落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

おさるの教室

2006年06月28日 | book
『日本という国』小熊英二著
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4652078145&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

「中学生以上すべての人のよりみちパン!セ」というシリーズ本。他の著者に養老孟司、伏見憲明、みうらじゅん、リリー・フランキー・・・いかん、全部読みたくなってきた。おもしろそう。
対象が中学生以上となっているせいか、文字が大きく漢字にはすべてルビがふってあり、体裁としては少年少女向けの教育副読本のようにもみえる(表紙)。でも内容としてはまったく大人も読める本です。てゆーかむしろ大人も読むべき。日本人に限らず。
それを象徴するのが冒頭で引用されているある著述家に対する福沢諭吉の言葉。曰く
「馬鹿者め!猿に見せる積りで書け!おれなどはいつも、猿に見せる積りで書いているが、世の中はそれでちょうどいゝのだ」
一見するとものすごく傲慢な発言みたいだけど、逆にいえば、他人に理解されたい表現にはそれくらいの易しさがなきゃいけないし、他人の考えを理解したければそれくらい謙虚じゃなきゃいけないってこともいわんとしてる気がする。ってのか拡大解釈か。

猿うんぬんはべつとしても、ホントおもしろくてわかりやすくて手軽に読める、いい本です。
書かれているのは日本の近代史。時代にして明治から現代までの、教育政策と戦争を含む外交政策の流れが、それぞれの出来事の関連を主にして、(いい意味で)広く浅く説明されてます。
明治時代の教育改革はなんのために行われ、どういう理由で方向転換したか。日本が軍事大国になりアジアの周辺諸国を侵略したのはなぜか。日本が戦争であれほどの被害を出したのはどうしてなのか。新しい憲法も含めた連合軍(というかアメリカ)の占領政策の背景はなんだったか。第9条と自衛隊と日米安保の周辺事情、靖国問題などアジア諸国と日本との戦争賠償問題に対する認識の違いはどこから生まれたか。などなど。
書いてあることはどれもとくに目新しくもなんともない。いってみれば、まともな大人なら誰でも常識として知っておくべきことばかりだ。ただ、この本ではそれぞれを事実として並べるだけではなく、事実と事実のつながりと流れがしっかりつかめるような語られ方になっている。知識はそれだけではただの「点」だが、ここではその「点」をつないで流れるように書かれているからおもしろいのだ。

しかしこの本ではそれぞれの事実の是非については何も触れてはいない。何が正しくて誰が間違っていたかなどといったことはハッキリと排除して書かれている。そういうことは読んだ人間が判断すべきだとしているようだ。そして読めば充分判断できるはずだという、読者に対する信頼も感じる。
いやもうカンペキ判断できるでしょ。中坊でも。バッチリでしょ。
それどころか「物事にはなんにでも必ず理由があるし、その理由からキチンとわかりあわなければ、問題は本当には解決しっこない」という、政治の基本がクッキリと立体的にみえてくる。そこには「誇り」だの「自虐」だのというような矮小な感情論はいっさい必要ないし、いれる隙間もありはしない。
小1時間もあれば読めるくらいのボリュームだし、やっぱ他のシリーズも読もっかなー。

バイバイ・ベイビー

2006年06月27日 | movie
『ある子供』
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000FBFRDY&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

以前、幼児教育関連の教材やTV番組の仕事をしていたとき、「子供」という表記はご法度だった。
「供」という字には侮蔑的な意味があり人道的観点から好ましい表現ではないとされるため、必ず平仮名で「こども」か、あるいは「子ども」と書くように教えられた。以来ずっと「子ども」「こども」と書くように注意している。

『ある子供』の冒頭、恋人ソニア(デボラ・フランソワ)が生んだばかりの赤ん坊を、主人公ブリュノ(ジェレミー・レニエ)は気楽に闇組織に売り飛ばしてしまう。映画がこの人身売買のエピソードから始まるため、ついタイトルの“子供”がふたりの赤ん坊ジミーのことを指しているように解釈されがちだが、実はそうではない。子どもなのはブリュノの方だ。彼は我が子を売るという行動をきっかけにして、まるで我が子に導かれるように、少年時代と決別する運命を辿り始める。その過程を丁寧に淡々と描いたのが『ある子供』という物語である。

