落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

Love your enemy. Pray for a person blaming you.

2016年04月24日 | book
『スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪』ボストン・グローブ紙〈スポットライト〉チーム編 有澤真庭訳

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2002年1月、マサチューセッツ州ボストンの地元紙で連載が開始されたカトリック司祭による性的虐待スキャンダルは、瞬く間に全米のみならず全世界のカトリック社会を大混乱に陥れた。何世紀にもわたって構築されてきた教会の隠蔽体質に改革をもたらした調査報道〈スポットライト〉チームの取材記録をまとめたルポルタージュ。第88回アカデミー賞作品賞・脚本賞を受賞した映画『スポットライト』の背景とその後を描く。

1960年代、トム・ブランシェットはボストンの西にある街サドベリーの神父ジョセフ・バーミンガムと、週に2〜3度、半ば定期的にセックスをしていた。その期間は2年間に及ぶ。
当時彼は11歳の小学生だった。愛についても性についても性行為についてもまともな知識はない。家族が信頼し尊敬する司祭に求められるまま、彼が転任で地域を離れるまで、沈黙のうちに関係を続けた。
その後何年も経って、司祭が地域のほかの少年だけでなくブランシェットの兄弟全員を性的に虐待していたことを知り、やがて自らの身の上に起きた出来事の矛盾に苦しみ始めたが、1988年、バーミンガムの司祭館を訪問し、直接こう告げた。

「私がここに来た真の理由は、二十五年間あなたを憎み、敵意を抱いてきた許しを乞うためです。なぜなら聖書に汝の敵を愛し、自分を虐げる者のために祈れとあるからです」と(148〜149P)。

私自身は、小児性愛も同性愛もそれそのものは決して罪ではないと思う。
誰かが誰かを愛し、触れあいたい、相手を手に入れたいと願う欲求は人間の自然な心理だし、それ自体には抑制されるべき理由はどこにもない。
だが人間には理性というものがある。そしてこうした性的欲求は完全にフェアな関係性のうえにあるべきものであって、権力を行使する側が行使される側に求めた時点ですべてが誤りになってしまう。
何年か前に、性的虐待の被害者を支援する活動をしていたときも、加害者自身の人間性自体を否定しようという気持ちにはとてもなれなかったけど、児童への性的虐待事件の裁判で「わたしたちは愛しあっていた」「愛してたからそうした」「いまも愛している」などという被告の自己弁護を耳にしたときほど、虚しさを感じたことはない。だとすれば彼らの「愛」は概念そのものが完全に歪んで狂っている。そのことに気づけない人間に愛を語ることなど許されない。
人間は間違いを犯す愚かな人間だが、その愚かさで正当化できるものなどありはしない。まして、傷つけられた人間がより弱い立場にあったなら、その罪を許せば許すだけ、傷は大きく修復不可能となっていく。
なぜなら、ふたりの間に権力の格差があるとき、彼ら加害者にとって被害者には名前もなく顔もなく声もない、彼ら自身にとってだけ都合のいい性のはけ口でしかありえないからだ。愛というニセモノの仮面を着けたその行為によって被害者の精神は殺され、永久に死滅する。

ボストン・グローブのスキャンダル報道からバチカンは2度教皇を替え、構造改革に努めてきた。たとえば2014年、バチカンは過去10年間に性的虐待事件で848名の司祭を免職し2572名の聖職者を懲戒処分にしたと発表している。にもかかわらずいまも批判の矢面に立たされ続けている。
ことここに及んでは、性的虐待者を庇護しカネで事件を隠蔽する慣習はカトリック教会の文化ともとらえられても仕方がないのだろう。多くの人がこの事件によって教会に背を向け、献金を拒否した。そのことで困窮するのは教会だけではない。その支援下で運営されてきた障害者支援施設や児童養護施設、医療施設などの福祉施設やそこで支援を受ける弱者たちが路頭に迷っている。それでも解決の道がまだ遠いのだとすればむしろ、カトリック教会は教会だけでなく社会全体の性的虐待問題の解決をリードすべき立場にあるのではないだろうか。
個人的には、そうであってほしいとも願っている。

キリスト教やらその制度にまったく知識のない人間にとっては少々読みにくいところもあったけど(翻訳がカタすぎる)、ボストン・グローブの記者たちの努力の結晶を実際に読むことができて嬉しかったです。文中に例の『ブラック・スキャンダル』の登場人物がちょろっと登場してみたり、いったことのないボストンの街をちょっと身近に感じました。
日本の新聞にもこれくらい根性ハマった調査報道があれば、こんなこと(「日本の報道の自由度ランク72位」「国連『表現の自由』特別報告者『懸念は深まった』記者クラブ廃止など提言【発言詳報】」ハフィントンポスト)にはなってないはずだと思うんだけどね。いまだって決してできないはずはないと思うんだけど。

被害者のインタビューを含むドキュメンタリー
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この事件を題材にしたサスペンス映画
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Time to meet God.

