落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

子どもの日に

2018年05月05日 | 復興支援レポート
大川小学校児童津波被害国賠訴訟を支援する会



震災や原発事故の被害にあった地域に通っていてもいなくてもいつも感じることなのだが、人はなぜ、災難が自分に起きてからしかことの重大さに気づくことができないのだろう。
災難はいつ誰にでも起きうるものだ。もちろん。いうまでもなく。だから問題なのは、起きてから人としてどうあるべきなのかという対応策ではなく、「どの災難もいつ誰にでも起きうる」という感覚を平時からもっておくことだし、それはさほど難しいことではないはずだと思う。単純な想像力の問題だから。
想像力があれば災難にあわないとか被害を小さくできるとか、そんな飛躍的なことがいいたいわけではない。少なくとも、想像力があれば、災難をめぐって無駄に人が傷つけあう二次被害だけは軽減できるのではないかと思う。災害や大事故のあと、長く尾をひいて社会問題化するのは、むしろそうした二次被害の方だから。

前置きはさておいて先月末に判決が出た大川小学校児童津波被害国賠訴訟の報道とそれに対する反応に関して、いくつかいいたいことがたまったので列挙しておこうと思う。
自戒の意味をこめて。

よくある誤解その1▶︎
2万人も亡くなった大災害。犠牲者は大川の子どもだけじゃない。不可抗力だ。しかたがないじゃないか。
落穂日記的見解▷
内閣府の発表によれば、東日本大震災で亡くなった未成年者の総数は885名、文科省の発表では石巻市の死亡者のうち児童は125名・教員は12名とされている。大川小学校で死亡・行方不明となった児童は74名、教職員は10名。
数のことをあまり云々したくないのでデータの話はこれくらいにしておくが、少なくともいまわかっている範囲内では、学校管理下で児童が亡くなった事例は東日本大震災では大川小学校ほぼ一校のみといわれている(他に避難中に津波にさらわれて亡くなった中学生が1名)。他校では教職員や地元住民の誘導によって子どもたちは安全に避難して難を逃れた。
やることやってればよかっただけの話、という見方もできる。

よくある誤解その2▶︎
現場の教職員もほとんど亡くなっている。死者に鞭打つのはかわいそう。
落穂日記的見解▷
今のところ判決文の全文(朝日新聞に掲載された判決要旨のそのまた“要旨”)がネット上で見られないので無理もない誤解だが、二審判決では「現場の教職員の判断に対する責任」は問われていない。
一審の争点が地震発生後の予見可能性=現場の教職員が津波の発生を予測して適切な避難行動をとることができたかという点で、判決として震災当日15時30分にそれは可能だったという判断がなされたことに対して、被告側はその判断を不服として控訴したのだが、高裁はなぜかその点をはなから完全にスルーして、地震発生前の平時の安全対策が適切であったかを争点として審理し、学校保健安全法にもとづいてあるべき対策をしていれば地震発生から6分後の14時52分には適切な高台への避難行動が開始できたという結論にいたった。
なので現場の教職員が地震発生後にしたこと・しなかったことの責任に関しては、控訴審判決では触れられていない。今回の判決で責任が問われたのは、石巻市教育委員会と大川小の幹部職員=校長・教頭・教務主任。校長は当日年休で不在・教頭は死亡・教務主任は唯一の生存教諭となった。

よくある誤解その3▶︎
亡くなった教職員も被害者。彼らにも家族はいる。
落穂日記的見解▷
控訴審では児童の安全をまもるのは学校の責任と規定した学校保健安全法をもとに司法判断が下された。
教職員の安全については労働基準法労働安全衛生法にもとづいた判断が要求されるものと思われるが、大川小学校は公立の義務教育の学校なので教職員は地方公務員である。よって公務災害での死亡として遺族にはすでに補償金が支払われている(唯一の生存教諭となった教務主任にも療養補償・休業補償が支給されているものと思われる)ため、よしんば国賠訴訟となっても相殺される可能性がある。

