落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

判官贔屓

2012年07月21日 | movie
『死刑弁護人』

先月転職するまで、国際人権NGOで働いてたぐり。
人権擁護団体なので、世界中で死刑廃止運動を展開している。もちろん日本でも。
日本では国民の80%以上が死刑を支持しているともいわれているが、世界に目を向ければ国連加盟国の3分の2以上で死刑が廃止/事実上執行停止になっていて、日本の死刑制度は国連からも何度も批判され、廃止を求められている。
死刑を支持する人の論拠としてはまず「被害者感情」と「犯罪抑止力」が挙げられるが、死刑制度に犯罪抑止力がないことは既に立証されている(正確には「死刑によって犯罪が抑止されることは証明はされていない」)。被害者感情については長くなるのでここでは割愛します。

そういう団体で仕事をしていた関係で、去年、死刑廃止運動の賛同者グループの忘年会に参加した(記事)。会場は港合同法律事務所。この映画の主人公、安田好弘弁護士が所属している事務所である。
都合で夜9時をまわってから事務所に着くと宴は既に半ばを過ぎて、残っている出席者のほとんどが完全に泥酔していた。去年は一件も死刑が執行されなかった年で、これは実に19年ぶりのことだったのだ。そりゃ泥酔もしますわね。
酔っぱらって安田さんが何か演説めいたことをしたのはなんとなく覚えている。でもぐりもアルコールが入っていたので、話の内容はよく覚えていない。というか、酔っぱらった参加者たちからやたらにヤジが飛んで、うまく話の真意が聞き取れなかったせいもあるかもしれない。
今思えばもったいないことをした。19年ぶりに死刑が執行されなかっためでたい年の忘年会で、死刑事件ばかり弁護している人権派弁護士の演説が聞ける機会なんてそうそうあるものではない。

映画自体は97分という尺の割りにはひどく長く、観ていて非常に疲れる作品だった。
安田さんのところに持ち込まれる案件は最初から死刑判決の可能性の濃いものばかりだ。一審二審で死刑判決が出た後に依頼されることもある。つまり安田さんが弁護する時点でその裁判は負ける可能性が高いわけである。日本の裁判では、信頼性の高い新しい証拠が提示されない限りは前判決を覆すことが難しいといわれている。要は、既にさんざっぱら検証された事件から新しい証拠をほじくりだして闘わない限り、安田さんの裁判はそもそも審理すらされないなんてことも起こり得るのである。
まあこれはそうとうしんどいです。観てて疲れます。

観ていて、安田さんが死刑廃止論者であるということと、死刑事件ばかり弁護していることの関連はあまり感じられなかった。
光市母子殺害事件の裁判時の記者会見では、弁護団の多くが死刑廃止論者だということをとらえて「裁判を通じて死刑廃止を訴えようとしている」という報道が盛んにされたというくだりがあったが、ぐりの知る限り、いまどき日本の刑事弁護士の多くが死刑廃止論者である。公にそれを認めていようがいるまいが、まともな弁護士なら日本の死刑制度の法的な矛盾にはっきりと気づいている。気づいていなければちょっとそれは法律家として問題があるかもしれない。
だがこの映画では、安田さんの個人的な主義主張と、死刑事件ばかり弁護する彼のプロフェッショナルな姿勢とを、あくまでも分断して表現しようとしているように見えた。
表現としてそれで正しいのかどうかはよくわからない。死刑について客観的になろうとすればするほど、この作品自体がたとえば死刑制度の賛同者にどううつるのか、イメージは曖昧になっていく。

印象的だったのは、とにかく安田さんがどんな被告に対してもどこまでもフラットに接し、彼らのどんな主張も必死に信じようとしていたこと。
客観的事実を積み上げた上で、安田さんなりに被告をも「客観的事実」の表象としてとらえ、それらを含めた真実を守るために闘っている。
自ら痛手を負うことも多い。麻原裁判では検察の妨害工作で自身が逮捕されている(強制執行妨害事件)。
それでも彼は、負けるかもしれない裁判に今も挑み続け、決して諦めない。
ふつう、日本人ってこういう人好きだよね。もっと人気あってもいいと思うんだけど、なんでかマスコミはそろって彼をバッシングしてばかりいる。
確かに彼は口がうまい人ではないと思う。もっとうまいこといえばいいのにと思うことは多々ある(あるよねえ)。わかりやすい話が大好きな日本のマスコミを、もっと上手に使えば自分にとっても被告にとっても有利かもしれないのに、それをしない。
ポリシーとしてやらないのか、スキルとしてできないのかはよくわからないんだけど。

関連レビュー:
『福田君を殺して何になる 光市母子殺害事件の陥穽』 増田美智子著
『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』 今枝仁著
『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う。』 森達也著

