落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

酒井順子著『負け犬の遠吠え』

2005年04月25日 | book
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去年図書館で予約して半年越しで今さら順番がまわって来ました。特にすっごい読みたい!ってんでもなかったですが、世間でこれだけわーわー云われててしかも自分のこと(30代+独身+子なし=“負け犬”)となったらやっぱ一応読んどくか〜、みたいな。

ぐりは『アリーMyラブ』も『ブリジット・ジョーンズの日記』も『セックス・アンド・ザ・シティ』も読んでないし観てません。
主人公はどれも紛うことなき“負け犬”、そしてそれぞれが世界的な大ヒット、ってことは世界的に“負け犬”文化がウケている→共感されやすい→“負け犬”もしくは予備軍を自覚してる人の数が多い、ってことなんでしょーかね?たぶんそうなんでしょー。ぐりがたまたま連ドラやハリウッドの恋愛映画を観る習慣がないってだけのことですね。
ぐりも30代、独身、子なし。この本ではそれに加えて高学歴高収入、不倫経験があって大人の男の面白さを知っているため同年代の男性との恋愛に価値を見いだせないくせに恋愛体質、ファッションセンスに自信があってマニアックな趣味をもっている、と“負け犬”を特徴づけてますが、一応四大は出てても高学歴とは云えないし高収入でもない、おやぢ好きでも不倫経験はないし恋愛体質でもなくブランドにも興味がないぐりはいわゆる“負け犬”の王道からはちょっとズレてるかもしれない。
この条件を聞いてすぐ思い出すのはぐりの上の妹です。高学歴高収入、マニッシュなオシャレが好きで趣味は旅行。勉強好きでいっぱい資格もってます。おまけにちょっと美人でモデルばりのプロポーション。不倫はどーだか知りませんがそこらの並みの男子なんかハナもひっかけないプライドの持ち主ではある。現在31歳。立派な王道“負け犬”マスターです。

ぐりのうちは女3人の三姉妹ですが、どう考えても3人とも“負け犬”となるべくして育てられた・・・みたいに思えて来ます(下の子は20代だから今のところ予備軍)。この本読んでると。3人とも四大卒で専門職。大体において3人とも昔から女らしくない。心の中では女くささを最も馬鹿にしているのに家事全般はそれなりに出来たりするとこも可愛くない。下のふたりは小学生の頃までは同世代の男の子なんかより喧嘩が強くて、未だに「男なんて」と見下しているところもある。ぐりは腕力ないからそこまで思わないけど。
実家は自営業で母も働いていて、この母の口癖がなにしろ「男に負けるな、頼るな、甘えるな」です。物心つく前からとにかく「結婚して子どもを生んで家庭に入るだけの人生なんてつまらない。自分なりの努力で自立して世間を見返してやれ」と云われ続けて大きくなりました。たぶん母自身がそう思っていたのでしょう。本当は自分の人生はこんな筈ではなかった、もっと可能性があったのに、と。
マ気持ちは分かるよね。そして3人とも彼女が希望した通り四大を出て専門的な職業に就いて自立した人生を歩んでいる。めでたいではないか。
今、その“負け犬”三姉妹に対して母は云う。うちの子は誰も親に孫の顔を見せてくれようとはしない。淋しいと。たわけがー。
何年か前、あまりに結婚出産のことをしつこく云うのでアタマに来て「だってうちら『男に負けるな、頼るな、甘えるな』って育てられたんやもん。今さら真逆のことリクエストするのはムシ良過ぎ」とストレートに云ったら、すっごい落ちこんでました。ごめんよ。

でもこういう教育方針は何も我が家に限ったことではなかったんじゃないですかね。我々が生まれた1970年代と云えば高度経済成長期後半、誰だって頑張れば、努力さえすれば夢を叶えられた時代。女の子だからってお嫁にいかなきゃいけない、家庭に入って子どもを育てなくちゃいけないと云う考え方は古い、と思われ始めた時代、娘に夢を託して叱咤激励するおかあさんは別に珍しくなかったんじゃないかと思う。
そこまで星一徹的に重くなくても「女の子だからこうじゃなきゃいけない」とは云われず「好きなことをして自分の生きたい人生を自由に選べ」と云われて育った女の子が、その幻想的(笑)価値観をそのまま鵜呑みにして気づいたら“負け犬”状態、ってのはさらによくあるパターンじゃなかろーか。て云うかこの本に出て来る王道な“負け犬”の養成コースは大抵こちらだったのではないかとぐりは想像する。
だからってぐりは別にそういう教育方針や(当時としては)リベラルな価値観を責めている訳ではない。彼女たちの育て方が間違ってたとも思わないし、自分が結婚も出産も出来ないのを親のせいにしたい訳でもない。育てた娘に自分の教育方針と違う結果を求めるな、とは云いたいけどね。