よくある誤解その4▶︎
地震発生後、津波到達まで51分もあったのなら、保護者が児童をひきとりにいけばよかった。いかなかった親の責任。
落穂日記的見解▷
大川小学校は石巻市の学校だが、市内から20km余り離れており、運転に慣れている人でも平常時で40分程度かかる距離にある(ちなみに2011年4月末時点では、道路景開はほぼ完了していたにも関わらず1時間弱かかっていた)。
通学区域周辺には大きな事業所がなく、地震発生時、多くの保護者が石巻市内か近隣の別の地域で就業中だった。つまり、たとえば地震発生直後にすかさず車に飛び乗って運良く順調に学校に到着できたとして、ぎりぎり津波が来る前に子どもに会えるかどうかという地理がまず背景にある。
かつ、地震発生直後は避難する車で被災地のいたるところで大渋滞が起こっていた。停電で信号機が動作せず、電話もつながらないパニックの中で学校にたどり着けなかった場合も、職場での災害対応を迫られすぐにその場を放り出せない場合もあった。職場そのものが水没し、何日も足止めされた家族もいる。
逆に、迎えに来た保護者に引き渡されいっしょに帰宅・避難した児童は助かっている。迎えに来て引きとめられ(「学校にいた方が安全」と発言し引きとめた教諭がいたことが保護者の証言でわかっている)、避難できないまま子どもといっしょに学校で津波にのまれた保護者もいる。この混乱も、学校側が災害時の児童引き渡しについてマニュアルを策定・周知・訓練しなかったことが原因であると高裁は判断した。
生き残った保護者も、それぞれに自分を責めている。

よくある誤解その5▶︎
学校は忙しい。しかも教職員は災害の専門家ではない。裁判所の要求が高すぎる。
落穂日記的見解▷
その通り。だが学校には子どもの安全をまもる法的義務があることが学校保健安全法に規定されている。なので文科省も県も市教委も学校安全のための調査をし報告書を発行し研修・会議もしていたし、その事実については控訴審で被告側から証拠として提出されている。大川小学校の幹部職員=校長・教頭・教務主任は当然それら研修・会議に出席し、教委の指導を受けている(判決で認定済)。いうまでもないがコストはすべて市民の税金である。であるからには、そこで共有された知識・情報・認識をもって実効的な安全対策を構築する法的義務が幹部職員にはあった、というのが高裁の判断である。もし無理があったなら教委に申告し助力を仰ぐのも校長の義務だし、各校の実情に応じて必要な安全対策が構築されるよう対処するのも教委の責任だが、そういった対応が少なくとも震災が起きた平成22年度中に実施された事実はない。

よくある誤解その6▶︎
千年に一度の大災害。誰にも予測なんかできなかった。だから誰も責任なんかとれない。
落穂日記的見解▷
宮城県沖ではこれまでにも周期的に地震とそれにともなう津波が発生しており、仙台市の発表によれば、2011年1月1日時点で、10年以内に70%程度、30年以内に99%の確率での発生予測が公表されていた。こうした予測に基づいて、県も市も学校の安全対策を強化するようさんざん防災計画を改訂したり資料を発行したり研修をしたりしてたんだから、それで自ら「予測はできなかった」とはいえないはず(と高裁も認定)。
ただし、市教委が実施した研修や会議の成果を評価・フィードバックし、実際の安全対策に反映させるためのとりくみが大川小でなされていたかどうか、となると控訴審での証人尋問を聞く限りでは不透明。というかやってなかった可能性大。

