イギリスの映画を観ていたら、黒電話が映った。
懐かしいなと思った途端、ある記憶が脳の引き出しから唐突に飛び出てきた。
私が子供の頃、電話がない家も珍しくはなく、そういうお宅は近所の電話がある家の電話番号のあとに「(呼出)」と付け足していた。
電話がある家の電話は、みんな黒電話だった。
飛び出してきたのは、定期的に黒電話を掃除してくれる人が家に来た、という記憶だ。
紺色の制服を着た女性が電話機を拭き、コードを拭いて、最後に受話器の声を吹き込む方に、丸いプラスティックの、独特な香りがするものをカチっとはめて終了する。
その香りは他に例えるものがない香りで、想像するに、消毒機能のある芳香剤なのではなかったかと思う。
どの程度の頻度で来ていたのかはわからない。
子供だった私は、その人が来ると、近くでジーっと作業を見ているのが好きだった。
「黒電話、使ったことある?」夫に聞いてみた。
「あるよ。インディアナ州のグランパんちにあった」
「今思い出したんだけど、定期的に掃除に来る人がいたんだよ。それで芳香剤を取り換えて帰るの」
「ふーん、その人はどこから来るの。掃除専門なの、電話会社なの」
「わからない。その頃は電話は 電電公社 といって公共事業だった」
「わざわざ電話を掃除するために、1件1件まわるの?」
「なーんにもわからないんだよね・・・・あれはなんだったんだ」
母に聞けば覚えていると思うが、その母はもういない。
こういう、どうでもいいような思い出などを、もっとたくさん話しておきたかったと悔やまれる。
受話器に取り付けられた芳香剤の香りが、まるで目の前にそれがあるかのように鼻先に香ってくる。
1960年代終わりから1970年代前半の頃の話である。