落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

人間という宇宙の謎と伝説

2007年06月30日 | diary
「ヘンリー・ダーガー 少女たちの戦いの物語─夢の楽園」展

ぐりの知りあいに、オタクがとにかく嫌い、受けつけない、という人がいる。
彼のいう「オタク」とは一般的な意味での「マニア」ではなくて、コミックやアニメやゲームに登場する女性キャラクターに「萌え」る人を指す。
この人には小さな男の子がいるのだが、将来息子がオタクになったらどうしよう?とマジメに困っている。ぐりは、なんだって心から愛せるもの、情熱を傾けられるものがあるのは幸せなことじゃないかと思うのだが、親心はそうではないらしい。よくわかんないけど。彼のうちには小さな女の子もいるので、じゃあ娘が「腐女子」になったらどーすんの?とたたみかけてイジメたい衝動に駆られたけど、こらえました。一応、オトナだかんね。ははははは。

閑話休題。
シカゴ市内の墓地にあるヘンリー・ダーガーの墓石にはこう記されている。

HENRY DARGER
1892 † 1973
ARTIST
PROTECTOR OF CHILDREN

芸術家、子どもたちの守護者。なんかかっこいいじゃないですか。もっともらしくて。
といってもダーガーが自らそう名乗ったわけではない。彼はまったくの天涯孤独で、幼い少女たちを主人公にした15,145ページにも及ぶ小説を執筆し自ら数百枚の挿絵を描いていたのは、すべて死後に明らかになったことだ。だから作品の世界や芸術についてダーガー本人が直接語った証言も存在しない。彼が何を思ってそんな巨編をつづり、一生かけて部屋を文字通りぎっしりと埋め尽くすイメージを蒐集し続けたのかは、いっさいが謎なのだ。
研究者たちはダーガーの幼女のイメージに対する執着を、一度も会えないまま生き別れた妹への思いによるものだと解釈しているそうだが、それだってあとづけの理屈に過ぎない。なにしろ根拠らしいものがあまりに乏しすぎる。

ぶっちゃけ、ダーガーは究極のロリコンでオタクでヒッキーでした。ってことでいいんじゃないかと思います。ぐりはね。
超究極ですよ。今どきのロリコンやらオタクやらヒッキーとはわけが違う。現実を遥かに超越している。
20世紀の現代、それもアメリカはシカゴという大都会に暮らしながら、精神的にはアトス山の断崖絶壁の庵から死ぬまで一歩も出ないくらいの非現実を、まさに彼は生きていた。
自らの芸術を誰とも共有することなく、持ち物はすべて「好きなようにしてくれ」と大家に言い遺して去って行ったダーガー。ぐりは彼の絵も確かにすごいと思うけど、それ以上に、彼の生きざまそのものがアートなんだと思う。バラはバラと呼ばれなくてもいい匂いがするといったのは誰だったか、ダーガーも誰の評価を求めることなく純粋に自分のしたいように自分の世界を構築し通した。そんなことはとても常人のなせるわざではない。

ってのも屁理屈ですが。
生前のダーガーには入浴の習慣はなく、いつも足首まで届く軍用コートをまとって、ゴミ箱を漁り歩いていたという。
定期的に地区の牧師が訪ねてくる以外には親しい人もなく、皿洗いや掃除人としてつましく孤独に暮す老人を、近所の人々は気味悪がって敬遠していたという。まあそうだろう。ぐりだって近所にそんなのいたら気持ち悪い。
死後に彼の部屋を片づけた大家─ネイサン・ラーナー氏─にたまたま絵心があって作品の価値がわかったからダーガーはこうして伝説の巨匠になったけど、そうでなければ単に「風変わりな気味の悪い独居老人」として、誰にも知られることなく忘れ去られていったことだろう。
だがそうはならなかった。膨大なイメージのコレクションと作品の山と特異な彼の一生は、今や世界中の人を強く惹きつけて離さない。それは彼が生きている間には決して他人に明かそうとせず、他人もまた知ろうとはしなかった異世界だった。生きている間は他人にとっては「風変わりな気味の悪い独居老人」が彼のすべてだった。
都会の無関心と強烈な自閉性によって、現実にここまで巨大なギャップが生まれるってのがコワイ。

