落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

侵略者の姫と白馬の騎士になりたかった男の話

2018年09月04日 | TV
『海峡』

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昭和20年、日本占領下の朝鮮。釜山生まれの朋子(長谷川京子)は両親を亡くし、居候することになった叔母夫婦(津川雅彦・銀胡蝶)のもとで終戦を迎える。そこで元憲兵の木戸俊二(眞島秀和)に再会、ひとりぼっちの彼女をまもりたいと奔走するものの実は朝鮮人だという彼の求婚に逡巡するが、引き揚げ先の故国日本は戦後の混乱の真っ最中。ついには日本まで探しに追いかけて来た彼の熱意に絆され結婚を決意、半島に戻るのだが・・・。
実話を元にジェームス三木がドラマ化、2007年放送。

戦前に日本が台湾や中国東北部や朝鮮半島などアジア〜太平洋諸国を占領し、日本から入植者が移住するのと入れ替わりに大勢のアジア人が(強制であれなんであれ事情はそれぞれとして)日本に渡って来たことはたいていの日本人なら常識として知っている。
だが戦争が終わって日本人が外地から引き揚げて来た後、内地に住んでいた旧植民地の人々がどうなったのか、現在日本に住んでいるその末裔の祖先はなぜ、故国に戻らなかった/戻れなかったのか、知る人は多くはないのではないだろうか。
もしその場で侵略戦争がきれいさっぱり御破算になって全員故郷に帰っていたとしたら、いま、私はここに存在していないが、現実にはそうはいかないのが歴史である。その答えの一部が、この物語の重要な軸としてかなりわかりやすく整理して描かれている。そういう意味で、近代日本の歴史に疑問をもつ者にとってこれは必見の作品ともいえるのではないだろうか。

主人公の朋子は日本占領中の釜山で生まれ育ち、内地の生活もしきたりもわからないうえ、朝鮮のそれもよくしらないし、朝鮮語を話すこともできない。
相手となる俊二は生粋の朝鮮人だが日本占領中に生まれ、日本名を名乗り日本の軍国教育を受けて軍人となり、日韓両国の言語を流暢に操る。
ふたりがふたりとも、侵略戦争のもとにのみ生まれる存在である。
それが旧宗主国の資産家令嬢と、その親族企業の従業員でなにくれと彼らの世話をするエリート現地青年という立場でめぐりあうのだから、お互いにこれほどドラマチックなシチュエーションもなかなかない。

しかしこうしたふたりのあらかじめ引き裂かれたアイデンティティがどんなに残酷なものか、荒れ狂う時代背景の中でとにかく微に入り細を穿って繰り返し彼らをいためつける。
たとえば朋子は敗戦と同時に身ぐるみ剥がれて引き揚げを強要されるが、内地に親戚はいても顔も見たこともない、右も左もわからない天涯孤独の身である。かといってひとり半島に残ることも許されない。
俊二は朋子を妻として娶り幸せにしたい、まもりたいと願うが、日本軍の憲兵だった彼への風当たりの強さを知る家族はそれがどれほど非現実的かを熟知している。日本に密入国しても、滞在資格のない彼には満足な職もない。
つまり彼らにはどこにも居場所はないのだ。

ただいっしょにいたい、そばにいたいと願うだけのふたりが、身寄りがない、日本の敗戦によって国籍を分かたれたという事実の元に、何度もなんども引き離される。そのたびごとにふたりは互いの絆を手繰り寄せようと必死にもがく。まるでそのためだけに生きているかのように。
ミニマムな恋愛物語だが登場するエピソードのひとつひとつが濃厚で、侵略が人の心と社会にいったいなにをもたらすのか、そのディテールが繊細に描写されている。差別する者自らが意識することのない差別感情や、制度の壁の不条理は、当事者にはどうすることもできない。どうすることもできなくても、人は生きていかなくてはならないし、運命を諦めるわけにもいかない。
朋子にとっては、木彫りのかささぎのブローチをポケットの中で握りしめていることが、たった半年間ままごとのような新婚生活をともにした俊二との再会を諦めないことにつながっていたのだろう。俊二は朋子といっしょにいたくて玄界灘を越えるごとに毎回官憲に囚われ犯罪者扱いされながらも、決して愛する人との人生を諦めようとしない。

出演者それぞれの熱演に圧倒的な説得力があるのも脚本・演出力のわざかもしれないけど、わけても俊二役の眞島秀和はすべてを凌駕する演技力だった。物語の前半では、朋子が窮地に立たされるたびにどこからともなく現れて助けてくれる、あたかも白馬の騎士のような上品さが爽やか。爽やかでありつつも朋子に繰り返す「あなたを一生まもります」「どこにいてもあなたを愛している」なんて情熱的なセリフもバッチリ決まる。一方で、日本統治下で天皇を敬うようしつけられ皇軍として戦った朝鮮人が、最低限の矜持として心の底に隠し持っている侵略者への反発心や、不法行為ギリギリの手段まで使ってでも状況を打破しようとする狡猾さまでしっかり体現している。老境に入って余命幾ばくもなくなって再会した時の老けの演技も凄かった。知らない人が見たら本気で病気のおじいさんだよ。それにしてもこのキャラクターはむちゃくちゃ不憫です。終盤、再会して朋子に経緯を告白したときのセリフは涙なしには聞けなかったよ。

