落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

湖で迷子

2020年09月30日 | movie
『マティアス&マキシム』

マティアス(ガブリエル・ダルメイダ・フレイタス)の父はアメリカ・シカゴで働く弁護士。まもなくオーストラリアに移り住むという幼馴染みのマキシム(グザヴィエ・ドラン)の頼みで父に紹介状を出してもらおうとするのだが…。
審査員賞を受賞した2014年の『Mommy マミー』に続いてカンヌ映画祭コンペティション部門に出品されたカナダの若き奇才グザヴィエ・ドラン監督・主演作。

あのー。皆さまパーティーはお好きですか。
実を申しますとわたくしパーティーが大の苦手でございまして。もうどういう顔して何してればいいんだか、全然わかんなくなっちゃうんだよね。そもそもパーティーって何が楽しいのかな?っていうくらい、苦手です。
それは若いころからわりとそうだったけど(まだ若けりゃ酔っ払っちゃえばなんだってよかったので)、歳を追うごとにより苦手になってってます。いまは酒も飲まないので、それこそパーティーなんかいく意味がない。

くどくど自分の苦手意識を書くには理由がある。
この映画、全体のほぼ半分のシーンがパーティーなんだよね。もう何かっちゅうとパーティーばっかりやってる。パーティーじゃなければナイトクラブで遊び呆けてる。ナイトクラブじゃなければ誰かの山荘に集まって酒盛り。ひたすらパーティー、ゲーム、意味のないおしゃべり。
正直ついていけない。あーうるせーって感じ。
それでね、マティアスとマキシムもなんかついてけてないのよ。上辺はなんとなく楽しそうにしてるつもりっぽいんだけど、ずうっと心ここにあらずというか、上の空。

きっかけはある日のパーティーに来た友だちの妹(カミーユ・フェルトン)に頼まれて、学校の課題で撮る映画のワンシーンでキスをしたこと。
と、宣伝ではいっている。予告編でもそうなっている。
ところがどっこい、とくるのがやはり映画、やはりそこは天才ドランの真骨頂でございます。

ドランは『君の名前で僕を呼んで』にインスパイアされてこの作品を撮ったというけど、確かに『君の〜』と題材は完全にシンクロしている。
マティアスもマキシムももう30歳、マティアスには婚約者もいる。ふたりとも父親はいなくて、マキシムはカナダにおいていく母親(アンヌ・ドルヴァル)の心配ばかりしている。伯母に後見人を頼み、自分がいなくても母親が生活していけるように段取るのに必死の、旅立ち前の数日間。互いのことがどうしてこんなに気になるのか、あのキスの瞬間がふたりの何を変えてしまったのか、ただわからなくて戸惑うばかりなのに、出発の日はどんどん迫ってくる。自分が自分でなくなるような焦燥感、自らが何者であったかを見失いかけている不安感。払拭したくてもそれはどこか甘く、せつなく、胸の奥を熱く焦がす。
画面にいちいち「出発1週間前」とかなんとか時系列がテロップで出てくるんだけど、これも最後の最後に「あーっそういう意味でしたかあー!」としてやられた感満載です。

映画はまずシナリオというのがこのメディアが生まれたころからのセオリーだと思うし、それはどの作品においてもその通りなんだけど、この作品では、シナリオにはおそらく直接的には描かれないところに物語がある。パーティー三昧の映画だから台詞の量は半端ない。でもそのほとんどが物語の筋とはほぼ無関係なのだ。
そういう映画がつくれるんだということに、ただただ驚きました。脱帽です。ハイ。



どうして私だけ?

2020年09月29日 | movie
『ミッドナイトスワン』

新宿2丁目のショーパブでダンサーとして働く凪沙(草なぎ剛)のもとに、広島の親族から従姉妹の娘・一果(服部樹咲)を預かってくれないかという電話がかかってくる。一果はシングルマザーの早織(水川あさみ)から虐待をうけていた。
凪沙のアパートから通学し始めた一果は、学校帰りに誘われたバレエ教室のレッスンに夢中になり、教師の実花(真飛聖)も彼女の持って生まれた才能を伸ばしてやるべきと凪沙を激励するのだが・・・。