2016年04月20日 | movie
『ボーダーライン』

FBI捜査官のケイト(エミリー・ブラント)はアリゾナでの誘拐事件容疑者宅への急襲作戦で無数の被害者の遺体を発見するが、その捜索中に物置に仕掛けられた爆弾で捜査官2名を失う。上司に「首謀者を逮捕できるから」と推薦されてメキシコの麻薬カルテルの捜索チームに加わるが、国防総省顧問マット(ジョシュ・ブローリン)率いるチームには正体不明のコロンビア人・アレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)がいて、国境警備隊を中心とする彼らの捜査は渋滞中の国境地帯で銃撃戦を仕掛けるなど、ケイトには到底受け入れがたいものだった。

すげーいっぱい死体が出てくる映画でした(爆)。
いやもうホントに何体出てきたかよくわからない。それもハンパなくひどい死体ばっかり。血みどろで袋詰めにされ壁の中に押しこめられた死体、爆発で身体の一部が吹き飛んだ死体、蜂の巣になった射殺体、頭をきりとられて高架につり下げられた死体、死体、死体、死体。そして銃撃戦。
映画全体のほとんどがクルマでの移動シーンか銃撃戦で、台詞が極端に少ない。ケイトは作戦の中身をほとんど聞かされないし、黒幕アラルコンが具体的にどんな犯罪を犯しているのかもろくな説明がない。でも作戦はパツパツに緊迫している。そしてその緊迫感を盛り上げる音響効果。
もう抜群にストレスたまります(笑)。禁煙に挫折するケイトの気持ちもスゴくよくわかる。

実際に麻薬カルテルが支配したメキシコの治安は極端に悪化していて、組織間の抗争やそれを一掃しようとする当局との争いでこの10年に10万人超ともいわれる犠牲者を出している。もう数からいって完全に戦争ですね。ハイ。
なのでケイトは犯罪捜査だと思っている作戦も、実は軍事作戦だったりする。そこで法規は何の効力も持たない。殺さなければ殺される。善悪をいちいち判断している余裕もない。そんなものを考えている間にそのアタマが吹き飛ばされて死ぬのがオチだ。躊躇=油断なのだ。
その犯罪に加担している人々すべてが悪人の顔をしているわけではない。そこも戦争と同じだ。各々自宅に戻れば家族がいて、子どもがいて、一家団欒の食卓があったりする。その場で互いに「お前は何をした」と問うやりとりほど空虚なものはない。戦争は、そういう当たり前の小さな幸せすら容赦なくおしつぶす。

見終わってみると主人公の役割に矛盾をめちゃめちゃ感じてしまいましたが、アメリカではけっこう高評価らしーですね。同じ題材のドキュメンタリー『カルテル・ランド』も来月公開なので、そっちもちょっと楽しみにしております。

関連レビュー:
『ボーダータウン 報道されない殺人者』



Truth is like poetry. And most people fucking hate poetry.

2016年04月19日 | movie
『マネー・ショート』

2008年の世界的金融危機“リーマン・ショック”を引き起こしたサブプライムローン危機をいち早く予測したトレーダーのマイケル(クリスチャン・ベイル)は、この金融商品が暴落した際に多額の保険金を得られるCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)に13億ドルを投資する。
多くの人が家と仕事と資産を失った未曾有の恐慌で巨万の富を得た男たちを描いたノンフィクション『世紀の空売り 世界経済の破綻に賭けた男たち』(マイケル・ルイス著)をブラッド・ピット製作で映画化。アカデミー賞脚本賞受賞。

2008年ってどんな年だったか、あれからいろんなことがありすぎてよく思いだせない。
正直な話、自分で財テクしない人が、どれくらいあのとき何が起こったかを理解しているだろう。私はあんましわかってなかったです。そこでちょこちょこ泡風呂美女(マーゴット・ロビー)やら有名シェフのアンソニー・ボーデインやらティーン・アイドルのセリーナ・ゴメスやら、物語の本筋とは無関係なゲストがいきなり出てきて専門用語をわかりやすく説明してくれる。親切な映画です。
あとこの映画、たまに登場人物がカメラ越しに観客に話しかけてくる。「これは嘘」とか「虚構だ」とかなんとか、なので映画というより情報バラエティ番組みたいな雰囲気です。楽しい。

