『ソーシャル・ネットワーク』
2003年、ハーバード大学2年生のマーク・ザッカーバーグ(ジェシー・アイゼンバーグ)は酔って大学のコンピューターをハッキング、女子学生の顔写真を集め、親友のエドゥアルド・サベリン(アンドリュー・ガーフィールド)の協力で女の子の格付けサイトをつくってしまう。サイトはわずか2時間に2万件以上のアクセスを集めて大学のサーバーをダウンさせたうえ、マークは一夜にして大学中の女の子の嫌われ者になるのだが、彼の才能に目をつけたエリート学生ウィンクルボス兄弟(アーミー・ハマー/一人二役)にハーバードの学生専用“出会い系”サイトの立ち上げを依頼され・・・。
世界中に5億人以上のユーザーを抱えるSNSサイトFacebookの誕生を描いた青春物語。
ぐりはSNSってあんまり興味がなくて。
義理みたいなものでいくつかは登録はしてるけど、ほとんどユーレイ状態ですね。情報収集には使うこともあるし、宣伝したいことがあればターゲットにピンポイントでアピールできるという点ですごく有効なツールだとは思うんだけど、所詮は子どものオモチャじゃない?って気がしちゃうんだよね。
ビジネスツールとして似たような機能を持ったSalesforceなんかもあるけど、あれこそまさに純然たる“道具”であって、Facebookとは使う目的が違うからね。Sfはマジ便利っすよ。すばらしーですアレは。
まあでも、FacebookみたいなSNSにすっごいハマってる人の気持ちって、実はよくわかんない。若い子の中にはケータイのSNSサイトにハマって一日中そればっか見ちゃう子がいたり、なんてこともよく聞くけど、何がそんなにおもしろいのかイマイチついていけない。けど、今アラビア諸国で起こってる民主化運動のきっかけもFacebookだっつうし。うーん。
ジェネレーションギャップなのかなあ。
主人公のマークは1984年生まれ。Facebookを立ち上げたときは弱冠19歳だったことになる。
最初のFacebookはそもそも大学生同士で友だちの情報を見られるサイトとして始まったから、それこそホントに「子どものオモチャ」だったんだよね。自分の友だちが今どうしてるか、ってことがリアルタイムでわかる。
この映画のうまいところはFacebookを完全にそこまでのサイトとしてしか描写してないところなんだよね。5億人以上もユーザーがいるなんて化け物サイトではあるけど、なんでそんなことになったのか?ってところには言及していない。
なんだかんだいってデヴィッド・フィンチャーもFacebookなんて「子どものオモチャ」だと思ってたんじゃないかな?少なくとも思い入れはないよね。これで「いやそんなことない、オレは立派なFacebook中毒者だ」とかいわれたら、それはそれでスゴイと思うけど。ほんとに客観的に表現されてるから。
ただ逆に、この客観性が観ててすごく複雑な気分にさせられる最大要因にもなっている。
映画の中でFacebookは完全に単なる「子どものオモチャ」でしかない。マークはFacebookで金儲けがしたかったわけじゃない。才能をひけらかしたり、名誉が欲しかったりしたわけでもない。アイデアだってもとはウィンクルボス兄弟からパクったものだから、自分のアイデアで世間を驚かしたかったというわけでもない。
彼が何を求めてFacebookをつくり、今みたいな化け物サイトにまで仕立てていったのか、そこは映画の中でははっきりと明言はされていない。
明言されてはいないけど、彼は単に、自分がつくったオモチャにみんなが喜んで群がり、集まった人は平等にそれを使える、そんな世界を新しくつくりたかったんだろうな、ってことは微妙に伝わってくる。
なのに、映画の主人公としての彼は、なぜか決していい人にはなれなくて、わけもなく嫌なやつのふりをしてしまう。頭の回転が速過ぎて周囲とうまく馴染めず、何かとつい誰もを上から見下ろしてしまうのに悪意はない。やたらプライドにばっかりこだわって敵ばっかりつくって、それでも自分が得をするように立ち回ったりすることもできない。
ピュアなんだけどからみづらい、扱いにくい、でも憎めない。こーゆー人のことを関西弁では「いじましい」っていうんですけど、標準語に直したらどーなるんやろ。
