毎日がしあわせ日和

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映画 「アーヤと魔女」 その3 ~ 凍りついた心を溶かすもの

2021年09月29日 10時27分51秒 | 大好きな本・映画・ほか
「アーヤと魔女」 のレビューの中に、「子どもが大の大人を何人も そうもあっさり手なずけられるものだろうか」 「アーヤにどうしてそんなことができたのかよくわからない」 という向きの感想をいくつか見つけました。

たしかにこの点が腑に落ちるか落ちないかで 評価が分かれる氣がします。

ピンとこなければ、ご都合主義に思えたり アーヤが自分勝手であざとい子どもに見えてしまうのは無理なからぬこと。

貴秋はここがすんなり頷けたから、このお話が大好きになったと言っても過言ではありません。

というわけで 「アーヤと魔女」 感想その3、今回はネタバレと長文に加え、「想像あるいは妄想ご注意」 とも申し上げなくてはなりません。

直接描かれてはいない細部を埋める解釈なしでは成立しない話なもので。

ネタバレ長文は読みたくない方、プラス他人の妄想話に興味はないよとおっしゃる方は、ごめんなさい、ここまでで。














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以下ネタバレご注意


後半のバンド ・ エアウィッグメンバー三人の回想場面を見てから 現在の三人の姿と比べてみると、ベラ ・ ヤーガの変貌の著しさが際立ちます。

マンドレークは髪型が変わり いささか老けたようにも見えますが、さほどの違いはないし、アーヤのお母さんに至っては 冒頭もラストも変化なし。

ところが ベラの変わりようといったら。。。すっかり太って 表情も険しくなり、ドラマーだったころとは別人のよう。

同じ歳月を過ごしながら、彼女だけがなぜこうも変わってしまったのか。

ここから妄想全開となります。




そもそもベラもマンドレークも 自分にいまひとつ自信が持てない人たちで、そんな彼らの長所に目を留め 引き出してくれたのが アーヤのお母さんだったのではないかと想像されるのです。

アーヤの母親なだけあって、仲間の個性を引き出し 自信を持たせ幸せにすることで、自身も交えた居心地よい環境を作り出す能力の持ち主だったのではないかと。

マンドレークは芸術家肌で、煩わされない限りは物静か、思いやりも人を見る目もある常識人なのが、アーヤにおやつを持っていってやったり、ベラのドラムや呪文作りの腕前を認めていたり、怒り狂ったときでさえ 作業部屋のものを壊しただけで ベラに危害は加えていないことなどからわかります。

そんな彼の弱点は、暮らしの秩序を乱されると平静が保てなくなることと、人づき合いが苦手なこと。

基本 彼が心穏やかでいられるのは、自分の殻に閉じこもっているあいだだけ。

が 彼はアーヤのお母さんのおかげで、ただ無難に過ごすというより もっとずっと心地いい状態があることを すでに知ってしまっている。

自身の能力を認め、得意分野で世の人々を喜ばせて心満たされる、前向きな生き方です。

ただ 彼自身の力で自分軸をしっかり保つところまではいっていなかったため、アーヤのお母さんの出奔と同時に その心地よさも失ってしまった。

いまの生き方が最高だとは思っていないが、とりあえず昔なじみのベラとのそこそこ平穏な暮らしを受け入れるしかない。

貴秋には なんとなく、彼が 「アーヤがアーヤのお母さん (だと知っているかどうかはわかりませんが) の代わりになってくれるのではないか」 と 無意識にでも期待していたように思えてなりません。

マンドレークって、魔法の力でアーヤを秘かに観察し、彼女の氣持ちも企みも そこそこ把握していたように思えるんですね。

アーヤの挙動を壁から首を突き出して見ていたし、作業部屋の様子などは手下のデーモンに見張らせていたし、おやつを差し入れたタイミングから 彼女の作っていたまじない人形に氣づいたようにも見えるし、アーヤとトーマスなんて まだ壁に赤々とマンドレークの目らしきものが映っているにも関わらず、身を守る呪文作りの相談しちゃってますからね。

それでも彼がベラに告げ口せず静観していたのは、妙に噛み合ったまま定着してしまった 安全だけど喜びのない二人の暮らしを変える起爆剤に アーヤがなってくれるのではと、秘かに期待を寄せていたように思えるのです。




さて、一方のベラ ・ ヤーガ。

もともと彼女は、マンドレーク同様 自分に自信が持てないのに加え、判断軸がネガに傾きやすい性格だったのではないかと思われます。

貴秋自身そういうたちだったからわかるのですが、誰か もしくは何かが肯定的なほうへ引っ張ってくれているあいだは調子よくいくのですが、支えがなくなると とたんに悪いほうに悪いほうに氣持ちが向いてしまう。

