毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

行きつ戻りつ。。。それもわが道

2013年10月31日 22時22分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ちょっと言いたくなったこと♪



自分の体験を書いていて、違う違う、こんなにスッキリきれいでもスムーズでもない!と言いたくなることが ままあります。

どうもね、人の記憶や思考回路って、ほとんど使われなくなったものや 忘れてしまったものも含め、すべてが今・ここに同時に存在しているような氣がするんです。

でも、一度に意識できるもの・言葉化できるものは ひとつだけ。

そのとき焦点を当てたものが、そのときの世界のすべて。

ただ、その焦点が ちょこまか移動したり、突然の連想で とんでもないところに飛んで、すぐ戻ることもあれば 戻らないであさってに行っちゃうこともあり、などと、いろんなパターンで よく動くんです。

だから、言葉上はすんなりうまくいったようにとれることも、実際にはもっと混沌としたあげくのことだったりするわけです。

じゃあ、正確なところをお知らせしたければ、そのカオスっぷりをていねいに描写すればいいのかというと、そんなことした日には、こんな長文ブログをたびたび見に来てくださる忍耐強い方々でさえ、堪忍袋の緒が切れようというもの。

・・・・・いや、その前に 自分の拙い文章力が 限界を超えちゃうよね(^_^;)




さらに、当然といえば当然のことながら、文章を書く氣力が起こるぐらい調子のいい日にしか ブログを書かないという事情もあります。

イライラしたり落ち込んだりしているときは、ブログどころじゃないもの。

そして、せっかく氣分のいいときに わざわざ落ち込んだときのことを思い出して書きたいなんて思わないから、「ブログの私は いつもニコニコ元氣印♪」みたいな印象になっちゃうのも 仕方のないことなのかな、と。




私はこれまで、実際にお会いした方々、また いろいろな本やサイトの著者の方々から たくさんの手がかりをいただいて、それをもとに 自分なりに考え 検証して、自分なりの「これだ!」という道を少しずつ見出しながら、ここまで来ました。

以前の キレやすくて 落ち込みやすくて 疑り深くて 自信のなかった自分が、感情がコントロールできるものだということさえ知らなかった自分が、多くの方に助けられて 感情の御し方を覚え、徐々に徐々に変化して、かつてないほど 穏やかな時間の多い日々を過ごせるようになりました。

私の答えがピッタリ当てはまるのは おそらく私だけだろうけれど、でも 他の人にもヒントになるようなことは けっこう含まれているんじゃないかという氣がするのです。

だから、私がそうしてきたように ご縁のある方々にも いいとこどりで使っていただければと思い、こんなものをつらつら書いています。

そのときに、いやにスッキリきれいに見えてしまう文章に、「自分はそんなにうまくいってないからなぁ、まだまだなのかなぁ」などと がっかりしたり 不安にかられたりしないでいただきたいのです。

言葉の性質と 私の拙い表現力のせいで そういう印象になっているだけです(^^ゞ

すんなり十歩進んだようかのように見える文章も、実は、三歩進んで二歩下がり 四歩進んで三歩下がって、ときには遠い過去までワープして もののはずみでまた戻り、はっと氣づいたら十歩分ぐらい進んでました、が正確なところだったりするのです

今でも、不快な記憶が次々湧き起こったり、「赦す」ということの難しさに頭を抱えたり、昔もめた相手が あるときは最も親しい魂仲間、あるときは思い出すのもおぞましいヤツと 見方がころころ変ったり、なんてこと しょっちゅうです



そういうものなんだと思います。

いや、他の多くの方のことは知らないから 断定はできませんが、少なくともそういう道もあるし、それはそれで自然なことだと思うのです。

同じようなところを行ったり来たり、それでいてまったく同じではなくて、少しずつ高まったり深まったりしているのです。

だから、同じところに引き戻されたように見えても、「進歩ないなぁ、自分」とがっかりすることはないのです。

堂々巡りで一歩も進まないほうが、むしろ不自然。

よくあろう、よくなろうという意思さえ持てば、少しずつでも 必ず進んでいるんです。

今は 世の流れが後押ししてくれるから、ずっと楽にいけると思います(^^)



最近、過去の自分に声をかけることが 以前にも増して多くなりました。

あきらめずにがんばって 今の私までバトンをつないでくれて ありがとう、って。

あなたの努力は必ず報われるから、今の私が保証するから、辛いことも勇氣を出して乗り切って、って。

言われる側の自分であったころ、今みたいないい日が来るなんて、想像できなかった。

今の私の視点から 過去の分身たちをずらり眺め渡すたび、人間変れるものなんだ、って 喜びと勇氣が湧いてきます。

そして、失敗だらけだった彼女たちが たまらなくいとおしくなるのです。

もっと未来の私も、今の私を眺めて 同じようなことを思っているかもしれない。

あきらめなかった人なら誰でも、必ずそういう日がやってくるんだと信じます























戻るだけ

2013年10月30日 20時26分48秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


心の問題に取り組んでいて よく出会う、「否定的なことを考えず 前向きでいなさい」的なアドバイス。

そのとおりだと思う、思うんだけどね。。。

じゃあ どうすれば、ウン十年強化し続けたネガ思考回路を 前向きに切り替えられるのよ~?