つまり。人が他人について知ってること、わかることなんてたかが知れてるってことですよ。
気味が悪いとか変わってるとか、そんなことでは他人の価値なんか決められない。当り前のことだけど、そんなふうに簡単に他人の価値を判断してしまうことの無意味さを、おそらく大家のラーナー氏は痛いほど身をもって感じていたのではないだろうか。
延々17年間もひとつ屋根の下に住んでいながら隣人の偉業にまったく気づかないまま死なせてしまったことを、同じアーティストとして彼はどれほど悔いただろう。もし知っていたらきっともっと親しくなれたろうに、あんなこともこんなこともできたかもしれないのに。ダーガー本人に対する親しみはなくても、これだけの傑作の山を目にしてどれほど彼が悔恨に悩んだかは容易にわかる。
気の毒に。

生きていても死んでいても、人間には無限の可能性と宇宙がひそんでいる。
ただし生きているうちには、その価値はいくらでも更新可能だ。死んで更新されても、本人にはもう何の関係もない。
それなら、生きているうちに、自分の価値観も更新可能にしておくべきじゃないですかね。
どうでしょう。
ドキュメンタリー映画『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』は来年日本公開ですが。
巨編『非現実の王国で』は邦訳では抄録しか出ていない。量が多すぎるのかもしれないけど、映画公開時には全訳出してほしいですね。抄録じゃあまったくもって何が何だかさっぱりわからんですよ。すいませんバカで。お願いします。

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ひとりぼっちの年

2007年06月25日 | book
『夏の黄昏』カーソン・マッカラーズ著 加島祥造訳
『悲しき酒場の唄』カーソン・マッカラーズ著 西田実訳
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先に読んだのは『悲しき〜』の方。表題の長篇(というか中編)の他にごく短い短編が3本所収。にしてもこの訳どーよ。酒場って今どきいわないでしょーよ。カフェでいいじゃん(原文はcafe)。時代や舞台背景を意識し過ぎなのか、全体に文体が古くさくてガチガチにカタイ。読んでて肩こってしょーがなかったです。
だから同じ著者でももっとニュートラルな訳になってる『〜黄昏』の方が全然読みやすかった。レビューをまとめたのはそのためですー。てゆーかただの不精だけど。

ぐりはマッカラーズのデビュー作で代表作『心は孤独な狩人』は読んでないし映画(邦題『愛すれど心さびしく』)も観てないです。機会があったら是非一度観てみたいし読んでみたいけど。
マッカラーズはジョージア州出身。んでゲイ(バイだっけ?)。とゆーと。そーです。カポーティ。南部出身のゲイの小説家で早熟な天才。
作風も似てます。題材も似てるし。主人公は女の子/女の人ってとこが違うけど、世界観とかテーマはかなり近いです。双子ってほどではないけど、よく似たいとこ程度には似てる。どちらもゴシックでユーモラスで、どこか物悲しい。

舞台は『悲しき〜』も『〜黄昏』も南部の田舎町。
『〜黄昏』の主人公は12歳のフランキーという女の子で、兄の結婚式を目前に、思春期の終わりを迎えようとしている。
『悲しき〜』のヒロインは20代のミス・アメリア。唯一の身寄りである父親を亡くし、結婚に失敗し、ひとりでドラッグストアや醸造所をきりもりしている女丈夫。
たぶんふたりとも筆者マッカラーズの分身で、町は彼女の故郷がモデルになっている。貧しくて保守的で閉鎖的な、誰もが捨てて出ていきたくなるような町なのに、出ていく手だてさえ何もないような町。
マッカラーズはおそらく、少女時代を過ごした町を激しく憎悪しつつも完全に捨て去ることはできなかったのだろう。そんな複雑な感情が作中に満々とみなぎっている。
気持ちはわかる。ぐりも子どものころ、故郷の町が大嫌いだった。物心ついたときには、町はぐりにとっては文字通り「カス」だった。とにかく一刻も早くこんなもの捨てて、どこへでもいいからとっとと逃げ出したいと真剣に思い続けていた。離れて十数年経った今は、好きでも嫌いでもない代り何の思い入れもないけれど。

