「ヘンリー・ダーガー 少女たちの戦いの物語─夢の楽園」展
ぐりの知りあいに、オタクがとにかく嫌い、受けつけない、という人がいる。
彼のいう「オタク」とは一般的な意味での「マニア」ではなくて、コミックやアニメやゲームに登場する女性キャラクターに「萌え」る人を指す。
この人には小さな男の子がいるのだが、将来息子がオタクになったらどうしよう?とマジメに困っている。ぐりは、なんだって心から愛せるもの、情熱を傾けられるものがあるのは幸せなことじゃないかと思うのだが、親心はそうではないらしい。よくわかんないけど。彼のうちには小さな女の子もいるので、じゃあ娘が「腐女子」になったらどーすんの?とたたみかけてイジメたい衝動に駆られたけど、こらえました。一応、オトナだかんね。ははははは。
閑話休題。
シカゴ市内の墓地にあるヘンリー・ダーガーの墓石にはこう記されている。
芸術家、子どもたちの守護者。なんかかっこいいじゃないですか。もっともらしくて。
といってもダーガーが自らそう名乗ったわけではない。彼はまったくの天涯孤独で、幼い少女たちを主人公にした15,145ページにも及ぶ小説を執筆し自ら数百枚の挿絵を描いていたのは、すべて死後に明らかになったことだ。だから作品の世界や芸術についてダーガー本人が直接語った証言も存在しない。彼が何を思ってそんな巨編をつづり、一生かけて部屋を文字通りぎっしりと埋め尽くすイメージを蒐集し続けたのかは、いっさいが謎なのだ。
研究者たちはダーガーの幼女のイメージに対する執着を、一度も会えないまま生き別れた妹への思いによるものだと解釈しているそうだが、それだってあとづけの理屈に過ぎない。なにしろ根拠らしいものがあまりに乏しすぎる。
ぶっちゃけ、ダーガーは究極のロリコンでオタクでヒッキーでした。ってことでいいんじゃないかと思います。ぐりはね。
超究極ですよ。今どきのロリコンやらオタクやらヒッキーとはわけが違う。現実を遥かに超越している。
20世紀の現代、それもアメリカはシカゴという大都会に暮らしながら、精神的にはアトス山の断崖絶壁の庵から死ぬまで一歩も出ないくらいの非現実を、まさに彼は生きていた。
自らの芸術を誰とも共有することなく、持ち物はすべて「好きなようにしてくれ」と大家に言い遺して去って行ったダーガー。ぐりは彼の絵も確かにすごいと思うけど、それ以上に、彼の生きざまそのものがアートなんだと思う。バラはバラと呼ばれなくてもいい匂いがするといったのは誰だったか、ダーガーも誰の評価を求めることなく純粋に自分のしたいように自分の世界を構築し通した。そんなことはとても常人のなせるわざではない。
ってのも屁理屈ですが。
生前のダーガーには入浴の習慣はなく、いつも足首まで届く軍用コートをまとって、ゴミ箱を漁り歩いていたという。
定期的に地区の牧師が訪ねてくる以外には親しい人もなく、皿洗いや掃除人としてつましく孤独に暮す老人を、近所の人々は気味悪がって敬遠していたという。まあそうだろう。ぐりだって近所にそんなのいたら気持ち悪い。
死後に彼の部屋を片づけた大家─ネイサン・ラーナー氏─にたまたま絵心があって作品の価値がわかったからダーガーはこうして伝説の巨匠になったけど、そうでなければ単に「風変わりな気味の悪い独居老人」として、誰にも知られることなく忘れ去られていったことだろう。
だがそうはならなかった。膨大なイメージのコレクションと作品の山と特異な彼の一生は、今や世界中の人を強く惹きつけて離さない。それは彼が生きている間には決して他人に明かそうとせず、他人もまた知ろうとはしなかった異世界だった。生きている間は他人にとっては「風変わりな気味の悪い独居老人」が彼のすべてだった。
都会の無関心と強烈な自閉性によって、現実にここまで巨大なギャップが生まれるってのがコワイ。
つまり。人が他人について知ってること、わかることなんてたかが知れてるってことですよ。
気味が悪いとか変わってるとか、そんなことでは他人の価値なんか決められない。当り前のことだけど、そんなふうに簡単に他人の価値を判断してしまうことの無意味さを、おそらく大家のラーナー氏は痛いほど身をもって感じていたのではないだろうか。
延々17年間もひとつ屋根の下に住んでいながら隣人の偉業にまったく気づかないまま死なせてしまったことを、同じアーティストとして彼はどれほど悔いただろう。もし知っていたらきっともっと親しくなれたろうに、あんなこともこんなこともできたかもしれないのに。ダーガー本人に対する親しみはなくても、これだけの傑作の山を目にしてどれほど彼が悔恨に悩んだかは容易にわかる。
気の毒に。
生きていても死んでいても、人間には無限の可能性と宇宙がひそんでいる。
ただし生きているうちには、その価値はいくらでも更新可能だ。死んで更新されても、本人にはもう何の関係もない。
それなら、生きているうちに、自分の価値観も更新可能にしておくべきじゃないですかね。
どうでしょう。
ドキュメンタリー映画『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』は来年日本公開ですが。
巨編『非現実の王国で』は邦訳では抄録しか出ていない。量が多すぎるのかもしれないけど、映画公開時には全訳出してほしいですね。抄録じゃあまったくもって何が何だかさっぱりわからんですよ。すいませんバカで。お願いします。
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ぐりの知りあいに、オタクがとにかく嫌い、受けつけない、という人がいる。