と、犯人の名前が明かされずじまいの推理小説を読まされたみたいに恨みがましい氣持ちに よくなったものですが(^_^;)

今にして思えば、そこを試行錯誤しながら体験するのが 肝なんだよね☆

すべて答えが用意されて それをなぞるだけだったら、ほんとうの自分を体験したいという望みは果たされないし、わざわざ不自由な立場でこの世に生まれてきた意味もない。

ということで、以前はそこまではっきりわかってはいなかったけど、とにかく 繰り返し過去のネガ思考パターンに引き戻されつつも、あきらめず 思いつく限りのことを試みてきたわけです。




で、最近氣がついたのだけれど。

私、長い間 「前向きでいなさい」ということを、「否定的な自分をねじ伏せて、肯定的なものに創り変える」、つまり「前向きな自分を新たに創る」イメージで捉えていたらしい。

でも 今になって、新しく創るがんばりはいらないんじゃないかって思えてきたんです。

「否定的」な自分は 後付けだけれど、「前向き」っていうのは どうやらもともとの自分そのままの性質らしい。

もっと正確に言えば、ことさら前も後ろもなく、何を否定することもなく、ただ自ずと 幸せで 豊かで 満ち足りて 光の世界にある、それがもともとの自分というものらしい。

だから、努力して新しく創る必要なんてなくて、もともとの自分に ただ戻るだけでいいんだと。




そもそも、否定的な刷り込みは、往々にして 脳の配線が未完成の三歳ごろまでに、つまり、まだ言葉を身につける前の年齢に、理屈抜きで 取捨選択の余地なく 丸ごとそっくり取り込まれてしまうもの。

理屈抜きで刻み付けられたものを、あとから理屈で肯定的な情報に置き換えようとしても、乳児や幼児を理詰めで説き伏せられないのと同じで 土台無理な話。

「創り変える」イメージで 何度トライしても、すぐまた元の木阿弥で引き戻されてしまったのも うなずけます。




そんなときに、「否定的な感情を生むおおもとである からだの反応に注目する」という情報をもらいました。

当初は直感だけで受け入れたこの情報、ものは試しと実践するうちに、実際の効果と相まって 理解が追いついてきました。

からだの反応は、これもまた 理屈をすっ飛ばして起きるんですね。

スイッチが入ったとたん、ああだこうだ考える暇もなく反応しちゃってる。

怒りや悲しみなどの感情は、その反応に連動して あとから湧いてくるもの。

となれば、無条件の刷り込みに対しては、派生する感情をどうこうするよりも、理屈抜きのからだの反応に対応するほうが 理にかなっているし、実際にうまくいっているのだと。




で、そうやって 異質な感覚を 見つけては手放し、見つけては手放しを繰り返してゆくうちに。。。

ごくときたまではありますが、どうやら 本来の穏やかな自分が、思い込みの自分の向こうから ちらちらと顔をのぞかせ始めたようなのです。

立ちこめる雲がところどころ薄らいで、お日さまの光が漏れるように。

「雲」が 三次元の意識によって作られた“ニセの自分”なら、本来の自分は、新たに登場したり生まれたりしたわけじゃなくて、ずっと前から そのままの姿でそこにいたんですね。。。ただ隠されて見えなかっただけで。




まだまだかすかなものではありますが、体験してみてわかりました。

本来の自分と再び相まみえるのに、何かをする必要なんてなかった。

覆い隠しているものが 実はそこにないもの、あると思い込んでいただけのものだと 氣づくだけでよかったんだ。

「神との対話」(ニール・ドナルド・ウォルシュ著)で、「しなければならないことは、何もない」っていう一節があって、それが長いことわからなかったんです。

いやいや、こんな困ったちゃんな自分、しなければならないこと山積みでしょう!?って(>_<)

ようやっとわかってきました。

ただ ありのままに戻るだけでいいんだと。




今の世の中では、大人も子どもも、力をつけて 立派になって 目に見える成果を上げて 自分の価値を証明しなければならないっていう強迫観念が 強く刷り込まれてるんじゃないかなっていう氣がします。

そうやって まわりから認められないと 生きてゆけない、みたいな。

そんな観念が、よくあろう・よくなろうとする人たちの足を引っ張っているのかもしれません。

私もそんな価値観を引きずっていたから、カン違いで ずいぶん遠回りをしちゃったんだなぁ(^^ゞ

でも 実のところ、そんな不安にかられているとき 一番自分を認めてないのって、他ならぬ自分自身なんじゃないのかな。

不安の雲を払いのけて ありのままの自分を認め、ありのままでいられるようになったら、もうそんな観念に振り回されることはなくなるかもね(^_-)




・・・・と氣づいたからといって、いきなりビフォーアフターみたいな劇的変化を遂げたわけではなく 相変わらずの私ですが、ややこしく考えて力んでいたのが すぅーっと楽になったのは確か。

これからのことも、どう進んでいけばいいのか とりあえずの方向は鮮明になったから、改めて意欲的になれたしね♪

というわけで、あれこれ余計なことは考えず、ひたすらからだの感覚に注目する日々が続いています。




どうやら「かえる」道のりっていうのは、どこまでも 誤りに氣づいて 本来へと戻る道筋のようです(^^)
























柚子ココア♪

2013年10月28日 10時18分00秒 | 日々の楽しみ


台風が行ってしまってから ぐっと氣温が下がり、秋たけなわ という感じに。

暑さのせいで遅れていたらしい金木犀の開花が ようやっと始まったようで、冷たい風に乗って いい香りがほのかに漂ってきます。

今年はどうなってるんだろう、まさか金木犀の香りのない秋なんて。。。と氣が氣じゃなかっただけに、もううれしいったら

桜やイチョウ、カエデの葉の色も 少しずつ秋色がかってきました。

そんな身のまわりの変化がうれしい一方で、急に寒くなって、つい先日まで半袖Tシャツ着てたのに 。。。と 服の入れ替え時間が取れず あたふたしております(^^ゞ



そんな秋らしい朝晩の飲み物、最近のヒットは 柚子茶入りココア。

実家の父がもてあましていた柚子茶をありがたくもらってきて、紅茶に入れたりしてときどき飲んでいたのですが、ある日ふと チョコと柑橘類が合うことを思い出し、ココアに入れてみたら、これが美味~☆

