私は、決めた。
チマチマ節約するのはやめた
本来、私はケチで心配性で、お金がなくなったらどうしよう、という不安の中で生きていた。
恵まれたことに、これまで生きてきて、お金がなくて困ったことなどないのに、である。
出元は母の、お金に対するネガティブな刷り込みだ。
『お金が貯まるとロクなことがない』
母はよくそう言っていた。
本業以外に、いろんな会社を作っては潰してきた奔放な父の尻ぬぐいをするのは母だったから、
母がそういう信念をもってしまうのも無理からぬことだったかもしれない。
母の信念でいくと
お金が貯まる → ろくでもないことが起きて、なくなる
その信念を信じているから、ほーらね、やっぱりそうなった、ということが起こり、
ますますその信念を強くしてゆく。
でも同じことを、別の角度から見たら
お金が必要なことが起こる → ちょうど払えるお金があったのでよかった
と思うこともできる。ほーらね、必要なときにちゃんとお金があるようにできてるんだよね、となる。
前者の信念で生きていると、本当にそうなる。
後者の信念で生きていると、本当にそうなる。
しかし起きていることは同じなのだ。
私はずっと前者だったから、わかる。
顕著なのは、前の結婚時代に家を建てたとき。
相手は高給取りで、私もフルタイムで働いていたから、普通に考えれば月々のローンは楽に払ってゆけるはずだった。
でも私は30年という借金が重く、払ってゆけるのかどうか不安で不安でたまらなかった。
ワイシャツは家で洗い、月の初めに予算を袋わけして管理し、
ボーナス時にできるだけまとめてローンを払い、きりきりと節約をしていたが、
離婚する段になったとき、びっくりするほど貯蓄はなかったのだから恐ろしい。
なりゆきから家を建てたこともあり、頭金にする現金が足りず、姉や両親から借りたほど、うちにはお金がいつもなかった。
毎月がっつり入ってくるお金は、いったいどこに消えてゆくのか。
今の夫と再婚し、収入は二人合わせても前の結婚時代の半分にも遠く満たなかったのに、私の気持ちは豊かだった。
そして、なぜかどんどんお金は貯まっていった。
お金って、形のあるものじゃないんだ、と理解したのはそのとき。
ハワイに来て、夫の転職続きや、無職の時期などがあり、
私の中に再び、古い、母と同じ信念が顔を出すようになった。
気が付くと私は、精肉売り場でひき肉を買う時、肉の良しあしでなくて値段を比べていて、
8ドル39セントよりも、7ドル99セントのほうを買う。
アロハ豆腐は、美味しいお豆腐なのだが、ちょっと高いので
普段はハウス食品の豆腐を買う。
アロハ豆腐は3ドル50セントで、ハウスは2ドル50セントほど。
ある日、そういうことをしている自分がほとほと卑しくなってきた。
私が美味しいと思うものを、私に買ってあげようと思った。
何万円という話じゃない。
50円とか100円足す価値が、自分にはないのか?と思うと悲しくなる。
私はそうやって、自分に悲しい思いをさせてきたのだ。
今、私は喜んでアロハ豆腐を毎日食べる。
見て、美味しそうな肉や魚を買い、よさそうだと思うものを買う。
スーパーマーケットで値段を見ないで買うことも増えて、
先日、買ったロメインレタスが700円だったと後でわかった、ということもあった。
700円は、ちと高かったけど、
700円もするレタスを買えるお金があってラッキーだ、と思うことにする。
お金は空気のように、あって当たり前。
使ったら、なくなってしまうっていうのは真っ赤な嘘。
喜びともに使い、感謝して元の流れに戻せば、循環してどんどん流れ込んでくる。
「そんなはずないじゃん、実際の収入は数字として出てきてるわけだし」
と言いつのるエゴを、
「今の何倍もの収入があったとき、どうだったか思い出してみ?」
と諭す。
「ない、ない」「なくなっちゃう、なくなっちゃう」
と念じながら生きていれば、そうなる。
私は私の信念どおりに生きてゆくようになっているはずなのである。