なんだか凄まじいものを観てしまった。
セクシュアル・マイノリティを扱った映画なんて今どき玉石混交世間に氾濫しているといっていいくらいだと思うけど、この映画が玉なのか石なのかも自分でさえハッキリわからないけど、間違いなくいえるのは、この映画は、少なくとも国内で、これまでのどんな映像作品でも触れてこなかったタブーをがっちりと掴み、その上にしっかりと両脚で立っている映像作品ということだ。
それくらい、ぶっちゃけ途中から頭が追いつかなかったくらい、物語は人間性の最も弱く儚い部分を確実に抉ってくる。
観ていて胸が痛かった。悲しかった。苦しかった。

作中に明確な説明はないが、演じている草なぎ剛がもう46歳(!)というからには、ヒロイン・凪沙の年齢もだいたいそれぐらいなのだろうと思う。彼女の同僚たちも多くはトランスジェンダーで、それぞれ抱えている悩みは似通っている。恋人に貢がされて性風俗に流れていく者もいる。ホルモン治療や整形手術を必要とする彼女たちの悩みの多くが経済状況につながっている。果たしていつまでこの仕事が続けられるのか、家族の理解もないままひとりぼっちで歳だけをとっていく将来にどう向かいあえばいいのか。凪沙がいう「強うならんといけん」という言葉はだからこそあまりにも重い。
一果はそこに、一筋の光を照らした。彼女には輝く才能があり、可能性があり、未来があった。その眩しさに、みんなが幸せな気持ちを抱くことができた。それゆえに、凪沙は彼女をまもろうともがき、それまでの人生で決してしてこなかった決断をするのだ。

観る前はトランスジェンダーの女性と少女の心の交流というハートウォーミングな?題材は『彼らが本気で編むときは、』と被ってるなぐらいにしか思ってなかったけど、あにはからんやまるっきり別方向の映画だった。これまで国内で映像化されてきたトランスジェンダーはみんな綺麗で女性より女性らしく華やかな人、細やかな人として描かれてきたように思う。それも彼女たちの真実の一面ではあるが、もちろんそれだけではない。
この映画での彼女たちはさらに苛酷な、『オール・アバウト・マイ・マザー』『リリーのすべて』に登場する彼女たちにより近い。
劇中繰り返し出てくるセリフがまだ耳について離れない。
「どうして私だけ?」「なんで私は女じゃないの?」「どうして私だけ?」

観ていて気になったのは、この作品をトランスジェンダーの当事者の方々はどんな捉え方をするだろうということだった。
演じているのは俳優だし、監督もとくにセクシュアリティを公表しているわけではないから、他者からの視点でこれほどまでに深くトランスジェンダーの苦悩を暴いた映像作品を、当事者の方々はどんな風にうけとめるのだろう。
それぐらい、ちょっとやそっとでは映像にはできないぐらい残酷な側面がはっきり描かれているから。

草なぎ剛の映画というと、『山のあなた 徳市の恋』ぐらいしか映画館では観てないけど、この人の芝居は一体なんなんでしょうね?全然つくりこんだ風なんか欠片もないのに、もうその役そのものその人にしか見えない。この作品でいえば、画面には草なぎ剛はまったく映ってない。40がらみで女装して、夜の街で踊ることで糊口を凌ぐ孤独なトランスジェンダーの女性・凪沙しか映っていないのだ。
『山のあなた』のときも劇場の座席で度肝抜かれましたけど、今回も抜かれました。すっぽり。



灰皿とジッポ

2020年09月14日 | movie
『窮鼠はチーズの夢を見る』

愛する妻(咲妃みゆ)がいながら不倫相手(小原徳子)との関係を続けるサラリーマンの大伴恭一(大倉忠義)。ある朝、突然再会した大学の後輩・今ヶ瀬渉(成田凌)は探偵事務所の調査員だった。学生時代から恭一に思いを寄せ、依頼主である妻に調査結果を伏せることを条件に、たった一度のキスを求める渉だったが・・・。
水城せとなのコミックを行定勲が映像化。

ちゃんと人を好きになったこと、ある?
恭一の元カノ・夏生(さとうほなみ)が投げかける疑問は、さして珍しい台詞ではない。それでもちょっと、背筋がぞっとする。果して私はちゃんと人を好きになったことがあるだろうかと。
それが例えば、渉のように身も世もなくひたすら恭一に恋焦がれるような恋愛を指しているのだとすれば、とてもそんな勇気は私にはない。これまでにもなかったし、この先もない。