からだも温まるしね(^^)

産直市場で柚子がたくさん出回るようになったら、今度は自分で蜂蜜柚子作ってみよっかな~、なんて 新しい意欲がむくむく湧いてきました


なんといっても 食欲の秋でございます






















転換

2013年10月26日 12時46分03秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


台風一過の清々しい晴天

お日さまの光が 温もりが なんてうれしいことでしょう

激しい風雨に洗われ 澄み渡る空氣、明るく響く鳥たちの声、幸せな秋の昼下がり。





「見えない世界」だの「五感を超えた世界」だのとしょっちゅう書かせてもらっていますが、じゃあそういう世界がありありと感じ取れるほど敏感なのかと言われると、決してそうではありません(^_^;)

ただ な~んとなく、というだけ。


そんな私でも、自分が生まれ育った頃と今とで、世の流れの方向が明らかに変っているのはわかります。

「行って かえる」の「行き」から「かえり」へと入れ替わったのだ、と。

転換点がいつだったのかは 例によって大雑把にしかわからないんだけどね(^^ゞ




人を騙しても やっていける時期があった。

人から奪っても やっていける時期があった。

ニセ物を本物と言いくるめても やっていける時期があった。

自分を誤魔化しても やっていける時期があった。

当てのない夢に溺れても やっていける時期があった。



それはね、いのちからどんどん離れてゆく流れの中にあったから。

今、そうやって突き進んできたものが、次々壁にぶち当たっている。

これまで通用したものが 通用しなくなっている。

流れが真逆に向いちゃったからね。



もうウソはつけない、人にも自分にも。

無理やり押し通したところでバレバレだし、続ければ続けるほど苦しくなる。

誤魔化して、鈍らせて、人のせいにして、誰かが守ってくれると当てにして、誰かが答えを持っていると期待して 後からついていけばよかった、そんな時代はもう終わっちゃったよ。

ショックかもしれないね。

でも、一方で それはとてもいいことなの。

いのちから離れるばかりの流れにいくら身を託したって、ハッピーエンドになるはずがないもの。



今あちこちで 私たちが感じている困難や苦痛は、「流れが変ったよ、目を覚ましなさい」の合図。

氣づいて 向きを変えて 「かえる」道のりに沿って歩き出せば、今度こそ本物の喜びと出逢えるよ(^^)

これまで ウソとまことを取り違えてきた 自分の内側をよぉく探って 見つめて、本来の自分に戻って、ね☆





毎日の日課で おなじみのサイトをさっと一巡りするだけで、向きを変えた流れに翻弄され 混乱する様子が あちこちで見てとれます。

これまで表舞台の中央で 颯爽と 時には強引にやってきた人ほど、大変な思いをしているかもしれませんね。

苦しい中から、もうかつてのやり方は通用しなくなったんだと 一刻も早く氣づけるといいなぁ。

氣づく人が増えれば増えるほど、この転換期をソフトランディングで乗り切れるもの。

古いシステムや考え方が崩壊するのは、そもそも問題や欠陥があったから。

それが誰の目にも顕わになり 壊れていくのは、とてもいいことなのだとも言える。

新しくもっといいものを創るチャンスだもの



従来のやり方で ムリムリ押し通して 突き進んで、いよいよ「もうダメだぁぁぁ」ってなったときが、最大のピンチであり 最大のチャンス。

その苦しさ、身に覚えがあるから よぉくわかります(>_<)

最初はピンチしか見えないものね。

でも、大丈夫

流れと同じく 自分の意識も方向転換できれば、陰に隠れていたチャンスが見えてくるから。

そのとききっと感じるよ、宇宙の愛を、ね




ほんとうの自分に戻ることを全力で続けなさい、そして 今自分が持っているものを もっと広く活かし役立てる道を探しなさい、って、始終なにかにつつかれているような氣がします。

めいめいが 自分の役割を思い出し しっかり果たすことが、かつてないほど望まれている時なのかもしれません。















大団円へ

2013年10月21日 10時45分14秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


正直、自分自身「経過観察中」であるテーマについて、ちょっと風呂敷を広げすぎたかなって氣がしています (^^ゞ

今 世界中で起きてる問題が。。。なんていう話、実のところ難しいんですよね。

なにが問題なのか、なにが解決なのか、そこの解釈からして 人によっても違うし、自分がどの次元に焦点を当てるかによってもどんどん変化するから。




二元対立が根本的解決にならないと言われようと、今すぐ立ち上がらなければならない事態だってあるでしょ、っていう見方もあると思います。

目の前で家が燃えていたら、火事の原因追究なんてしてる場合じゃない、まず消火だよね。

福一みたいに差し迫った問題で、人の命を軽んずるようなことは認められない、とはっきり意思表示することは 私も大事だと思う。

事と次第によっては、とりあえず力ずくで止めるしかないことだってあるかもしれないね。




あと、不誠実・不正直なものに対する怒りは、自然だしまっとうなことだとも思います。

怒りがなんでもかんでも問題なわけじゃない、それ自体は 自然な感情なんだもの。

ただ、その怒りを よりよい方に向かう原動力とするか、負の感情をふくらませて かえって解決から遠ざかってしまうか、その扱いがカギだと思うんですね。




人の数だけ答えがある、その中でも やはり私は、一番根本的な解決は、人でも世の中でもなく 自分自身を変えることだっていう氣がしてなりません。

自分の目に映る 周囲の世界は、自分の意識が投影された鏡だと思うし、また そこにどんな問題が映し出されようとも、私が変えたりコントロールしたりできるのは 私自身だけだとも思うから。

