『近衞家の太平洋戦争』近衞忠大・NHK「真珠湾への道」取材班著
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近衞家とは中臣鎌足を祖とする公家の名門藤原家が鎌倉時代に分家した五摂家の筆頭で元公爵家。その名の通り代々天皇家の傍近くに仕えた家柄で、著者のひとり忠大氏はその次代当主にあたる。
世間的には近衞家の直系は絶えたと思っている人も多いそうだが、これは終戦直後に当主であり元首相の近衞文磨氏が自殺し、その長男文隆氏も嫡子をもうけないままシベリア抑留中に亡くなっているからである。忠大氏は旧熊本藩主細川家生まれでその後近衞家の養子となった忠煇氏(文隆氏の甥、細川護煕元首相の実弟)の長男。おかあさんは三笠宮崇仁親王殿下のご息女・甯子さん(つまり今上天皇の従妹)。
すなわち忠大氏はお殿さまとお公家さんと宮さまを祖父母にもつスーパーセレブというわけだ。今年ご結婚された紀宮清子さまのお婿さん候補として、数年前に週刊誌などに名前が挙がったこともあるらしい。本当に候補だったかどうかはわからないけれど、皇居などで催される天皇家ゆかりの私的な行事にはときどき参加していたらしいので、宮さまたちとも普通に親戚づきあいがあったことは事実だ。
実はぐりはこの忠大氏と一面識がある。というかあった。まあかなり前のことだが、ぐりの記憶にある忠大氏は、帰国子女らしいおおらかさと良家のおぼっちゃんらしい鷹揚さをもつ、穏やかで爽やかでかつどこか生真面目な人だった。容貌は本書でも述べられている通り、元首相である曾祖父・文磨氏に気味が悪いくらいよく似ている。ひょろっとした長身に長い手足、顎のほっそりとした面長な輪郭に東洋人にしては濃い目鼻だち。細川護煕氏が首相になったときも祖父・文磨氏と面影が似ていることが話題になったが、忠大氏はそれ以上である。ただ、写真で見る文磨氏がいつも屈折したような頑迷そうな表情であるのに対して、忠大氏は大抵はにこにことおっとりした表情だったような印象がある。
この本はその忠大氏が第二次世界大戦で喪った曾祖父・文磨氏と祖父・文隆氏の足跡を辿ったTV番組「真珠湾への道 1931〜1941─ふたりの旅人がたどる激動の10年─」(NHKハイビジョン)の取材過程をふりかえった手記である。
忠大氏にとってふたりは肉親だが、1970年生まれの彼は勿論双方に面識はないし、幼いころから海外で暮していたので自らの出自や家柄についても大人になるまでよくは知らなかったらしい。ぐりの知る忠大氏もいわゆる「旧華族の御曹子」などというような気取ったタイプではなくごくごく普通の明るい青年だったし、そういう意味では今の一般的な「戦争を知らない世代のそのまた子ども世代」の代表のひとりともいえる。
だが当主をふたりまでも戦争で亡くしたという傷ははっきりと近衞家に暗い影を落としたし、しかも文磨氏は戦犯容疑者でもあった。文隆氏はその長男であったことが原因で命を落とすことになった。近衞家の人々がこれまで戦争について触れるのをひたすら避けてきた気持ちはとてもよくわかるし、だがこの先永久にその傷を無視し続けるわけにもいかずいわば義務のように番組に出演した忠大氏の責任意識もよくわかる。
本文は二層構成になっていて、忠大氏が家族として文磨氏・文隆氏について語ったエッセイ部分と、取材班が第二次大戦の背景と両氏との関わりを歴史的に解説したルポルタージュの部分とが時系列に沿って交互に配置されている。結果的にこの構成がこの本をバランス良く読みやすくしている。
ぐりはあまりこの手の戦争ルポを読まない方なので他の本がどう書かれているかはわからないが、戦争の当事者の肉親という内側からの人間的な側面と、あくまで歴史的人物としての客観的な側面から戦争をふりかえることで、戦争のスケール感(比喩的な意味の「スケール」ではなくて「縮尺」の意)が感覚的にわかりやすくなっている。
忠大氏は肉親である文磨氏の戦争責任についてはほとんど直接的な意識を言葉にはしていない。してはいないが、日中戦争開戦当時の首相だったというだけで文磨氏を戦犯よばわりしたり、あるいは戦争を回避しきれなかったことで無能で優柔不断な政治家ときめつけられることにはやはり強い抵抗があるようだ。
