毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

変わりゆくもの 変わらないもの

2018年02月26日 16時27分04秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


平昌オリンピックが終わりましたね。

ついこのあいだ開会式を見たような氣がするのですけれど (^_^;)

最近 すべてが駆け足で通り過ぎていくように感じることがしばしばです。

平昌のメダリストたちを見ていると、ふと こうして栄光をつかんでは消えていったアスリートたちを どれほど見てきたことだろうなんて思ったりしたものです。

どんな有名人も大事件も、やがては次に取って代わられ 注目の座を明け渡して消えていく。

トレンドなどといくらもてはやされようと めまぐるしく現れては消える人や物、華やかではかない栄枯盛衰を これからどれほど眺め続けることになるのだろう。

前にはなかったそんな思いを味わうようになったのは、“在る” という絶対不変の領域にフォーカスすることが多くなったせいかもしれません。




変わらないものがあるから、変わるものが存在できるのですね。

すべてが変わるものばかりだったら 「変わる」 とはどういうことかもわからないし、そもそも 「変わる」 という概念さえ生まれていないでしょう。

マインド = 自分 と思い込んでいたころは、自分もまわりも変化するのが当たり前で、そんな変化を面白がりはしても、引いた位置から 次々駆け抜けていく走馬灯の模様のように眺めたことはなかったような。

変わらないものに意識を置く時間が増えたことで、変わりゆくものが つかの間ならではの美しさとはかなさを併せ持つことが より強く感じられるようになったのかもしれません。

そして、変わらないものを知ることで 初めて安心して 変わるものを思いきり楽しむことができるような氣がするのです。




ジル ・ ボルティ ・ テイラー博士の体験談は、そんな氣持ちを力強く励ましてくれます。 

脳科学者が脳卒中体験から垣間見た無限で不変の領域は 喜びと安らぎに満ち満ちた天国だったと、そして その深い内的平安の場でより多くの時間を過ごすことを選択すれば 世界はもっと平和になるだろうと、信頼のおける証言をしてくれたのですから。

さらにマスター濱田浩朱氏も、やはり脳梗塞の体験から この領域についての貴重な情報を提供してくださっています。

さすがに脳卒中や脳梗塞はかんべんだけれど、ほかにも 左脳の働きを止めて 無限に至る手立てはあるわけで、それが瞑想だったり ムージ師の 「セルフのままでいてください」 だったりするのですね。

かすかだけれど 決して消えることも壊れることもない “在る” に氣づいて、そのまま居続けること。




今になってわかるのですが、貴秋の感覚フォーカスは、この 「セルフであり続ける」 ことを可能にするための準備だったようです。

長年抑圧し続けた負の感情は 体内で膨れ上がって 事あるごとに大暴れ、そのけたたましい騒ぎにかき消され、“在る” に氣づくどころではありませんでした。

そんな内側の感覚に繰り返しフォーカスすることで 騒音が次第に薄れ、今では比べ物にならないほど穏やかになった雑音越しに 意識の触手を伸ばして “在る” に氣づくことも留まることもできます。

また、瞑想ではどうしてもできなかった マインドのおしゃべりを止められるようになったのも、感覚フォーカスのおかげ。

心の雑音をただ受け流すのでなく 代わりにフォーカスするものがあることで、言葉から意識を外す感覚がつかめるようになり、氣がつけば 瞑想と同じ状態に入れるようになっていました。




貴秋のイメージする 「ほんとうの私」 とは、“在る” とマインドがメビウスの輪状に一体になっていることであり、マインドが “在る” に氣づくことで 真我とマインドが合わせ鏡状態になっていること。

この状態でもマインドは働きますが、空回りで妄想を生み出すのではなく、真我が伝える情報を言葉化し、そのアドバイスに従って 長年の歪みを正すという画期的な働きをします。