互いに相手ばかりを変えようとすれば 争いになるけれど、自分をできる限りいい方に進ませようとし続ける人が増えれば、それだけでも世界はきっとよくなってゆくはず。




まだ観察中ではあるけれど、自分の考えグセに手こずったとき、「からだの感覚を追う」っていうのは 有効な手立てだという確信が どんどん深まっています。

うんと小さいころに 無条件に受け入れてしまった思考パターンは 言葉の及ばないところに根付くから、慰めや説得ぐらいのことではビクともしない。

でも、過去スイッチが入ったときのからだの反応は 理屈を超えたところにある「原点」だから、それを 今・ここと切り離して 客観的にじっくり見つめることは、それが昔々の幻でしかないことを いやおうなく感じさせてくれる。

すでに かつてないほど穏やかな時間が長くなっている今、これをもっと続けることで どんな境地が開けるのか、楽しみでなりません




前回「敵とみなした相手をどれだけ憎んでも叩いても、長年溜め込んだ怒りは 消えも減りもしない」と書いたとおり、奪われたものを強引に取り返しても、怒りや恨みはなくなりません。

怒りを溶かすのは、その対極にあるもの、愛・喜び・充足・安らぎ などなど。。。そう、私たちの本質。

おとぎ話にもあるでしょう、怪物だの小人だのカエルだのに変えられてしまった主人公が、愛の力で呪いを解いて 元に戻るお話。

いきなり心優しいお姫様だの 白馬に乗った王子さまだのは 現れてくれないかもしれないけれど、まずは 自分で自分を喜ばせるところからスタートできます。

「好きなこと、わくわくすることをやるといいですよ、小さなことからでいいから」

これが、人生の転機へと 私を向かわせてくれた アドバイス。。。これに従ったことで、どれほど心が癒され 自信を取り戻せたことか。

そこから 「行って かえる」の「かえる」道のりが始まったんですね♪

古い怒りに曇らされずにものを見ることで、見える世界が変ってきます。




自分を見つめることを避ける人も多いんじゃないかと思うけど、それは「醜い自分を見たくない」という恐れや 「そんなことが幸せにつながるとは思えない」という不信からなのではないでしょうか。

たしかに、最初は「うわ」っていうようなものが目に飛び込んでくるけれど。

そこでひるまず、その「うわ」が生まれたさらにおおもとへと遡ると、見えてくるのは 幼い自分の姿。

醜いと思えたのは、幼児の意識を大人がまとう そのギャップから生まれた言動が 違和感を感じさせただけで、実は醜いものなんてなにもなかったんだっていうことが得心できるでしょう。

そして、ほんとうの自分を知ることは、自分にとってのほんとうの幸せを知ることでもあり、そこへ向かう確実な道のりを知ることでもあります。

人にも自分にも ごまかしたり ウソをついたりせず生きていける爽快さ、どんどんよくなっていく手応え、きっと「あきらめないでよかった」って思えるよ (^_-)




こうして、自分をとことん見つめて わかってくると、自分に否定的なレッテルって貼れなくなります。

歪んだのも 自然な成り行き、その苦しさを十分味わって 方向転換するのも予定調和、と素直に思えるから。

そして。

自分がそう見えると、人のこともそう見えてくる。

自他共に 人間ってそういうものなんだなって、すっと思えてしまう。

そうなると、「なにこの人」みたいな違和感を感じることはあっても、それ以上憎んだり嫌悪したり罵倒したりと エスカレートはさせられなくなっちゃう。

むしろ「なんでこの人こういうふうなんだろう、こういうこと言うんだろう」と、相手を知ろうとするほうへ 意識が向くチャンスが生まれる。

これが、前のブログに書いた「新しい視点から問題にアプローチする動きも あちこちで生まれているみたい」の新しい視点なんじゃないかなって思います。

そうなって初めて、「違う視点から 同じ解決を望む者どうし」として、テーブルの同じ側に立てるようになるのかもしれません。




こんなふうに ひとりひとりが自分の課題に向き合い、答えと出会っていく中で、世界の課題もどんどん解けて きっとよくなっていくはず。

世界を創っているのは、私たちひとりひとりの思いなんだもの(^^)





















行き詰まり、そして新しい境地

2013年10月19日 18時18分30秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前回を始め これまでのブログの中で、親に抑圧された話をずいぶん書いてきました。

今は、三次元を超えた視点がかなり定着してきたおかげで、何事であれ ひとつ見方からそうそう思い詰めることはなくなりましたが、今身を置いているこの世界がすべてだった頃は、「親に虐げられた自分」という見方から抜け出せなかったんだよね(^_^;)

幼くて 親のいいなりになるしか選択肢がない状況で 理不尽な強要をされるというのは、それはもう 被害者意識が生まれるのもやむなし、という感じなんですが、大人になって 力をつけた後でも その意識がそっくり残ってしまうと、なにかとややこしい事態が生じるわけで。。。




