落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

みえない罪の翳に

2023年09月28日 | TV

去年、全国水平社創立100周年を記念して製作された映画『破戒』を観たんだけど。
実は島崎藤村が好きで原作は中学生か高校生のころに読んでたので物語の内容にはまったく何の違和感もなかったんだけど、映画としての完成度がね…ちょっとというか、わりと残念で。推しの眞島秀和氏が主人公に大きな影響を与える活動家の猪子蓮太郎役で出てて、彼のお芝居なんか超・超素晴らしかったんだけどね…何でこうなっちゃったのかなー。

冒頭に貼ったAbema Prime「【部落差別】なぜネットで暴走する?地名やルーツを晒される被害が?就職や結婚に今も壁?『知らない世代』どう学ぶべき?」のアーカイブを観て改めて感じたんだけど、人権侵害とは何であるか、差別とはどういうものか、って概念自体が日本ではあまり認識されてないのがいちばんの問題だなと思います。

誤解を恐れずにいえば、人権侵害なんか世界中どこででも起きている。差別なんかあらゆる社会に蔓延っている。
だけど、少なくとも私が知る限りアメリカやフランスをはじめとしたヨーロッパや中国などの市民の間には、「我が国には人権侵害が存在している」「差別がある」というコンセンサスがある。それをよしとするか否かは個人の判断として。
だから「人権はまもられるべき」「差別はなくすべき」という意見が正義として認知されている。逆に、人権侵害や差別による衝突を回避するために、あえて差別的な政策が採用されることもある。政策を支持するのも支持しないのも人それぞれだけど、その判断には合理的な理由が存在する。合理的な理由も人それぞれだ。
ただし、そうした非人道的な政策はあくまでも、危機的状況を一時的に解消するための緊急避難的措置であるべきで、どこの政府にも、根本的に人権侵害をなくし、差別をなくす社会を築くための政策を模索する義務があると思う。

これが日本ではまったくお話にならない。
日本は単一民族国家だという言説を耳にしたことがある人は少なくないと思う。日本で人権侵害なんか聞いたことがない、差別なんかあるわけがないという人も多いはずだ。
当たり前のことだ。だって人権侵害が何なのか、差別がどういうものなのかを知らないんだから、認知しようがない。コンセンサスなんか存在し得ない。

そもそも憲法で保障されている基本的人権は義務教育で教わるものだけど、それが骨身に浸透している人はどれくらいいるだろうか。
検索すると、知恵蔵では「人間が人間らしく生きていくために必要な、基本的な自由と権利の総称」と定義している。
人権の考え方は18世紀末以降に世界各国の憲法に明文化されるようになったものなので、人の歴史全体の中で考えれば比較的新しいものだ。
もともとは人間の尊厳、法の下の平等、生命身体の安全、自由の保障、思想・信仰・言論・集会・結社の自由、移動の自由、プライバシー保護、財産権の保障、公平な公開裁判の保障、教育の権利や参政権などを指すという。新しい概念なので、時代によって微妙に変化はしている。

で、現代の日本では、これがすべての人にまるっと保障されなくてはならんということになっている。
なのに、「いいや違う」という人々がいて、他人の人権を侵害したり、差別したりする権利を主張し、行使する困った人々がいる。
彼らには彼らの正義があって、それをまもるためには、基本的人権を認めるわけにはいかないということにせねばならんという話です。
勝手な話です。まったく。

そしてもっと困ったことに、この基本的人権を認めませんよという人々が政府にいて、公の場でそれを堂々と口にして、みんながそれでわっはっはと笑ってしまっていたりする。公権力が堂々と人権侵害をしても許されている。むしろ差別や人権侵害を助長するような教育や制度が、たくさんの人々の批判をものともせずに横行するがままになっている。
なぜか。
人権侵害が何なのか、差別がどういうものなのかが、とことん軽視されているからだ。
それはもう絶望的に。
軽視されているから、それは何とかしなくてはという国民的議論には決してなることがない。

Abema Primeでも若い世代が部落差別を知らないのなら、みんな知らない方がいいという意見があった。賛同している出演者もいた。
その発言に悪意はないと思う。
だけど、その感覚こそが、人権侵害が何で差別がどういうものかを知ろうとしていない、知る必要がないという独善的な価値観に基づいていることを、もっと自覚してほしいと思う。
自分が人権侵害を経験したことがないから、差別をしたことがないから、そういうものを見聞きしたことがないからそれでいい、というのではもはや人間社会は成り立たない。

