落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

『眺めのいい部屋』E.M.フォースター著

2004年05月27日 | book
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フォースター特集。今は『ハワーズ・エンド』を読んでます。
『モーリス』も『眺めのいい部屋』も『ハワーズ・エンド』もジェームズ・アイヴォリーが映画化してますが、これはなんでしょーな監督、手抜きですかね。ほとんどシリーズじゃないですか。
ってぐりは『眺めのいい部屋』と『ハワーズ・エンド』は観てないですけども。特に観たいとも思わない。

『眺めのいい部屋』の前半はイタリアの古都フィレンツェが舞台になってます。
ぐりはこの町が大好きで、いつか住んでみたいと思ってるくらいです。よくこの町を「街全体が美術館のようだ」と形容しますが、ヨーロッパで戦災を受けなかった古い都市なんて大体がそんなもんじゃないでしょうか。
ぐりがここが好きなのは「美術館のような町並み」だけでなく、本当に美術館が多く、もともと好きだったルネサンス美術がそれこそうんざりするほどたくさん見られることです。絵画や彫刻、建築、工芸品、どれだけ見ても見つくせないくらい大好きな美術品で溢れた町。夢のよーだ。

ところが『眺めのいい部屋』にはそうしたフィレンツェの素晴らしさに直接的に触れた箇所があまりありません。
物語としてはヒロイン・ルーシーがイタリア滞在によって自らの意志に開眼したかのように描かれているのですが、じゃあイタリアの何が彼女を変えたのか、その“何か”を具体的に説明はしていない。
イタリア好きなぐりはなんとなく分かるような気がするけど、イタリアに行ったことがない、興味がないと云う読者はどう感じるのだろう。

『モーリス』では登場人物を辛辣に嘲弄しまくっていた著者ですが、『眺めのいい部屋』ではそうでもありません。て云うか人物描写が意外なくらいアッサリしてる。
それよりも、早晩凋落せんとするイギリスの階級社会に無批判に受け継がれて来た、それも完全に形骸化した因襲への憎しみの方に、より力を入れて描写しているように感じました。っつってもそんな大したことじゃなくて、現代の我々から見ると「あーしょーもな」と切って捨てられて終わっちゃうような些細な“因襲”ではあるけれど、塵も積もればなんとやらで、ここまでしつこく細かに挙げつらわれると「鬱陶しい世の中だったんだな」となんとなく感じる。そして著者はその鬱陶しさを憎んでいる。
しかしこの人はイギリス嫌いだったのかなぁ。もし故国を深く愛していたとすれば相当な天邪鬼ですな・・・。そういう問題じゃないか。

『校門の時計だけが知っている─私の[校門圧死事件]』細井敏彦

2004年05月19日 | book
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1990年7月に兵庫県内の公立高校で起きた“女子高生校門圧死事件”の加害者である教諭の手記。
事件当時ぐりは高校を卒業したばかり、同じ兵庫県内に住んでましたが、さしてショックを感じなかった記憶があります。いつか必ず起こるだろう事故が、なりゆきのままに起きただけじゃないかと。
亡くなった女子高生や加害者となってしまった教諭には不運ではあったろう、不幸な事故だと思う。ただ、防ごうと思えば誰にでも防げた筈なのに、誰もそうはしないまま微妙なミスがしんしんと積み上げられていった結果起きた事件ではないかと、ぐりは今もそう思っています。

ぐりが兵庫県内の公立の学校に通ったのは1978年から1990年(昭和53年から平成2年)。ちょうど校内暴力とイジメが深刻な社会問題になっていた頃でした。
他の地域がどうだかよく知らないけど、兵庫の地域性にはいわゆるコンサバティブな傾向が強く、学校の態度も権威的高圧的な面が多々ありました。まだ子どもの人権、プライバシーと云う考え方も充分には浸透していなかった時代でした。
ぐりが当時の学校に抱いたイメージは“刑務所”。内申書と云う錦の御旗のもとに子どもたちを平伏させ囚人か家畜を扱うような管理を一方的におしつける、それがぐりにとっての学校でした。
特にそのイメージが強かったのは小学校、中学校です。無意味に微に入り細にわたる校則、当然のように暴力をふるう教師、強制的に入部させられ無茶苦茶にシゴかれる部活動。勿論中には好ましい先生もいたし、みんなそれぞれに一生懸命やってたんだろうとは思う。でも、十代前半の子どもにさえ「大人にとって都合の良い扱いやすいだけの“良い子”と云う名のバカを大量生産する工場」としか思えない、そんな学校教育が兵庫の“トラディショナル”でした。