確かに文磨氏は開戦前にはそれを避けるために必死に努力をし、開戦後は早期終結のために奔走した。しかしそれ以前に多くの失敗もした。就任当時弱冠44歳という若さに加え、既に軍国主義一色に染まった国民の人気とりのために軍部に担ぎだされた彼に、可能な以上の成果を求めるのは酷かもしれない。その失敗を誰よりも悔いていたのは本人だろう。あくまでも戦争には反対した文磨氏だったが、政府が軍をコントロール出来ない(当時の日本軍の総司令官は天皇)という体制に阻まれ、結果的には戦争を止めることもやめさせることも出来なかった。裁判にかけられれば立場上天皇の戦争責任に言及せざるを得ない。それをいわずに通すために、彼は自殺したのだ。
決死の努力がすべて無為に帰してしまったばかりか、退陣後は親米派・敗戦論者と目されてさんざんな迫害も受けたという。決して免罪することも同情することも出来ないが、かわいそうな人だと思う。訃報を耳にした昭和天皇は何を思ったろう。
しかしもっと哀れなのは文隆氏の方だ。両親を「御孟様」「おたあ様」と呼ぶ公家の跡取りとはいえ、いわゆる貴公子なんかではない、聡明ではあっても勉強は苦手で、食いしん坊でスポーツと夜遊びが好きな暢気な若者に過ぎなかったはずの彼は、単に首相の息子でほんの数ヶ月父の秘書(といってもカバン持ち)を勤めたことがあったというだけで11年もの長い抑留生活を強いられた挙げ句に亡くなった。終戦前年に結婚した奥さんとはたった10ヶ月の結婚生活だったという。気の毒だと思う。
戦後、奥さんは11年夫の帰りをひとり日本で待ち続け、死後も文隆氏の弟・通隆氏に気をつかって10年間養子をとらなかった。文隆氏の妹・温子さんの忘れ形見である忠煇氏が細川家から養子にはいったのは1965年のこと。通隆氏はそれまで結婚もしなかった。残された近衞家の人々の痛手がどれほどのものであったかがしのばれる。
それとともに、戦争とは「誰かの責任」などという単純にまとめられるような要因によって起きるものではなく、時代の大きな流れのなかで起こるもので、政治家や外交官などという個人がとめられる種類のものではないのだという恐ろしいものも感じた。
時代の流れとはつまり、国民の「気分」によって流れている。「戦争するしかない」という気分そのものの責任は、誰あろう国民にあるのであって、戦争を避けるべき責任も国民にあるのだ。これはなにも第二次大戦に限ったことではない。いつのどの時代のどこの国の戦争だってそうだ。
ほんとうは戦争なんかしなくたっていい。したい人なんか誰もいない。でも人は戦争をする。本当は避けられる戦争を、どうして人はやめないのだろう。
近衞文磨という不完全な一政治家とその不肖の息子の立場からふりかえることで、日本の真実の戦争責任のありかをはっきりと感じさせる本だった。
それとはべつに、軍国主義が激しく吹き荒れる日本で「恐れるべきは戦争」「この戦争(大平洋戦争)は必ず負ける」と公言した文磨氏や、夫の自殺を予見しながら本人の意志を尊重してとめることをしなかった千代子夫人(旧佐伯藩主毛利家出身)、たった10ヶ月連れ添った夫のために一生を‘近衞家当主の嫁’として生きている文隆氏夫人・正子さん(昭和天皇の従妹)など、戦争の時代に生きた日本人の人生観・世界観の特異さも強く印象に残った。
あと表題が『~太平洋戦争』となっているが、日中戦争が勃発した経緯もある程度わかりやすい解説がされてました(無論完全ではないが)。ココをみにこられるアジア映画ファンの方にとってもなかなかよい資料になるのでは。
文磨氏の方は「悲劇の首相」としてもともと有名だが、文隆氏の方は最近になって彼を題材にした本『夢顔さんによろしく』『プリンス近衞殺人事件』と、『夢顔〜』を下敷きにしたミュージカル『異国の丘』が世に出たことでひろく知られるようになったという。本の方はまた機会があったら読んでみたい。
TV番組「真珠湾への道」の方も見てみたかったのだが、ハイビジョン放送だったので見られなかった。いつか地上波で再放送してほしいけど、4時間もあるらしい。4時間ですかい・・・。