人権侵害が何で差別がどういうものか、私はここで説明するつもりはない。
ただいいたいのは、知らないことは罪だということだけです。
たとえあなたが知らなくても、あなたのすぐそばに、人権侵害や差別に苦しんでいる人がいます。いっぱいいます。それは現実です。
その現実に、見ないふり、知らないふりをするのは、とても卑怯なことだと、私は思う。
個人的な意見として。

関連リンク:日本国憲法

関連記事:『福田村事件』


令和の踏み絵

2023年07月21日 | TV

BBCドキュメンタリー「J-POPの捕食者:秘められたスキャンダル」【日本語字幕つき】

予告編

 

ジャニーズ問題を調査する国連ビジネスと人権の作業部会とは

先だって某夫人がジャン・コクトーとジャン・マレーを引き合いに出して、ジャニー喜多川氏の児童虐待問題を告発する被害者たちを批判していたが、そもそも彼女は何をいいたかったのだろうと思う。
単に、ジャニー氏と生前親しくしていたことを非難されたくなかったのだろうか。ただ己れの教養深さを誇示することでジャニーズ事務所を擁護して、(これまでも享受してきたであろう)おいしい汁を啜り続けたかったのだろうか。それはいったい、どれほどうまいのだろう。

某夫人が言及するまでもなく、エンターテインメント業界と性暴力は、その歴史が始まったときから切っても切れない関係にあった。
世界中どの地域でも、歌や踊りは神への祈りの手段として生まれた。人間がその生活の豊かさや安全を神に祈るために、エンターテインメントは生まれたのだ。
やがてその祈りを専門とする担い手が現れ、その担い手を援助する者が現れた。なぜならまだ人間社会には貨幣経済が生まれてもいなかった。祈りを専門とする者は衣食住を賄うために、支援者との間に個人的な関係を結ぶ必要があった。

歌も踊りも絵画も彫刻も、あらゆるアートとエンターテインメントが、ときの権力者や富豪の庇護のもとに隆盛し、その歴史を紡いできた。
ルネサンスの実現はメディチ家とカトリック教会の絶大な経済力なくしてはあり得なかった。日本では、平安〜鎌倉時代に男装して踊る白拍子から貴族や武将の愛妾となった女性が何人もいた。能を完成させた世阿弥には室町幕府第三代将軍・足利義満がいた。歌舞伎が庶民の娯楽になった時代には、見習いの少年たちが春を売る陰間茶屋というビジネスさえあった。

個別のアーティストと支援者との間に性的な関係があったかなかったかという事実はどうあれ、長い間、社会はそれを許容してきた。
つまり、「それはそういうものであって、あくまで当事者間の問題なんだから、他人がどうこういうものではない」というコンセンサスがあった、ということになる。
ここで問題になるのは、もしアーティストと支援者の間に性的な関係があったとしても、それは決して「フェア」とはいえなかったのではないか?という疑惑である。最初から「性的な関係」というのではなく、「性暴力」と表現したのはそのためだ。

元来、性行為は非常にパーソナルな行為だ。
それを、援助の対価として提供するのは、あくまでも表現者側の主体的な意志であることが前提になる。というかそういうことになっている。社会的に。でないと「フェアな取引」として成立しないから。
でも現実はそうではない。
ずっとずっとそうだったのだ。
幾万の表現者が、涙をのんで、唇を噛んで、暴力に耐えてきた。
それを、社会は黙認してきた。
自分とは関係のないことだから、と。

ましていまは21世紀、令和の時代だ。
昔がどうだったか、歴史がどうだったかなんてどうでもいい。
児童との性行為は紛う方なき立派な犯罪行為である。何人たりとも目を瞑ってなかったことにするなんて許されるものではない。
これが、グローバルスタンダードなのだ。某夫人が何をどう言い繕ったところで意味はない。