この連携プレーに氣づいたのは、真我とマインドという二つにばかり集中していたところに 三番目の要素が現れたときのことでした。




















ラ ・ ラ ・ ランド

2018年02月25日 14時49分46秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


先日もご紹介した、ジル ・ ボルティ ・ テイラー博士の動画、「奇蹟の脳」 脳卒中体験を語る/ジル ・ ボルティ ・ テーラー

これももう何回見たかわかりませんが、何度見ても胸が熱くなります。

この動画で特筆すべきは、なんといっても 脳卒中体験者が脳科学者でもあるという点。

ただの脳卒中体験ではなく、科学者の冷静な目と 豊富な知識や経験に裏打ちされた話を聞かせてもらえるのです。




まず感動したのは、これまで知識として受け止めていた左脳と右脳それぞれの役割を 博士の脳卒中体験を通して より詳細かつ具体的に教えてもらえたこと。

左右の脳は つかさどる働きが違い、左脳は理論脳 ・ デジタル脳で 右脳は感覚脳 ・ イメージ脳などとはよく聞くことですが、テイラー博士の体験では、出血により左脳の機能が停止すると、からだの原子分子とまわりの壁の原子分子が交じり合い 自分と自分でないものの境目の区別がつかなくなって 自分が大きく広がるように感じ、同時に周囲の大きなエネルギーに魅了され 溶け合ったそうです。

このエネルギーから 「自分」 というものを分け出し確立させているのが、左脳がささやきかける “私は在る” という声。

博士によると、左脳はほかにも その日の予定やら緊急時の警報やら、さらに細かく 筋肉を伸ばせ ・ 縮めろなどということまで 絶えず小声でしゃべりかけているのだそうです。

うわー、マインドの止まらないおしゃべりって これか!

それにしても、自動反応装置とはいえ よくまあ夜を日についで働き続けるものだなぁ。

いらないこともずいぶん言ってくるけど (笑)、これがすっかり止まると 人としての機能を維持できなくなるのね。




一方の右脳から感じる大きなエネルギーですが、博士はこのエネルギー空間を 親しみを込めて “ラ ・ ラ ・ ランド” と呼んでいるそうです。

“ラ ・ ラ ・ ランド” とは 映画のタイトルにもありましたが、アメリカのロサンゼルスを表すほか、「現実離れした世界、おとぎの国」 という意味と 「現実から遊離した精神状態」 という意味があるそうで、博士はこの “ラ ・ ラ ・ ランド” について、このように述べています。


         “そこは素晴らしい所でした

          外の世界と自分をつなぐ脳のしゃべり声から 完全に切り離されているのです

          (中略) 外界全ての関係と それにかかわるストレスの元が すべてなくなったのです

          (中略) 想像して下さい、37年間の感情の重荷から解放されるのが どんなものか!

          ああ!なんという幸福 

          幸福 とても素敵でした”




長いあいだ 五感を超えた世界と右脳と真我を結び付け、そこにこそ 人の本質、愛とも豊かさとも安らぎとも自由とも呼べるものがあると信じ それを実際に体験したいと願って探り続けてきましたが、よもや脳科学者の実体験から このような話が聞けようとは。

そしてきわめつけは、おしまいのほうのこの言葉。


         “私たちは この世界の中で どんな人間でいたいのか どのようにありたいのか すべての瞬間瞬間において選ぶ力があります

          今ここでこの瞬間 私は右脳の意識へと寄ることが出来ます

          そこでは私は宇宙の生命力です

          (中略) あるいは左脳の意識へと寄って 一人の堅実な個人としてあることを選べます

          (中略) この二者が 私の中にある “私たち” なのです

          (中略) 私たちがより多くの時間を 右脳にある深い内的平安の回路で生きることを選択すれば

          世界にはもっと平和が広がり 私たちの地球ももっと平和な場所になると信じています

          そしてこれは 広める価値のある考えだと思ったのです”





