太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

Y

2016-08-22 18:31:40 | 人生で出会った人々
日本で父の会社で事務をしていたとき、オフィス用品を発注するサイト上に

発注担当者が集う場所があり、それを通して出会ったのが Y だった。

関東圏に住んでいたYとは、お互いの家を行き来もしたし、いろんなところに出かけた。

私達は正反対といえる性格だった。


たとえばYと食事をしているとき、Yのお皿の端のほうに、睫毛のようなものがあった。

食べ物に混ざっていたわけではないから、私だったら黙っているか、せいぜい店の人に言うだけだ。

それをYは、とことん罵倒し、とうとう一人分をタダにした。

電車に乗っている時、揺れた拍子に隣にいた女性が持っていたウーロン茶のペットボトルから

飛び出した雫が、Yのバッグについた。

女性は「すみません」と謝ったが、Yは「謝って済むと思ってんの!拭きなさいよ!」と言い

女性にティッシュを出させ、バッグを拭かせるまで許さなかった。

店員の態度が悪いと、やはりとことんやり込める。

やり過ぎじゃないかと言う私に対してYは、

「店の為だよ。次にその店に行った時、改善されていたらウンと仲良しになっちゃうの」

と言って笑うのだった。


そんな具合に、Yといると私はその場から消え去りたいと思うことがたびたびあるのだけれど、

私はYが好きだった。



Yと出会った時、私はまだ最初の結婚をしていたが、人生に大きなうねりがやってきて

私は家を出た。

離婚したい私に、相手は頑として応じないという攻防戦が続いたある日、

着替えを取りに家に戻った私は、洗面所にあるキャビネットの上に手紙が広げて置いてあるのを見つけた。

それは相手が私宛に書いた「遺書」だった。

私はすっかり動転し、気がつくとYに電話をしていた。

私の話を聞いていたYは、まったく動じずに言った。



「話はわかったから、それをそのまま、あった場所に置いて、あんたは実家に帰りな」


「でも、もし死んじゃったら?」

「大丈夫だよ」

「でも、もしも・・・」

私はその時、相手が死ぬということよりも、私が原因となることのほうを恐れていた。

10年以上連れ添って、冷たいものである。


「あのねぇ、遺書ってもんは普通、死んじゃってから机の引き出しとかからひっそり出てくるんだよ。

この意味わかる?それは遺書に見せかけた幼稚な脅しだよ。だから見なかったことにして帰りな」



それはそうかとも、思う。しかし私はさらに食い下がった。

「でも世の中には万が一ということが・・・」

するとYはカラカラと笑って言ったのだ。



「離婚していちいち自殺していたら、日本中死人だらけじゃん。死ぬ、死ぬっていう人は死なないよ。

それに、もしそうなったとしても、それはアンタのせいじゃないから」


「ほらほら!起こりうるかもしれないってことじゃん!」


「だからさ、もしそうなったとしても、それがアンタのせいじゃないって私がアンタに思わせてあげる」



それまで私に、こんなに断固としたアドバイスをした人はいなかった。

私はまだ動揺しながらも、Yの言うとおりにした。

このとき、私には寄り添ってくれる人ではなく、Yが必要だった。




そのあと、ここでは語りつくせないようなことがあり、私は離婚した。

いいことも、そうじゃないことも、ジェットコースターのように次々起きてきて、

私は目の前のことに対処してゆくのに必死だった。

少しずつYから心が離れていった。

私の理性はYと一緒にいたかったが、どうしても以前のようになれなくなった。

Yに対して失望することが続いたことも理由のひとつだと思うが

一緒に過ごすことや、なにかを分かち合うことに無理を感じてしまう。

自分にもYにも嘘をつきながら、前と変わらないふうに装うのはつらかった。

私は、Yと距離をおくようになった。

そのことがYを悲しませることはとても辛かったけれども、

そして私も悲しくてたまらなかったのだけれど、

それはもう、ほんとうにどうしようもないことだった。




私は今でも、Yが好きだ。

私がYに受けた恩を、私は生涯忘れない。

この先どこかでまた二人の人生が交差する箇所があるかもしれない。

Yが今幸せであることを、心から願っている。







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