親自身、そのまた親からいろいろと背負わされたきたものがあるはずで、人間なんだから 完璧じゃないのは当然だと思います。

親との意識のズレは 確かに感じたけれど、それだけなら単なる「違和感」「腹立ち」で済んだかもしれない。

でも、申し開きや親への批判的言動、さらに自分が感じるままに話すこと動くことまで禁じられたツケは、その後何十年にも渡る影響を残したと思うんだよね。

痛ければ痛い、苦しいなら苦しい、と率直に言えたなら、ここまで尾を引くことはなかったんじゃないかな。

からだの苦痛は訴えられても、心の苦痛を訴えることは許されない。

いや、正面切って禁止を申し渡された記憶さえないから、無言の圧力っていうことかな。

親の意図を読み取った私は、縮こまって 自分の殻に閉じこもり、精神的感度を鈍らせ 心を閉ざして生きるようになったのだと思います。

そしてその間に、氣づいてはいなかったけれど、膨大な量の怒りを溜め込んでいたんだよね



そうやって 意識せぬうちに大きく育っていたのが、「仕返ししたい」という強い欲求。

平たく言えば、奪われ続けたエネルギーを取り返して、プラマイゼロにせにゃあ氣が済まん、ということです

ここで厄介なのは、相手が必ずしも親でなくても構わない、という点。

要は プラマイゼロにできればいいのだから。

いや むしろ、親に対しては この期に及んでも「愛されたい」という期待を捨てきれないので、必然的に 親を思い起こさせるような他人に エネルギー奪還の欲求が向かう可能性のほうが 大きいわけ。

私、和歌山に来てから、親と似たタイプの人と やたらトラブルを起こす自分を自覚するようになったけど、今にして思えば、この「取り返すぞ」という執着が そういう人や状況を引き寄せてた。。。つまり、無意識のレベルでは「望むところだ!」だったんだよね (^◇^;)



そんな欲求は、目の前の人だけでなく、マスメディアに登場する人たちにも向かいました。

むしろ、歯に衣着せず悪口雑言をぶちまけるには 格好の相手だったかもしれない。

敵役として遜色ないしね、政治家や企業トップなんて いかにも貫禄タップリ「悪代官」ってイメージだし(笑)



ただ、ここに大きな問題が。

自分のこの困ったクセを追求していて氣づいたんです・・・・敵とみなした相手をどれだけ憎んでも叩いても、この長年溜め込んだ怒りは 消えも減りもしないっていうことに。

自分では プラマイゼロになるまで、のつもりだった。

それならいずれは「よっしゃぁ、満足した、もういいや♪」ってにこやかに言える日がくるはずだよね。

でも、怒り猛る自分をよくよく観察すると、どれほどエネルギーを奪う行動をとっても 悪口雑言を吐き散らしても、一瞬の満足は確かにあるけれど、過去の傷が癒され 心が満たされる状態には 決してならない。

空っぽのカップに ザバザバと奪い返しては入れているつもりで、実は一滴も入ってない

昨今「怒れる老人が多い」なんて話をよく聞くけれど、そういう仕組みだから 年を重ねるごとに ますます怒れる人が増えちゃうんだね(T_T)

むしろ、かつてなかったような怒り方をする「切れやすい人」とか「モンスターペアレント」とか、社会全体で 怒れる人も 怒りの度合いも増してない?

嫌○のヘイトデモなんか これまであまり見たことないような すごい憎悪の念を感じる。

ただ。。。それはほんとうに隣人たちに向けられたもの?

実は お互いに 怒りを呼び覚ますスイッチの押し合いをしちゃってるだけ、なんてこと ないですか?

せめぎ合いを促すのは、実は 今ここの問題意識以上に 氣づかず抱え込んでいる 遠い昔の怒りなのでは?




今世の中で起こっている大小さまざまな問題、そのほとんどが 賛成反対の二元対立の図式の中にあるけれど、敵とみなす相手をどれだけ責めても氣持ちは収まらないし、きのうも書いたように 責められる方は 反省するより先に防御や反撃に回っちゃうから、どこまでいっても平行線、結局は力押しでの一時しのぎの決着で終わってしまう。

争いの火種は どこまでも持ち越し。

そもそも 敵あっての「敵対」なのだから、対立すること自体が 敵を生み出しているともいえるわけだしね。

今のままどこまでいっても ほんとうの解決に至ることはないって、もう多くの人が うすうすわかっているのではないでしょうか?

最近「無気力・無関心層」と呼ばれる人が増えているのは、現状では解決が見出せないことをなんとなく感じ取り、なのにそれに代わる解決法が見つからないことに絶望して、「もういっそ見ない・聞かないで 刹那的でも今を楽しむ方がマシ」と考える人が多いからなんじゃないかな?





その一方で、新しい視点から問題にアプローチする動きも あちこちで生まれているみたい。

「電力会社を敵視しただけで原発問題が解決するわけではない」とおっしゃる ドキュメンタリー映画「六ヶ所ラプソディー」「ミツバチの羽音と地球の回転」の鎌仲ひとみ監督みたいに、敵対することをやめ 新しい方向を見出そうとする人も、確かに増えていると感じます。

12日の「戦わない解決」でも書いたけれど、戦いで恒久的平和が得られたためしがないことは 長い歴史の中でもう十分証明されているものね。






二元対立を離れての 私見「戦わない解決」、私なりの色合い・偏見をますます強めつつ 続きます。


















負のからくり、負の痛み

2013年10月18日 12時15分01秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


連日長々と書き連ねているこの日記、ようやくここで発端の「戦わない解決」の話に戻ります。

あの話の終わりのほうで、「そんなの理想論だよ」という意見がきっと出るだろうと言いました。

「いったんなじんだ価値観や 相手憎しで固まっちゃった感情を 理性であっさり変えられたら苦労はない」と。

なぜそう思ったかっていうと、私も含め 世の大半の人は、自分の過ちや履き違えをたどることはおろか、そんなものがあると認めることさえ耐え難いように見えるから。

たとえ明らかに誤りだとわかっていても、人からそれを指摘されれば、受け入れるより先に まず身構えてしまう。

理性で「聞き入れるべきだ」とわかっていても、心が抵抗するから 形だけのものとなってしまい、問題解決につながらない。

そこで相手が責めや非難の色を見せようものなら、理性など吹っ飛んで、全力で防御し、ときには反撃に回る。

多くの人に どうもそんな思考回路があるのではないかと。

こうして、共に力を合わせて解決する機会を逃し、対立して不毛の争いを繰り返してしまうんですね。

じゃあ、どうしてこういうことが起こるのか。




「ブラックボックス」の話の中で、幼少期のおぼろげな記憶の中に ときおり鮮やかに残る場面が ブラックボックスを解き明かすために意図的に残された手がかりなのでは、っていうことを書きました。