ブリュノはたまたまみみっちいチンピラとして描かれているが、実際に初めて父親となる男性はみな、最初から“父親”“大人”としての自覚をもってはいないのではないだろうか。ブリュノがみるからにイケてないのは、単純な映画的ギミックでしかない。
女性は約10ヶ月間自分の身体の中で子どもを育てているから、子どもが生まれてきたときには親の自覚のようなものをある程度自然に身につけている。だがそうした肉体的なつながりを直接もたない男性にとって、赤ん坊は突然出現した“他人”でしかない。しばしばその“他人”は男性の恋人や妻の愛情を奪い、ふたりの邪魔をする。生活の重荷になる。人生の上に大きな責任を負わせてくる。
しかしそうしたものを背負って初めてわかることもある。自分が何者でどこへ向かうべきなのか、明確な判断を迫られるようにもなる。負わされたものの重みによって、改めて自分が親であり大人であることを発見する人もいる。

ブリュノが暴力的なギャングなんかではなくこそ泥やかっぱらいで日銭を稼ぐただの不良なだけに、映画自体にもそれほど深刻なシーンはない。ブリュノ自身も決して乱暴な人間ではない。アタマの具合はややユルそうだが(爆)、基本的には義理堅く優しいところもある。ある意味ではかなり合理的なものの考え方もするし、判断は素早い。
でも観ていて怖いのは、おそらくこの映画に描かれているような不良は現実にもごろごろいて、彼らのリアルワールドでは映画のようにスマートに物事は流れてはいないだろうということを想像させるところだ。ブリュノとソニアの暮らしぶりはみていてヒヤヒヤするほど危ういが、それでも彼らはどちらかといえばゼンゼン運がいい方なのではないだろうか。世間の不良少年たちのなかには、もっともっと悲劇的な運命をたどっていく子どもたちもたくさんいるだろう。

『ロゼッタ』に続いて二度めのパルムドールをこの作品で獲得したダルデンヌ兄弟だが、ぐりは旧作を1本も観ていない。なぜか今まで観てなかった。いつも観よう観ようと思っているうちに上映が終わってしまう。
音楽がいっさいなかったり、1シーン1カットのドキュメンタリー風の映像なんかもけっこう好みだったので、機会があれば他のも観たいです。とりあえず『ロゼッタ』と『息子のまなざし』をチェックです。

バグダッド・ドライブ

2006年06月26日 | book
『サラーム・パックス バグダッドからの日記』サラーム・パックス著/谷崎ケイ訳
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4789721647&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

ぐりはふだんウェブではBlogは国内外ぼちぼちみる方だけど、いわゆるブログ本なるものはほとんどまったく読まない。
Blogは日記なのでリアルタイムで著者の個人感情や社会状況が書かれていて、リアルタイムで読むのがいちばん価値があるからだ。無論中にはリアルタイムでなくても情報として便利なBlogもいっぱいあるけど、そういうのも含めて、情報量からいっても、Blogはリアルタイムで読むのがいちばんいいと思ってます。ぐり日記も一応そのつもりで書いてるし(えっ?)。
なのでぐりとしてはこの『サラーム・パックス』が手にとって読んだ最初のブログ本とゆーことになる。
とはいえこれは戦時下のバグダッドに住む一般の青年の日記であり、いわば21世紀の「アンネの日記」にもあたるわけで、リアルタイムでなくても充分に読む意味のある本です。というか、ある程度時間が経って世間の耳目がイラクから離れかけている今だからこそ意味があるかもしれない、ともいえる。

この本はブログ本なのでもちろん“サラーム・パックス”はハンドルネームである。サラームはアラビア語で、パックスはラテン語でそれぞれ「平和」を意味している。アラビア語圏で「こんにちは」を「アッサラーム(直訳:あなたのもとに平安あれ)」といったり、社会科で古代ローマ時代に「パックス・ロマーナ」と呼ばれる時期があったことは習ったはずなので、ごくわかりやすい易しいハンドルネームだ。
サラームは2002年当時29歳。共産党支持者でフセイン政権下で職を追われた元学者の両親と幼少時代の大半を海外で暮したいわゆる帰国子女で、アラビア語以外に英語とドイツ語を話す。Blogは英語で書かれていた。大卒のインテリで職業はコンピューター関係、お酒が好きで同性愛者(イスラム圏にももちろんゲイはいる)、ハリウッド映画やヨーロッパ・アメリカのミュージシャンのCDが好き。たとえばレディオヘッドなんかぐりも持ってる同じアルバムを聴いている。お気に入りのTV番組は『未来少年コナン』。BBCやCNNの放送だってがっつりチェックしている。そんでニュースのここが違う、どれがマチガイ、といちいちぷんすかしている。
よーするにぐりやあなたのすぐ隣にいたっておかしくない、ゼンゼンそこいらにごろっごろいるフッツーのにいちゃんなのだ。どこも我々と変わったところはない。貧しくて文化程度が低くて無教養で狂信的で無知蒙昧で洗脳された従順な大衆といった、国際社会で一般的なイラク人のイメージとはムチャクチャかけ離れている。もしどーかして知りあえたら仲良くなれそうだ(笑)。トシも同じくらいだし、仕事もどーも同業らしいし。
てゆーかそういう“イラク人の典型”みたいなイメージはいわば海外メディアが一方的に自分たちの偏見でつくりあげた幻想でしかなかったのだ。考えるまでもなくものすごく当然のことなんだけど、サラームみたいなホントの一般市民の声が、なかなかメディアから伝えられなかったのも事実である。残念なことに。
つってもサラームはいわゆる知識階級だから、イラク市民のうちでもマイノリティの部類にはいるのかもしれないけどね。