でもそれくらい楽しくないとけっこーツライ物語なんだよね。だって金融商品(CDS)がのるかそるか、単純にそれだけの話ですもん。そして歴史は彼らが正しかったことを既に証明している。
実際、彼らはこの賭けに勝利して数百億円という利益を手にしたわけだけど、逆にいえば、彼らの予測は市井の多くの人々の不幸=世界中の金融危機に賭けるのと同じだ。ムチャクチャ不謹慎である。けど、そもそもが危険なサブプライムローンをロクに審査もせずに格付けし無節操に売りまくった金融業界全体が不謹慎そのものだったわけで、その虚構がどれほどバカバカしいものだったか、そのマネーゲーム自体にひそむ闇と、その闇に支配される経済の病に誰も気づこうとしていないのが間違っているのだろう。
作中、ブラッド・ピット演じる元銀行家が出てくるんだけど、彼は引退して田舎にひっこんで農場を経営している。アホみたいに儲かる金融業から遠く離れ、オーガニック野菜を育てながら静かに暮す彼の気持ちもすごくよくわかる。こんなの狂ってるもんね。

映画としてはまあまあおもしろかったけど、途中、登場人物がみんなCDSに投資して住宅バブルが崩壊するのを待つ段階にはいった辺りから眠くなり。
それで気づいたんだけど、人が人を嘲る話ってどーもあんまし好きじゃないみたいです私。この映画の登場人物ってみんな周りの人のことバカにしすぎだよね。そりゃわかるよ。バブルはいずれ崩壊するのに、それに気づきもせずに返済能力もない人にローンを組ませては住宅を売りまくり、その不良債権をうまいことパッケージしたモーゲージ債(CDO)をバカスカと個人投資家に売りつけて儲かってると勝手に思ってる大半の金融業者がどうしても救いようのないバカに見えちゃうのはしょうがない。
けどそれを延々観せられて楽しいかって聞かれちゃうとね。私ゃちょっと楽しくなかったかも。笑えることは笑えるけど、気持ちよく笑えはしない。笑った自分がイヤになる。
まあ自分がとことん財テクに向いてない性格だってことは改めてよくわかったけどね。あとこの登場人物全員、お友達には絶対なれなそうです(笑)。リアルに近くにいたら、昔いっしょに仕事してた某IT社長(みんな知ってる例の問題人物)ばっか思い出して気分悪くなりそうです。



It's a family secret.

2016年04月17日 | movie
『ブラック・スキャンダル』

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生まれ故郷ボストンに赴任したFBI捜査官ジョン・コノリー(ジョエル・エドガートン)は幼馴染みで南ボストン(サウシー)のアイリッシュ・ギャング、ジェームズ・バルジャー(ジョニー・デップ)と取引し、バルジャー自身の違法行為に目をつぶる代わりに、アメリカ全土の治安を蝕むイタリアン・マフィアの捜査に必要な裏情報を提供させる。
長い逃亡の末に2011年に逮捕された実在のギャングとFBIの癒着というスキャンダルを描く。

先日観たばかりの『スポットライト』に続くボストン実話シリーズ。
警察権力と暴力組織の癒着なんてとくに珍しいものでもなんでもないような気がしますが。日本でも『ポチの告白』なんて問題作もあったしね。まあもしかしたら単に私がヤクザがいっぱいいる地域(いまちょうど話題のあの組の下部組織の本拠地)に生まれ育ったせいかもしれませんけど。
ただこのバルジャーに関していえば、FBIとの関係が実に30年間と異常に長く、また問題の捜査官が幼馴染みで、実弟は上院議員、そしてその犯罪の舞台がボストンだったことなど、彼の犯罪を許容し助長するだけの環境があまりにも揃い過ぎてたという点が特殊かもしれないです。アメリカではなかなか知られた人物だったらしく、なのでこれまでにも香港映画の『インファナル・アフェア』シリーズをリメイクした『ディパーテッド』にも主要人物のモデルとして登場してたりします。『ディパーテッド』ではジャック・ニコルソンが演じてたそーですが。なので今回ジョニデの芝居が若干ニコルソン風味です。というか(役柄で)スカッとハゲてて一瞬ダレ?って感じでしたけど。しかしこういうムチャクチャな役ホントに好きですねジョニデは。