疲労困憊中

2012年07月17日 | 復興支援レポート
7月13日(金)~17日(火)の日程でまた宮城県に行ってきた。

行きも帰りも車中泊。
転職やらセミナーやら震災とは無関係のボランティアやら、なんだかてんやわんやでヘロヘロな毎日。
それでも東北に行かないとなんかストレスたまるんだよね。
実はこの連休は仕事もあったんだけど、どーかして休んで行ってみた。

うん、行って正解だった。

暑かったし、しんどかったし、会いたい人にも会えなかったし、大好きな海辺での作業はできなかったし、予定通りに作業も進まなかったし、なんかいろいろ微妙な3日間ではあったけど、それでも、得るものはあった。楽しいことばっかりじゃないけど、今回来て正解だったと思う。
そして、やっぱりもっとちゃんと気合いを入れて、被災地支援を続けようという決心がついた。
っても具体的にどーするかはまだわからないけど。
結局何があったかはまた後日書きます。いろいろ細か過ぎて、朝戻ってきて9時まで残業した脳みそではまとめられない。

それにしても筋肉痛マジきついっす。
そして東京の蒸し暑さなんじゃこりゃー。


捕まったアメフラシ。

2012年5月30日(水)~6月4日(月)震災ボランティアレポートIndex
2012年5月18日(金)~20日(日)震災ボランティアレポートIndex
2012年5月2日(水)~6日(日)震災ボランティアレポート
2012年4月14日(土)~15日(日)震災ボランティアレポート
2012年3月16日(金)~21日(水)震災ボランティアレポートIndex
2012年3月10日(土)~13日(火)震災ボランティアレポート
2012年2月9日(木)~2月15日(水)震災ボランティアレポートIndex
2012年1月18日(水)震災ボランティアレポート
2011年11月1日(火)~6日(日)震災ボランティアレポートIndex
2011年10月21日(金)~24日(月)震災ボランティアレポート
2011年10月6日(木)~10日(日)震災ボランティアレポート
2011年8月26日(金)~9月4日(日)震災ボランティアレポートIndex
2011年8月11日(木)~15日(月)震災ボランティアレポートIndex
2011年4月29日(金)~5月7日(土)震災ボランティアレポートIndex
Googleマップ 震災ボランティアレポートマップ(ver.3.6)

幾千の言葉より

2012年07月13日 | 復興支援レポート
先日、被災地の人をお呼びして、関東地方でセミナーをやってみた。

登壇者は関東地方から東北にボランティアに通う業界団体(つまりボランティア団体ではない)の代表者2名と、被災地でボランティアコーディネートを行う団体の代表者2名。
被災地で活動する2名のうちお一方は自身も被災者で、ぐりも何度もお世話になっている方だ。
彼以外の3団体には具体的な活動報告をしていただいたが、最後の彼には、被災当時の体験を話してもらった。
その話をしてくださいと直接依頼したわけではない。「あなたにしかお話できないことを、お話したいように、自由に語っていただきたい」とだけ頼んだ。

地震が起きた時感じたこと、町の混乱、津波が襲ってくる情景、東北訛りの訥々としているが緊迫した言葉に、会場全体が息をのんで聞き入っているのがわかる。
生き別れた家族を探して何日も何日も瓦礫の山と化した町をさまよい歩いた日々。
市内各所の避難所を訪ねては避難民の群集に向かって「おたずねします。〇町の×××子、いませんか」と呼びかけ続け、ある日、「おたずねします」と声をかけたとたん、「おとうさん」。

その後は言葉が続かない。
絶句している彼の目にも、聞いている人の目にも、涙が浮かぶ。
亡くなった家族もいた。遺体の身元確認のときには涙が出なかった。人は心の余裕があるから涙が出るのだと彼はいった。

ぐりは彼の話を以前にも聞いている。
被災地では何万人もの人が彼と同じような体験をした。決して珍しい話ではないし、メディアにも似たエピソードはあふれている。いやな言い方だが、この未曾有の大惨事の中では、彼の体験はまだありふれている方なのだ。
それほどひどいことが起こったのだ。

それでもぐりは、この話をひとりでも多くの人に聞かせたかった。
それも、面と向かって、直接聞いて欲しかった。
言葉じゃなく、彼と向かい合うことで、震災の現実を感じとって欲しかった。
この大災害で最も大きなダメージを受けたのはマスメディアだ。日本人はもう自国の政府もメディアもいっさい信用していない。
そもそもフレームに切り取られた画面の向うのあまりの惨状に、誰もが慣れてしまっている。
だが、目の前で生きて呼吸し、1年以上前の体験に震え涙する人の存在を信じられない人はいない。
その重さを感じて欲しかった。

セミナーが終わって会場を後にしたとき、彼も含めて多くの関係者が「またやろうよ」と声をかけてくださった。
絶対にまたやろうと思う。
被災地になかなか足を運べない、一度いっても繰り返し行くことができない人は多い。
それなら被災地の人を連れてくればいい。
そうすることで少しでも風化を遅らせられるなら、そうしたい。