この本に収録されているのは2002年9月から翌年6月までの日記(Blogは04年まで続いていた模様)。
そこにはバグダッドがじわじわと“戦場”と化していく過程がまさにリアルタイムで書かれている。まず経済活動が停滞し会社から給料が出なくなる。異様なインフレが加速する。物資が不足する。流言蜚語が飛び交う。電気や水道や電話やTVやインターネットといったインフラも不安定になる。周辺諸国との国境が閉鎖される。
だがおどろくべきことに、サラーム一家も含め多くのバグダッド市民は街にとどまり、逃げようとしなかった。爆撃が始まるという事実を知っていながら、どこかで我がこととして現実を受けとめきれていないような、そんな独特の心理を伺わせる。彼らは砲弾の飛び交う空の下で、親族同士固まって静かに息をひそめて暮した。電力会社や水道局も仕事を放棄したりはしなかった。食料品店もレストランもカフェもどうにかこうにか営業していた。逃げ出したのは政府高官や利に聡い両替商たちだった。

海外メディアの操作された報道ではイマイチ不可解だったことが、この本を読めばハレバレとカンタンにわかってきてしまう。
イラク市民はそもそもフセイン政権をまったく支持してなんかいなかった。だいたいイラクはイスラム圏でもリベラルな方で、ジハードがどーのこーの自爆テロやら拉致監禁がどーたらなんという過激な原理主義テロリストはもともと国内にはいない。そーゆーのはほとんど外国人だ。だからアメリカの介入は現実問題として必要不可欠なものとして理解はしている。けど連合国軍の武力攻撃や、彼らの侵略はいっさいお呼びではない。当り前だ。言葉もろくに通じず自国についての知識もさっぱりない外国人の兵隊どもに、我が物顔で街をひっかきまわされつつきまわされ小突きまわされて気持ちがいい人間なんかいるわけがない。いたら相当なマゾだ。
戦争にしたってそうだ。フセイン政権打倒のために、ほんとうに戦争は必要だったのだろうか。他にも解決策はあったんじゃないだろうか。もし万一なかったとしても、戦争に踏みきる前にすべき議論が充分になされたとは思えない。少なくともイラク市民はそうは思っていない。そりゃそうだ。罪もない一般市民がたくさん巻き添えになっているのに、「はいそうですか」で納得できる人間だってどこにもいない。

サラームの日記を読んでいれば、イラクをよく知りもしない他人にごちゃごちゃと干渉されてどれだけ当のイラク人が不愉快な思いをしたかが身にしみてわかってくる。
実際は不愉快などという生易しいものではないのだろうが、戦時下という特殊な状況に置かれたことのない人間がちゃんと想像出来る感覚としてはそれが限界かもしれない。ごめんなさい。
彼らの不愉快さのほんのカケラにすぎないかもしれないけど、今も感じている居心地の悪さ、やり場のない憤懣は、すごくよくわかります。この本を読めば、それは確実にわかる。
にも書いたけどこの本は映画化も決まってるみたいです。楽しみ。

ビー玉の雨

2006年06月25日 | play
『アイノキセキ』

主人公は不幸な生立ちをもつ40代の男(板倉佳司)。精神を病んで療養していた病院で知りあった女性(野水佐記子)と自活することになり、実弟(原田紀行)やその恋人(斎藤萌子)の援助を受けて退院するが、女性を愛することもできず、彼女の愛情に応えることもできず懊悩する日々。20代のころに喪った若妻(三澤真弓)の亡霊にも苛まれ、新居では隣人(大島克哉)とのトラブルにも見舞われる。