国連すら動かすほどのこの大問題に、メディアだけでなくオーディエンスさえ積極的に関わろうとしないのは、自分たちが、某夫人がすすってきたのと同じ「おいしい汁」を、これまで思う存分啜り倒してきたことを自覚しているからということは間違いがない。
それは8年前、伊藤詩織さんが当時TBSテレビのワシントン支局長だった山口敬之氏に性暴力を受けたことを告発したときに、誰もが思い知ったはずだ。彼女の訴えを、どこのメディアもまともに取り上げようとはしなかった。なぜなら、伊藤さんが訴えたような性暴力は、どこのメディアにも大なり小なり存在していたからだ。「痛くない腹を探られたくない」のではなく、「痛い腹を探られてとんでもない事実が引き摺り出されてきたらたまったものではない」から、黙っていたのだ。

私は何も聖人ぶってメディアの不正や汚らわしい性暴力を糾弾したいわけではない。
学生時代からメディアの分野で働いてきた私にとって、むしろ性暴力はいつもすぐ目の前にある、身近なリスクだった。身近過ぎて、感覚が麻痺してくるぐらい。
性的なジョークも同意のない性的接触も不愉快以外の何物でもない。そのひとつひとつはいつまで経っても記憶の中から去ってはくれないし、何年経とうと思い出せば吐き気がする。
それでも、私はいまもってなお、自分が受けた被害も、周囲の人間がしていた加害行為も、口に出して糾弾することができない。
ただ、怖くて、じっと口を噤んだままでいるしかない。

何が怖いかって、世の中が怖いのだ。

何年も前にたかが体を触られた程度のことを、性的なジョークで侮辱されたレベルのことを根にもって、やれ傷ついただの人権侵害だの騒ぐなんて頭おかしいでしょ?馬鹿なの?非常識じゃん。ふしだらなだけでしょ。何で「いやだ」って抵抗しなかったの。抗議しなかったの。どうせあんたから誘ったんでしょ。無用心だっただけじゃん。そんなの後から何いったって無駄じゃん。

これが世の中だ。
これが、怖いのだ。

性暴力に傷ついた心に塩を塗られるぐらいなら、ただ黙って我慢している方が何百倍も何千倍も楽なのだ。自分で記憶に蓋をして、なかったことにしてしまった方が楽なのだ。

でもだからといって、性暴力の被害にあった人(あったであろう人)を勝手にひとまとめにして「かわいそうな人」という偏見を押しつけるのも違うと思う。
いま大事なのは、そういう事実があったことを認めて、受けとめて、そしてそういうことが二度とない社会を築いていくことで、子どもたちや未来の世代を守ろうという気運をつくることではないだろうか。
ジャニー喜多川氏という故人ひとりの過去の性犯罪として葬り去ってしまうことは、もうできない。
なぜなら、子どもたちを性的に搾取していたのは彼一人ではないからだ。ジャニー氏が搾取した子どもたちが提供するエンターテインメントは、日本社会の隅々にまで漏れなくいきわたっている。そこに生きる人間は誰ひとり、この問題とは無関係とはいえないのではないだろうか。誰もが大なり小なり、その搾取の「おいしい汁」に手を染めていないとはいえないのではないだろうか。

子どもを搾取しない。
社会的地位やお金を利用して、他人を性的に蹂躙することは許されない。
性行為は、両者の平等な合意の上でしかおこなわれない。
性行為のときは、相手を最大限に尊重する。

そんなことが当たり前な未来を、子どもたちに用意してあげるために、このドキュメンタリーは観るべきものだと思う。

作中に「ことを荒立てないのはこの国では大切なことです。この国の企業文化の大きな部分を占めていますし、いかに摩擦を避けるかがこの国の仕組みの基本にあります」という部分がある。「何か問題が起きたとしても、人によっては礼儀を大事にするあまり、警鐘を鳴らせないのではないか」とも言及されている。
元ジャニーズのひとりは「親は『ジャニーさんにお尻くらい提供しなさい』みたいな」「それを受け入れたのはこの日本なんですよ。(ジャニーズ事務所を)トップ企業にのしあげたのってのは日本なんですよ」とも発言している。

このままで、いいのだろうか。

よくはないだろう。決して。

現時点はどうあれ、そうした搾取と人権侵害を許容し続ける社会に、未来はないと思う。
もうそういうことは、やめてもいいはずだと思う。
人間なら、もうやめよう、やめたいよ、という意思表示ができてもいいはずだと思う。