つまり女に生まれたからには誰もが本能的に花嫁に憧れ母性本能にみちみちた大人に成長するほど人間は単純な生き物ではない、と云うことです。良妻賢母(“勝ち犬”)を完成させるにはそれなりのハードとソフトが社会に・環境に必要なのです。
特にここまで社会が複雑になり価値観が多様化した今、少子化だからって云われても急に時計の針は逆にはまわってはくれない。そうですね?そりゃ都合の良過ぎるお話ですね?

なので政治家の皆さん、世間の男性諸君&既婚者の方々、“負け犬”は“負け犬”でそういう生き物として市民権を認めて下さい。我々に結婚と出産を強制しないで下さい。気づいたら身についてしまっていた価値観を三十路も過ぎてからひっくり返すのはほぼ不可能です。大体が我々には切実な結婚願望や出産願望がないのです。少なくともぐりは人生30ン年間一度も誰それと結婚したい、誰それの子どもが生みたいと思ったことがない。妄想でも思いついたことがないし夢にも見たことがない。幼少の頃の記憶を辿ってもウエディングドレスが着てみたいとすら思ったことがない。そんな人間には結婚や出産をするスペックがそもそも備わっていないのです。その代り働いて税金や年金はちゃんと納めますから許して下さい。生きててすみません。
少子化はちゃんと結婚して出産してるひとたちをもっともっとガンガンに優遇して、生産スペックのある皆様で解決出来るようにして下さい。その方がきっと将来性ありますから。

とりあえずこの本はまず“負け犬”に無駄な期待を抱き続けている親御さんが読むべきですね。読んで開き直って欲しいね。うちの母に。

疑問なり

2005年04月24日 | book
クリストファー W.A.スピルマン著『シュピルマンの時計』
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映画『戦場のピアニスト』の主人公であり原作者であるポーランドの国民的音楽家ウワディスワフ・シュピルマンの長男クリストファー氏による回想録。
クリストファー氏の奥様は日本人。氏も現在は日本に住んで日本の大学で教鞭を執っておられます。なので本書は日本語で書かれている。翻訳ではないのです。こういうのって珍しいんじゃないですかね。世界的著名人の親族が日本語でその著名人について書いた本を日本で出す。世界って広いようで狭いです。

ぐりは映画の公開時にこのクリス氏が表紙写真に使われている遺品の時計を持ってあるTV番組に出ていたのをたまたま見ています。
映画にも時計にまつわる印象深いシーンがあり、この本にもシュピルマン氏が時計に非常なこだわりと云うか執着心のような感情をもっていたことが書かれています。時計だけでなく、衣類やせっけんや缶詰やジャムなど些細な日用品が「なくなる」ことを極度に怖れて使いきれないほど買いためてはダメにしてしまっていたこと、家族全員を失った心の痛みから我が子の安全に異常に神経質になり、しょっちゅう悪夢にうなされていたことなど、戦後になってもなかなか心の平安を取り戻せなかった父の姿が克明に描かれています。
映画でも、生残れてよかったと云う大団円はなく「生残ってしまって死んだ同胞や家族に申し訳ない」と云うなんともやりきれない感情が表現されていたけど、シュピルマン氏の戦後の人生はまさにこの悲しみとの戦いの連続でした。氏は2000年に88歳で亡くなっていますが、晩年引退されてからはよく「私は家族と一緒に、あのとき死ぬべきだったんだ」と云っていたそうです。
半世紀以上の時を経てなお癒されないほどの深い傷で人間を苦しめ続ける、それこそが戦争の罪の深さを物語っています。