ぐりはふだんあんまり芝居ってみない方なので、今週みたいに2日連続ってのは例外中の例外です。今日のぶんは知りあいの劇団の公演で、ここの作品を観るのは今回3度め。
このエムズクルーの芝居は出演者の年齢層が若干高め(30〜40代中心)で毎回テーマも重めなのだが、今回のはこれまで観たなかでもダントツ!!に重かったです。ぶっちぎり。へヴィー級っす。ある意味昨日の『舞台|阪神淡路大震災』の方がまだ甘い(暴言)。まだ全然救いがある。だって痛みも悲しみも怒りも、登場人物同士・演者と観客同士で共有し分かちあうことが出来るから。
そこへくると『アイノキセキ』はまさに絶望的。タイトルからして大きく出てるもんね。「愛の奇跡」。ぶっちゃけ結論からいえばこの物語のなかでは奇跡は起きない。人は結局みんなひとりぼっちだ。分かちあえるものなんかなんにもない。エンディングで思わずボーゼンとしてしまったよ。マジ?マジで?ホンマにそれでええの?うそーん!?みたいな。
とはいえ、ふつうに現実を生きてるいいトシをしたオトナなら誰でも、そんなことは当り前に知っている。奇跡なんかそうそうカンタンには起きやしない。白馬の王子さまも、平和の天使も、理由もなく向こうから勝手に出張って来てくれたりなんかしない。昔のエライ人もいってますね。「神は自ら助くるものを助く」です。
だから要するにこの主人公がとことんダメだったってわけです。自分ひとりで不幸ヅラしてたっていいことなんかあり得ない。

シノプシスだけみると一組の男女の愛の物語のようにみえるけど、実際にここに描かれてるのはそれだけじゃない。報われなかった愛、不倫愛、兄弟愛、偏執狂の愛、母性愛への憧憬、いろんな愛情が愛憎と表裏一体に描かれている。あーーーーー重いっ。重いです!!ベッタベタに!!
ここの作品の特徴として台詞が非常に文学的という点が大きいけど、それだけにときどき喋ってる演者を直視してるのが疲れることがある。演じてる本人には申し訳ないが、目を伏せて耳だけに感覚を集中しないとうまく台詞がアタマに入ってこない・理解できないのだ。それって演劇としてどーなの?
古典演劇のなかには台詞が一種の装飾になっていて、ちゃんと聞いて理解する必要のない作品もあるが、ここの作品に関してはそのウルトラへヴィーな台詞そのものが物語の核なので、わかってないとただ眠いだけとゆーことになってしまう。現に途中で微妙に眠くなったりもしたし。だからって寝たりはせんけどね。てゆーかここの公演いっつも長いしな・・・。

ラスト近くで演者のひとりが流血しててビックリ。たぶんアレ演出じゃないと思うんだけど・・・けっこーいっぱい血出ててオドロキました。大丈夫だったのかなあ。
このお芝居はスカパーでそのうち放送されるそうなので(放送日/時間はこちらでお問い合わせ下さい)、ご興味のある方はTVでチェックしてみて下さい。
ある程度の経験をした人間なら大抵かなり身につまされるお話です。エンターテインメントとしてはどーかはわかんないけど、少なくともそれ相応に文学的ではある。
そういうお芝居でした。

舞台をそれほどみないぐりだけど、実は来月も観劇の予定がはいってます。来週末は『クレマスター』シリーズ(パフォーミングアート)の連続上映に行くつもりだし、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭でもダムタイプの『S/N』(これもパフォーミングアート)の映像を観る。
舞台づいとります。偶然だけど。