そうですよね、そうですよね。

貴秋がいま 与えられた時間の大半を費やして 内的世界の探究に没頭するのも、まったく同じ理由なんです。

説得も撃破もならない分厚い壁に取り巻かれたように思える いまのこの問題多き世界も、自分の意識を変えるだけで 愛すべき場所に変わる、あらゆる生き物が平和に暮らせる天国を実現するのは 決して絵空事でも綺麗事でもない 完全に実現可能なことだ、そう信じているから、こんななんの保証も確証もない探究に 人生丸ごとかけられるんです。




あやふやで捉えどころのない世界と思っていた領域を、科学者の確かな知識に裏打ちされた素晴らしい体験談にしっかり支えてもらって どれほど勇氣づけられたことか。

このおしまいのくだりを見るたび、今でも熱いものがこみ上げてくるのです。





















波動と粒子

2018年02月25日 11時49分00秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


貴秋がムージ師の数々の動画と出会ったきっかけは、こちらの 「この世界が仮想現実であることを示す証明式」

これはたしかマスター濱田浩朱氏お勧めの動画で、ずっとお氣に入りフォルダに入れていながら なぜか手が出ず置きっぱなしになっていたもの。

画面横の次のお勧め動画をたどって 師を知るところとなったわけですが、「この世界が~」 は、量子物理学の 「二重スリット実験」 や 「コペンハーゲン解釈」 などについて CGを用いてとてもわかりやすく説明してくれていて、文章を読んだだけでは把握し切れなかった部分をしっかり補足してもらえてたいへんありがたかったのですが、その新たな理解が 直後に出会ったムージ師の講話と結びつき、さらに他の話ともつながって、貴秋なりの新たな世界観が生まれることになったのです。




物理学的詳細については ぜひ動画をごらんいただきたいのですが、貴秋が大雑把に受け止めたのは、人に見られていないときは波動であるものが、人の意識が向けられた瞬間 粒子に変わる、ということ。。。。。って大雑把過ぎですね ( ̄∇ ̄;)

波動 = 見えないもの、粒子 = 見えるもの、ということらしいのですが、これがあの 「思いが現実を創る」 と結びつくと、「見えない波動の世界は 形になる前の ありとあらゆる可能性に満ち満ちた世界で、そこに 人の考えや思い、記憶、感情などが向けられると、波動は粒子に変わり、向けられた意識に応じた形が出現する」 という見方が生まれます。




この 「思いが現実を創る」 というのは、五感を超えた世界について語られる場では ほとんど通説といっていいのではないかと思うぐらい あちこちでお目にかかる話で、ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ氏の 「神との対話」 にも、感情や思考がエネルギーであり それらが動き 引きつけ合い かたまりとなって物質が創り出されるという話が出てきますが、見えない感情や思考が見える形を生み出すプロセスを これほどわかりやすく説明してくれるものと出会ったのは初めてで、以来 「思いが現実を創る」 は 貴秋の中で有力な仮説となり、日常の暮らしの中でえんえん検証され続け、今ではほとんど事実認定されたといってもいいほどです。

一方 量子物理学については、そもそも自分なりの真実を知りたいだけで 科学的立証などにはさほど関心はありませんが、このような曖昧な領域の話が 客観的証明に厳格な科学の世界にも登場していたことに驚き 興味をかき立てられて、以来 理数系苦手で大嫌いにも関わらず シュレディンガーのネコだの二重スリット実験だのの話に食いつくようになったのでした。




なので あくまでも素人考えの個人的解釈ですが、貴秋は この見えない波動の領域と 無意識だの超意識だのと呼ばれる世界がイコールで、それが人の思いが作用することで形あるものに変わる瞬間の その無形と有形の境目が “在る” なんじゃないかなと思うのです。

この見方は、ムージ師の動画 「絶対への扉 第一部」 の一節に影響を受けてのものです。


       “I AM - 私は在る は扉の様なものだ

        それは全ての顕現に対し開くことが出来、そしてもう一方で永遠にも開かれる

        いったいこの扉は何であるのか?

