て 解決していないことを承知の上で放置するか、のどちらかを選ぶしかなく、そんな状況を打開できないまま 何年も悩む羽目に(T_T)



このジレンマに光明がさし、新しい道が開けたのは、つい先日のこと。

ふいに氣がついたんです。

私はずっと 山のふもとから 頂上を目指してきた。

目指すゴールはずーっと一貫して同じ、間違っていないとわかる。

でも、一足飛びにたどりつけるわけじゃない。

先に 頂上があまりにもくっきり見えたものだから、いきなりそこに向かおうとしてしまったけれど、その間にまだまだ通り過ぎなければならない地点が いくらもあったんだ。



私はずっと、「愛である自分 = 怒りなど起こりえない自分」と思い、そうなろうと努めてきた。

結果、怒りを「あってはならないもの」と否定的に捉え、悪者にしていたんだ。

抑え込むつもりはなかったけど、結局抑え込んでしまっていた。

だから、かえって いつまでも そこから離れられなかったんだ。



なんで怒っちゃいけないって思ったんだろう?

たしかに、愛である自分が怒ることはありえない。

でも、今の私はまだそうじゃない、欠点だらけの未熟者だ。

だったら、それらしくふるまえばいいじゃない。

怒りたかったら怒ればいいんだ。

「なにこの怒りっぽい人」って思われればいい、かまわない。

だって、それが今のほんとうの私なんだから。



・・・ん? あれ?

これが、ありのままの自分を受け入れるってこと?




そう氣づいた瞬間の私、すぅ~っと心が軽くなり 喜びで一杯、まさに「Let it go」のエルサそのもの。




        ありのままの 姿見せるのよ

        ありのままの 自分になるの

        何も怖くない

         


        これでいいの 自分を好きになって

        これでいいの 自分 信じて

        光浴びながら 歩き出そう




  \(^o^)/         \(^o^)/         \(^o^)/






そしてね。

私の場合、スタートからいきなり 間をすっ飛ばして ゴールばかり狙い続けたおかげで、この中間地点に舞い戻ったとき、はっきりわかったんです。

ここが欠けてたんだ、「ありのままの自分を認めて受け入れる」というプロセスが。

ゴールに着くには、間を飛ばすことはできないんだ、一歩ずつ順に進まなければならないんだ。

はるか彼方のゴールは見えても、現在地点からゴールまでの道のりは見えない。

でも、いつも次の一歩だけは見ることができる。

その一歩を認め 踏み出すと、そのまた次の一歩が見えてくる。

エルサも私も、ありのままを認めること自体がゴールではないけれど、ここを通過したことで それまで足踏み状態で動けずにいた場所から 確実にゴールに向かって一歩前進できたんだ。

そうやって一歩ずつ進んでいくことだけが、確実にゴールにたどりつく道なんだ。


だから、これでいいんだ。



ってね(^^)


















「アナと雪の女王」 ~ 「Let it go」によせて ・ その1

2014年06月18日 21時47分10秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


3日ほど前だったかな?

とあるブログで、ディズニー映画「アナと雪の女王」の主題歌「Let it go」について読みました。

映画と共に 世界中で大ヒットしているのだとか。

そういえば、日頃テレビを持たない私が 珍しくマイテレビと共に暮らした白浜で、映画紹介をちらっと見た記憶はあるんですが、そのときはさほど氣には留めていなかったのだけれど。

ブログ中に動画を貼り付けてくださっていたので、さっそく松たか子さんが歌っておられる吹き替え版を聴かせてもらい、さらに イディナ・メンゼルさんが歌っておられる原語版にも飛んで 視聴。

そこでふと、「Let it go」って本来どういう意味なのか知りたくなり、検索をかけて 上がってきたものを片っ端から読んでみました。




他国の言葉に置きかえる時ってたいていそうだろうと思うんですが、直訳から意訳まで 意味のとり方に幅があり、この「Let it go」の吹き替え版は かなりの意訳と言われているようですね。

英語に疎い私、たくさんの方々が書いてくださっているものを読んで、少しずつわかってきました。

本来の「Let it go」は、どちらかといえば やや消極的なニュアンスで、この映画の場合「いっしょうけんめい隠してきたことがばれてしまった、仕方ない、これでいいんだ、もう忘れよう」的な意味合いになるのだとか。