なぜそれほどまでに故郷が憎いのか。
そこでの自分が孤独だったからだ。
人間の自我は、「自分はひとりだ」と気づくことから形成が始まる。生まれたての赤ん坊は自分がひとりの人間だということを知らない。それは母親がそばにいないことがすなわち生命の危機につながるからで、その段階では「自我」は邪魔だから存在していない。
成長するにつれて「自我」も発達していくわけだけど、まだ子どものうちは「自分はひとりだ」ということには気づかない。子どもは家族や学校など環境の一部として自分を認識している。だんだん「自我」が完成して来て、ある日ふと「自分はひとりだ」と感じる。
おとうさんもおかあさんも仲良しの友だちも、人はみんな自分と他人は別の人間で、自分が感じていること、考えていることをすべて共有することはできない。決してわかってもらえないこともある。すぐそばにいて手を触れることはできるのに、互いの間には厚い壁があることに、人はそこで初めて気づく。
そのことを知った時に、人は「大人」になるんじゃないかとぐりは思う。
そして、決してわかってもらえなくても、すべてを共有できなくても、わかろうとつとめ、わかちあうため、歩みよるためにがんばるのが生きる幸せなのだということがわかれば、人はもう一歩、大人に近づく。
そのふたつのプロセスの間が長ければ長いほど、子どもは孤独になる。自分がひとりぼっちだということはわかっていて、みんなもひとりぼっちだということがわからないから。

『〜黄昏』のフランキーは12歳の夏の日、「自分はひとりだ」ということに気づく。どこにも属していない自分。ひょろひょろに背ばかり伸びた髪の短い女の子。同年代の女の子たちと仲良くなれず、家政婦のベレニスや6歳の従弟ジョン・ヘンリとおしゃべりばかりしている。
けどいつまでもそうしてはいられない。どうにかしなくては。そうだ、町を出ていこう。出ていけばなんとかなる。壁の向こうの新世界。
もうものすごくわかる。まるで自分の思春期の話を読んでいるような気がしてしょうがない。誰かと繋がっていたいのに、誰ともうまく繋がれなくて、それでいて何もかも放り出して遠くにいってしまいたい、誰にもこんな気持ちわかってもらえっこない、でも誰でもいいからわかってほしい、ぐりも12歳のころまさにそう思っていた。せつないなあ。

ミス・アメリアは結婚に失敗してからずっと自分の殻に閉じこもっていたけど、ある時、会ったこともない親戚が訪ねて来て家に居候するようになってから一変する。
彼女はいとこのライマンに尽くして尽くして尽くしまくる。尽くす相手がいることで癒されている。彼女が不幸だったのは、誰かを愛する方法は知っていても愛される方法をまったく知らなかったからだ。
傍目には滑稽かもしれないけど、これほど寂しいこともない。孤独が彼女をそこまで頑なにしてしまったのか、あるいは頑なだからこそ孤独になったのか。いずれにせよ、彼女は孤独なのは自分ひとりだと思っていたのではないだろうか。人はみんな孤独な存在で、孤独を互いに慰めあうのが愛だということは知らなかったのではないだろうか。
『悲しき〜』は全体に幻想的で寓話的でもあるけど、全体に漂う絶望的な孤独感は、ものすごくリアルで、怖い。