それでも、主人公ふたりがどれほど不運でもこの物語が美しいのは、それほどまでに熱く求めあうだけの愛にめぐりあえたその幸せが、彼らの苦難にまみれた一生をどれだけあたたかく明るく照らしてくれたか計り知れないからだ。
彼らはつらいとき、かなしいときいつも「生きていさえすればいつかあの人に会える、生きて会えるだけでいい」と己を鼓舞して生きたのではないだろうか。そういう存在がいることそのものが、得難い幸せなのではないだろうか。

NHKアーカイブス

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脚本家自身のノベライズ本。

天ぷらとお造りとところてん

2018年09月02日 | TV
『火垂るの墓』

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昭和20年の神戸。海軍大佐の長男で中学生の清太(石田法嗣)は、空襲で母(夏川結衣)を亡くし4歳の妹・節子(佐々木麻緒)とともに母のいとこ・久子(松嶋菜々子)の西宮の家に身を寄せる。出征中の父(沢村一樹)との連絡が取れるまでのつもりだったがいっこうに返事はないまま、みるみるうちに食糧事情は悪化。久子の夫・源造(伊原剛志)の戦死公報が届いたのを境に、久子の清太兄妹への態度は一変する。
野坂昭如の小説、高畑勲のアニメーション映画でも知られる作品のテレビドラマ化。2005年放送。

誤解を恐れずにいえば、個人的にアニメ映画『火垂るの墓』はさほど好きではない。
傑作だとは思うし、今年で公開からまる30年経っても日本中知らない人はいないくらい、海外でも多くの人に観られている、一種のマスターピースであることは否めない。子ども向け映像作品で最後に主人公が命を落とすという残酷でありつつ斬新なストーリーで、アニメ映画が子ども向けに限らず老若男女の鑑賞に値する芸術であることを証明することもできた。
そこはそれとして、ただただ哀れな清太や節子のアニメーションらしい愛らしさが、ちょっと胸に痛すぎたのだ。また登場人物の内面描写が子どもたちだけに限られているのも、観ていて居心地の悪さを感じた。

このドラマでは、主人公を清太兄妹と久子一家の両者にわけ、双方を同じウェイトで描いている。
物語は現代になって95歳で大往生した久子の火葬のシーンから始まる。娘のなつ(岸惠子)は母親の遺骨を拾って、「お母さんの戦争がやっと終わった」とつぶやく。彼女たち親子にとって、戦争は1945年8月15日に終わったのではなかった。一家の大黒柱を失い、4人の子どもを抱えて戦後の混乱期を生き抜かねばならなかった彼女たちにとって、毎日を生きてやり過ごすことそのものが戦争だった。人間らしい心など省みる余裕などなかった。
それで彼女たちが傷つかなかったわけはない。戦争で傷つくのは、なにも憐れに命を落とす人々だけではない。生きている者も皆が深い傷を負い、心に血を流しながら生きていかなくてはならないのだ。

久子の清太兄妹に対する仕打ちは確かに大人気なく、観ていてかなりつらかった。だが自ら彼女の立場に立ったとき、果たして彼女のとった行動以外の何ができたか、私にはわからない。わが子には己の食べるものを分けてでも食べさせたい。だが他人に食べさせるものがあればそれを奪ってでもわが子に食べさせねばと考えるのもまた母親のしたたかさであり、それを否定することは、まして非常時にできるものではない。
そんな風に、人を人でなくさせるのが戦争のもっとも残酷な部分なのだろう。それはどこかの誰かがラジオの向こうから「残念だけど戦争には負けた。これでおしまい。たいへんだけどまたみんなでがんばろう」などといってチャラになったりはしない。そうして傷ついたものは、二度と元には戻らないのだ。

久子は「これ以上変わっていく義姉さんをみていたくない」と家を出ていく義弟・善衛(要潤)に向かって、傲然と「これが戦争よ」といい放つ。
どんな正義も大義名分も優しさも絆も温かさも世間体も、恐怖をおぼえるほどの空腹の前になんの意味ももたない。そこに人間性などかけらも必要ない。彼女にとっては、家族を死なせない、1日でも長く家族を生かしておくことだけが重要で、他のなにもかもがどうでもいい。戦争が終わり、清太も節子も亡くなった後、彼女が一言も戦争の話をしなかったのは、思い出したくないのではなく、忘れたくても忘れられるものでもなく、それ以上に、いま目の前にいる家族を支えていくだけで感傷に浸る心の余裕をもたなかったからではないだろうか。
そうした久子の冷徹さの中に、戦争の真の恐ろしさを表現した作品として、納得の完成度だったと思います。

「軍人は国をまもってなんかいない。嫌がる人を戦場に駆り出して虫けらみたいに殺すだけ」というセリフもあった。
いまの日本の映像作品で、もしかするとこういうセリフはなかなかいえないかもしれない。たった10年かそこらでいったい何があったのやら。