私自身の記憶のひとつに、こんなエピソードがあります。



まだ幼稚園に入る前の話。

ある日、私は 友だちと二人して れんげなどの野の花を摘んで回っていて、どこかのお百姓さんの畑に入り込み、栽培されていた菜の花を摘み取ってしまったのです。

私たちには、道端に咲く花と 栽培された花の違いがわからなかった。

しかし、家に帰ってその花束を母に見せると、すごい剣幕で叱り飛ばされた上、今からお百姓さんに謝りに連れて行くと申し渡されたのです。

叱られる中で 畑と道端の花の違いは なんとなくわかってきました。

しかし、それをまだ知らなかったときにしてしまったことについて、なぜそこまでひどく叱られなければならないのかはわからなかった。

わからないまま、ただひたすら怖ろしかったことだけは鮮明に覚えています。

それと、謝りに行かねばならないことを ひどく恥ずかしく思ったことも。

今にして思えば、それは 母がよく恥辱を感じさせるような叱り方をしていたからです。

私の中では、叱られること = 恥 という刷り込みになっていたのです。

結局畑に行くと お百姓さんはおられなくて、そのあとどうなったかはわかりませんが、ともかくホッとしたことだけは覚えています。



この体験が、その後の私の 過ちを指摘されたときの反応の原点になったんじゃないかと思います。

もちろん、似たような体験が 前後にもっとあったかもしれません。

とにかく、強烈に心身に刻み付けられたんですね。



なぜそうなったのかをたどることで 過ちを祝福に変えられるなんていう発想はゼロ。

恥も責めも必要ないよ、ただ込められたメッセージを読み解いて 学びにすればいいんだよ、なんて、誰も教えてくれなかったんだもの(T_T)

しかも、たとえ相手がだた指摘しただけであっても、私には非難と恥辱をかぶせられるようにしか聞こえない、受け取れない。

叱責の体験以来、また誰かにわけもわからず怒られるんじゃないかって いつもビクビクして身構えてたから。

誰かの言葉を非難と取った瞬間にスイッチが入り、からだの感覚が湧き起こるところから始まるのは、他のすべてのネガ反応と同じ。

その苦しみから逃れるには、とにかく抗弁して 誤りを認めないこと。

申し開きのしようがない場合は、詫びる体裁をつくろい 恭順の意を示して、それ以上責め立てられないよう身を守ること。

その前に、できることなら 過ち自体が見つからないよう 全力で隠すこと。

そんな歪んだ刷り込みが、やたら押しが強く弁が立ち、見た目は優等生で手のかからない、その陰で 誰に対しても心を開くことを知らず、陰湿な氣の遣い方をする子へと、私を形作っていきました。



およそ自慢できない話ですが、敢えてこれを書いたのは、このからくりの原型って 枝葉の違いはあれど おおもとは多くの人に共通なんじゃないかと思うから。

そして、そのからくりどうしの噛み合い・ぶつかり合いが、今起きているさまざまな争いごとの根っこにあるんじゃないかという氣がするからなんです。




どんな手段を講じても 他の人を踏みつけにしてでも 自分たちに都合のいい方にすべてを持っていこうとするように見える、政治家や企業上層部。

守り 導く役目のはずなのに 弱い立場の者からエネルギーを奪わずにはいられないように見える、一部の警官・教師・親など。

新聞やテレビ、ネットニュースをちらっと一瞥するだけで、こういう人たちの話題には事欠きません。

そして実は 彼らみな、めいめいのブラックボックスの中に 自分でも氣づかぬまま、こういうからくりを刷り込まれているんじゃないだろうか。

彼らが抗弁したり 隠そうとしたりすればするほど ますます悪いヤツに見え、こちらの怒りもエスカレートする。

彼らを憎んだり責めたり叩いたりするのは簡単なこと。

少し前までは、私自身 ためらいなくしていたことです。

だから、そうしたくなる氣持ちはよぉくわかる、わかるのだけれど、それをどこまで続けても 問題が解決を見ることはないし、苦しんでいる人たちも救われないのですね。




そして、責める側にも、やはりブラックボックスに隠れた思考のからくりがあるのです。

これについては、次のブログで。





















変る

2013年10月17日 15時18分30秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「臨死体験」「同時代を撃つ」などの著作で有名なジャーナリスト・立花隆さんのご著書「宇宙からの帰還」、これも20年来の愛読書ですが、宇宙開発の先駆けとして 未知の世界に挑んだ宇宙飛行士さんたちのお話。

人類初の月面着陸に成功したアポロ11号や 映画にもなったアポロ13号の事故&帰還等のエピソードにも 胸が躍りますが、なんといっても心惹かれるのは、飛行士のみなさん ほぼ共通して、宇宙に行って「外側から地球を眺める」という鮮烈な体験をしたことで、意識が変り、その後の人生に大きな影響が及ぶこととなった、というところ。

伝道師になった人あり、ESP能力の研究家になった人あり、環境ビジネスに携わった人あり、精神に破綻をきたしちゃった人もいるんだよね。

内的世界に関心がおありの方には 「宇宙からの帰還」お勧めの一冊です。



私はもちろん まだ宇宙旅行をしたことはないけれど、自分というものを外側から見つめる体験をしたという意味においては、けっこう似たところがあるんじゃないかと。。。いや、体験の規模が小さい分、そこまで劇的な影響ではないけどね。