このドキュメンタリーで示されている事実はどれも、日本ではさして新しい情報ではない。
元所属タレントの暴露本は何十年も前から何冊も刊行されているし、裁判もあった。
それでも、画面に登場するいく人かの当事者たちの言葉には打ちのめされたし、ほんとうに悲しくなった。

このままで、いいはずはないと思う。
じゃあどうすればいいのか、考え始めるその一歩が、このドキュメンタリーになるのかもしれない。

本編:BBCドキュメンタリー「J-POPの捕食者:秘められたスキャンダル」【日本語字幕つき】

追記:調査報告書の発表を受けて新たに記事書きました。こちら。

関連記事
児童ポルノ・買春事件裁判傍聴記
『児童性愛者―ペドファイル』 ヤコブ・ビリング著
『スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪』 ボストン・グローブ紙〈スポットライト〉チーム編
『Black Box』 伊藤詩織著


児童虐待とジェンダーバイアスの側面から見るドラマ『中学聖日記』

2021年05月01日 | TV
『中学聖日記』

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まず半年以上も更新してないからもう誰も読んでないと思いますが。
ブログというか文章を書くのは好きだけど、ここしばらく文章を書く業務が激増して、それに伴って目を通す資料も増えるし(外国語もありますハイ)、コロナ禍で観たかった映画の公開は遅れる劇場は休館になる舞台もイベントもオンラインになり出不精になる、そして書くことがさっぱりなくなる、という引きこもりまっしぐら生活なわけでございますよ。
実はこの連休中にもあげなきゃいけない原稿ごっそりあったりしますが、とりあえず現実逃避…。

『中学聖日記』はかわかみじゅんこの同名コミックを原作に、2018年に有村架純主演で映像化した連続ドラマ。
放送当時は全然観てなかったけど、最近ちょっと気になって観てみたら、これはいい意味で結構リアルな話なんじゃないかなあと思い。
3年も前の作品なので完全ネタバレでざっとあらすじを紹介すると、非常勤講師を経て晴れて夢だった教師になった聖(有村)は、受け持ちのクラスの生徒・黒岩晶(岡田健史)から、突然「好きになっちゃいました」と告げられる。当初は思春期の子どもの心の迷い程度にうけ流していたが、晶からの真剣なアプローチは日に日にエスカレート。婚約者(町田啓太)がいると固辞しても晶の暴走は止まらない。

結局、聖は晶からぶつけられる恋心に抗いきれず、淫行教師として中学校を退職、婚約も破棄。別の地域の小学校で再スタートをきるのだが、3年後、大学受験を控えていた晶が、SNSで聖の居場所を知って追いかけてきたことから保護者の間で過去の問題が噂になり、やはり退職を余儀なくされる。
それでも晶は聖を諦めようとせず、女手ひとつで息子を育ててきた母・愛子(夏川結衣)は、代理人弁護士(桜井聖)を通じて「晶といっさい接触も連絡もしない」という誓約書を提出するよう聖に要求する。

全11話を大雑把に説明しちゃうとこんな感じですが、ぼさっと観てれば、教師と生徒の禁断愛、年齢をこえたせつない純愛物語みたいに観えなくもないけど、実際はかなりシビアです。
まず聖に執着する晶が若干コワイ。聖本人を含め、家族や周囲の人たちがあらゆる手段でどれだけ止めても、とにかく全力で聖を追い求める。成績優秀でスポーツ万能、やや情緒不安定気味ではあってもどちらかといえば“良い子”なのに、聖に対しては理性がまったく働かない。とくに、中学を辞めて街を去る聖の車(しかも運転してるのは婚約者)をなりふり構わず延々と追いかけてくるシーンはかなり迫力ありました。
人間て脆いから、相手がどんな人でも、ここまで愛情をストレートに表現されたらどうしても絆されてしまうこともあるかもしれない。新人教師として自信を持てずにいた聖が教えたことに、晶が素直に感動してくれたことも、ふたりの関係に大きく関わっているかもしれない。