マッカラーズは同じ男性(この人もバイ)と2度結婚し、2度めの結婚生活の間に自殺されてしまう。後年、病気で半身麻痺になり指一本で原稿をタイプしていたという。そのせいもあってどちらかといえば寡作な作家だ。長篇はこの2作とデビュー作以外に1本、全部で4本しか書いていない。
残りの1本はこれから読みます。

甘い男

2007年06月24日 | movie
『ひまわり』
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母が大好きだった映画なので、子どものころ何度かTVやビデオで観た記憶がある。うちにも録画したビデオがあったんじゃないかなあ。どっかに。けどたぶん20年ぶりくらい。意外とほとんど覚えてました。『魂萌え!』を観て以来再見したかったので、観れて満足しましたです。
今観るとけっこう短い映画なのに長大な大河ドラマのように記憶してたのは、物語の中で流れる時間の重さのせいだろう。イタリア軍のロシア出兵は1942年、ジョバンナ(ソフィア・ローレン)がロシアまでアント(マストロヤンニ)を探しにいくのはスターリンの死後なので1953年以降、夫婦の別離には少なく見つもっても11年以上の歳月が流れている計算になる。それに対してふたりの新婚生活はたった12日間しかない。12日間対11年間。
32歳だといっていたアントは43歳。ジョバンナの年齢はでてこないけど、女盛りの若く美しい時代を、生きているか死んでいるかもわからない夫をただただ待って過ごした11年間。重い。

印象的なのは「きみにはわからない」「うまく説明できない」という、戦争を表現しようとする男たちの台詞。
世に反戦映画や戦争映画は多々あるけど、この『ひまわり』も一種の反戦映画といっていいと思う。戦闘シーンもないし、死ぬ登場人物もいないけど、みんなが戦争の犠牲者だ。家族も含め彼らがどれだけひどいめに遭ったか、どんなにつらい思いをしたか、それをこの作品ではあえて映像にせず、言葉でも説明していない。そんなことできない、でもひどいんだよ、説明なんかできないくらいひどいんだ、きっとわからないと思うけど、そうとしかいいようがないんだよ。
ある意味ではすごく謙虚だし、もしかしたらこれ以上能弁な表現はないかもしれない。
『ひまわり』の夫婦のような物語は、戦争をした国なら世界中どこにでもいくらでもある話だろう。日本でも蜂谷弥三郎夫妻とか近衞文隆夫妻の例は有名だし、彼らは再会できたにせよできなかったにせよ、消息がわかっただけでもまだよかった方かもしれない。いっさいの消息もなく永久に引き裂かれたまま終わった夫婦や恋人も大勢いたに違いない。同じイタリア映画でも、『ニュー・シネマ・パラダイス』のトト少年の父親はロシア戦線で行方不明になったまま、という設定になっていた。
そこまでして戦争をする意味ってなんですか。ぐりにはわからない。わかりたくもないです。

甘い男

2007年06月24日 | movie
『甘い生活』
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大学時代に授業だか課題で観て以来だから十ン年ぶりの再見。
んー。フェリーニは巨匠だけど、実はぐりはそ〜んなに好きくない。ほとんど内容覚えてなかったです(おい)。
作品紹介ではセレブな人々の頽廃的な生活ぶりを描いてどーのこーの、とゆー書き方をしてるものが多いけど、今みるとセレブのバカバカしさよりもゴシップマスコミの愚かさの方が印象的にみえる。カネに飽かせて無意味に時間を浪費するだけの人間に必死に群がるパパラッチ、“聖母の出現”を目撃した子どもを追いまわし再現ビデオならぬ再現フィルムまで撮るマスコミ(どっから見ても信心なんかどーでもよさげ)、不幸にあったばかりの人にさえ容赦なくストロボを浴びせまくるカメラマンたち。滑稽というより俗悪、グロテスクでさえある。
有名であることやお金をもっていること、あるいはお金になることに、それそのものに意味がなくても後づけでどうとでもなってしまう。騒げば騒ぐほどお金になり、お金になればなるほどどんどん空っぽになっていく、無意味のスパイラル。
アニタ・エクバーグの爆乳にゃ観念しました(爆)。すんごいプロポーションだよねえ。アヌーク・エーメもきれいだったあ。しかし『モンパルナスの灯』のジャンヌ役と同一人物にはまったく見えず。ずびばぜん。
それにしても出会う女をいちいち本気で口説けるマルチェロ(マストロヤンニ)のキャラは無節操っちゃ無節操だけどどーしても憎めない。カワイイ(笑)。キミならいいよ、好きにしたまえよ、とゆー気分になぜかなってしまう。なんでかなあ。