今年初めての冷やし中華。

Life goes on

2012年07月07日 | 復興支援レポート
むにゃむにゃな関係で脱原発活動に関わっておるぐりですが。

先日話したある人は、「あんなにたくさんの人が毎週デモやってるのに、『大きな声だね』で流すような政府を動かせるわけがない」といって、市民運動に否定的になってしまっていた。
その人はもともとこれまでに市民運動をさんざんやってこられて、それでもダメなんだから方法が間違ってるんじゃないかといった。
まあそういう気持ちになってしまうのも致し方ない。
ぐりからみれば日本は既に民主国家でも文明国家でもなんでもない。政府も行政も大企業もマスコミも既得権益しか眼中になく、責任を取るといえば問題を投げ出して逃げることくらいしか考えていない。改革といえば弱者に犠牲をおしつけて切り捨ててることにばかり拘泥してなぜか堂々としている。
日本人はおとなしいから、そこには確かに血は流れていない。だが声もなく圧殺されていく人たちの存在がどこまでも無視される世の中が果たして平和といえるだろうか。

でもそれならばなおさら、市民の力こそが社会を変えるための唯一の手段じゃないかとも思う。
大飯原発3号機は再稼働したし、他にも再稼働を予定している原発はある。しかし日本には他に58基の原発がある。1基や2基再稼働したからといってハイそうですかと諦めるわけにはいかない。
電力会社から買う電気を減らそうと生活を変えて地道に努力している人たちもいる。個人で線量検査をしてまわっている人たちもいる。変えられないから受け入れるというのでは、いつまでたってもものごとは変わらない。変わるまで続けるしかない。
もちろん方法はいくらでもある。ひとつがダメなら他の方法を考えればいい。
デモがダメなら、地元の選挙区の議員事務所に端から電話をかけて意志をただすのもひとつの方法だ。新聞社やテレビ局に電話をかけて、ちゃんと報道してほしいと要望を伝えるのもいい。自分のお金を預けている銀行や契約している保険会社に「原発に投資しないでほしい」と求める権利もある。
ひとりひとりにできることはいっぱいある。誰かがやってくれるのを待つのは、自立した社会人の行動とはいえない。
それはもう社会人の義務ともいえる。

それとは別に、せんだって某官公庁の方と被災地の話をする機会があり。
義捐金を遊興に浪費してしまう被災者がいるという話になった。
彼は、そういう「被災地の影の部分」が報道されないことに腹を立てていた。心ある人たちから寄せられた義捐金や、国民の税金で支援されている被災者に、生活を立て直すために渡されたお金が浪費されるのが許せないらしかった。
気持ちはわかる。確かにそういう面もある。
だがしかしそれだけでその被災者の行為を「間違っている」と断じてしまうことの方がおかしいとぐりは思う。
正直な話、いったん人の手に渡ったお金はその人のものでしかないのだから、何に遣おうが自由じゃないかと思う。腹を立てるのは、そのお金が、寄付した人間のお金、行政が恵んでやったお金、という上から目線があるからじゃないだろうか。
ぐりはそう思う。

そういう風に捉える人は、この未曾有の天災の本質をいまだにきちんと捉えられていない、消化できていないのではないかと思う。
難しい話ではない。
毎月のように被災地に通うぐりでなくても、ほんの少し想像力を働かせさえすれば、ちょっとした偶然が被災者と非被災者とをわけた現実の過酷さくらいすぐわかるだろう。
まったく先の見えない長い長い復興の道を、地に這いつくばるように耐え忍んでいる被災地の人たちの絶望と苦悩は、たまたま偶然によってもたらされたものなのだ。誰も悪くない。それはもしかしたらぐりの身に起こっていてもおかしくない。件の官公庁の方の身に起こっていてもいいし、近い将来、日本のどこにいても誰にでも降りかかる可能性の高い災難なのだ。
もし現実に自分がその状況に置かれたときに、前を向いて自己を捨てて復興のためだけに生きられるかと問われて、はっきりと回答できる人がどれだけいるだろう。
もし答えられる人がいたとしたら、ぐりは問いたい。あなたはどれだけ今回の震災のことを知っていますかと。

震災にも原発事故にもさまざまな側面がある。
一番間違っているのは、簡単に答えを急ぐことだと思う。
状況は日々刻々と変わる。だって人は生き物だから、社会も生きているから。
大切なのは、いつも現実から目を離さないこと。自分の価値観だけでわりきれない、思い通りにならないことがあることを受け入れて、そのときにできることを続けること。
それしかないと思うし、ぐりはそう信じている。

「エネルギー・環境に関する選択肢」に対する意見の募集
7月末まで。


先月参加した植樹祭で植えた木。
山登りがキライなぐりにはキツいイベントだったけど、実際植えてみると妙に愛情がわいてきて、ちゃんと大きくなってくれるといいなと思った。