でも、ふたりがたった一度キスをした(どっちかといえば晶に聖がキスされた)というだけで、教師は処分の対象になってしまうし、生徒は学校で居場所を失ってしまう。教師が別の職場に移っても、過去の“問題行動”の事実がどうあろうと世の中のしくみは彼女を許してはくれないし、生徒の保護者にとってあくまでもプライオリティはわが子の未来であって、そこに思春期の儚い恋の入りこむ余地はない。生徒は親を納得させて愛する人と再会するために、猛勉強の末、有名進学校に入学するが、彼自身が未成年である限り、ふたりの関係は決して誰にも認められはしない。
晶の母・愛子は毅然として聖にいう。「次は然るべき措置をとります」と。そしてふたりの関係は警察沙汰にまで発展する。

主人公たちの視点から観れば、学校関係者や保護者たちの処罰感情が厳しすぎるように感じられるかもしれない。
しかしこれが、もし男性教諭と女子中学生の物語だったとしたら、視聴者は同じように心震わせることができただろうか。あるいはむしろ、学校関係者や保護者たちの方に同調する視聴者がもっと多くなったかもしれない。
だからこの物語は、ヒロインが未熟な(そして誰からみても可愛らしい)新人女性教諭で、相手が中学生としては周囲から抜きん出て大人びた少年(演じている岡田健史は撮影当時すでに19歳)であり、ふたりがあくまでも純愛を貫こうとしたから成立したファンタジーだともいえる。

なぜ男女逆なら成立しないのか。
それは一般に男女の性行動に大きな格差があるという事実を抜きにしては語れない(参考:「性欲って、いったい何だろう?」)。生理学上、性衝動のコントロール力において男性は女性より劣っていることが知られている。体力差もある。これはもう生物的な差異だからしょうがない。だからもし教師が男性で生徒が少女だった場合には、ふたりのパワーバランスは自然とその逆とは違ったものと判断されてしまう。
だが性別はどうあろうが、教師が未成年の生徒としてはいけないことをしたという淫行の“事実”に変わりはない。社会的にも法的にも、未成年者は弱者だからだ。晶の母親の聖に対する態度はすべて、わが子をまもるべき保護者として当然なすべき行動をしたまでだといっていい。

「職業別犯罪率ワーストランキング」などによれば、教員の犯罪検挙率は他の職種に比べてかなり低いのに対し、わいせつ罪だけが突出して高いというデータがある。
10年以上前になるが、女性と子どもの人権問題を扱う民間組織に関わっていた際に見聞きしたデータでは(残念ながら今回は引用できる資料は発見できず)、子どもへの性虐待の加害者の大半は被害児童と面識のある人物で、親族や教師・部活動や習い事の指導者など、両者の間に大人と子どもという以上にパワーバランスに極端な差異がある関係にいるケースが多かった。
なぜそうなるかというと、そのパワーバランスゆえに、加害者側が立場を利用して被害者を精神的に抑圧し、わいせつ行為そのものを顕在化しにくくすることができるからである。だから事態はなかなか事件化しないし、どこでどんな組織が実態を調べても厳密なデータは出てこない。上記に引用したデータも、あくまで検挙された事件から算出された、“見た目”上での数値でしかない。

一方でことがいったん表沙汰になれば、加害者側には徹底した社会的制裁が待ち受けている。
この物語でも、聖は夢だった教職を追われ、幸せな結婚という将来も手放し、やっと見出した再就職にすら挫折してしまう。これがドラマで、教師が有村架純だから、視聴者は「可哀想」「愛しあっているのに」という共感を抱くことができるけれど、現実にニュースで事件として耳にしていたら、同じようにうけとめられないのではないだろうか。
そういう意味で、周囲の信頼を失った聖が転落していく過程は非常にリアルだし、この物語でオーディエンスがしっかりと感じとるべき点はそこにこそあるのではないだろうか。

それはそれとして、このドラマでは聖の婚約者・川合勝太郎側のサイドストーリーにも、意外なほどのウェイトを割いて丁寧に描写している。
聖の大学の先輩で容姿端麗なエリート商社マン、と完全無欠なキャラクターとして登場する勝太郎だが、第一話で聖にプロポーズするシーンから、すでにこの恋人同士が決して対等な人間関係を築けていないことが判明する。彼は買い物中の店内で、ちょっとしたプレゼントのように婚約指輪をほいと手渡すのだ。あれっ?と思ったのは私だけではないと思う。つまり両者の関係に明確なジェンダーバイアスが存在していることが否応なしにわかってしまう。勝太郎本人だけではなく、彼の母親(村岡希美)の発言からも、聖本人の人格やキャリア設計が一段軽く目されていることは火を見るよりも明らかになる。