シュピルマン氏が戦後まもなく出版した『ある都市の死』(映画の原作。『ピアニスト』『戦場のピアニスト』は再版時の改題)はベストセラーになり、戦前から有名だったピアニスト・音楽家としての活動でも大成功されました。20歳も年下の医学生と結婚し3人のお子さんにも恵まれた。共産圏でも比較的自由なポーランドで経済的には裕福な生活をし、海外に住む子どもたちとは演奏旅行のたびに会うことも出来た。大きな病気もせず、健康なまま老衰で亡くなった。
たくさんの勇気あるポーランド人に助けられて生残った貴重な人生を、味わった不幸のいくぶんかは報われるだけは幸せに過ごされたのではないかと思いたい。それが人情です。
でも実際には、年をとればとるほど鮮明になっていく戦争の記憶に苦しめられ、精神的にも不安定になっていったそうです。それは『ある都市の死』の再版や『戦場のピアニスト』映画化の企画によってより強く喚びさまされた記憶だったかもしれない。それほど苦しんでおられたのに、再版や映画化を拒まなかった氏に、ぐりは一読者として、一観客として感謝しなくてはならないだろう。二度と思い出したくないからと云う当然の理由でそれらを封印されてしまっていたら、あの傑作が世に出ることはなかったのだから。
クリス氏は父上を、音楽家として偉大な人であり父として誇りに思うが、人間としては全く普通の人だった、と述懐していますが、この選択だけで、ぐりは、大変勇気ある人、大きな人なのではないかと思うのです。人は自分が見たくないもの、触れたくないものをなかったことにしてしまうことで自分を守る生き物です。その選択を責める権利は誰にもない。にも関わらず、シュピルマン氏はそうして自己を守ることよりも、次の世代に語り継ぐべき使命の方を選択された。なかなか出来ないことではないかと、ぐりは思います。

ところで作中に意外なことが書かれていて驚きました。
なんと『戦場のピアニスト』のロマン・ポランスキー監督と、プロダクションデザインのアラン・スタルスキー(『シンドラーのリスト』も担当)とシュピルマン氏はもともと直接面識があったそうです。
こう書かれちゃうとやっぱり伝記映画は本人を直に知ってる人が撮るのがいちばんなのかな・・・とか改めて思っちゃいますね。

愛の神,エロス

2005年04月16日 | movie
『愛の神、エロス』
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観て来たよー。最悪だった。劇場が。
ぐりはこの劇場で映画を観て不愉快な思いをさせられる確率がとても高いので(プロモが嘘八百、作品が期待大外れ、サービスが悪い、椅子の質が悪い、スタッフの教育が行き届いていないetc.)もともとこの劇場が大嫌いなのだが、今日と云う今日はアタマに来ました。
初日の初回と云えば前々から作品の公開を楽しみにやって来る観客ばかりの筈なのに、いきなり大鼾かいて寝てるおっさんがいた。やたらぶつぶつ私語するふたり連れもいた(おそらくどっちかが中華系。受付の時近くにいて顔を覚えていた+会話も聞こえてたので)。のみならずポリ袋の派手な音をたてながら延々と何かを貪り食ってるヤツもいた。そもそもこの劇場は場内での飲食が禁止されているにも関わらず、である。気取って観客にあれやるなこれやるなといちいち指示しておきながら、指示だけしてしっぱなし、快適な鑑賞環境を守る努力と云うものが全くなされていない。怠慢である。

都内には他にもアレコレうるさい映画館はいくつもあるが、大抵そういうところは上映中も場内に係員が常駐していていざと云う時すぐ対応してくれるシステムになっている。今日の劇場ではそうはなっていなかったため、場内全員の観客が上映終了まで「うるさいよお」「集中出来ないよお」と云うイライラ感をひたすら我慢しなくてはならなかった。
ぐりは勿論終了後に劇場にクレームをつけたが、他にも怒ってスタッフに文句を云っている観客がいっぱいいた。
ただでさえ入場料が異常に高い日本の映画館。もっと真面目に観客の権利(=入場料ぶんのサービス)を遵守してもらいたいもんである。ぷんすか。

※以下ネタバレ?も含みますのでまだご覧になってない方は読まれないことをオススメします。

作品そのものはね、面白かったよー。
やっぱり王家衛(ウォン・カーウァイ)のがいちばん分りやすかった。ストーリーもシンプルでストレートだし、映像もすごく綺麗だったし。分りやすいって強いです。張震(チャン・チェン)は順調に成長されてますねー。良い役者さんになるね。きっと。今だって良いけどさ。
それに比べるとソダーバーグのはちょっとアッサリし過ぎてるし、アントニオーニの話は漠然とし過ぎてる感じがしました。
「エロス」と云うと日本の人間はそのものずばりの「性愛」を連想するけど、もともとはローマ神話で云うCupidのギリシャ語だし、本来もっと広い意味の言葉なのかもしれない。そう思えば、欧米チームの2本もそれはそれで「エロスな話」なのかもしれないけど、ぐりの目には、王?ニ衛のが最もしっかりとエロく見えました。ヌードシーンもベッドシーンもないのにね。
「見えそうで見えないエロ」な感覚って東洋人独自の美意識なのかなぁ。