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近衞家とは中臣鎌足を祖とする公家の名門藤原家が鎌倉時代に分家した五摂家の筆頭で元公爵家。その名の通り代々天皇家の傍近くに仕えた家柄で、著者のひとり忠大氏はその次代当主にあたる。
世間的には近衞家の直系は絶えたと思っている人も多いそうだが、これは終戦直後に当主であり元首相の近衞文磨氏が自殺し、その長男文隆氏も嫡子をもうけないままシベリア抑留中に亡くなっているからである。忠大氏は旧熊本藩主細川家生まれでその後近衞家の養子となった忠煇氏(文隆氏の甥、細川護煕元首相の実弟)の長男。おかあさんは三笠宮崇仁親王殿下のご息女・甯子さん(つまり今上天皇の従妹)。
すなわち忠大氏はお殿さまとお公家さんと宮さまを祖父母にもつスーパーセレブというわけだ。今年ご結婚された紀宮清子さまのお婿さん候補として、数年前に週刊誌などに名前が挙がったこともあるらしい。本当に候補だったかどうかはわからないけれど、皇居などで催される天皇家ゆかりの私的な行事にはときどき参加していたらしいので、宮さまたちとも普通に親戚づきあいがあったことは事実だ。
実はぐりはこの忠大氏と一面識がある。というかあった。まあかなり前のことだが、ぐりの記憶にある忠大氏は、帰国子女らしいおおらかさと良家のおぼっちゃんらしい鷹揚さをもつ、穏やかで爽やかでかつどこか生真面目な人だった。容貌は本書でも述べられている通り、元首相である曾祖父・文磨氏に気味が悪いくらいよく似ている。ひょろっとした長身に長い手足、顎のほっそりとした面長な輪郭に東洋人にしては濃い目鼻だち。細川護煕氏が首相になったときも祖父・文磨氏と面影が似ていることが話題になったが、忠大氏はそれ以上である。ただ、写真で見る文磨氏がいつも屈折したような頑迷そうな表情であるのに対して、忠大氏は大抵はにこにことおっとりした表情だったような印象がある。
この本はその忠大氏が第二次世界大戦で喪った曾祖父・文磨氏と祖父・文隆氏の足跡を辿ったTV番組「真珠湾への道 1931〜1941─ふたりの旅人がたどる激動の10年─」(NHKハイビジョン)の取材過程をふりかえった手記である。
忠大氏にとってふたりは肉親だが、1970年生まれの彼は勿論双方に面識はないし、幼いころから海外で暮していたので自らの出自や家柄についても大人になるまでよくは知らなかったらしい。ぐりの知る忠大氏もいわゆる「旧華族の御曹子」などというような気取ったタイプではなくごくごく普通の明るい青年だったし、そういう意味では今の一般的な「戦争を知らない世代のそのまた子ども世代」の代表のひとりともいえる。
だが当主をふたりまでも戦争で亡くしたという傷ははっきりと近衞家に暗い影を落としたし、しかも文磨氏は戦犯容疑者でもあった。文隆氏はその長男であったことが原因で命を落とすことになった。近衞家の人々がこれまで戦争について触れるのをひたすら避けてきた気持ちはとてもよくわかるし、だがこの先永久にその傷を無視し続けるわけにもいかずいわば義務のように番組に出演した忠大氏の責任意識もよくわかる。
本文は二層構成になっていて、忠大氏が家族として文磨氏・文隆氏について語ったエッセイ部分と、取材班が第二次大戦の背景と両氏との関わりを歴史的に解説したルポルタージュの部分とが時系列に沿って交互に配置されている。結果的にこの構成がこの本をバランス良く読みやすくしている。
ぐりはあまりこの手の戦争ルポを読まない方なので他の本がどう書かれているかはわからないが、戦争の当事者の肉親という内側からの人間的な側面と、あくまで歴史的人物としての客観的な側面から戦争をふりかえることで、戦争のスケール感(比喩的な意味の「スケール」ではなくて「縮尺」の意)が感覚的にわかりやすくなっている。
忠大氏は肉親である文磨氏の戦争責任についてはほとんど直接的な意識を言葉にはしていない。してはいないが、日中戦争開戦当時の首相だったというだけで文磨氏を戦犯よばわりしたり、あるいは戦争を回避しきれなかったことで無能で優柔不断な政治家ときめつけられることにはやはり強い抵抗があるようだ。