よくある誤解その7▶︎
損害賠償って結局カネじゃん。
落穂日記的見解▷
それがなにか。だったら何。
先述の通り、亡くなった教職員の遺族は公務災害として補償金をうけとっている。そして国家賠償請求は国民の権利である。誰にでも行使することができる。東日本大震災ではほかにも訴訟が行われているケースはいくらもある。
遺族は真実が知りたかった。だから自分の手で資料をあつめ、証拠を集め、不毛な第三者検証委員会も最後まで傍聴した。それでも真実にたどり着けなかったから、最後の手段として裁判にふみきった。提訴は時効成立の前日。
いまのところ、遺族が求めた唯一の生存教諭の証言など、核心に迫る事実までは解明されていないが、今後も真実を追求するとりくみは続いていく。
真実を求め続ける7年間のたたかいのなかで、子どもの命を救うためにできることがあったはずだという証拠を彼らはいくつもみつけている。「もう二度とこんなことがおきてほしくない」、という彼らの言葉、生存児童の言葉ほど重いものはない。
それを、誰にも否定することはできない。

これから他にも出てきたら随時追記します。
いうまでもないが私は大川小とは縁もゆかりもない他人だし、災害や教育の専門家でもない。単に何度か地域を訪れ、裁判を傍聴しただけの第三者である。上記はあくまで個人的見解です。念のため。実をいえば判決文全文は私もまだ入手できてないので読んでない。要旨と骨子を読んで、記者会見を見ただけです。

それとよく見かける見解に「あとだしだ」「結果論だ」「ムチャいうな」なんてのがありますけど、そもそも民事訴訟なんかあとだしの結果論で争うものでは。判決出てから論ずるべきは、ではなぜいま問われた責任が事前に果たされなかったのか、果たすためにはこれからどうすればいいかであって、いちいち無理だひどいなんて愚痴るのは非生産的だし、ましてや原告を批判するのになんの意味があるのか、正直理解に苦しみます。そういう話じゃないんだってば。


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大川小学校裏山ののり面の上から見た校舎。手前は体育館と円形劇場の跡。
この斜面の上に100名ほどが上がれるスペースがあり、野外授業もここで行われていた。
この場所は津波の浸水を免れている。

復興支援レポート



アレキサンダー王の恋人

2018年05月02日 | movie

『君の名前で僕を呼んで』

ギリシャ・ローマ考古学者の父(マイケル・スタールバーグ)と母(アミラ・カサール)と別荘で夏休みを過ごす17歳のエリオ(ティモシー・シャラメ)は、父の助手としてやってきた大学院生のオリヴァー(アーミー・ハマー)に複雑な感情を抱くが・・・。
80年代、北イタリアの美しい自然を背景に描く青春物語。

日本ではイマイチ知られてないスフィアン・スティーヴンスというアーティストのこの曲が大好きで。


この曲に出会ったのは10年前の埼玉での映画祭で観たフランス映画予告編)だった。
ふだん音楽にはからきし疎いくせに、この曲がスクリーンから流れた途端、全身の感覚がびりびりっと反応するような、なんとも名状しがたい感覚に陥ってしまった。一目惚れというやつでしょうか。
誰の曲なのか知りたくてエンドロールを目を皿にして読みまくったけどわからず、結局ネットで調べてSufjan Stevensという名と「Flint」という曲名を知った。
以降よく聴いてはいるけど、日本での公演はほとんどないから、ただ聴くだけなんだけど。

だからこの映画の予告編で「Mystery of Love」が流れた時、ほんの1〜2音で彼の曲だとわかった。すぐ映画が観たくなった。


Oh, oh woe-oh-woah is me
The first time that you touched me
Oh, will wonders ever cease?
Blessed be the mystery of love

ああ、なぜ私なの
あなたが私に初めて触れたとき
不思議は尽きることなく
愛のミステリーに祝福を(適当な和訳)

スフィアンはこの曲を映画にあわせてつくったというけど(ソース)、なるほどストーリーと歌詞の世界観がぴったりあっていて、曲も作品の一部のように、あるいは曲そのものがモチーフのひとつとして映画に溶けこんでいるようにも感じる。