        非顕現と顕現の境界線、それゆえにそれも一現象に過ぎない

        それを 「絶対なるもの」 の最初の反映と言おう”


“I am = 在る” も その存在に氣づかれている以上 現象なのでしょうが、五感で捉えることができないのだから 物質でもない。

ここで思い出すのが、「可能性の場」 というもの。

無限で無形で絶対だけれど、そこに何かが作用すれば 有限の形あるものになる可能性を秘めているエネルギー。

貴秋は “在る” をイメージするとき、カーレースのスタートラインで エンジンを目一杯ふかしながら ボルテージMAXで チェッカーフラッグが振られるのをいまや遅しと待ち構えるレーシングカーの群れが思い浮かぶのです。

「可能性の場」 は、そのはち切れんばかりに豊かなエネルギーに 方向付けがなされて 形が生み出されるのを待ち受けている、そんな氣がします。




ここにさらに、あのジル ・ ボルティ ・ テイラー博士の話が重なってくるのです。





















   

私は 在る

2018年02月24日 15時14分03秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「私」 という言葉が からだを介して あの ”在る” と結びついていたとは、ほんとうに驚きでした。

体内に響き渡るさまざまな雑音にかき消され、また 「私」 = からだ、感情、思考、記憶、名前、性格などの寄せ集めだと思い込んでいたために、これまでまったく氣づいていなかったのです。

「私」 = “在る” とは、「私」 なるものがいまここに確かにある、あるとわかっているからこそ 「私」 と言えるんだ、ということなんですね。

意識して 「私」 と言うたび、ああ確かに私はここにいる、ここに在る という感覚にすうっと満たされるのがわかります。

「 I am (私は在る) 」 とは、「 『私』 なるものが存在する」 ということと、「 『私』 とはすなわち この “在る” だ」 ということを同時に表現しているように感じます。




まだ2~3歳のころ、折り紙の 「帆掛け舟」 で遊んでもらうのが大好きでした。

リンク先の折り紙教室では 「だまし舟」 となっていますが、ただの折り紙でなく その 「だます」 ところがこの舟の魅力。

下のほうに書かれているように 帆先を押さえて目をつぶっていると、母から 「ハイ、目を開けて」 と促され、目を開けるとなぜか押さえたところが舳先に変わっている。

そこでおおげさに 「あらあら こっち持ってって言ったのに なんでそんなところ持ってるの?」 なんて言われると ぞくぞくするような快感が湧き上がってきて、種明かしされたあとも 少しも飽きることなく、母がうんざりするほど繰り返しせがんだものでした。




真我 (これまた “在る” の別名といっていいでしょう) とマインドの立体メビウスの輪は、この帆掛け舟を思い出させます。

ここからこっちが真我で こっちがマインドという明確な線引きなく、互いにいつのまにか入れ替わるような形でひとつになっている。

自然界における境界線は たいていグラデーションであいまいですが、真我とマインドという明らかに異なる二つも、マインドが真我に氣づいている限り やはりそのようにくっきり分けられない状態で一体化して、ひとりの「私」 として機能するんですね。




そんな 「真我」 ・ 「私」 すなわち “在る” は、巡りゆく世界の中心にあって 動かないものだと感じられます。

「私の~」 が付くものは なんであれみな変化してゆくし、季節も昼夜も刻々移り変わり、花も草木も水も空氣もさまざまに変化しながら巡り続ける。

一方 “在る” は、時空の境界もなければ、定まった形も場所も質量も持たない、不変で不動の存在。

安定した巡りとは、時計やコンパスの針のように 動かない中心があって初めて可能なのですね。

移ろいゆく世界には 不動の中心が必要であり、この世界の万物の中心は “在る” なのだと感じます。




・・・・・・と ここしばらくで ぐっと身近になり親しみが増した “在る” ですが、内側でたしかに感じ取れはするものの、五感の世界を超えているがゆえに はっきりつかむことも 言葉で表し切ることもならず 捉えどころがないのは 相変わらず。