だから、懸命に引き止めたにも関わらず アーヤのお母さんが出て行ってしまった後は、バンド活動もできず、マンドレークに氣を遣い、利己的な呪文ばかり作らされてウンザリしながらの暮らしに 次第に悲観して怒りさえ覚えるようになり、それが容姿の変化につながっていったのではないでしょうか。

顧客からの電話に蜜のような甘ったるい声で応じながら、電話を切るなり 「ったく どいつもコイツも」 と毒づくあたり、彼女こそ裏表ある顔の持ち主であることが窺えますが、以前も書いたように 裏表の使い分けはセルフイメージを低下させるので、彼女のエネルギーはかなり枯渇氣味だったと想像されます。

だからこそ、アーヤをこき使い 反抗を許さないことで エネルギーを奪う “エネルギー ・ バンパイア” になってしまったのでしょう。

意識の奥底では 自分が不当な仕打ちをしていることもわかっているため、このままいったら心の持ちようもエネルギーも降下の一途をたどるばかり・・・でしたが。




アーヤの戦術はすごかった。

マンドレークとベラ ・ ヤーガ、それぞれの性格に応じて、態度をはっきり使い分けています。

マンドレークにはつねに穏当な態度で動揺させないよう氣づかいながら、彼が応じやすく かつ自信を持てるように仕向けて。

ベラには 相手の負に呑まれないよう陽の氣をことさら保ちつつも、いたずらに反発する氣はないことを示して。

貴秋もその昔旅館で仕事をしていたときに、威圧的でネガティブな人に巻き込まれて こちらのエネルギーが落ちてしまうのを避けるため、「~しなければならない」 調の指示に 「~すればいいんですね」 と肯定形で返しながら 意識して笑顔を絶やさぬようにしていた経験から、ベラのような相手にはこの姿勢が有効なのがわかります。

しかも その使い分けをこっそり行なっていれば二枚舌になってしまいますが、少しも隠していないことは、マンドレークに聞こえるところでベラに 「私は奴隷じゃないからね」 ときっぱり宣言しているところからもわかります。

そして 約束を反故にされると 反撃に転じて、一方的にエネルギーを奪われるままではいないことを はっきり見せつける。

ベラに余分な手をくっつけたからといって 何がどう好転するわけでもないことはわかっていますが、これはエネルギー勝負であり、アーヤの心が折れたら負けなんですね。

だから、罰から身を守る手段を前もって講じておき、表向きは罰を受けたように見せかけて 精神的にはダメージを受けないよう工夫しています。

まあ その後は予想外の展開になってしまいましたが、結果彼女は望みを叶えたわけで、これを偶然や幸運ととることもできますが、かつてマンガ ・ One Pieceでエンポリオ ・ イワンコフが言ったように 「奇跡も幸運も 他人にすがりつかず諦めない者にのみ降りてくる」 のですから、アーヤはこのラッキーを自身の手で勝ち取ったといえるでしょう。

そして ベラとマンドレークは、アーヤが二人の殻を破って引き出してくれたおかげで 再び自分の素晴らしさを見出すことができたのですね、その昔彼女の母親にしてもらったように。。。。と これは貴秋の勝手な想像ですが。

じゃあこれは他力本願ではないのか、となりますが、二人の資質はもともと彼らに備わっていたもので アーヤはそれが表に出るきっかけを作っただけ、しばらくは彼女の力に頼ることになるでしょうが、それはあくまで呼び水に過ぎず、やがて自信をつけた彼らが自分の足で立てるようになっていくであろうことは 想像に難くありません。