ノートに綴る愛

2007年06月23日 | movie
『あるスキャンダルの覚書き』
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えーーーーーーー。
イタかったです。ひじょーに。シャレならんです。
映画としてはすごくよくできてると思うよ。ぐりはキライじゃないです。
しかし。イタかったー。
この監督よっぽど女嫌いとみた(爆)。それか相当な男尊女卑主義者か。どっかの都知事みたいな。
もうねえ、最悪よ。女の最も醜悪な部分が、これでもかこれでもかとグロテスクなほどのしつこさで描きつくされてる。
すんげー。こんな企画、日本じゃ絶対通んないね。しかも主演がジュディ・デンチとケイト・ブランシェットってふたりともオスカー女優じゃん。大スター。ありえねえ。つかむしろ大スターじゃなきゃ成立せんのか?逆に?

けっこういろんなところでメアリー・ケイ・ルトーノー事件がモデルになってると書いてあるけど、99?投ヨ係ないです。
この映画の主題は「スキャンダル」じゃなくて「覚書き」の方だから。たとえばスキャンダルが教師と生徒の情事じゃなくてもストーリーそのものは成り立つんじゃないかと思う。盗癖とか、ドラッグとか、別の犯罪でもいい。
じゃあなんで教師×生徒じゃなきゃいけなかったのか?思うにたぶん、その罪が非常に複雑で、単純に「教師=加害者、生徒=被害者」という図式になりにくく、ちょっと状況を変えれば誰にでもあてはまってしまう性質を持ってるからだと思う。
映画では生徒(スティーブン:アンドリュー・シンプソン)の年齢が15歳だというのでみんな大騒ぎするけど、教師(シーバ:ブランシェット) と夫(ビル・ナイ)も親子ほども年の離れた元師弟同士で略奪愛結婚の夫婦だ。シーバと主人公バーバラ(デンチ)も大体それくらい年?ェ離れている。シーバの長女ポリー(ジュノ・テンプル)と画面には出てこないボーイフレンドもどうも“年の差カップル”であるらしい。明?轤ゥに狙った設定だよね。コレ。
なのに犯罪視されるのはシーバとスティーブンだけ。学校の混乱ぶりやマスコミの狂乱がどこか滑稽に描かれてるのも意図的なものだろうと思う。

結局バーバラはシーバを愛してなどいなかったのだろう。彼女が愛していたのは彼女自身だけ、バーバラはシーバを孤独を慰めるペットかオモチャのようにしかとらえていないし、あるいはもともとそういう愛情しかしらないのかもしれない。さみしい人だ。オールドミス以前の、基本的な人格の問題だろう。
徹底的にモテる女=シーバと徹底的にモテない女=バーバラの対比があまりに極端で、一見すると超非現実的な話にもみえるけど、ぐりも独身なんでかなり身につまされる部分もあり。
とりあえず、ストーカーにだけはなんないよーに気をつけよーっと・・・。
ところでケイト・ブランシェットってホントに綺麗だよねえ。ちょっとファンだったりします・・・。

関連書レビュー:
『禁じられた愛 それは愛なのか、それともレイプだったのか?』 メアリー・ルトゥルノー&ヴィリ・ファラウ著