太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

携帯の黒電話

2020-10-08 10:09:26 | 日記
新聞社が舞台の小説を読んでいる。
地方都市の大手の新聞社で、役員会議で無線を取り入れるかどうかを決めかねているときに、大事故が起こる。
記者との連絡はすべてポケベルである。
ポケベルの電波が届かない山中の現場に向かった記者の安否もわからず、
記者からの記事も、すぐには受け取れない。
1秒を争うニュースの世界で、なんとまだるっこいことをしていたのか。

若い人は、戦後すぐの話かと思うだろうがそうじゃない。
1985年だ。
私はもう地方のテレビ局で働いて2年目になっていた。
携帯電話など普及していなかったし、報道記者はポケベルを持っていた。

1988年に私が父の会社に入った頃、来客の一人が、出始めの携帯電話を持ってきた。
それは、手提げ金庫の上に黒電話が乗っかったような、なんとも奇妙なシロモノだった。
それが私が携帯電話を見た最初だ。
見るからに重そうなソレを、その人は得意そうにテーブルの上に置いた。
近くにある電話から、その携帯電話に電話をかけると、リーンッリーンッという黒電話特有のけたたましい音が鳴った。
聞けば、バッテリーは2,3時間しかもたないという。

読んでいる小説の中でも、携帯電話はバッテリーが数時間しかもたないから意味がない、というくだりがあった。


その後、携帯電話はあっというまに小型化していき、
1990年あたりから、まわりでぽつぽつと持つ人が出てきたが、本体も通話料もけっこうな高額だったように思う。

並行してパソコンが普及し、デジタルカメラが出てきて、
現像するまでどんな写真が撮れたかわからないなんてことが嘘のようになった。

電話どころかカメラもコンピューターもポケットに入れて歩けるようになるまでの、30年という歳月は、
果たして長かったのか短かったのか。



待っている電話を家族にとられないように、廊下にある電話の近くでうろうろしていたあの頃。
待ち合わせに現れない相手に、最初は怒り、事故でもあったかと心配し、去るに去れずに気を揉んでいたあの頃。


いつでも連絡がとれるようになって各段と便利にはなったけれど
すぐ連絡が取れるはずなのに連絡がない、メールをしたのに返信がない、
というストレスは変わらずにある。
みじめな恋愛をしていたとき、鳴らない携帯電話を布団の中に入れて、
まるまって眠れない長い夜を過ごした。

それでも、みんなで「せーの!」で携帯電話をヤメにしたとしても、
なかった頃に青春を過ごした私ですら、そこに戻るのは難しいかもしれないなあと思うのである。








健康診断、そんな一日

2020-10-08 09:06:17 | 日記
ずいぶん怠けていた健康診断をやっておくことにした。
8月から職場負担の医療保険がなくなって、個人負担で加入した医療保険も
今までかかっていたクリニックが適用されるタイプを選んだことだし
今なら自由な時間がたくさんある。

歯医者や皮膚科などは仕方がないにしても、かかりつけ医は日本人がいい。
車で40分以上かかるけれど、日本語で話せるのは気が楽だ。
最後にチェックを受けたのは、2017年。
あれからもう3年もたったか・・・・・

その日は血液検査をして、その結果を聞きに行くときに子宮頸がんの検査と
乳がんの検査を受けることになった。
完全に分業化しているアメリカは、いちいち別の場所に行って検査をするが、
ここはひとつの高層ビルの中にそれらが入っているので、エレベーターで移動するだけで済む。

検査のために、朝食抜きで行ったのでおなかがすいた。
日本食スーパーに行って明太子のおにぎりを買い、
カイルアのコリンのところで、頼んでいた作品のスキャンを受け取り、
夫の叔母の家に寄って、おにぎりを食べた。



叔母と二人で、やりかけのパズルを2時間かけて完成させた。

時間に縛られない、のどかな日々。
週に5日キリキリ働いていたあの生活に、戻れる気がしない。