ですが、ここに量子物理学の初歩知識が加わると、なんとなくそれなりに納得できる雛形のようなものが 垣間見えてきます。






















I am

2018年02月18日 21時18分18秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ジル ・ ボルティ ・ テイラー博士の動画と出会い、こちらの記事でご紹介したのは、もうかれこれ5年近く前になるんだなぁ。

あのとき書いたとおり まさにパーフェクトな出会いだったって思います。。。。ナイス予言♪

これはあとから知ったのですが、あのマスター濱田浩朱氏も 脳梗塞を起こす少し前に 博士の本を読んでおられたのだそうで、すごいシンクロだ (゚0゚*)

今でもお勧めの動画なので、改めてリンクを貼っておきますね。

            「奇蹟の脳」 脳卒中体験を語る/ジル ・ ボルティ ・ テーラー




ジル ・ ボルティ ・ テイラー博士は アメリカの脳科学者ですが、1996年にご自身が脳卒中に見舞われたとき、脳科学者の視点から 思いがけない体験をします。

詳しくはぜひ動画をご覧いただきたいのですが、この動画の中に、「私がある (I am) 」 という言葉が出てくるのです。

博士の左脳の血管が破裂し 脳卒中の症状が出始めて 左脳の働きが止まったり動いたりを繰り返していたとき、停止状態になると 「自分のからだと周囲の景色」 や 「印刷物の文字と背景の地」 などの境目がなくなり 区別できなかったそうです。

どうやら 右脳を通して見える世界は すべてがひとつながりのエネルギーとして感じ取れるようで、そこに 「これは私」 「これは○○」 「これは△△」 という線引きをして 形を分け出すのが 左脳の役目らしい。

そして 左脳が 「私がある」 と言い続けることで、私たちは 自分と自分でないものの区別をつけ、個である自分を保っているようなのです。




この話だと、「在る」 は左脳の担当のようですが、ムージ師の話の 「私は在る (I am) 」 は むしろ右脳の世界を指しているように思えます。

同じ 「I am」 でも、二つの指し示すところは違うのか。

ここで初めて、“在る” ではなく 「私」 のほうに 意識が向かいました。




このブログで 「私」 という一人称を極力使わなくなったのは もうだいぶ前になりますが、理由はわからないまま なんとなく使いづらくなり、以来 「貴秋は~」 というように三人称で代用してきました。

あのころから 「私」 は どこか扱いづらく落ち着きの悪い言葉だったのです。

誰にとっても身近で 幼いころから当たり前のように使い慣れている 「私」 (もちろん呼び方は 僕 ・ 俺 ・ 拙者 ・ それがしなど いろいろとありますが) 。

それでいて、「 『私』 って何?」 と訊かれて 即座に自信を持って確かなところを答えられる人が どれぐらいいるでしょうか?




「りんご」 という文字を見かけたら、即座にイメージが浮かびますよね。

色や形のみならず 手触り、重さ、味、匂い、食感なども。

それは、五感でその現物を体験した記憶と 「りんご」 という言葉がしっかり結びついているから。

じゃあ、「私」 という言葉を見聞きしたら 反射的に浮かぶのはなんだろう?

「私」 を体験していないはずはないけれど、なら 「りんご」 と同じぐらい鮮明なイメージを 「私」 についても持っているだろうか?

二つの 「I am」 が氣になっているさなか ふと 「私って何?」 という疑問と徹底的に向き合いたい衝動が湧き起こり、意識して 「私」 と心の中で二、三回唱え、すぐさま内側に現れる感覚を観察しました。

こういうとき あの感覚フォーカスの経験が役に立ちます。




「わ ・ た ・ し」 という音ではなく その指し示すもののほうに向かって 意識をぐーっと深く下ろしながら、からだに感じるものに注意を凝らします。

そして感じたもの。。。。。それは、あの “在る” でした。




生まれてこのかた 数え切れないほど 「私」 という言葉を使ってきたはずなのに、自分が何を 「私」 として知覚しているか 考えたこともありませんでした。

それはたぶん、からだや思考や記憶を 「私」 だと思い込んでいたから。

当然知っているつもりのことを わざわざ疑ったり考えたりしませんものね。

でも、からだも思考も記憶も その他自分の一部と思ってきたものみんな 「私の○○」 と言い表せるものばかり、「私」 が所有する ・ 借り受けているもの、「私」 に属するものではあっても、「私」 そのものではなかった。

