BBCドキュメンタリー「J-POPの捕食者:秘められたスキャンダル」【日本語字幕つき】
予告編
先だって某夫人がジャン・コクトーとジャン・マレーを引き合いに出して、ジャニー喜多川氏の児童虐待問題を告発する被害者たちを批判していたが、そもそも彼女は何をいいたかったのだろうと思う。
単に、ジャニー氏と生前親しくしていたことを非難されたくなかったのだろうか。ただ己れの教養深さを誇示することでジャニーズ事務所を擁護して、(これまでも享受してきたであろう)おいしい汁を啜り続けたかったのだろうか。それはいったい、どれほどうまいのだろう。
某夫人が言及するまでもなく、エンターテインメント業界と性暴力は、その歴史が始まったときから切っても切れない関係にあった。
世界中どの地域でも、歌や踊りは神への祈りの手段として生まれた。人間がその生活の豊かさや安全を神に祈るために、エンターテインメントは生まれたのだ。
やがてその祈りを専門とする担い手が現れ、その担い手を援助する者が現れた。なぜならまだ人間社会には貨幣経済が生まれてもいなかった。祈りを専門とする者は衣食住を賄うために、支援者との間に個人的な関係を結ぶ必要があった。
歌も踊りも絵画も彫刻も、あらゆるアートとエンターテインメントが、ときの権力者や富豪の庇護のもとに隆盛し、その歴史を紡いできた。
ルネサンスの実現はメディチ家とカトリック教会の絶大な経済力なくしてはあり得なかった。日本では、平安〜鎌倉時代に男装して踊る白拍子から貴族や武将の愛妾となった女性が何人もいた。能を完成させた世阿弥には室町幕府第三代将軍・足利義満がいた。歌舞伎が庶民の娯楽になった時代には、見習いの少年たちが春を売る陰間茶屋というビジネスさえあった。
個別のアーティストと支援者との間に性的な関係があったかなかったかという事実はどうあれ、長い間、社会はそれを許容してきた。
つまり、「それはそういうものであって、あくまで当事者間の問題なんだから、他人がどうこういうものではない」というコンセンサスがあった、ということになる。
ここで問題になるのは、もしアーティストと支援者の間に性的な関係があったとしても、それは決して「フェア」とはいえなかったのではないか?という疑惑である。最初から「性的な関係」というのではなく、「性暴力」と表現したのはそのためだ。
元来、性行為は非常にパーソナルな行為だ。
それを、援助の対価として提供するのは、あくまでも表現者側の主体的な意志であることが前提になる。というかそういうことになっている。社会的に。でないと「フェアな取引」として成立しないから。
でも現実はそうではない。
ずっとずっとそうだったのだ。
幾万の表現者が、涙をのんで、唇を噛んで、暴力に耐えてきた。
それを、社会は黙認してきた。
自分とは関係のないことだから、と。
ましていまは21世紀、令和の時代だ。
昔がどうだったか、歴史がどうだったかなんてどうでもいい。
児童との性行為は紛う方なき立派な犯罪行為である。何人たりとも目を瞑ってなかったことにするなんて許されるものではない。
これが、グローバルスタンダードなのだ。某夫人が何をどう言い繕ったところで意味はない。
国連すら動かすほどのこの大問題に、メディアだけでなくオーディエンスさえ積極的に関わろうとしないのは、自分たちが、某夫人がすすってきたのと同じ「おいしい汁」を、これまで思う存分啜り倒してきたことを自覚しているからということは間違いがない。
それは8年前、伊藤詩織さんが当時TBSテレビのワシントン支局長だった山口敬之氏に性暴力を受けたことを告発したときに、誰もが思い知ったはずだ。彼女の訴えを、どこのメディアもまともに取り上げようとはしなかった。なぜなら、伊藤さんが訴えたような性暴力は、どこのメディアにも大なり小なり存在していたからだ。「痛くない腹を探られたくない」のではなく、「痛い腹を探られてとんでもない事実が引き摺り出されてきたらたまったものではない」から、黙っていたのだ。
私は何も聖人ぶってメディアの不正や汚らわしい性暴力を糾弾したいわけではない。