上司である原口律(吉田羊)の指摘通り、彼は思い通りにならないことをそれまでほとんど経験してこなかったのかもしれない。たとえ聖が淫行教師として職を失ったとしても、その場を離れ結婚さえしてしまえば、過去はなかったことにできると思いこもうとする。そう思うのは勝太郎だけではない。聖の母親(中嶋朋子)ですら、娘に向かって大真面目にそういい放つ。
こうして文字にしてみれば浅はかとしかいいようがないし、だいたい人間そう単純ではない。勝太郎は自ら彼の元を去った聖から、10歳以上年上で帰国子女でバイセクシャルという型破りな律から、長い歳月を経て、ほんとうに人を愛するとはどういうものなのか、己の心の自由をまもることや、ほんとうにたいせつにするべきものは何なのかを、身を以て教えられる。

この何かと勝太郎を振り回す律とのふたりの物語が、世間のしがらみに雁字搦めに責め苛まれる聖と晶のメインストーリーと、非常にいいコントラストを為している。それも完全に分かれたふたつの物語としてではなく、時折、重要な場面で両者が交差し、関わりあっていく。たまにそれはいくらなんでもご都合主義では?と思わなくもないけど、番組として物語として絶妙なバランスで表現されたこのサイドストーリー、私はすごく好きでした。とくにいつ何時も自由すぎる律のキャラクターがなかなか小気味よかった。

物語の中では8年という時間が過ぎていく。
聖も晶も勝太郎も律も、それだけの時間を経て辿りつくべき結論をしっかりと手にする。繰り返すようだが、これはファンタジーだ。あくまでテレビドラマでしかない。
「教員から生徒への「性暴力被害」調査、実施は4府県のみ NPO代表『懲戒処分は氷山の一角』」で挙げられたデータによれば、これだけ少子化が進行しているにもかかわらず、わいせつ行為で処分される教員の数は右肩上がりに増える一方となっている。前述の通り、これは加害者が処分されたケースのみをカウントしているから、水面下ではもっと多くのわいせつ事件が起きていることは誰にでも推測できるだろう。
どんなに真剣であろうが純愛のつもりでいようが、いったん教師と生徒の間でことが起こってしまったら、当事者たちを待ち受けている未来がどれほど厳しいものか、その反面を描いた物語としてみると、とても真摯なドラマだと思いました。力作だと思います。


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侵略者の姫と白馬の騎士になりたかった男の話

2018年09月04日 | TV
『海峡』

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昭和20年、日本占領下の朝鮮。釜山生まれの朋子(長谷川京子)は両親を亡くし、居候することになった叔母夫婦(津川雅彦・銀胡蝶)のもとで終戦を迎える。そこで元憲兵の木戸俊二(眞島秀和)に再会、ひとりぼっちの彼女をまもりたいと奔走するものの実は朝鮮人だという彼の求婚に逡巡するが、引き揚げ先の故国日本は戦後の混乱の真っ最中。ついには日本まで探しに追いかけて来た彼の熱意に絆され結婚を決意、半島に戻るのだが・・・。
実話を元にジェームス三木がドラマ化、2007年放送。

戦前に日本が台湾や中国東北部や朝鮮半島などアジア〜太平洋諸国を占領し、日本から入植者が移住するのと入れ替わりに大勢のアジア人が(強制であれなんであれ事情はそれぞれとして)日本に渡って来たことはたいていの日本人なら常識として知っている。
だが戦争が終わって日本人が外地から引き揚げて来た後、内地に住んでいた旧植民地の人々がどうなったのか、現在日本に住んでいるその末裔の祖先はなぜ、故国に戻らなかった/戻れなかったのか、知る人は多くはないのではないだろうか。
もしその場で侵略戦争がきれいさっぱり御破算になって全員故郷に帰っていたとしたら、いま、私はここに存在していないが、現実にはそうはいかないのが歴史である。その答えの一部が、この物語の重要な軸としてかなりわかりやすく整理して描かれている。そういう意味で、近代日本の歴史に疑問をもつ者にとってこれは必見の作品ともいえるのではないだろうか。