貴秋は エンディングのイラストで、アーヤになにやら耳打ちされたマンドレークが 次の場面でベラに誕生祝の花束を贈っているシーンにじーんときてしまいました。

こうやってアーヤは、二人のあいだの風通しもよくしようとしていたんですね。




こんなふうに 貴秋には、ベラとマンドレークの二人がアーヤの力をもってがらりと変わったのが 理に適ったことに見えます。

自分たちに喜びをもたらしてくれた相手には、誰だってよくしたいと思うもの。

win-win とは、肯定的な巡りのことなんですね。

これぞ真のSDGs、持続可能でどこまでも広がる喜びの輪。

この 「アーヤと魔女」 に限らず、ジブリの映画は以前から それまでになかった新しいエネルギーの使い方巡らせ方を示唆してくれているように思えてなりません。



今回も長文をお読み下さり ありがとうございました。














映画 「アーヤと魔女」 その2 ~ ほんとうの自分の氣持ちを知るということ

2021年09月24日 12時29分21秒 | 大好きな本・映画・ほか
案の定というか、「アーヤと魔女」 第二弾でございます。

今回もいちおうネタバレありということで、映画未見の方はご注意くださいね。













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以下ネタバレご注意



前の記事で アーヤが 「自身の快不快や好き嫌いをきちんと把握している」 と書きましたが、これは重要なポイントです。

自分の氣持ちを正確にわかっているということは、それだけ大きな強みだということ。

アーヤは、大きな窓があって日当たり抜群、どこもかしこもピッカピカ、おいしいシェパーズパイがたびたび出てきて 大人たちみんなが望みを叶えてくれる園の暮らしを 決して当然のこととは受け止めず、そのよさをよくわかった上で 心地いい環境を満喫しています。

だからこそ、喜びのエネルギーがこもった彼女の感謝や賞賛には (表現に多少の誇張や作為はあっても) 人の心を動かす力がある。

自分が持っている 「いいもの」 にきちんと目が向き、かつ足りないものがあっても 自身の力で手に入れられるとわかっているアーヤの心は、いつも満ち足りているのでしょう。

園を出るときの荷造りの場面で、ベッドの上に並んだ彼女の持ち物がごくわずかなのが目を引きます。

物欲が強ければ 大人を好きに操る力で もっと多くのものを手に入れていても不思議ではありませんが、彼女はまず 身のまわりの幸せや豊かさに目を留め 満足することを知っているので、心の飢えから生じる欲望に惑わされて自分を見失うことも、結果自信をなくすこともなく、それが彼女の操りの腕前の見事さにつながっているわけです。




私たちがお金を欲しがるのも さまざまな物やサービスを求めるのも、元をたどれば 心を満たしたい、幸せを、豊かさを、安らぎを、自由を感じたいという氣持ちからきているのがわかります。

お金や物やサービスは その望みを叶える手段に過ぎないのですが、それを目的と取り違えると 真の望みを見失います。

物質的な富は いくら手に入れてもつかの間の満足しか与えてくれないので、欲に振り回されて止め処がなくなります。

そんな飢えた心から生じる望みは どんどん本心とずれていき、ほんとうの望みがますますわからなくなってしまう。

何を求め 何を得ても 自身を満たすことができないというのは、セルフイメージを低下させ、自信を失わせます。

こうやって私たちは、アーヤのように思いどおりの世界を実現する力をなくしてしまったんですね。

でも大丈夫、なくした力を取り戻したければ、ほんとうの思いでないもの、すなわち自身を幸せにしない思い込みや 不快を感じさせる観念と向き合い 手放していけばいいのです。

やがてあるときふと、率直な望みを口にしても なんの抵抗も湧かず、晴れ晴れと明るい氣分で力がみなぎってくる、そしてこれはきっと叶うという予感がする、そんな自分に変わっていることに氣づかれることでしょう。




「アーヤと魔女」 はもちろんファンタジーですが、そこに描き出されているのは紛れもない真理です。

呪文で人に余分な手を生やすことはできなくても、自分の本心を正しく知り、感情や思考のエネルギーを整えて流れをよくすることで 「み~んな自分の思いどおり」 な世界を創り出すことはできる。

レビューでは 「大人を手玉に取り 都合よく操るような映画を子どもに見せるのはいかがなものか」 というような意見も見かけましたが、貴秋はむしろ 大人の都合で枠に押し込められて ほんとうの自分を見失い元氣をなくしている子どもたちにこそ見てもらいたいです。

あなたはどんな世界に住みたい?

誰にも邪魔されず なんでも好きなことができるなら、毎日何をしてどんなふうに暮らしたい?

映画のお話はフィクションだけれど、あなた方は現実の生活で アーヤみたいにどんな望みも叶える力をほんとうに持っているんだよ。。。。そんなふうに言ってあげたい氣持ちで一杯です。












映画 「アーヤと魔女」 ~ 人を操る力が幸せを呼ぶ

2021年09月13日 14時33分55秒 | 大好きな本・映画・ほか
公開延期になっていた ジブリ映画最新作 「アーヤと魔女」 、8月27日から公開されてたんですね。

昨年末にNHKで放送されていたのを録画して以来 すっかりハマッた作品、1~2月はほとんど毎日のように見ていました。

で 評判はいかにと YAHOOのレビューを見に行ったら。。。あらら 5点満点の2、78点、びっくりの低評価。

思わずレビュー全部に目を通しましたが、星一つ ・ 二つのレビューでもっとも多かった 「終わりが唐突、中途半端」 という不満は、テレビで見た貴秋と父も 「え~、ここで終わり!?」 と声を上げたぐらいですから、お金払って映画館で見た人たちがそう思うのは無理もないか。