表面的には さしたる変化もない いつもどおりの日常。

でも、その底で 静かになにかが変りつつあるのを感じてもいます。





愛であること、豊かであること、調和が取れていること、安らかであること、本来は これが私たちの常態・スタンダードなんですね。

「行って かえる」の行きの道のりで 大きくかけ離れてしまったから、とてもそうは思えないけど(^_^;)

だから、ずーっと雲に覆われた太陽みたいなありさまで生きてきて、ある日突然 本来の自分に限りなく近い姿を垣間見ると、その瞬間は「こ、こんな私がいるのか~」って すごく新鮮でインパクトあるんだけど、もともと当たり前の姿なので、いったんそういう自分がいることに慣れてしまうと、その状態にあっても あまり意識しなくなる。

むしろ それまでと同じく、本来の姿から外れたときの違和感の方が 強く訴えかけてくるんですね。

一見 元の木阿弥。

意地悪な継母が改心して 以来別人のようになりました、なぁんて 自分にもまわりにもわかりやすいビフォーアフターなど、そうそうあるものじゃない。

でも、傍目にはわからない、いや、本人でさえ なかなか氣づけないようなところで、変化は起きているんだなぁ。



氣がついたら、不安のない時間が増えていた。

氣がついたら、天や自分への信頼度が増していた。

氣がついたら、意図せぬ前向きな思考が増えていた。

氣がついたら、温もりを覚える時間が増えていた。




もう~、なんで言葉にすると こうもきれいな箇条書きになっちゃうんだろう

こんなスッキリしたもんじゃないです、実際のところ。

日々さまざまな思いが混沌とひしめく中で、ふとした端々に なんか以前と違う反応をしている自分がいるなぁっていうのが ちらっちらっと垣間見えて。。。っていうのが、より近いかな。

だから、自分の言ってることやしてることを見聞きしていて、あれ?なんか前と違うな、って 後からふと氣づいたりして。。。自分のことなのにね

でもまあ、トータルで「なんかよくなったよね、自分♪」っていう印象になるわけです。



そして、ネガな自分は 自分そのものじゃない、別物なんだ、と わずかな時間にもせよ はっきり感じ取れたことは、これまでになく 自分を強くしてくれたようにも思います。

理屈じゃなく どこかで感じる「大丈夫」という思いが、これまで今ひとつ踏み込めなかった選択を 次々と可能にしてくれています。



ブログに新しいカテゴリーを設けたりしたのも、その表れかと。

以前から、現在の自分より もっと安定した境地があるらしいことは垣間見えたから、その観点から「きっと大丈夫、もっとよく生きられるはず」ぐらいのことは書けたけれど、今はより自信を持って口にできるようになったのを感じます。

不安は現実じゃない、限界も幻でしかない、自分も自分が創る世界も いくらでも望むように変えられる、ときっぱり断じられるまでにはなってないけれど、「~なんじゃないかな」ではなく「~に違いない」と言い切るぐらいにはなれたと思うから。





それと同時に、今の世の中の様子や 当たり前と思い込んできたものへの疑問、もっとこうなればいいのにっていう思いも、より大きくふくらんできたような氣がするのです。

これまでは そういう話題は極力避けてきたけれど、あくまでも一個人の意見・偏見にすぎないとわかった上で、もっとためらいなく 思ったことを表現してもいいんじゃないかなって。

私たちひとりひとりが、それぞれに 幸せで充実した人生を送れることがなによりって思うけれど、そのためには、私たちが属している社会の安定・成長も不可欠だものね☆




不安が減った分 心の中が温かくなって、世界がより希望に満ちて見えてきたっていうのかな、今の世の中がいくらよくないように見えても、きっとよくできる、よくなれるっていう氣がしています(^^)




















台風過ぎて

2013年10月16日 07時34分58秒 | ふと思うこと


直撃は免れたとはいえ、昨夜から 雨風共にすさまじかった台風26号。

夕べは眠かったのもあって 10時前には布団に入ったけれど、寝ている間中 頭の片隅で雨音・風音を氣にかけていたんじゃないかと思います。

朝4時に目覚ましかけておいたけど、鳴るより早く起きちゃったし。

けさは 青空に白い雲、 お日さまも顔をのぞかせているけれど、時おりお名残のように すごい突風が吹きつけてきます。

今ごろは関東のほうがすごいお天氣になっているんだろうなぁ。。。

そちら方面のみなさま、どうぞお氣をつけて、くれぐれもご無理などなさいませんように。

台風真っ只中の地域、これから向かう地域、どちらも大きな被害など出ぬようお祈りしています。






新しく設けたカテゴリー、「貴秋の視点、あるいは偏見」。

6月辺りから ひたすら内側で思い続けたあれやこれやが、ようやく熟して言葉化できるまでになったようで、溢れ出すものを 連日更新させていただいていますが、実はきのうになって ひそかに「しまった」と思ったんですね。

きのう、そして今日の分として書いているところって、実はまだ消化し切れてない部分だった、と。

絵や写真を見るときもそうだけれど、あまりに近すぎると よく見えないっていうことがありますね。

絵や写真なら 少し後ろに下がって眺めたりしますが、体験を思い返すときは 時間的に距離をあけるわけです。

が、きのうの「新しい視点を得た」という話は、ブログにも書いたように まだ体験している真っ最中。



時間的に十分消化できていない思い出は、近視眼的で主観に溺れやすいし、イメージが混沌としているから文章化しにくい。

できる限り忠実に描写しようとすると 文章の方まで混沌として読みづらいし、ムリにすっきり読みやすく書こうとすると (自分から見て)ウソっぽくなる。

うかつだった~、えらいこと始めちゃった、と反省したけれど、ここまで書いてきて 途中放置もいかがなものかという氣もするし、とにかくできるだけのものをアップさせていただきました。