主人公の朋子は日本占領中の釜山で生まれ育ち、内地の生活もしきたりもわからないうえ、朝鮮のそれもよくしらないし、朝鮮語を話すこともできない。
相手となる俊二は生粋の朝鮮人だが日本占領中に生まれ、日本名を名乗り日本の軍国教育を受けて軍人となり、日韓両国の言語を流暢に操る。
ふたりがふたりとも、侵略戦争のもとにのみ生まれる存在である。
それが旧宗主国の資産家令嬢と、その親族企業の従業員でなにくれと彼らの世話をするエリート現地青年という立場でめぐりあうのだから、お互いにこれほどドラマチックなシチュエーションもなかなかない。

しかしこうしたふたりのあらかじめ引き裂かれたアイデンティティがどんなに残酷なものか、荒れ狂う時代背景の中でとにかく微に入り細を穿って繰り返し彼らをいためつける。
たとえば朋子は敗戦と同時に身ぐるみ剥がれて引き揚げを強要されるが、内地に親戚はいても顔も見たこともない、右も左もわからない天涯孤独の身である。かといってひとり半島に残ることも許されない。
俊二は朋子を妻として娶り幸せにしたい、まもりたいと願うが、日本軍の憲兵だった彼への風当たりの強さを知る家族はそれがどれほど非現実的かを熟知している。日本に密入国しても、滞在資格のない彼には満足な職もない。
つまり彼らにはどこにも居場所はないのだ。

ただいっしょにいたい、そばにいたいと願うだけのふたりが、身寄りがない、日本の敗戦によって国籍を分かたれたという事実の元に、何度もなんども引き離される。そのたびごとにふたりは互いの絆を手繰り寄せようと必死にもがく。まるでそのためだけに生きているかのように。
ミニマムな恋愛物語だが登場するエピソードのひとつひとつが濃厚で、侵略が人の心と社会にいったいなにをもたらすのか、そのディテールが繊細に描写されている。差別する者自らが意識することのない差別感情や、制度の壁の不条理は、当事者にはどうすることもできない。どうすることもできなくても、人は生きていかなくてはならないし、運命を諦めるわけにもいかない。
朋子にとっては、木彫りのかささぎのブローチをポケットの中で握りしめていることが、たった半年間ままごとのような新婚生活をともにした俊二との再会を諦めないことにつながっていたのだろう。俊二は朋子といっしょにいたくて玄界灘を越えるごとに毎回官憲に囚われ犯罪者扱いされながらも、決して愛する人との人生を諦めようとしない。

出演者それぞれの熱演に圧倒的な説得力があるのも脚本・演出力のわざかもしれないけど、わけても俊二役の眞島秀和はすべてを凌駕する演技力だった。物語の前半では、朋子が窮地に立たされるたびにどこからともなく現れて助けてくれる、あたかも白馬の騎士のような上品さが爽やか。爽やかでありつつも朋子に繰り返す「あなたを一生まもります」「どこにいてもあなたを愛している」なんて情熱的なセリフもバッチリ決まる。一方で、日本統治下で天皇を敬うようしつけられ皇軍として戦った朝鮮人が、最低限の矜持として心の底に隠し持っている侵略者への反発心や、不法行為ギリギリの手段まで使ってでも状況を打破しようとする狡猾さまでしっかり体現している。老境に入って余命幾ばくもなくなって再会した時の老けの演技も凄かった。知らない人が見たら本気で病気のおじいさんだよ。それにしてもこのキャラクターはむちゃくちゃ不憫です。終盤、再会して朋子に経緯を告白したときのセリフは涙なしには聞けなかったよ。

それでも、主人公ふたりがどれほど不運でもこの物語が美しいのは、それほどまでに熱く求めあうだけの愛にめぐりあえたその幸せが、彼らの苦難にまみれた一生をどれだけあたたかく明るく照らしてくれたか計り知れないからだ。
彼らはつらいとき、かなしいときいつも「生きていさえすればいつかあの人に会える、生きて会えるだけでいい」と己を鼓舞して生きたのではないだろうか。そういう存在がいることそのものが、得難い幸せなのではないだろうか。