確かに文磨氏は開戦前にはそれを避けるために必死に努力をし、開戦後は早期終結のために奔走した。しかしそれ以前に多くの失敗もした。就任当時弱冠44歳という若さに加え、既に軍国主義一色に染まった国民の人気とりのために軍部に担ぎだされた彼に、可能な以上の成果を求めるのは酷かもしれない。その失敗を誰よりも悔いていたのは本人だろう。あくまでも戦争には反対した文磨氏だったが、政府が軍をコントロール出来ない(当時の日本軍の総司令官は天皇)という体制に阻まれ、結果的には戦争を止めることもやめさせることも出来なかった。裁判にかけられれば立場上天皇の戦争責任に言及せざるを得ない。それをいわずに通すために、彼は自殺したのだ。
決死の努力がすべて無為に帰してしまったばかりか、退陣後は親米派・敗戦論者と目されてさんざんな迫害も受けたという。決して免罪することも同情することも出来ないが、かわいそうな人だと思う。訃報を耳にした昭和天皇は何を思ったろう。
しかしもっと哀れなのは文隆氏の方だ。両親を「御孟様」「おたあ様」と呼ぶ公家の跡取りとはいえ、いわゆる貴公子なんかではない、聡明ではあっても勉強は苦手で、食いしん坊でスポーツと夜遊びが好きな暢気な若者に過ぎなかったはずの彼は、単に首相の息子でほんの数ヶ月父の秘書(といってもカバン持ち)を勤めたことがあったというだけで11年もの長い抑留生活を強いられた挙げ句に亡くなった。終戦前年に結婚した奥さんとはたった10ヶ月の結婚生活だったという。気の毒だと思う。
戦後、奥さんは11年夫の帰りをひとり日本で待ち続け、死後も文隆氏の弟・通隆氏に気をつかって10年間養子をとらなかった。文隆氏の妹・温子さんの忘れ形見である忠煇氏が細川家から養子にはいったのは1965年のこと。通隆氏はそれまで結婚もしなかった。残された近衞家の人々の痛手がどれほどのものであったかがしのばれる。
それとともに、戦争とは「誰かの責任」などという単純にまとめられるような要因によって起きるものではなく、時代の大きな流れのなかで起こるもので、政治家や外交官などという個人がとめられる種類のものではないのだという恐ろしいものも感じた。
時代の流れとはつまり、国民の「気分」によって流れている。「戦争するしかない」という気分そのものの責任は、誰あろう国民にあるのであって、戦争を避けるべき責任も国民にあるのだ。これはなにも第二次大戦に限ったことではない。いつのどの時代のどこの国の戦争だってそうだ。
ほんとうは戦争なんかしなくたっていい。したい人なんか誰もいない。でも人は戦争をする。本当は避けられる戦争を、どうして人はやめないのだろう。
近衞文磨という不完全な一政治家とその不肖の息子の立場からふりかえることで、日本の真実の戦争責任のありかをはっきりと感じさせる本だった。
それとはべつに、軍国主義が激しく吹き荒れる日本で「恐れるべきは戦争」「この戦争(大平洋戦争)は必ず負ける」と公言した文磨氏や、夫の自殺を予見しながら本人の意志を尊重してとめることをしなかった千代子夫人(旧佐伯藩主毛利家出身)、たった10ヶ月連れ添った夫のために一生を‘近衞家当主の嫁’として生きている文隆氏夫人・正子さん(昭和天皇の従妹)など、戦争の時代に生きた日本人の人生観・世界観の特異さも強く印象に残った。
あと表題が『~太平洋戦争』となっているが、日中戦争が勃発した経緯もある程度わかりやすい解説がされてました(無論完全ではないが)。ココをみにこられるアジア映画ファンの方にとってもなかなかよい資料になるのでは。
文磨氏の方は「悲劇の首相」としてもともと有名だが、文隆氏の方は最近になって彼を題材にした本『夢顔さんによろしく』『プリンス近衞殺人事件』と、『夢顔〜』を下敷きにしたミュージカル『異国の丘』が世に出たことでひろく知られるようになったという。本の方はまた機会があったら読んでみたい。
TV番組「真珠湾への道」の方も見てみたかったのだが、ハイビジョン放送だったので見られなかった。いつか地上波で再放送してほしいけど、4時間もあるらしい。4時間ですかい・・・。