なので当然の帰結として、爽やかにあたたかいのにどこか物悲しいようなこの曲と同じく、『君の名前で僕を呼んで』のストーリーも爽やかにあたたかくそしてせつない。
青春映画がせつないのは、それを観る人間の多くが、その輝きがどれほど眩しくてもほんの一瞬で過ぎ去ってしまうことをわかっているからだ。誰もエリオやオリヴァーのように美しく知的で才気煥発であってもなくても、青春はまたたくまに幕を閉じて、そのいたみとともに人間は成長し大人の階段を上らなくてはならないことが、どんな人間にとっても定められた宿命だからだ。
そこに選択肢はないし、自ら青春の扉を閉めることすらできない。それは向こうからひとりでにやってきて、勝手に人を置き去りにしていく。

知的な両親にたいせつに愛されて成長した美しいエリオにも、その日はいつかやってくる。そのクライマックスのディテールを、工芸品のように微に入り細にわたって映像に固定したのが『君の名前で僕を呼んで』なのだろう。
精神的にも肉体的に高度に成熟した17歳の少年におそれるものなど何もない。知的好奇心を満たしてくれる本は湯水のように読める、数ヶ国語を流暢に操り、ピアノもギターも自在に演奏できる、両親はなんでも彼のしたいようにさせてくれる、綺麗な女の子もよりどりみどりに寄ってくる。彼の人生を阻むものなど何もない。

そこに登場したのが、父親が研究する古代彫刻のように端正な美青年オリヴァーだった。
若さゆえの傲慢さをゆるがすオリヴァーの存在に困惑しながらも引き寄せられていくエリオは、そこではじめて、自信を失うという感覚を知る。上役の息子という立ち位置から見下すことが許されないほど秀麗で不遜な助手との関係性に戸惑うまま、いつの間にか恋におちている自分に気づいたとき、これまで誰にでも愛されて当然と思いこんで生きてきた己の高慢をも感じとるのだ。

風景も音楽も出演者も全部が美術品のようにきれいで、折に触れくりかえし観たくなるタイプの映画じゃないかと思う。シナリオも素晴らしい。さすがジェームズ・アイヴォリー(彼は本作でアカデミー脚本賞を受賞している)。原作小説もぜひ読んでみたい。
とくに終盤、父がエリオにいいきかせるセリフが秀逸です(ネタバレなので白字にしますが英語です)。

We rip out so much of ourselves to be cured of things faster than we should that we go bankrupt by the age of thirty and have less to offer each time we start with someone new. But to feel nothing so as not to feel anything - what a waste!

Then let me say one more thing. It'll clear the air. I may have come close, but I never had what you two have. Something always held me back or stood in the way. How you live your life is your business, just remember, our hearts and our bodies are given to us only once. And before you know it, your heart is worn out, and, as for your body, there comes a point when no one looks at it, much less wants to come near it. Right now, there's sorrow, pain. Don't kill it and with it the joy you've felt.


生きていれば、つらいことも苦しいことも、たえず命の限りに続いていく。
しかし、いずれにせよ、いま身のうちに燃えている命の炎は一度しか灯らない。消えたらそれきり、消したらそれきり再び灯すことはできない。
その光とあたたかさを、限りなく愛おしく思えるように生きられたらと、思う。


窓のむこう

2018年05月01日 | 復興支援レポート
大川小学校児童津波被害国賠訴訟を支援する会



宮城県石巻市立大川小学校で、2011年3月11日、74名の児童が津波の犠牲になった事件で遺族が行政を相手に起こした訴訟の控訴審判決の傍聴に行ってきた。
といっても7倍を超える抽選に外れて、裁判そのものは傍聴できなかったんだけど。仙台くんだりまでいって。ええ。

判決は一審に続いて原告勝訴。被告である宮城県と石巻市に対し、総額14億3617万4293円の賠償金の支払いを命ずるものだった。
実をいうと、これまで控訴審を傍聴してきて(前回の結審=原告意見陳述は大雪で行けなかったんだけど)あまりなワンサイドゲームぶりに却って不安を感じていた。なにしろ被告側はほぼノーガードといってもいい状態で、証人尋問では原告側代理人だけでなく陪席裁判官のこれでもかといわんばかりに鋭い追及に無抵抗にただただなすがまま、議論らしい議論もろくにできない状況が続いていたからだ(傍聴記録控訴審第7回口頭弁論控訴審第6回口頭弁論)。
専門家ではないのでちょっと自信はないけど、証人が裁判官にまでこれほど厳しく詰問されるのは稀なことではないだろうか。遺族すら見落としていた観点を丁寧に指摘する質問が裁判官からあったことに驚いた方もおられたという。