デヴィッド・フィンチャーらしく映像が非常に凝っててさりげにオシャレで、マシンガン並みにけたたましい早口トークでポンポン展開してくスピード感が気持ち良かったけど、台詞に専門用語が多くて自分がついてけてるのか途中で何度も不安になっちゃったりして、観終わってすぐに拍手喝采しておもしろい!っていえる感じではなかったです。ゆっくり余韻に浸ってる間に、おもしろかったかもな、ってじわじわ思えてくる。そんな映画も珍しいね。
ところでこの映画、マーク・ザッカーバーグ本人やFacebookは製作に協力したりはしてないらしいんだけど、そんなことってあるんだね。んでそーゆー映画がオスカー候補になっちゃうアメリカってなんかスゲーよ。
アメリカといえば劇中にもやたら出てくるフラタニティ(ソロリティ)文化って超しょーもないよね(爆)。しょーもなすぎてギャグとしか思えないんだけど、あんなしょーもないモノが営々と受け継がれ、しかも大学卒業後、社会人になってからもいろいろ影響があるっつーんだから、アメリカまじわっかんねー。
それにしても、アメリカがいくら訴訟社会だっつっても、あのマークとエドゥアルド、マークとウィンクルボス兄弟の裁判をやってた弁護士とか、「ガキのケンカにいちいちつきあってられっかボケ!」「やってられるか!」とか絶対思ってたよね。イタイわぁ。
だってコイツら天下のハーバードの学生だっちゅーのに女子にモテることばっか考えてんだよ。マジですか。なワケあるいかいな。ね?・・・え?
けどまあそのイタさもこの映画の重要なモチーフなんだよね。こんな「子どものオモチャ」が超ウルトラ級のビッグビジネスになって、女のケツばっか追っかけてる(あるいは追っかけられもしない)ボンクラの「ガキのケンカ」に何十億ってカネが動く。
まったくヘンな世の中だ。
あと余談ですけど、この主演のジェシー・アイゼンバーグとアンドリュー・ガーフィールドが嵐の二宮和也と松本潤に見えてしょーがなかったのは私だけ?似てるよね?顔もだけど、背格好とかキャラとか。カブってない?
2003年、ハーバード大学2年生のマーク・ザッカーバーグ(ジェシー・アイゼンバーグ)は酔って大学のコンピューターをハッキング、女子学生の顔写真を集め、親友のエドゥアルド・サベリン(アンドリュー・ガーフィールド)の協力で女の子の格付けサイトをつくってしまう。サイトはわずか2時間に2万件以上のアクセスを集めて大学のサーバーをダウンさせたうえ、マークは一夜にして大学中の女の子の嫌われ者になるのだが、彼の才能に目をつけたエリート学生ウィンクルボス兄弟(アーミー・ハマー/一人二役)にハーバードの学生専用“出会い系”サイトの立ち上げを依頼され・・・。
世界中に5億人以上のユーザーを抱えるSNSサイトFacebookの誕生を描いた青春物語。
ぐりはSNSってあんまり興味がなくて。
義理みたいなものでいくつかは登録はしてるけど、ほとんどユーレイ状態ですね。情報収集には使うこともあるし、宣伝したいことがあればターゲットにピンポイントでアピールできるという点ですごく有効なツールだとは思うんだけど、所詮は子どものオモチャじゃない?って気がしちゃうんだよね。
ビジネスツールとして似たような機能を持ったSalesforceなんかもあるけど、あれこそまさに純然たる“道具”であって、Facebookとは使う目的が違うからね。Sfはマジ便利っすよ。すばらしーですアレは。
まあでも、FacebookみたいなSNSにすっごいハマってる人の気持ちって、実はよくわかんない。若い子の中にはケータイのSNSサイトにハマって一日中そればっか見ちゃう子がいたり、なんてこともよく聞くけど、何がそんなにおもしろいのかイマイチついていけない。けど、今アラビア諸国で起こってる民主化運動のきっかけもFacebookだっつうし。うーん。
ジェネレーションギャップなのかなあ。
主人公のマークは1984年生まれ。Facebookを立ち上げたときは弱冠19歳だったことになる。
最初のFacebookはそもそも大学生同士で友だちの情報を見られるサイトとして始まったから、それこそホントに「子どものオモチャ」だったんだよね。自分の友だちが今どうしてるか、ってことがリアルタイムでわかる。