観ててすごく奇妙に感じたのは、バルジャー自身がある意味ではすごくスマートで、ハッキリした行動規範をもっていたように描かれていたこと。
バルジャーはボストンの街と出自であるアイルランドをこよなく愛し、家族を大切にしていて、昔ながらの隣人や女性や子どもに対しても紳士的で非常に親切でもある。話すときも大声はたてない。ゆっくりと低い声で静かに話す。その一方で、ギャング仲間のなかでは誰に対してであれ密告という行為を毛嫌いし、その可能性のある者は非情に消していく。自分自身はFBIの密告者であるにもかかわらず。
実際、画面の中では彼の具体的な犯罪行為は殺人以外ほとんど触れられることがない。出てくる殺人もほとんどが口封じやライバル潰しで、そこにいたるまでの過程—マネーロンダリング・麻薬取引・恐喝など—については直接的には語られない。つまりこの映画そのものは、バルジャーの犯罪者像というより彼とFBIをとりまく人間関係にフォーカスして描かれている。
それは、その人間関係そのものがサウシーのローカルな一ギャングのリーダーだったバルジャーをして、全米に知られる悪党にまで成長させ、30年もの間したい放題の暴力犯罪でボストンを恐怖に陥れたからだ。たとえばコノリーはイタリアン・マフィアの捜査で手柄を立てるためにバルジャーを利用するが、肝心のマフィアを逮捕したあともバルジャーをかばい続ける。そうなれば情報源として利用価値があるからというのはほとんど言い訳でしかない。幼馴染みとの関係にただ執着するだけ、かばうことでバルジャーと対等でいられることに陶酔しているだけである。
弟のウィリアム(ベネディクト・カンバーバッチ)が上院議員っていうのもビックリするよね。服役経験のある兄がいて地元の最有力議員になれるって結構特殊なケースだと思うんだけどホントにそうだったんだもんね。それにしてもベネディクト・カンバーバッチとジョニデが兄弟って設定はちょっと無理あるかな(笑)。

アメリカでの評価はどーかわからないんだけど、作品としては完成度も充分だしよくまとまってるんだけど、暗くて地味で盛り上がりもないし、もうちょっと広がりとかないのかなーと、イマイチ印象的な映画にはなりきれてなかったかもです。とにかくジョニデのハゲとニコルソン芝居しか記憶に残らず。悪くないんだけどね。とりあえずこの邦題は最悪とちゃいますかね。なんつーか脳味噌1ミリも使ってない。こんなんで動員できるワケないでしょ。
クレジット観てて気づいたんだけど、これ撮影監督が高柳雅暢さんとゆー日本の方です。こないだの『スポットライト』もこの人。なので時代背景は違うのに画ヅラは両者ともけっこう似てます。
実をいうと個人的にアイルランド人にすごくシンパシーを感じるところがあり(いちばん好きな作家がラフカディオ・ハーンだったり、長い間イギリスの植民地だったという歴史的背景もあり)、信仰心や血族関係や昔からの人づきあいを重視する保守的なアイルランド人気質には複雑な感情ももっている。善い悪い・好き嫌いの問題ではないんだけど、こういう内輪の人間関係に依存しやすい価値観って決していいことばっかりじゃないのに、どうして人は営々と受け継いじゃうんだろうね。
不思議です。

関連レビュー:
『ゴモラ』



We spend most of our time stumbling around the dark.

2016年04月16日 | movie
『スポットライト 世紀のスクープ』

2001年、マサチューセッツ州ボストンの地方紙「ボストン・グローブ」の新編集局長に就任したばかりのマーティ・バロン(リーヴ・シュレイバー)は、司祭の児童への性的虐待事件の小さな記事に着目、連載報道記事“スポットライト”チームに追跡取材を命じる。
2002年にグローブ紙に掲載された記事がきっかけで世界中のカトリック社会を大恐慌に陥れた驚異のスキャンダルを、メディア側の視点で映像化。ヴェネツィア国際映画祭、ゴールデングローブ賞、アカデミー賞など2015〜16年の賞レースを総嘗めにした話題作。