今回の判決文は300数十ページにも及ぶという。入手できていないので要旨(21ページ)と骨子(7ページ)しか読めていないが、記者レクでの説明によれば、賠償金の総額にこそさほどの差はないものの、全文の量は一審の70数ページの4倍以上、また内容もかなり踏みこんだ画期的なものになったという。
まず一審では、地震発生時に校内にいた教職員が津波の到達を予測してじゅうぶんな時間的余裕をもって避難行動をとることが可能だったかどうか(予見可能性)が争われ、少なくとも3時30分つまり津波到達7分前には予測・避難開始が可能だったことが認められたが、控訴審ではこの点については議論せず、震災前の平時の防災体制が適切であったかどうかが争点となった。
そこで議論の中心になったのが震災前の2009年に施行された学校保健安全法である。この法のもとで控訴審を争うことが第一回口頭弁論で裁判長から提示され、実際にこの法のもとで判決が言い渡された。施行されて間もない法律ということもあるが、代理人の斎藤弁護士によればこの法律で司法判断が下されたのは今回初めてではないかということだった。東日本大震災では他にも津波訴訟と呼ばれる裁判が行われているが、これまでわかっている範囲で、事前の防災体制の責任が問われた判決がでたこともないらしい。
すなわちこの判決によって、被災地のみならず日本全国の教育現場での危機管理体制の見直しが迫られるだけでなく、現在係争中の津波訴訟、これから提起される可能性のある災害関連の訴訟にも大きく影響が及ぶ可能性があるのだ。

具体的には、学校保健安全法で策定・運用が義務づけられ、震災前年の2010年4月30日に提出期限が設けられていた危機管理マニュアルに津波発生時の二次避難場所(判決文では“三次避難場所”)と安全な避難経路が記載されていなかったことが校長・教頭・教務主任・教育委員会の落ち度であり、少なくとも防災行政無線が津波発生を放送した14時52分時点には、かつて子どもたちが植樹をした「バットの森」(校庭から700メートル・標高20メートル)への避難行動を開始すべきだったと、判決では指摘している。裁判所は去年10月の現地調査でこの高台を訪問していた。
一見すると原告側の主張がほぼそのまま反映された判決になったようにも思えて、個人的にいささか拍子抜けした感は否めない。案の定、被告側は上告を検討しているらしい。上告されれば最高裁ではほとんど公開での裁判は行われない。となれば訴訟そのものでは世論を動かしようがない。そこで結果的にせっかくのこの判決がひっくり返されたらたまったものではない。

印象に残ったのは、判決後の記者会見で代理人の吉岡弁護士が判決の中の慰謝料の認定理由について読み上げたときのことだった。

『被害児童は死亡当時いずれも8歳から12歳の小学生であり、一審原告を含め祖父母両親の愛情を一身にうけて順調に成長し、将来についても限りない可能性を有していたにも関わらず、本件津波によって突然命を絶たれてしまったものである。また、被災児童は本件地震発生直後は大川小学校教職員の指導に従って無事に校庭に二次避難し、その後も校庭で二次避難を継続しながら、教職員の次の指示をおとなしく待っていたものであり、その挙句、三次避難の開始が遅れて本件津波にのまれて息をひきとったものであり、死に至るのはたいへん悼ましいものであり、被災児童の無念の心情と恐怖と苦痛は筆舌に尽くしがたいものと認められる』
『一審原告にとって被災児童はかけがえのない存在であって、日々の生活は被災児童を中心に営まれていたといっても過言ではない。一審原告は被災児童に愛情を注ぎ、その成長に目を細め、その将来に期待を抱いていた。そのような被災児童を本件津波によって突然奪われてしまった一審原告らの苦痛や無念さは計り知れず、本件津波から7年以上の月日を経ようとも、なお一審原告らはつらく苦しい日々を過ごすことを余儀なくされている。また、本件津波後、一審原告らは大川小の周辺がぬかるんだ土砂と瓦礫に埋めつくされたなか、自らスコップ等を手に必死にわが子の姿を捜しもとめ、変わり果てた姿と対面し、遺体を清拭することもかなわずに葬らざるを得なかった。また被災児童の鈴木巴那、永沼琴は未だ発見されていない。その保護者である鈴木義明・実穂、永沼勝は現在もなお見つからないわが子の姿を追い求め、捜索活動を続けており、わが子の遺体が発見された遺族にまさる辛苦を味わっていることが認められる』(音読から聞き取り)