それほど渉の恋しかたは激しい。
そもそも異性愛者である恭一を好きになってしまった時点で、叶う可能性はほぼゼロに等しい。だからこそ彼は学生時代には切ない恋心を押し殺し続けていたのに、調査対象者として再会してしまった刹那、欲望を抑えきれなくなる。渉の恭一へのすがりつき方にはまるで、雨宿りのつもりでいっとき軒先に入れたノラ猫が、気づけば我が物顔に家中を闊歩し当たり前のように身を擦り寄せてくるような、えもいわれぬ抗いがたさがある。
学生時代から「流され侍」と揶揄されるような恋愛ばかりしていた恭一は、そんな渉の強引なアプローチに為すがままに巻きこまれていく。やがてふたりはいつの間にか生活をともにするようになり、男同士の生活の気楽さ快さにも、恭一は流されていく。
それで満たされて、幸せなはずのふたりなのに、女性たちは「流され侍」を放っておいてはくれないし、流されていく恭一を信じられずスマホを勝手に盗み見るのがやめられない渉は自分で自分を追いこんでいく。

登場人物がみんなバカなのがすごくいい。
言い寄られたら大抵の人間になびいてしまう主体性のない恭一は究極のバカだし、そのバカを承知で本気で恋してしまう渉もバカなら、そのふたりの間に無目的に入りこんでくる夏生や、上司である恭一への憧れを愛だと思いこむたまき(吉田志織)も結構なバカだと思う。しかも軸となるふたりには一貫性というものがない。相手の反応にばかり振り回されすぎているし、揺れに揺れすぎている。そんなところもバカだ。
でも、さきざきどうなるかもわからないのに人を好きになるなんてギャンブル、バカじゃないとやってられないんだよね。
だから人は己のバカさ加減に悩んで、苦しむ。恋なんて苦しいばっかりなのに、なぜ人は恋をするのだろう。

シナリオにはいっさい無駄がないし、画面構成や照明も非常に美しい。早くも「今年一番」という評判も耳にするが、今年あまり映画を観ていない(コロナのせいである)私でも、あながち大袈裟な評価ではないと思う。
全編にわたって男女・男同士問わずキスシーンやラブシーンがふんだんに登場するのだが、その描かれ方はまったく煽情的ではなく、どちらかといえば、どうしようもない肉欲に支配される人間の愚かさと切なさを愛情をこめて真っ直ぐに表現しようとしているように見える。まあ個人的には大倉忠義と成田凌の人間離れした肉体美を存分に堪能できてお腹いっぱいでしたが。この二人はラブシーン以外でもやたら全裸か、それに近い格好で画面によく出てくるんだけど、ホントに綺麗な身体なんだよね。とくにモデル出身の成田凌のすらりとした手脚の長さ、まるで妖精のようなしなやかさはほぼ芸術といっても過言ではない。画面に向かって拝みたくなる。眼福とはまさにこのことです。
インタビューを読むと原作に合わせてダイエットをしたそうですが、観ればその役への入れこみ方が半端じゃないことは一目ですぐわかる。ホントにマンガに出てきそうなぐらい可憐で、可愛らしい。
大倉忠義は10年も前に『大奥』という時代劇でもBLしてたんだけど、そのときからもうすでにエロかったです。存在がエロい。あのちょっと眠たそうな垂れ目がエロいのか、ぽてっとしたあひる口がエロいのか。そこはおいといたとしても、本来アイドルという立場でありながらR指定のこの作品に挑戦したという意味では彼の本気度も成田凌といい勝負だと思う。

音楽は半野喜弘。個人的に映画音楽は半野喜弘か梅林茂か坂本龍一に限ると勝手に思ってる私ですが。今作も素晴らしい。なんというか日本の映画じゃないみたいな、現代劇じゃないような、すごく遠くの世界の物語を観せられてる感覚が味わえるんだよね。それでいてしっかりオリエンタルで、現代的。
思えば3ヶ月ぶりの映画鑑賞だったけど、大満足でした。もう少し時間をおいて、また観たくなる。観るたびに違う感じ方ができそうな作品でした。