ぐりはそんな小中学校生活がどうしてもイヤで、高校は比較的自由な校風と云う評判の進学校に入学しました。当然そのために猛勉強しました(受験前の半年で一日12時間←学校・塾の授業を除く)。何が何でも“刑務所”に進学したくないばかりに(笑)。
お陰様でぐりの高校生活はバラ色の3年間でしたが、この事件のあった学校はバリバリの“刑務所”系だった。
兵庫の公立高校は当時は偏差値輪切り制で、つまり各校区内で学力順に進学先が分かれるようになっています。生徒の管理体制は学力・進学率に反比例して進学校は管理が緩やかで、そうでない高校は“刑務所”系となる。事件のあった高校はその校区ではほぼ最下位だったそうです。

この本で教諭は一切自分の非を認めていません。自分は勤勉で誠実で教育熱心な教師である、事件後も教え子や同僚の信頼を集めるまっとうな人間である、と云う主張にひたすら終始しています。
確かに立派な先生だったんだろうと思う。でなければこれだけ感動的な手紙を何通も教え子から送られたりはしない。それは認める。
しかし何通素晴しい手紙を受取ろうと、彼がひとりの人間を、それも教え子を死なせたと云う事実に変わりはない。
彼が同僚や教育委員会やマスコミや検察の非を細かに挙げれば挙げるほど、自らを声高に弁護すればするほど、亡くなった生徒や傷つけた人々に対する誠意は薄れ、彼本人の人間の命に対する認識の異常さが印象に強くなっていく。

こんな人が教師になったことが間違いのもとだったんだと、ぐりは思います。
彼だけが悪かった訳ではないと思う。校長にも、他の教師にも問題意識がなさ過ぎた。困難な状況で彼は彼なりにベストを尽くそうとしたのかもしれない。
でもどんなに立派な先生であったとしても、教え子を死なせた罪が経歴で軽減される訳がない。その罪は“聖職”にあった彼こそが一生背負って行かなくてはならない。
そのことを、この教諭は本当の意味では全く分かってないんじゃないかと、思います。
大体、この本に書かれるような完全無欠な教師なんか現実にあり得ませんて。スーパーヒーローやんコレ。全然リアリティ無いです。うん。

士郎正宗の最先端

2004年05月13日 | movie
『イノセンス』
『アップルシード』
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ぐりは実はSFって全然興味ないです。アニメもヨーロッパのアート系作品と宮崎駿作品を除けばほとんど観ないです。
なのでこの2作に関しては純粋に職業的な興味で、やっとのことで観に行きました。内容に関してはさっぱり期待してなかった。原作の士郎正宗作品も一切読んだことないし、押井作品にもこれまで何の感銘も受けなかったし。
ところが観てみたらこれが面白い。『イノセンス』なんか終わってクレジットが流れた時思わず拍手しそうになったさ(しなかったけど)。

『アップルシード』の方は今回開発したとか云う「3Dライブアニメーション」と云う手法をちゃんと見てみたかったので、その目的は達成されてなんだかスッキリしました。これはごくカンタンに云うと、演技してるのは人間なんだけど画面に映るキャラクターは見慣れたセルアニメ調になるようにコンピューターでつくっちゃうと云う方法。なんで人間が演技してるのを撮影せんのかい、っつーと、CGで画面をつくるとカメラワークがかなり自由になるんですね。特にこの作品は巨大なメカや人間の繰り広げる迫力あるアクションシーンが見せ場ですから、ダイナミックなカメラワークはそれだけで非常に魅力的な表現技術になります。
アクション、かっこよかったですよ。ウン。アクションにさほどキョーミのナイぐりが見ても爽快でした。

『イノセンス』はスタッフに何人か知人がいた関係で観に行きましたが、下馬評で「難解だ」と云う評判を聞いてたせいもあってか、実際思ったほど難解には感じませんでした。普通にサスペンスとして楽しめました。
なんと云ってもやはりあの映像美は確かに凄まじかったです。昨日開幕したカンヌ映画祭にも出品されてるそうですが、これはもうまさに「一見に如かず」です。隅から隅まで豪華絢爛、一点の妥協も見受けられない、完璧な芸術作品に仕上がってます。コレつくってる方は観た人が楽しい楽しくないとかそういうことは全然考えてなくて、とにかく自分たちのやりたいことをやりたいように徹底的につきつめてつくってる、そういう感じの映像でした。だからゲージュツ。
あと音がすっごく凝ってて、リアルでした。ハリウッドのスカイウォーカーサウンドとか云う、最先端な会社がやっとられるそーですが。