NHKアーカイブス

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脚本家自身のノベライズ本。

天ぷらとお造りとところてん

2018年09月02日 | TV
『火垂るの墓』

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昭和20年の神戸。海軍大佐の長男で中学生の清太(石田法嗣)は、空襲で母(夏川結衣)を亡くし4歳の妹・節子(佐々木麻緒)とともに母のいとこ・久子(松嶋菜々子)の西宮の家に身を寄せる。出征中の父(沢村一樹)との連絡が取れるまでのつもりだったがいっこうに返事はないまま、みるみるうちに食糧事情は悪化。久子の夫・源造(伊原剛志)の戦死公報が届いたのを境に、久子の清太兄妹への態度は一変する。
野坂昭如の小説、高畑勲のアニメーション映画でも知られる作品のテレビドラマ化。2005年放送。

誤解を恐れずにいえば、個人的にアニメ映画『火垂るの墓』はさほど好きではない。
傑作だとは思うし、今年で公開からまる30年経っても日本中知らない人はいないくらい、海外でも多くの人に観られている、一種のマスターピースであることは否めない。子ども向け映像作品で最後に主人公が命を落とすという残酷でありつつ斬新なストーリーで、アニメ映画が子ども向けに限らず老若男女の鑑賞に値する芸術であることを証明することもできた。
そこはそれとして、ただただ哀れな清太や節子のアニメーションらしい愛らしさが、ちょっと胸に痛すぎたのだ。また登場人物の内面描写が子どもたちだけに限られているのも、観ていて居心地の悪さを感じた。

このドラマでは、主人公を清太兄妹と久子一家の両者にわけ、双方を同じウェイトで描いている。
物語は現代になって95歳で大往生した久子の火葬のシーンから始まる。娘のなつ(岸惠子)は母親の遺骨を拾って、「お母さんの戦争がやっと終わった」とつぶやく。彼女たち親子にとって、戦争は1945年8月15日に終わったのではなかった。一家の大黒柱を失い、4人の子どもを抱えて戦後の混乱期を生き抜かねばならなかった彼女たちにとって、毎日を生きてやり過ごすことそのものが戦争だった。人間らしい心など省みる余裕などなかった。
それで彼女たちが傷つかなかったわけはない。戦争で傷つくのは、なにも憐れに命を落とす人々だけではない。生きている者も皆が深い傷を負い、心に血を流しながら生きていかなくてはならないのだ。

久子の清太兄妹に対する仕打ちは確かに大人気なく、観ていてかなりつらかった。だが自ら彼女の立場に立ったとき、果たして彼女のとった行動以外の何ができたか、私にはわからない。わが子には己の食べるものを分けてでも食べさせたい。だが他人に食べさせるものがあればそれを奪ってでもわが子に食べさせねばと考えるのもまた母親のしたたかさであり、それを否定することは、まして非常時にできるものではない。
そんな風に、人を人でなくさせるのが戦争のもっとも残酷な部分なのだろう。それはどこかの誰かがラジオの向こうから「残念だけど戦争には負けた。これでおしまい。たいへんだけどまたみんなでがんばろう」などといってチャラになったりはしない。そうして傷ついたものは、二度と元には戻らないのだ。

久子は「これ以上変わっていく義姉さんをみていたくない」と家を出ていく義弟・善衛(要潤)に向かって、傲然と「これが戦争よ」といい放つ。
どんな正義も大義名分も優しさも絆も温かさも世間体も、恐怖をおぼえるほどの空腹の前になんの意味ももたない。そこに人間性などかけらも必要ない。彼女にとっては、家族を死なせない、1日でも長く家族を生かしておくことだけが重要で、他のなにもかもがどうでもいい。戦争が終わり、清太も節子も亡くなった後、彼女が一言も戦争の話をしなかったのは、思い出したくないのではなく、忘れたくても忘れられるものでもなく、それ以上に、いま目の前にいる家族を支えていくだけで感傷に浸る心の余裕をもたなかったからではないだろうか。
そうした久子の冷徹さの中に、戦争の真の恐ろしさを表現した作品として、納得の完成度だったと思います。

「軍人は国をまもってなんかいない。嫌がる人を戦場に駆り出して虫けらみたいに殺すだけ」というセリフもあった。
いまの日本の映像作品で、もしかするとこういうセリフはなかなかいえないかもしれない。たった10年かそこらでいったい何があったのやら。