そして、五感に賑々しく響くそれらの奥でひっそりと 「私」 として知覚していたもの、それが “在る” だったのです。

誤った認識の奥で ちゃんと真実も感じ取っていた、ただそれにまるで氣がついていなかったことを 初めて思い知らされたのでした。



















鏡の中の鏡

2018年02月17日 23時23分56秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


いったん大きな氣づきが訪れると、触発されるのか これまでパズルのかけらのように持っていたいくつもの断片的な答えや情報が 次々組み合わさって さらに大きなパズル片が出来上がっていくのは、いつものことながらワクワクします。

今回はこれまで以上にこの動きがすごくて、次に登場したのが 「鏡の中の鏡」 。

ドイツの児童文学作家、ミヒャエル ・ エンデ氏の作品に 「鏡の中の鏡」 という短編集がありますが、このタイトルは 禅の公案 「鏡に映った鏡は何を映すか?」 と関連すると 対談集 「エンデと語る」 で読んで以来、この互いに映し合う鏡というイメージが ずっとどこかに残っていました。

この 「鏡の中の鏡」 が、真我とマインドの立体メビウスの輪と結びついたのです。




真我はつねに すべてに氣づき、すべてを見つめ、すべてを映し出しています。

マスター濱田浩朱氏によれば、氏が脳梗塞で意識を失っているあいだも 見聞きする者不在のまま あたりの景色が観え 音が聴こえていたと あとから氣づいたそうです。 (「 『ただ観る者』 がただ観ていた」 より)

一方、マインドのほうは すべてを観ている真我を たいていは忘れていて、ときおりふと思い出すぐらい。

これに思い当たったとき、ふとこの 「鏡の中の鏡」 のイメージが浮かびました。




マインドが真我の存在に氣づいているときって、まさに向き合う鏡みたい。。。。どちらも相手の存在を感知して 互いに意識に映し合っているのだから。

氣づいていないときは・・・・・・ああ、それが主なしの自動反応か、そして真我は観客不在の映画館のスクリーン。

そういえば、感覚フォーカスの最中は まさにこの 「映し合う」 状態なわけだ。

ということは、向かい合って置かれた鏡のような二つの意識に挟まれることで ほんとうでないものが消えるのかな?




そうか!

真我はすべてを余すところなく映すから、マインドが嘘をついたって 嘘も嘘をついた自分も映し出されて逃れようがない。

ただ、マインドがそっぽを向いているときは 真我のスクリーンは忘れられ、主なしのマインドは 嘘でも隠し事でもやりたい放題、偽りの物語をいくらでも創り続けられるわけだ。

マインドが 真我の映すものに氣づき、その気づいていることさえも映し出されているのを観れば、自分に自分の嘘がばれ、それ以上嘘がつけなくなり、えんえん創られてきた物語もストップする。

そうなれば 嘘偽りは二枚の鏡の間で隠れるところがなくなって、実体のない幻であることが露見し 消えていくんだ。

マインドのほうでも “在る” を意識しているときは、空っぽだったマインドの主の座に真我が宿り 一体となって、幻や作り話は消え去り、真我から伝わるものをマインドが形に表すというコンビネーションが働き始める。。。。それが この三次元世界での 「本来の自分」 なんだね。




ここまでトントンとわかったのは とてもうれしいことでした。

真我を忘れずにいるときは 主のないマインドが空回って生み出す妄想や被害者意識に悩まされることもないとわかれば、あの 「セルフのままでいてください」 にも熱が入ります。