ただ惜しむらくは2本ともストーリーが古臭いこと。特に『アップルシード』の方は原作が古いのかもしれませんが何のオリジナリティも認められない。ストーリーに加えて台詞とアフレコの芝居も古くさくて、画面の新鮮さを半減させているように感じました。
『イノセンス』はテーマは大変興味深いのだが、終わってみると「え、それで終わり?」みたいな、消化不良な終わり方のように思えました。この作品の台詞にはやたらめったら文豪やら思想家やら宗教家やらの格言が引用されるんですが、引用され過ぎてその意味や重さが途中から薄れて来るのが勿体無かった(狙ってんのか?)。何にせよコレがカンヌでどう受入れられるかは大変気になります。

ところで『イノセンス』にはバセットハウンドと云う犬が登場しますが、これは監督ご自身も飼われている犬種で前作『アヴァロン』にもやはり主人公の飼犬として登場しています。
押井さんは大変な犬好きで、現在お住まいになられている熱海のお宅もワンちゃんのために引越したおうちだそうですし、実際お目にかかると着ている洋服がみんな犬柄です。そんな監督を一部の人は「お犬様」と呼ぶとか呼ばないとか。
しかしこの『イノセンス』はまず今どきの日本映画にあるまじき時間とお金のかけ方をしてますが、なんでコレがふつーの実写映画で出来んのでしょーな?それがよく分からない。産業としてビジネスとして日本映画は何かを大きく誤っているような気がしてならんです。

キューティーハニー

2004年05月10日 | movie
『キューティーハニー』
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いやー面白かったです。
ぐりはこの原作は読んだことがなくて、アニメの方は「なんとなく見たことがあるような気がする」程度の記憶しかありません。それでもあのセクシーでキュートでサイケなオープニングタイトルとテーマソングの印象は強烈で、『キューティーハニー』独特の世界観はくっきりしっかりイメージに残ってます。

そんなぐりがこの実写版『キューティーハニー』が原作・アニメ版と比べてどうだったかと感想を述べるのは非常に難しいですが、ひとつだけ云えるのはアニメほどセクシーではなかった、ってとこでしょうか。
主演の佐藤江梨子嬢は確かに物凄いプロポーションですし、コスチュームデザインもなかなかイイと思うんですが、もともと彼女に色気が足りんのでしょーな。胸は大きい、肌も白い、脚も長い、けど色気がない。ぐりはサトエリ嬢の歯が汚かったのがショックでした。歯ぐらい磨こうよおねーさん。

作品そのものはかなり楽しめる映画になってます。SFアクション・ミュージカル・コメディ。ストーリーとかコンセプトとかそんなのそっちのけで頭カラッポにしてただただ笑ってればスグ終わる、そんな他愛のないエンターテインメント映画です。特にミッチーが凄かった。そんなに出番は無いんだけど、画面に出て来るだけで試写室爆笑。さすが王子。
あと“ハニメーション”とか云う、1コマずつスチールで人物の動きを撮影してそれを繋いでアクションシーンをつくる(すなわち通常のセルアニメを実写の写真でつくるような考え方)、と云う手法はとっても効果的でした。この作品の世界観がこのいくつかのシーンでいちばんよく表現出来てると思うし、あのプロポーションで体が柔らかいサトエリ嬢だからこそ出来たんだと思います。

惜しむらくはこれだけの規模・出演陣でありながら予算が足りてない=完成度に相当問題があること。具体的に気になる箇所はいちいち挙げませんが、とりあえず特撮ショボイ・特殊メイクいけてない・画質キタナイ・音楽ダサイ。衣装と出演者が豪華なだけにそう云う手の行き届かない部分がやたら目立つ目立つ。
B級っぽい雰囲気を狙ってるにしても完成度はかなり納得行かないです。面白い映画だけにそういう必要最低限の箇所が出来てないのがヒジョーに悔しい。

『モーリス』E・M・フォースター著

2004年05月05日 | book
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ゲイ小説特集、打ち止めです。もうしばらくは読まないぞ。流石に飽きて来た。ははは。
映画『モーリス』と云えばぐりには忘れられない思い出があります。コレ前にも書いたような気がするけど面白いからまた書く。
ぐりが高校生の頃のボーイフレンドにマサトくん(仮名)と云う子がいました。そう、かまととにも彼氏はいたのです。意外にも。
眉目秀麗頭脳明晰な優等生のマサトくんには、アキラくんと云うこれまた眉目秀麗頭脳明晰な優等生の親友がいました。
優等生ではあっても地味で無口なアキラくんはどう云う訳か3年の2学期から学校に来なくなり、そのまま留年することになりました。
一方マサトくんは現役で京都の私立大に合格し、卒業後引越すことになりました。