・・・なんて、プロでもないのになにをいっちょまえなことを、と忸怩たる思いもあるのですが、いくら日記であれ素人であれ やはり公の場に出すからには それなりの責任も伴うと思うし。

今回 ただでさえ長い文章が、あやふやな表現で ことさら読みづらいかと思います。

それでも読んで下さるみなさまには、心からのお詫びとお礼を申し上げます。

ほんとうにすみません、そして いつもありがとうございます m(__)m













解放。。。の途上 (^^)

2013年10月15日 20時20分17秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


優しくありたいのに、なぜか人に冷たく接してしまう。

幸せになりたいのに、なぜか幸せに結びつかない選択をしてしまう。

「なぜか」がつく間は ブラックボックスの中だけど、そのからくりがわかれば きっと出られるはず。

そのためには、「幸せになれない思考回路の正体」と「なぜその思考回路が生まれたのか」がわかれば 解放される、と思っていたんです、当初は。

そして、ほとんどすべてといっていい引っかかりやもつれの根っこに 親子関係の問題が横たわっているとはっきり確認できたのは、大きな収穫でした。

が、たしかに そのからくりが見えると、ほっとして涙が出て楽になって。。。と、光さす心地を味わえるんですが、感動も束の間、しばらく経つと、せっかく手放したはずの回路を また拾っちゃうんですね。

数十年がかりで強化してきたクセなのだから、手放すにもそれなりの時間がかかるよね、と納得しつつも、行きつ戻りつがあまりにも執拗に繰り返されると、からくりを解き明かした頃の「やった!」感もだんだん薄れ、これってほんとうに解放されてるんだろうか?実は以前となにも変っていないんじゃないのか?という疑いが忍び寄ってくる。

そんな葛藤に悩まされていたときに出会ったのが、“作られた物語”ではなく からだの感覚を無心に観察したらいいよ、という情報。

詳しくは、ここここに書かせてもらっています。




一番根源的な記憶は、からだの感覚として刻まれている。

それに付随して起こる怒りや悲しみなどの感情は、すでにもう“作られた物語”なのだ、と。

そして、「辛かったねぇ、自分」 → 「そういえば、あのときの親とそっくりな人がいて、好きになれないんだよね」 → 「あの人ムカつくなぁ、この間もこんなこと言われて・・・」などと、記憶が現在につながり 連鎖的に発展していくと、新たな物語がどんどん紡がれて、肝心の原点からみるみる離れていってしまう。

離れれば離れるほど 原点に戻りにくくなり、解放から遠ざかってしまう。

だから、思考回路の生まれた過程や理由をいくら追いかけても、芳しい効果が得られなかったんだなぁ。

しかも、この発展のプロセスって、自分では意識せぬまま いつの間にかど~んと進んでるんですね。

だから、肝心の道筋はブラックボックスに隠れてしまい、「なぜか」この人嫌い、「なぜか」この場面腹立つ、と 自動的な反応だけが残って、繰り返し悩まされることになる。




では、この仮説に従い、物語はきれいさっぱり脇に押しやって、からだの感覚に集中し続けた結果 どうなったかっていうと。

この検証、まだまだ続行中なので 中間報告といったところなんですが(^^ゞ



しばらくは、これも行きつ戻りつの繰り返しでした。

現象だけ静かに観察していれば、やがてはすぅっと消えていく、のだけれど、しばらくすると、また同じ感覚が戻ってきて、感情が波だって。



これを何ヶ月ぐらい続けてたんだろう。。。あるときふと氣がついたんです。

悩んだり翻弄されたり ジタバタやってる自分を、少し離れた外側から見つめる 淡いけれどくっきりした視点が、いつの間にか現れて しんと居座っていることに。

不本意ながら 自分のすべてであるように感じざるを得なかった 三次元世界の外に、もっと広い世界が 確かに存在していたんだ、と。

それまでも概念として捉えてはいたし、ときたまかすかに感じることもあったんだけど、そういう夢か現か定かでないような 儚い感じじゃなくて、もうちょっと生々しい実感として。


地球視点と宇宙視点みたいなものかな。



私たちは、地球に生まれ育って、ほとんどの人は地球の外に出たことがなくって、地球がすべてっていう感覚を 意識するともなしに身につけている。

その外に宇宙があることは 知識として知っているし、写真もたくさん見てるから 疑いはしないんだけど、それはどこかおとぎ話にも似て 実感を伴わない。

それがある日、宇宙飛行士のように 少し離れた宇宙空間から、青い球体である地球を眺めている自分がいることに氣づく。

そんな感じ。




からだの感覚に集中するとは 同時に“作られた物語”の補給を断つこと、これをえんえん繰り返すうちに、物語が薄くなった分 外側の視点がじわじわと厚みを増し、存在を実感できるまでになったらしい。

これ、きっともとからあったんだね。。。「行き」の道のりで忘れていただけで。





この視点を獲得し(取り戻し)て以来、私の中でネガ世界の占める割合が けっこう減り、遠のいた感があります。

まだいささかウェイトは大きくとも、所詮はもっと大きな世界の一部分でしかなく、そこにい続けなければならない理由はないのだと。

そして、これからもっともっと割合を小さくしていき、やがてはすっかり解放されるに違いないと。

今はまだ、そんなに自在に抜け出せるわけではないのですけどね。

それでも、どこかに「もう大丈夫」っていう安心感が芽生えたのは 確かみたい♪



その安心感が、意識をじわじわと変え始めたようです(^^)