あとは、どうかこの氣づきが ただの言葉や観念から 一日も早くすっかり腑に落ちて 自分のものとなりますように。

このからだは保ったまま、真我主体のほんとうの自分に戻れますように。




とここに またまた強力なパズル片が登場し、氣づきが大きく進むことになったのです。


















立体メビウスの輪

2018年02月17日 07時40分35秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ムージ師の数ある動画に 一貫して出てくるのが、

        「観る者は 観られることができるのか?」

という問い。

決まった答えがないというこの問いかけは、答を見つけることよりも 取り組むこと (体験すること) 自体に意義があるようにも思えます。

もしかすると、人それぞれで 見えてくるものが違うのかもしれない。

で、すぐ理屈で割り切れる答を出したがるマインドの動きを制したり受け流したりしながら問い続けていると、その間ずっと 意識が “在る” に貼りついていることに氣づかされます。

なので、師の真意はまだわからないながらも、とりあえずこの問いかけは あの 「セルフ (真我) のままでいてください」 というメッセージと同義であると仮定して、取り組みを続けます。




・・・・とここまで書いておいてなんなんですが、この 「観る者は 観られることができるのか?」 に自分もぜひ向き合ってみようと思われる方は、ここから先の話がかえって邪魔になる怖れがあります。

そのほうがいいと思われたなら、ごめんなさい、ここで終わりになさるのがいいかもしれません m(__)m













*            *            *            *            *














では続きをば。

そんな中、“在る” に意識を置く時間が増えるのと並行して 日常の出来事に 今までになく氣持ちいい反応をすっと返せることが多くなっているのに氣がつきました。

こうしなきゃ、こうしようと意図して頑張るようなことは なにもしていないのに。

これはやはり 「セルフのままでいる」 ことに、理屈を超えた なにか大切な意味があるらしい。




しかし、どれほど (心の) 目を凝らして見つめても 「観ているものを観る」 ことはできません。

観ているもの = 在る があることは なぜか感じ取れるのに。

それにしても、形も定まった場所も持たない “在る” に氣づいているものって いったいなんなんだろう?

氣づいているものは 氣づかれているものより先に存在していなければならないはずなのに、無限の “在る” より先行するものなんてある?




ところがある日、すとんときました。

“在る” に氣づいているのって マインドじゃない?

いやいやいやいや、マインド ・ 小我が真我より先にあるわけないでしょうが!

でもそれなら、なんでマインドが 「“在る” があるのはわかるんですが」 なんて納得して書いたりしてるのよ!?

とそこで突如ひらめいたのが、あのおなじみ 「立体メビウスの輪」 。

これだ!

先も後もない、輪、メビウスの輪だ。

あらゆるところに遍在する “在る” は 当然マインドも内包しているけれど、マインドに氣づかれているときは その意識の中に捉えられているともいえる。

でもマインドは、“在る” の無限を感じとって 再びその中に飲み込まれる、その果てしない繰り返し。




マインドが主なしの自動反応だと知り “在る” の存在感が増すにつれて、氣持ちいい反応が増える一方で 日常がぎくしゃくしたものになってもいました。

ひとり部屋にこもって “在る” に浸っていられる間はいいけれど、いったん階下で家事など始めると とたんに自動反応に引き戻される、そのギャップのしんどさよ。

マインドが疎ましくさえ思えて、自己分裂の危機といったありさまだったのです。

しかし この世に意味なく存在するものなんてないわけで、マインドにも必ずなんらかの存在意義があるはず。

真我とマインドって いったいどんな関係なんだろう?




この疑問の答えが、あの山中の散歩で不意に飛び込んできた 「立体メビウスの輪」 だったとは。

伏線回収相変わらず絶妙

しかし、この答えもまだ言葉であり観念、腑に落ちたという感じではありません。

さらに、これがあの 「観る者は 観られることができるのか?」 の最終解答だという確信もないから、もっとほかに見えてくるものもあるかもしれない。

というわけで さらに取り組みを続けていたら。。。。。






















見える世界と見えない根っこ

2018年02月04日 18時01分17秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


               “誰もいない映画館で 映画だけがひっそり映し出されるスクリーン”