この映画のうまいところはFacebookを完全にそこまでのサイトとしてしか描写してないところなんだよね。5億人以上もユーザーがいるなんて化け物サイトではあるけど、なんでそんなことになったのか?ってところには言及していない。
なんだかんだいってデヴィッド・フィンチャーもFacebookなんて「子どものオモチャ」だと思ってたんじゃないかな?少なくとも思い入れはないよね。これで「いやそんなことない、オレは立派なFacebook中毒者だ」とかいわれたら、それはそれでスゴイと思うけど。ほんとに客観的に表現されてるから。
ただ逆に、この客観性が観ててすごく複雑な気分にさせられる最大要因にもなっている。
映画の中でFacebookは完全に単なる「子どものオモチャ」でしかない。マークはFacebookで金儲けがしたかったわけじゃない。才能をひけらかしたり、名誉が欲しかったりしたわけでもない。アイデアだってもとはウィンクルボス兄弟からパクったものだから、自分のアイデアで世間を驚かしたかったというわけでもない。
彼が何を求めてFacebookをつくり、今みたいな化け物サイトにまで仕立てていったのか、そこは映画の中でははっきりと明言はされていない。
明言されてはいないけど、彼は単に、自分がつくったオモチャにみんなが喜んで群がり、集まった人は平等にそれを使える、そんな世界を新しくつくりたかったんだろうな、ってことは微妙に伝わってくる。
なのに、映画の主人公としての彼は、なぜか決していい人にはなれなくて、わけもなく嫌なやつのふりをしてしまう。頭の回転が速過ぎて周囲とうまく馴染めず、何かとつい誰もを上から見下ろしてしまうのに悪意はない。やたらプライドにばっかりこだわって敵ばっかりつくって、それでも自分が得をするように立ち回ったりすることもできない。
ピュアなんだけどからみづらい、扱いにくい、でも憎めない。こーゆー人のことを関西弁では「いじましい」っていうんですけど、標準語に直したらどーなるんやろ。
デヴィッド・フィンチャーらしく映像が非常に凝っててさりげにオシャレで、マシンガン並みにけたたましい早口トークでポンポン展開してくスピード感が気持ち良かったけど、台詞に専門用語が多くて自分がついてけてるのか途中で何度も不安になっちゃったりして、観終わってすぐに拍手喝采しておもしろい!っていえる感じではなかったです。ゆっくり余韻に浸ってる間に、おもしろかったかもな、ってじわじわ思えてくる。そんな映画も珍しいね。
ところでこの映画、マーク・ザッカーバーグ本人やFacebookは製作に協力したりはしてないらしいんだけど、そんなことってあるんだね。んでそーゆー映画がオスカー候補になっちゃうアメリカってなんかスゲーよ。
アメリカといえば劇中にもやたら出てくるフラタニティ(ソロリティ)文化って超しょーもないよね(爆)。しょーもなすぎてギャグとしか思えないんだけど、あんなしょーもないモノが営々と受け継がれ、しかも大学卒業後、社会人になってからもいろいろ影響があるっつーんだから、アメリカまじわっかんねー。
それにしても、アメリカがいくら訴訟社会だっつっても、あのマークとエドゥアルド、マークとウィンクルボス兄弟の裁判をやってた弁護士とか、「ガキのケンカにいちいちつきあってられっかボケ!」「やってられるか!」とか絶対思ってたよね。イタイわぁ。
だってコイツら天下のハーバードの学生だっちゅーのに女子にモテることばっか考えてんだよ。マジですか。なワケあるいかいな。ね?・・・え?
けどまあそのイタさもこの映画の重要なモチーフなんだよね。こんな「子どものオモチャ」が超ウルトラ級のビッグビジネスになって、女のケツばっか追っかけてる(あるいは追っかけられもしない)ボンクラの「ガキのケンカ」に何十億ってカネが動く。
まったくヘンな世の中だ。
あと余談ですけど、この主演のジェシー・アイゼンバーグとアンドリュー・ガーフィールドが嵐の二宮和也と松本潤に見えてしょーがなかったのは私だけ?似てるよね?顔もだけど、背格好とかキャラとか。カブってない?