学生時代からメディアの分野で働いてきた私にとって、むしろ性暴力はいつもすぐ目の前にある、身近なリスクだった。身近過ぎて、感覚が麻痺してくるぐらい。
性的なジョークも同意のない性的接触も不愉快以外の何物でもない。そのひとつひとつはいつまで経っても記憶の中から去ってはくれないし、何年経とうと思い出せば吐き気がする。
それでも、私はいまもってなお、自分が受けた被害も、周囲の人間がしていた加害行為も、口に出して糾弾することができない。
ただ、怖くて、じっと口を噤んだままでいるしかない。
何が怖いかって、世の中が怖いのだ。
何年も前にたかが体を触られた程度のことを、性的なジョークで侮辱されたレベルのことを根にもって、やれ傷ついただの人権侵害だの騒ぐなんて頭おかしいでしょ?馬鹿なの?非常識じゃん。ふしだらなだけでしょ。何で「いやだ」って抵抗しなかったの。抗議しなかったの。どうせあんたから誘ったんでしょ。無用心だっただけじゃん。そんなの後から何いったって無駄じゃん。
これが世の中だ。
これが、怖いのだ。
性暴力に傷ついた心に塩を塗られるぐらいなら、ただ黙って我慢している方が何百倍も何千倍も楽なのだ。自分で記憶に蓋をして、なかったことにしてしまった方が楽なのだ。
でもだからといって、性暴力の被害にあった人(あったであろう人)を勝手にひとまとめにして「かわいそうな人」という偏見を押しつけるのも違うと思う。
いま大事なのは、そういう事実があったことを認めて、受けとめて、そしてそういうことが二度とない社会を築いていくことで、子どもたちや未来の世代を守ろうという気運をつくることではないだろうか。
ジャニー喜多川氏という故人ひとりの過去の性犯罪として葬り去ってしまうことは、もうできない。
なぜなら、子どもたちを性的に搾取していたのは彼一人ではないからだ。ジャニー氏が搾取した子どもたちが提供するエンターテインメントは、日本社会の隅々にまで漏れなくいきわたっている。そこに生きる人間は誰ひとり、この問題とは無関係とはいえないのではないだろうか。誰もが大なり小なり、その搾取の「おいしい汁」に手を染めていないとはいえないのではないだろうか。
子どもを搾取しない。
社会的地位やお金を利用して、他人を性的に蹂躙することは許されない。
性行為は、両者の平等な合意の上でしかおこなわれない。
性行為のときは、相手を最大限に尊重する。
そんなことが当たり前な未来を、子どもたちに用意してあげるために、このドキュメンタリーは観るべきものだと思う。
作中に「ことを荒立てないのはこの国では大切なことです。この国の企業文化の大きな部分を占めていますし、いかに摩擦を避けるかがこの国の仕組みの基本にあります」という部分がある。「何か問題が起きたとしても、人によっては礼儀を大事にするあまり、警鐘を鳴らせないのではないか」とも言及されている。
元ジャニーズのひとりは「親は『ジャニーさんにお尻くらい提供しなさい』みたいな」「それを受け入れたのはこの日本なんですよ。(ジャニーズ事務所を)トップ企業にのしあげたのってのは日本なんですよ」とも発言している。
このままで、いいのだろうか。
よくはないだろう。決して。
現時点はどうあれ、そうした搾取と人権侵害を許容し続ける社会に、未来はないと思う。
もうそういうことは、やめてもいいはずだと思う。
人間なら、もうやめよう、やめたいよ、という意思表示ができてもいいはずだと思う。
このドキュメンタリーで示されている事実はどれも、日本ではさして新しい情報ではない。
元所属タレントの暴露本は何十年も前から何冊も刊行されているし、裁判もあった。
それでも、画面に登場するいく人かの当事者たちの言葉には打ちのめされたし、ほんとうに悲しくなった。
このままで、いいはずはないと思う。
じゃあどうすればいいのか、考え始めるその一歩が、このドキュメンタリーになるのかもしれない。
本編:BBCドキュメンタリー「J-POPの捕食者:秘められたスキャンダル」【日本語字幕つき】
追記:調査報告書の発表を受けて新たに記事書きました。こちら。
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