               “誰ひとり立ち入ったことのない静かな森の湖の水面に映し出される景色”



この静謐な光景、思い浮かべるだけで心が凪ぎます。

ただあるがままの “在る”が、ただ映るがままに映し出している。

何ひとつ判断解釈せず、自ら何かを起こすこともなく。

そんなふうにイメージしてみて あれ? となりました。

この感じ、心当たりがあるぞ☆




それはあの 山里の人氣ない林道の散歩や 夜の寝静まった集落で感じた、自然の氣配でした。

山も川も木も草も 自分から主張することも働きかけてくることもなく、ただあるがままにあり 静けさそのもの、それでいて それが “在る” ことは 濃密に感じられる。

自分の内のバランスが崩れていると その氣配だけで こちらが居たたまれなくなるほどで、それでいて向こうから何をするでもなく ただしんと在るだけなのです。

ああ、忘れていたけど 以前からよぉく知ってたんだ、“在る” を。




“在る” は からだを通して感じられるので、どうしても自身の内側にあるもののように思えてしまいます。

と同時に、“在る” 自体には 内外どころか特定の位置も ここからここまでという境界もない、つまり果てしなく遍在していることもわかっています。

これは 「内にある」 という感覚のほうが錯覚なのでしょうが、いくら試しても そのようにしか感じ取れないのが氣になっていました。

が、実はとっくの昔に からだの外の “在る” に氣づいていたとは。

からだという頑固な境目が ふっと揺らぎ、山も川も木も草も自分もみな “在る” の前には等しい存在なんだと感じました。




そして先日、大阪に行ったときのこと。

大阪の梅田界隈は 大学時代からなじみの深い場所で、中之島の公会堂や図書館などのレトロな建物を愛でたり、大阪駅近辺で書店巡りやショッピングを楽しんだりとさんざん歩き回ったものですが、昨夏に三日続けてこのあたりに赴く用があったとき、一日目になつかしい場所をいくら訪れてもなぜか心弾まず、二日目に氣づいたのが もう自分は物を手に入れて満足するとか 華やかな都会の景色に酔いしれるとかいったことでは 心底満ち足りることはできないんだ、ということ。

そして三日目は、もう最小限必要な往復だけで そそくさと帰途についたのでした。

それ以来、よくも悪くも人 ・ 物 ・ 車 ・ 建物の多いこの地域をどこか否定的に見るクセがついてしまっていたのですが、今回 あ となったのは、同じ光景を目にしながら 心にひらめいたものがまるで違ったこと。


             あたり一面至るところに “在る” が充満している!

         そして 目に映るすべてのものは、その “在る” から生えている!



「生えている」 とは妙な言い回しだと思われるかもしれませんが、あのときあの場ではぴったりのイメージだったのです。

“在る” は万物の大元たる見えない根っこで、そこから直接生まれるものもあれば、生まれたものを通してさらに生み出されるものもある。

そのすべてが生まれるべくして生まれたのであって、五感では感知できない “在る” の具現化した形なんだ。

肯定も否定も超えて すべてが生命エネルギーの表現なんだ。

猥雑だろうが人工的だろうが、そんなレッテルと無関係に みな等しく意味ある存在なんだ。




津留晃一さんの 「覚醒」 のおしまいのほうの、


    “目覚めた時、あなたは自分が変容という地球ドラマを特等席で観戦している事に気付くでしょう。

                         (中略)

     その全てが幻であったことを体感します。
     目にする物一つ一つが、物ではなく、そこにその物を形あらしめている多くの人々の思いが、悦びの中に見えてきます。
     グラス一つに込められた人々の思い入れが、琥珀色の美しい香りの飲み物の原料を栽培している人々の汗が、
     ストローの袋に印刷されているデザインを描いている人の生き生きとした息づかいが、見えてきます。

     町が一変します。
     思いで溢れ、エネルギーが流れてきます。
     人が、建物が、大地が、風が、その意味を変えてあなたを迎えます。”


という文章を ふと思い出した瞬間でした。