3DCG技術についての不満は貴秋にはよくわからないし、「ヒロインが可愛くない」 「ジブリらしくない」 というのはそれぞれに好みがあるから、これも仕方ないよね。

でもひとつだけ 「いや、それは。。。」 と言いたくなる点が。

ヒロイン ・ アーヤの人を操る能力について、「人たらし」 「ずるがしこく利己的」 「わがまま」 「あざとい」 など否定的なイメージを持つ人が多かったようなのですが、これには思わず違う角度からの意見を述べてみたくなりました。

そもそも貴秋がこの作品に夢中になった要因のひとつが、このアーヤの能力の見事さだったからです。

まず最初に申し上げておかねばなりませんが、アーヤ愛炸裂で 以下かなりの長文です。

しかも 公開期間中だというのに 盛大にネタバレしておりますので、映画をまだご覧になっておられない方、これから見に行かれる方は、くれぐれもご注意くださいね。















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以下ネタバレご注意




「人を操る」 。。。たしかにあまりいい印象は持てない表現ですね。

試しに類語 ・ 関連語を調べてみたら、「丸め込む」 「騙しのテクニック」 「手玉に取る」 「いかさま」 「でたらめ」 「二枚舌」 「八方美人」 などなどネガティブワードのオンパレード。

他者を思い通りに動かそうと 心にもないお世辞を並べておいて 陰でこっそり舌を出す、そんなイメージが浮かびます。

実は貴秋も 初見はそんな印象でした。

「子どもの家」 の園長先生に 「(どこかの家庭にもらわれて) 園長先生とお別れするのが一番イヤ」 と悲しげに告げたり、欲しかったセーターを贈られて 「ああ、私 園で一番の幸せ者ね、園長先生大好き!」 と小躍りして抱きついたり、もらわれた先の住人マンドレークに 「お願い、小説家のお仕事を手伝わせて、おじさんの役に立ちたいの」 と涙ながらに訴えたり、と どこか不自然で演じている感が否めなかったからです。

しかし、そんな不自然さは枝葉に過ぎないのだということが 見ていくうちにわかってきました。




たしかに表現こそ相手が受け取りやすいようにデフォルメしていますが、アーヤの能力の本質は、それが決してウソではないというところにあります。

例えば、マンドレークに 「小説家のお仕事を手伝わせて」 って、小学生ぐらいの子が何を手伝うつもりなのかと思っていたら、終盤アーヤがマンドレークの原稿の感想を述べるシーンで 「すっごい面白かった!」 というその話の内容は、冒頭の墓場のお化けパーティを抜け出して 禁じられた塔へ上っていくくだりで アーヤ自身が友だちのカスタードに語って聞かせた話そのままじゃありませんか。

最初にマンドレークの小説を読んだときは 「なにこれ、クソつまらない」 「時間のムダだわ」 と秘かに酷評していたアーヤ、自身のアイデアをさりげなく伝えて 彼自身の作品として書き上げるよう仕向け、「続きはいつ読ませてもらえるの?」 なんて言ってせっせと励ましてたわけですね。

手伝いと称して 自分が楽しめる話を書かせる、そしてこれが 「今世紀最高の傑作」 と評され、書店のウインドウに垂れ幕つきで飾られるほどの人氣小説になっちゃうのです。




そして 新しい家のもうひとりの住人、ベラ ・ ヤーガ。

威圧的でおっかなげな彼女に対しても、アーヤは条件をはっきり伝えた上で助手となり、言われるままにしっかり働きます。

にも関わらず約束を反故にされれば、「おばさんはずるい!」 「奴隷じゃないっていってるでしょ!?」 とびしっと主張し、一歩も引きません。

「ミミズを食わせてやる」 と魔法の力を持ち出して脅すベラに、黒猫トーマスの助けを借りて身を守る手立てを講じつつ まっすぐ対峙する、あまつさえ魔法を使って仕返しまでしてしまう、これはうわべだけこびへつらう人間には到底できないことです。