んでさぁ、ぐりがもともと東洋人が好きだからなのかアジア映画好きだからなのか、白人のおにいさんおねえさんがどんだけすてきなおカラダをスクリーンで景気良くご披露されてても全っ然エロく感じないのねー。綺麗だとも思わない。「なんかすっごいでっぱってんなー」とか「おっきいなぁー」とか「肌とか髪とかザラザラしてる・・・」とかは思うけど(失礼千万)。
張震のドキッとするほどつるんとした半尻とか鞏俐(コン・リー)のつやつやした豊かな黒髪と続けて観ると、特にそうした質感の差が目についてしまったよ。


思い出の歌声

2005年04月09日 | movie
『コーラス』
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うーんやっぱり子ども映画は良いですねー。素直に泣ける。するするーっと涙が出て来る。良い映画です。大丈夫、誰にでもオススメ出来ます。
子どもに加えて音楽、無敵です。サントラ買ったよ(またかい)。音楽ったって作中に出演してて本当に歌ってるのはジャン=バティスト・モニエだけらしいですが(がっくし)。
モニエくん無茶苦茶目立ってました。可愛くて。他の子たちも可愛いし、モニエくんも造形的に云えば決して凄い美少年って訳ではないんだけど、こういうの時分の花って云うんでしょーかね?群集の中にいてもそこだけ違う光が当たってるみたいに見える(特殊効果とかじゃなくてー)。とにかく普通の子には見えない。まぁ実際普通の子じゃないんだけどね。本職のソリストらしいし。
ところでぐりはこの映画を製作し出演もしているジャック・ペランが大好きです。彼を初めて知ったのは『ニュー・シネマ・パラダイス』だけど、いい大人なのにどこか少年っぽい雰囲気がいいわぁ♪とか思ってたんだけど、さすがにあれから15年、老けたねえー。おじいさんだよもう。当り前だけどさぁ。
それはさておき、ストーリーはとてもシンプルだけどそれだけ普遍的だし、誰の心にもストレートに届く、強くてあたたかい作品だと思います。
冒頭、アーティストとして成功したモランジュ(ぺラン/モニエ)に訃報の電話がかかって来て、帰省した彼が級友と再会して少年時代を回想する、と云うプロローグは『ニュー〜』そっくりですねー。て云うかよくある話なのか。それを云えばこの物語そのものだって大して変わった話ではない。でもそれはそれでいいのだ。変わった話を撮りゃあ良いってもんじゃないんだよね。ホラーだファンタジーだと流行りにはしゃいでる場合じゃないんだぜー。

愛の物語

2005年04月09日 | movie
『バッド・エデュケーション』
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面白かったよー。
コレたぶん『オール・アバウト・マイ・マザー』や『トーク・トゥー・ハー』みたいな感動作でアルモドバルを知った人にとってはかなり意外な作品になったんじゃないでしょーか。確かに国際的に高い評価を得たこの2作は彼の真の意味での出世作だけど、実際にはそれ以前からアルモドバルは既に巨匠だったし、『〜マザー』以前を知る観客にとっては「そうそうコレコレ♪」と嬉しくなるような作風に回帰しているとも云えます。
監督はこれを愛の物語だと云っているし、プロモーションもその言をそのまま流用しているけど、観た感じでは特にそうとは思えない。そういった面があることは決して否定はしないけど、ぐりの目には愛もギミックとして利用されているだけのように見えました。
この作品が秀逸なのは、ごくありふれた話、誰にでも先が読める話なのに観客を全く飽きさせない構成力にあります。
若くして成功した主人公を訪ねて来る元同級生。主人公は彼のあまりの変わりようと離別の時間の長さに、相手が果して本当にかつての親友なのかはかりかねている。だが彼の語る物語には現実に自分たちが体験した少年時代が描かれている。さぁ真実は・・・って大体分かるやないですか。土曜ワイド劇場(古い)でもこんなベタな話やらないよ。でもこれがアルモドバルの手にかかるとおかしいくらいスリリングにミステリアスになる。不思議なもんです。
ガエル・ガルシア・ベルナルの女装が迫力ありましたです。
それにしてもゲイやドラアグクイーンばっかり出て来る映画しか撮ってないのに、みんなが作品に出たがる巨匠がいるスペインってグローバル・・・なのかなぁ?