11年めの涙

2006年06月24日 | play
『舞台|阪神淡路大震災』

その日、6時にもならない早朝にうちの電話が鳴ったとき、私も妹もまだ寝ていた。
電話口まで起きだしたがベルはもう止んでいる。「こんな時間にかけてくるのは実家しかない」と妹がいい、早速かけなおしてみたがつながらない。何度かけてもダメ。TVをつけてみると、NHKではもう地震のニュースをやっていた。映像も具体的な情報もなく、ただ大きな地震があったらしいことしかわからない。
何度も何度も実家に電話したが一向に繋がらない。8時になるころか、被災地方面への電話が殺到し回線が飽和状態になっているので電話を控えてもらいたいという報道が始まった。そのころには大規模な火災や倒壊した高速道路の映像が流れていた気がする。
10時過ぎに実家の方から電話があり、家族も親戚もみな怪我もなく無事で、自宅にもほとんど被害はなく心配はいらないという。それを聞いてぐりは大学に出た。卒業制作の〆切まで1週間をきっていたのだ。妹は試験前で講義がなく家にいたが、ぐりの友人知人が何人も心配して電話をくれたそうだが、ぐり本人が大学へいったと聞いてみな呆れていたという。
ぐりが実際に被災地を訪れたのは、無事に卒業制作を仕上げ都内美術館での展覧会も終わって卒業が決まった、地震から1ヶ月以上後のことだった。JRは不通のままで、途中から振替のバスに乗った。兵庫県内に着いたのは夜のことで、見渡す限りべったりと瓦礫の山と化した街には灯りがまったくなく、思春期の思い出がいっぱいつまった神戸の街は文字通り完全に死んでいた。言葉もなかった。涙も出なかった。その瞬間そこにいなかった自分には、今さら泣く資格もないなと思ったのをよく覚えている。
それが、ぐりの「震災」の記憶だ。

この戯曲を書いた岡本貴也氏はぐりとちょうど同い年で、やはり震災時は大学生で都内にいた。震災のとき被災地にいなかった「被災地出身者」として、どうしてもあの震災をもっと知りたい、わかりたいという思いでこの作品を書いたという。
上演中、何度も泣いた。
この舞台は、主人公どころか個人名を役名にもつ登場人物さえいない、凄まじい数の名もない人々が織りなす群像劇だ。ハッキリとしたストーリーもない。物語を「語る」のではなく、劇場に被災地を再現し、観客に「被災」を疑似体験させるのを目的としてつくられているからだ。それはおそらく、この作品を書いた岡本氏自身の強い欲求でもあったのだろう。愛する故郷の人々と、その恐怖と悲しみと悔しさを同時に共有できなかったという悔恨を、被災した人・しなかった人も含め観客全員と分けあいたかったのだろう。
そういう意味で、これは確かに舞台でしか決してできない表現だし、戯曲としても非常に優れた作品だと思う。あのときの轟音と暗闇の恐ろしさ、被災者の言葉にならない絶叫と怒号と泣き声の悲痛さ、避難生活の惨めさ、孤独、怒り、虚しさ、痛み、せつなさ、やるせなさ、そんなあふれるような感情が、雪崩のように舞台から客席へと暴力的に押し寄せてくる。ひたすら圧倒される。
エピソードのひとつひとつが非常に生々しい。大規模な火災が起きて、目の前に家屋の下敷きになっている怪我人がいるのに助けられない。助けを求めるかぼそい悲鳴が報道のヘリの音にかき消されてしまう。救急車も自衛隊もあてにならない。まだインターネットも携帯電話も今ほど普及していなかったあのころ、水もガスも電気も電話もとまったまま孤立し救援物資も行き届かない自宅避難民もいた。警官も区役所員も医者も被災していた。同じ被災者同士、避難所のボランティアとの間にも「温度差」があった。
そこに描かれているのはただのパニックではない。人間そのものでもある。自然の暴力の前に、ただただ愚かで脆弱で無力で矮小な生き物。それでも互いをいたわりあい、感謝し、立ち直ることもできるのが人間だ。
凄惨で単純に教訓的なだけでなく、希望にもあたたかさにも満ち、かつ現実の厳しさも描かれている。常に大規模地震の危険性に怯える日本に住む人なら、誰もが観るべき舞台ではないかと思う。

兵庫県はこの震災の復興に膨大な予算を費やし、また地場産業が復興しないうちに他の産地にマーケットを奪われ、慢性的な不景気に今も苦しんでいるそうだ。
また、震災によって古くからの住民が地元を離れ、代りによそから移ってきた住民もいて、コミュニティ自体の均衡にも変化が生まれているという。
復興復興というが、一旦徹底的に壊れてしまった街はそうそう簡単に元通りにはならない。というか、決して元には戻らないのだ。
その苦悩が、この舞台を通して、ひとりでも多くの人に伝わるといいなと思う。心からそう思う。
だから、ひとりでも多くの人に、この舞台をみてほしい。ぐりもまた観たい。

東京公演は27日まで。来年のツアーも現在計画中だそうだ。是非我が街でこの舞台を観たい、という方はこちらでお問い合わせを。

「舞台 阪神淡路大震災 全記録」 岡本貴也著 三修社刊
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=438403797X&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>