彼のいう「オタク」とは一般的な意味での「マニア」ではなくて、コミックやアニメやゲームに登場する女性キャラクターに「萌え」る人を指す。
この人には小さな男の子がいるのだが、将来息子がオタクになったらどうしよう?とマジメに困っている。ぐりは、なんだって心から愛せるもの、情熱を傾けられるものがあるのは幸せなことじゃないかと思うのだが、親心はそうではないらしい。よくわかんないけど。彼のうちには小さな女の子もいるので、じゃあ娘が「腐女子」になったらどーすんの?とたたみかけてイジメたい衝動に駆られたけど、こらえました。一応、オトナだかんね。ははははは。
閑話休題。
シカゴ市内の墓地にあるヘンリー・ダーガーの墓石にはこう記されている。
HENRY DARGER
1892 † 1973
ARTIST
PROTECTOR OF CHILDREN
1892 † 1973
ARTIST
PROTECTOR OF CHILDREN
芸術家、子どもたちの守護者。なんかかっこいいじゃないですか。もっともらしくて。
といってもダーガーが自らそう名乗ったわけではない。彼はまったくの天涯孤独で、幼い少女たちを主人公にした15,145ページにも及ぶ小説を執筆し自ら数百枚の挿絵を描いていたのは、すべて死後に明らかになったことだ。だから作品の世界や芸術についてダーガー本人が直接語った証言も存在しない。彼が何を思ってそんな巨編をつづり、一生かけて部屋を文字通りぎっしりと埋め尽くすイメージを蒐集し続けたのかは、いっさいが謎なのだ。
研究者たちはダーガーの幼女のイメージに対する執着を、一度も会えないまま生き別れた妹への思いによるものだと解釈しているそうだが、それだってあとづけの理屈に過ぎない。なにしろ根拠らしいものがあまりに乏しすぎる。
ぶっちゃけ、ダーガーは究極のロリコンでオタクでヒッキーでした。ってことでいいんじゃないかと思います。ぐりはね。
超究極ですよ。今どきのロリコンやらオタクやらヒッキーとはわけが違う。現実を遥かに超越している。
20世紀の現代、それもアメリカはシカゴという大都会に暮らしながら、精神的にはアトス山の断崖絶壁の庵から死ぬまで一歩も出ないくらいの非現実を、まさに彼は生きていた。
自らの芸術を誰とも共有することなく、持ち物はすべて「好きなようにしてくれ」と大家に言い遺して去って行ったダーガー。ぐりは彼の絵も確かにすごいと思うけど、それ以上に、彼の生きざまそのものがアートなんだと思う。バラはバラと呼ばれなくてもいい匂いがするといったのは誰だったか、ダーガーも誰の評価を求めることなく純粋に自分のしたいように自分の世界を構築し通した。そんなことはとても常人のなせるわざではない。
ってのも屁理屈ですが。
生前のダーガーには入浴の習慣はなく、いつも足首まで届く軍用コートをまとって、ゴミ箱を漁り歩いていたという。
定期的に地区の牧師が訪ねてくる以外には親しい人もなく、皿洗いや掃除人としてつましく孤独に暮す老人を、近所の人々は気味悪がって敬遠していたという。まあそうだろう。ぐりだって近所にそんなのいたら気持ち悪い。
死後に彼の部屋を片づけた大家─ネイサン・ラーナー氏─にたまたま絵心があって作品の価値がわかったからダーガーはこうして伝説の巨匠になったけど、そうでなければ単に「風変わりな気味の悪い独居老人」として、誰にも知られることなく忘れ去られていったことだろう。
だがそうはならなかった。膨大なイメージのコレクションと作品の山と特異な彼の一生は、今や世界中の人を強く惹きつけて離さない。それは彼が生きている間には決して他人に明かそうとせず、他人もまた知ろうとはしなかった異世界だった。生きている間は他人にとっては「風変わりな気味の悪い独居老人」が彼のすべてだった。
都会の無関心と強烈な自閉性によって、現実にここまで巨大なギャップが生まれるってのがコワイ。
つまり。人が他人について知ってること、わかることなんてたかが知れてるってことですよ。
気味が悪いとか変わってるとか、そんなことでは他人の価値なんか決められない。当り前のことだけど、そんなふうに簡単に他人の価値を判断してしまうことの無意味さを、おそらく大家のラーナー氏は痛いほど身をもって感じていたのではないだろうか。
延々17年間もひとつ屋根の下に住んでいながら隣人の偉業にまったく気づかないまま死なせてしまったことを、同じアーティストとして彼はどれほど悔いただろう。もし知っていたらきっともっと親しくなれたろうに、あんなこともこんなこともできたかもしれないのに。ダーガー本人に対する親しみはなくても、これだけの傑作の山を目にしてどれほど彼が悔恨に悩んだかは容易にわかる。
気の毒に。
生きていても死んでいても、人間には無限の可能性と宇宙がひそんでいる。
ただし生きているうちには、その価値はいくらでも更新可能だ。死んで更新されても、本人にはもう何の関係もない。
それなら、生きているうちに、自分の価値観も更新可能にしておくべきじゃないですかね。
どうでしょう。
ドキュメンタリー映画『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』は来年日本公開ですが。
巨編『非現実の王国で』は邦訳では抄録しか出ていない。量が多すぎるのかもしれないけど、映画公開時には全訳出してほしいですね。抄録じゃあまったくもって何が何だかさっぱりわからんですよ。すいませんバカで。お願いします。
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