卒業式の数日後、マサトくんはアキラくんに「引越したらなかなか会えなくなるから、その前にゆっくり話がしたい」と泊りがけで自宅に招かれました。
行ってみるとアキラくんの家族は留守でした。夕食にアキラくんの手料理をご馳走になった後、マサトくんは「ビデオを観よう」とアキラくんに誘われました。その時アキラくんがマサトくんに観せたのが『モーリス』『アナザー・カントリー』だった。 
2本の映画を観終わったふたりは無言で就寝し、翌朝も特に何も話さずにマサトくんはアキラくんの家を後にしたそうです。

マサトくんはこの話をぐりにした時「『ゆっくり話したい』ってアキラがゆうから行ったんやけど、結局何も話さんかったなぁ」とのんきそうにコメントしただけだし、ぐりもただ面白くてゲラゲラ笑ってたけど、今にして思えばこれはどう考えてもやっぱり“愛の告白”だよね(笑)。そう思うと、気の毒なくらい大人しかったアキラくんがいじらしく、可哀想に思えて来ます。ひとりぼっちのおうちにマサトくんを招待したのだって随分勇気が要ったろうなと。

ぐりはいつだかは忘れましたが一応この映画『モーリス』は観ています。観た時も原作を読んでみたいとは思いましたが、あの表紙があまりに恥ずかしくてこのトシになるまで手にとることが出来なかった。映画のスチール写真が使われてんだよね。もういかにも少女趣味なボーイズラブ文学、ってカンジでさ。
今回読んでみて、映画を観てから十年以上抱いていた思いが果たされた気分でスッキリしました。ぷはー。

原作を読んでみると、映画が小説にかなり忠実に映像化されたことが分かります。台詞や情景描写など細かいディテールもそっくり映画に再現されています。ただ忠実であるだけに、決して映像で表現出来ない、文学でしか表現し得ない大切な部分がすっぽりと抜け落ちてしまっている。
この物語は、モーリスと云うやや鈍感な少年が人として成熟し自分が何者であるかを知り、苦悩の末に自らの人生を選びとるまでの精神的な成長を描いています。つまり恋愛小説ではない。恋愛は彼の成長を促す重要な試練のひとつではあるけど、あくまでモーリスの内面的な葛藤と、イギリス上流階級の凋落ぶりへの皮肉たっぷりなノスタルジーがメインである。
映画ではこの“内面的なドラマ”が効果的に表現されないまま、モーリスとクライブの関係の変遷が淡々と綴られる。他の登場人物や状況設定に関する説明もほとんど無い。ところどころ肝心な箇所の欠けたモザイク画を眺めているような、昼メロのダイジェスト版を観ているような印象を受けるのはそのせいだと思います。

あとね、モーリスとクライブがかっこ良過ぎ(笑)。原作のイメージと全然違う。
ぐりはフォースターの作品を他に読んだ記憶がないので、これが作風なのかどうかよく分からないけど、この人の人物描写がまた物凄く辛辣です。モーリスがどれだけアタマのめぐりが悪いか、クライブがどれだけ醜悪な俗物か、容赦なく実に手厳しく登場人物を嘲弄する。ただその厳しさにもどこか親愛の情のようなものがあって、高いところから見下ろしたような書き方なのに、読者は著者に嘲られる人物に妙な親近感を感じるし、そんな彼らに構成されたごくあやふやな人間関係の世界にリアリティさえ感じる。そう云う不思議な感覚を味わわせてくれる作家だなと思いました。

この小説の最も魅力的な場面はラストシーンです。
補欠選挙に立候補しようとしているクライブは、モーリスとの最後の邂逅の後、ほんの一瞬、友の呼ぶ声を聞く。遠くケンブリッジのキャンパスで、いつも友が呼んでいた美しい名を。
フォースターはクライブのその一瞬の感覚にふっと軽く触れてみせるだけにとどめています。それだけで、その瞬間の光景が、音が、香りが、読む人の心にせつないほど彩やかに瑞々しく蘇る。誰にでもあった輝かしい日々、二度と戻らない時代、永遠に続くように思われた黄金の季節。
ある意味でフォースターは人生の残酷さを描きたかったのかもしれないと感じる一文です。青春は束の間に過ぎ去り、人は年をとり、年をとれば引き受けなくてはならない責任は誰の肩にものしかかって来る。それから逃れると云うことは人生そのものを投げ出すにも等しい。自分自身の人生を自ら選択すると云うことが今よりも遥かに難しかった時代に同性愛者としての人生を主人公に選択させた著者は、あるいは彼らの将来に一縷の希望を託したかったのかもしれない。

今回読んだ3冊の中ではコレがいちばんオススメですね。表紙はちょっとなんとかして貰いたいけど、一度は読んでみても良い本だと思います。