読み上げながら、吉岡弁護士は涙を流されていた。
訴訟前から7年にわたって遺族とともにたたかってきた彼にとって、断じて許されざる不条理の高い高い壁のへりに、やっと指先が届いた、その感触を初めて得た瞬間だったのではないだろうか。
ちなみに吉岡・斎藤両弁護士は、この裁判では原告から弁護費用をうけとっていないと聞いている。

亡くなった子どもたちと遺族の心情をじゅうぶんにくみとった画期的な判決でもあると同時に、原告がもとめた事後対応での行政の不法行為については二審でも争われなかった。
通常こうした訴訟で事後対応が争われることはあまりないともいわれるが、この大川小学校の事例で起きたいわゆる“事後的不法行為”はいままさに政府を大きく揺るがしている最中の公文書の隠蔽・改竄とまったく同じ次元のできごとである。なにしろ親たちが風雪に凍え泥にまみれながら血眼で子どもたちを捜しまわっていたあいだ、生き残った教職員─校長・教務主任・校務員─も石巻市教育委員会も捜索活動にいっさい協力しなかっただけではない。生存教諭の手紙を隠蔽・改竄し、生存児童や保護者たちが重い口を開いて協力した聞き取り調査のメモを廃棄し証言の内容すら勝手に“修正”し、都合の悪い証言は「信憑性がない」として切り捨てた。訴訟にいたるまでの行政との軋轢に深く傷つき心折れた遺族も大勢いる。これが罪でなくてなんだろうか。
ひたすら責任逃れに汲々としていた彼らにも、立派ないいぶんはあるだろう。もちろん。
だがどんな言い訳がいえたにせよ、彼らがしたことは、はっきりと犯罪なのだ。それは決して見過ごしにされていいものではない。

あの日、あのとき、いったい何が起きたのか、真実を知る人が、少なくともひとりいる。
生存児童4人も震災直後は行政の聞き取り調査に応じてはいるし、そのうち今年大学生になった只野哲也くんは自らメディアの取材にも対応し、語り部活動にも参加している。しかしなんといっても彼らは子どもなのだ。どれほど怜悧であっても起きていた事実を客観的に把握するには限界がある。
遺族の多くが、津波が来たときなぜかすでに裏山の上にいたといわれている教務主任の証言を望んでいる。2011年4月9日の第一回説明会を最後に公の場から姿を消した彼は“公務災害”の認定を受けて休職中のまま、この春の大川小学校の閉校に伴って同じ石巻市内の小学校に転勤になった。

子どもたちを助けられなかった罪の重さがどれほど彼を苦しめているか、想像することはできない。
ゆるすゆるさないの問題ではない。でもせめて、できることをしてほしい。できることがあるはずだと思ってしまう。
どうすればそれがかなうのか、それを阻むものはもしかしたら、彼の背負っている罪よりもはるかに巨大なのかもしれない。


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『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』 池上正樹/加藤順子著
『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』 池上正樹/加藤順子著


大川小学校校舎2階から北上川を臨む。
2011年3月11日3時37分のほんの一瞬まえ、この窓から津波が襲来するのを見た生存者がいる。
そのひとが口を開くのを、多くの人がまっている。

復興支援レポート