アーヤは ベラに対して怒りはしても、恨んだり憎んだりはしていません。

恨む憎むというのは 不本意ながら言いなりになるしかない相手に持つ感情ですが、アーヤは自分がこきつかわれるままでいるしかないとは思っていないのですね。

だからつねに 「どうすれば自分の望むほうに持っていけるか」 と知恵を巡らせはしても、「なんで私がこんな目に・・・」 という自己憐憫はみじんもない。

このアーヤの姿勢は もちろん持って生まれた人を操る力に起因するのでしょうが、その力を損なうことなく伸ばせたのは あの 「聖モーウォード “子どもの家” 」 で彼女がのびのび育ってこられたおかげだと 貴秋は見ています。

根深いバグがもっとも入り込みやすい0~3歳期間を含め 10年ほどをここで過ごした彼女、もしこの園が 「あしながおじさん」 のジュディ ・ アボットが過ごした孤児院や 「小公女」 のミンチン女子学院みたいなところだったら、園長先生がリペット先生やミンチン院長みたいな人だったら、これほどの自信や自己肯定感を持ち続けることができたかどうか。

そう考えると、アーヤの園長先生への好意が見せかけだけではない本心からのものだとしても、なんら不自然ではありません。

新しい家のバスルームの鏡に 仲良しのカスタードの写真と並べて園長先生の写真を貼ったり、エンディングの手描きふうイラストで 園長先生に自作の呪文に手紙を添えて贈ったりする様子からも、アーヤの言葉にウソはないことが見てとれます。




アーヤの “操る” 力の極意とは、望みを叶えて 心地いい環境に身を置くことで 自身の波動を高め、それを周囲にも伝播させてゆくというもの。

まず彼女は 自分の快不快や好き嫌いをきちんと把握しており、喜ばせてくれる相手には その喜びをはっきり伝えます。

相手は人を喜ばせる自分の能力に自信を深め、アーヤの環境をよくするために ますます力を尽くしてくれる。

こうして、自分の幸せと相手の幸せが どんどんイコールになっていくんですね。

これは、ウソや心にもないお世辞で人を動かすのとは対極の力の用い方。

ベラに対しても、不満をためらわず口にするのと同様、喜びや感謝もまっすぐ伝えています。

ベラはアーヤの率直さを知っているからこそ、「おばさんありがとう!」 と満面の笑顔で飛びつかれて ぎごちなくもあっさり軟化しちゃうんですね。

バンド解散で得意のドラムの腕は封印、キレると何をしでかすかわからないマンドレークの顔色をうかがい、利己的な呪文作りばかり依頼してくるお得意さまにウンザリしながら暮らすうちに 冷えて凝り固まった彼女の心は、これをきっかけに徐々に解け始め、それにつれてアーヤの暮らしもどんどんいいものになっていったというわけです。




貴秋がふたごころあるお世辞ではこのような結果は得られないことを確信しているのは、貴秋自身が重度のふたごころの持ち主だったから。

厳しい母親になぜ怒られるのか訳もわからず 恐怖に身が縮むほど叱責され続け、反抗することも泣くことも許されずいるうちに、次第に自分の心の内に逃げ込むことを覚え、外の世界と内の世界が乖離していきました。

親や先生に見せる顔と 内心の思いが違えば違うほど、自分は卑怯だ、嘘つきだとの氣持ちも大きくなり、セルフイメージががたがたに下がって 自信をなくしたまま 何十年も過ごすことになりました。

だから、そんな否定的な観念の下 うわべだけいくら取り繕ったところで 得られるのはせいぜいつかの間の安心だけ、真の喜びなど得られるものでないことは、いやというほど身をもって体験しています。

そんな貴秋が 本来の自分でないものを手放し続け、ほんとうの氣持ちが少しずつ見えてきて、自分は無条件に幸せになっていいんだ、一番好きなものをためらわず選んでいいんだと思えるように変り始めたタイミングで出会ったこの作品だからこそ、アーヤの振るう力が関る誰もを幸せにするほんものであることを ぜひお伝えしたくなった次第です。

アーヤの能力は、バグを手放しさえすれば、私たちの誰もが使うことができるもの。

自分の中の最良の部分を開け放って満ち足りた心は、人の最良の部分をもたやすく認め 引き出すことができる、こうして誰ひとり損することなく 幸せの輪が広がってゆくんですね。




それにしても どうしたことでしょう、これだけ書きまくりながら ぜんぜん語り尽くせた氣がしないって。

「アーヤと魔女」 も 「インセプション」 や 「美しき緑の星」 などと同じく、繰り返し登場するテーマのひとつになるのかもしれません。

おしまいになりましたが、こんな魅力ある作品を世に送り出してくださった 宮崎吾朗監督はじめスタジオジブリの皆さま、ありがとうございます。

これからも 新作を楽しみにしております。


そして、長文におつき合い下さった皆さまも ありがとうございました。