ボストンといえばボストン・マラソン。ハーバード大学。レッドソックス。周辺地域も含めれば人口は600万にも及ぶ東海岸の主要都市だ。敬虔なカトリック信者であるアイルランド系移民が多く、教会と市民社会が根強く結びついている一方で、貧困層の多い南部の治安の悪さは『ディパーテッド』や『ブラック・スキャンダル』(後日観る予定)などのギャング映画にもなっている。
取材チームは弁護士や被害者と接触する中で、加害者である司祭のターゲットが機能不全の貧困家庭の子どもたちばかりという事実に辿り着く。親は忙しくて仕事にも家事にも子育てにも疲れきっていて、子どもは愛情に飢えている。信心深い彼らは司祭に声をかけられるだけで喜んでなんでもいうことを聞いてしまう。そこにつけこんでしたい放題に弱い立場の彼らを蹂躙し、事が大きくなれば信仰心と貧乏につけこんでカネでもみ消す。
貧しさと宗教と匿名性の高い大都市という格好の要素が揃ったところで、何十年もその腐敗は組織的に醸成され続けていた。生まれ育った我が故郷の暗黒を自ら告発する取材チームの悲しみと怒りは察するにあまりある。

この報道を端緒に世界中に波及した未曾有の宗教スキャンダルだが、劇中でも言及される通りそれまでにも何度か報道されてはいるし、個人的にはとくに新しい話題ではなかったのではないかと思う。2005年のスペイン映画『バッド・エデュケーション』でも同じ題材が描かれるが、この作品の物語はペドロ・アルモドバル監督自身の体験に基づいているという。つまりは、グローブ紙が暴くよりずっと前から、カトリック社会ではこのことは公然の秘密となっていたはずである。
しかし信心深さを美徳とする社会で、その社会全体を支配する教会を糾弾することはとても難しい。それは曖昧だが絶対的な独裁にも似ている。とにかく教会の言う通りにしておれば間違いはない。警察も検事も判事も弁護士も学校も行政も隣人も、町中の何もかもすべてが教会の“お友だち”というコミュニティを包囲した善意の盲信が、凶悪犯罪を隠蔽し助長する。
そんな社会では民主主義も基本的人権も意味をなさない。貧乏な子どもが傷つけられ、その体験に生涯傷つき続けていても、誰も気にとめようともしない。

この映画では実際に起こったスキャンダル事件を描いているけど、物語の本質はきっと、この事件だけにとどまるものではない。
長い間、多くの人が見て見ぬふりをしてきたカトリック教会の醜い犯罪行為。だが当事者以外の周囲の人々の無反応と無関心が犯罪行為そのものをより醜悪に拡大していく地獄のスパイラルは、どんな社会にも存在している。
実は数年前、ボランティアとして性的虐待の被害者を支援する活動に関わり、いくつかの事例に触れ、裁判も傍聴したことがある。多くのケースで加害者は常習犯であり、被害者は繰返し何度も被害に遭っている。どう考えても周囲の誰ひとり気づかなかったわけがない。誰にでも制止する機会はあった。でも決してそうはならなかったし、むしろ周囲が犯罪に加担した例もあった。そこに罪の意識はいっさいない。
大したことじゃない。そんなめに遭う方にだって非があるんだから。恥ずかしいことにわざわざ触れちゃいけない。忘れてしまうのがいちばん。
なんという想像力の欠如だろう。そんなものはただの逃避、卑劣な犯罪者の思うつぼでしかないのに、おそらくは現実にその立場になれば多くの人がそう反応してしまう。それが性的虐待という“魂の殺人”のもっとも愚劣な部分であり、カトリック社会にとどまらない、どこに住む誰の身にも起こり得る恐ろしい現実だ。

映画は各映画賞の脚本賞をざくざくともらったようですが、なるほど地味で難解で複雑な物語をがっちり骨太にまとめたテクニックには脱帽でした。とくに、このスクープを指揮した本人であるバロン局長がほとんど出てこないのがいい。もさっとして無口で一見敏腕に見えないんだけど、外から来た第三者として地元生まれの記者たちの自主性を尊重し、一歩引いたところから大勢をしっかり押さえる理想的なリーダー像が非常にスマートに表現されてました。
地元生まれの記者たちがもともともっていたネットワークと知見があったからこそのスクープであり、地元愛から暴かれたスクープだからこそ被害者とオーディエンスの支持を得られたのだ。その点でも、社会の矛盾を覆せるのはその社会の当事者だということがきっちり主張された、素晴らしいドラマだと思いました。
帰りに原作というかボストン・グローブが映画化に際して出したルポルタージュを買って、いま読んでる最中です。読んだらまたレビューするかも。