が、吹き替え版のほうは 明らかにもっと積極的で前向きです。



                 悩んでいたことが 嘘みたいね

                 だってもう自由よ なんでもできる

                 どこまでやれるか 自分を試したいの

                 そうよ 変わるのよ 私



この訳詞は 翻訳家の高橋知伽江さんという方が訳されたもので、限られた語数内で 原語の内容を極力取り入れつつ、さらに 日本語の歌詞と 映像の唇の動きをできるだけ合わせるよう工夫を凝らした名訳なのだそうですね。

あちこちのサイトやブログで この訳について書いておられる方々の意見を読むと、吹き替え版の明るい感じが好きという方から 原語の雰囲氣との違いが氣になるとおっしゃる方まで さまざま。





語学的なことはさっぱりわかりませんが、ストーリーの流れや ヒロイン・エルサの この場面での氣持ちになって考えると、貴秋的には 消極的・積極的 どちらの意味合いも含まれており、どちら寄りの解釈もありだという氣がします。

ちなみに、私はこの映画見てないし、ストーリーも公式に発表されているところまでしか知らないんですが(^^ゞ

公式サイトのあらすじから抜粋すると。



  運命に引き裂かれた王家の美しい姉妹、エルサとアナ──

  触れるものを凍らせる“禁断の力”を持つ姉エルサは、妹アナを傷つけることを恐れ、幼い頃から自分の世界に閉じこもって暮らしていた。

  美しく成長したエルサは新女王として戴冠式に臨むが、力を制御できずに真夏の王国を冬に変えてしまう。

  城から逃亡した彼女は、生まれて初めて禁断の力を思うがまま解き放ち、雪と氷を自由自在に操り、冬の王国を作り出す。

  愛する者を守るため本当の自分を隠して生きてきたエルサは、“雪の女王”となることで生きる喜びと自由を手に入れたのだ。



さらに キャラクター紹介のエルサの記述では、幼い頃 大好きな妹のアナを危険な目に遭わせたことで 自分の力がトラウマになっていたこと、人を遠ざけ ひたすら感情を抑えることで 力をコントロールしようとしていたこと、が書かれています。


つまり、エルサは 自分の力を否定的にしか捉えることができず、自分の感情を抑圧することで 力を抑え込んでいた、と。





わかるなぁこれ・・・・わかり過ぎるぐらいわかるよ・・・・

私もずっとそうだったんだもの。

いい子でいなきゃ、周囲の期待に沿う優等生でいなきゃって思い込んで、自分で自分のほんとうの氣持ちがわからなくなるぐらい抑えつけて エルサの倍以上の年月を生きてきたんだもの。




(;_;)




そんな私が、とにかく今のままではいやだ、もっと幸せになりたいと願って、右も左もわからぬながら ジタバタあがくうちに、ふとわかった瞬間があったんです。

他のことがどうあれ、自分を否定しているうちは その先へは一歩も進めないんだって。





原語よりずっと肯定的で前向きと評される吹き替え版「Let it go」ですが、映像版で見る限り エルサの表情やしぐさと照らし合わせて、少しも違和感ありません。

晴れ晴れしいまでの笑顔で 持てる力を解放して 氷の宮殿を作り上げ、窓の外の朝日に向かって 雪の女王としての一歩を力強く踏み出す。

実のところ、力を認めて解放したからといって、真の意味では なんの解決にもなってないんですね。

力を制御できるようになったわけでもなければ、王国へ戻れたわけでも、最愛の妹アナと再会できたわけでもない。

むしろ、たったひとりで 自分が創った氷の世界に引きこもることになってしまった分、状況は悪化したともいえる。

でも。





「ばれちゃったから仕方ない」という事情であったとはいえ、それをきっかけに エルサは 初めて自分の力を違った視点から見つめ、肯定することができた。

抑えに抑えてきたものが 解き放たれる瞬間。

見る見る広がり 軽くなる 胸のうち。

内から湧き起こった輝きが、差し込む朝日と響き合って、あのときのエルサは どんなにか晴れやかな心持ちだったことでしょう。

そして、その明るく前向きなエネルギーは、事態の解決に直結するものではなくとも、 次の一歩へと背中を押す原動力となり、彼女をほんとうの解放へと向かわせるチャンスを呼び込むのです。

なんでそんなことがわかるのかって?

それはね、私自身、この「Let it go」に出会うちょっと前に、同じようなことがあったから。





今にして思うと、このタイミングでこの曲やこの映画と出会ったのも、バッチリシンクロだったんですね☆


続きは次に。