落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

薔薇の告白

2008年07月31日 | book
『薔薇よ永遠に―薔薇族編集長35年の闘い』 伊藤文學著
<iframe style="width:120px;height:240px;" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" frameborder="0" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?ref=qf_sp_asin_til&t=htsmknm-22&m=amazon&o=9&p=8&l=as1&IS1=1&detail=1&asins=4861671140&linkId=682cf4f13c858e55bd8c5d5c487a6975&bc1=ffffff&lt1=_top&fc1=333333&lc1=0066c0&bg1=ffffff&f=ifr">
</iframe>

1971年に創刊された雑誌「薔薇族」の編集長・伊藤文學によるエッセイ。といっても本文のほとんどが読者の投書や古い年代の寄稿文、対談など、雑誌のために書かれた発表済かあるいは未発表の原稿ばかりである。創刊号の表紙を流用した装丁が妙にレトロだけど、刊行は2006年。
先月内藤ルネ展を観て自伝を読んだが、そういえば「薔薇族」は読んだことがないなと思いだして手にとった。まあ一般的にいって「薔薇族」に用のある女性はあんまりいないだろうけど。
それとこの本には伊藤氏が擁護する小児性愛者の証言も収録されているというのも読んだ動機のひとつではある。今週末公開の映画『闇の子供たち』を観る前に、加害者側の言い分も聞いてみたかったからだ。彼らにもいいたいことは勿論あるだろうし、それを聞かずにあたまごなしに変態扱いするのもどーか?と思ったので。

本文は5章に分かれていて、1〜2章は創刊前後の日本の同性愛者の不遇、3章は三島由紀夫の切腹フェチ、4章が同性愛者の結婚問題、5章が少年愛─いわゆる小児性愛─となっている。
全体としては、やはり伊藤氏が70歳代ということもあって価値観も情報も古くささが鼻にはつく。35年以上男性同性愛者の自由と権利のために闘って来た人の言葉にはそれなりに重みはあるけど、正直読んでて激しく違和感を覚える箇所もかなりある。ぐり自身のセクシュアリティがどうのという問題ではない。
この本を読んで改めて気づいたのだが、伊藤氏が擁護する同性愛者、セクシュアルマイノリティは基本的にみんな「男性」なのだ。伊藤氏自身も男性である(ちなみに伊藤氏は異性愛者)。ぐりは女性だから、相手のセクシュアリティに関わらず男性の価値観にはどうしてもついていけないところ、共感できないところが当然ある。そこはわかろうと思ってわかれるものじゃないし、わかるはずと考えること自体が思い上がりだともいえる。ぐり自身はずっとそれを意識してきたつもりだったが、この本を読んでいて今さらのようにその壁の厚さに思い当たった。

だから結論からいえば、どう読んでもこの本に書かれている内容には心の底から共感するのはかなり無理があった。とくに三島由紀夫のパートは全然ダメでした。文学者としてもミシマにもともと興味がない・リスペクトしてないってのもあるけど、生理的にマッチョが苦手・軍服恐怖症・右翼も怖い・切腹フェチに至ってはマニアック過ぎてついてけませんとなれば、もう理解も共感もクソもないでしょ。難しすぎますて。すいません。これは余談だが、三島氏の本籍地はぐりの地元に近く、徴兵検査で自ら不合格になったという検査会場も子どものころからよく知る身近な場所である(コチラ)。
問題の小児性愛者の投書や対談はかなり興味深いものではあったけど、うーん・・・あのねえ、これ証言者が自分の主張にスジが通ってるって思ってる時点でアウトやと思うよ。無理無理無理。ぐりだって鬼じゃない。幼い子どものすべすべした肌や、無邪気なまるい頬を美しいと思う心は自由だと思うし、それを見て自然に性的に興奮しちゃう人の生理現象までを凶悪犯罪だなんて決めつけたくはない。
けど相手が子どもだろうが大人だろうが、自分の性欲のために相手を思い通りにしたいと考え、その権利を正当化することそのものが、相手を人として見ていない、自分の欲求を満たす道具としかとらえていないということであり、相手が人格的に未成熟な子どもであれば、互いの欲求を確かめあうだけのフェアネスはそもそも介在しないということになる。実際に子ども相手に性行為を楽しむ人間は、最初から性愛にフェアネスなど必要としていないか、幻想としてのフェアネスを言い訳にしているだけである。

小児性愛者に同情して長年ひとりで擁護し続けている伊藤氏には申し訳ないし、ぐりだってすべての小児性愛者が犯罪者だとは思いたくないけど、彼らの発言にはやはりどうしても納得はいかなかった。納得したくても、ダメでした。ごめんなさい。

祭りだぜ

2008年07月30日 | diary
「第65回ヴェネチア国際映画祭」ノミネート作品発表

日本映画が3本もコンペに入った今年のヴェネツィア。(日本の)マスコミは盛り上がりそーですねえ。つーてもうち2本はアニメですけども。
他にもオダギリジョーが出てる『Plastic City』、石橋凌出演のフランス映画『陰獣』もノミネート(オダジョー作品賞男優賞ダブルで狙う!とか見出し打ってたメディアがありましたが、オダジョーは主演じゃないしヴェネツィアでは俳優賞と作品賞は別作品に送られるのが慣例)。石橋凌はナニゲに海外作品にコンスタントに出てて、最近だと『ローグ・アサシン』『軍鶏』『呪怨2』なんかに脇役で出てます。『陰獣』もメインキャストではないみたいですね。

毎年アジア映画がフィーチャーされる傾向の強いヴェネツィアだけど、3本も邦画が入った影響なのかそれ以外のアジア作品が超少なくて若干ガッカリ。中東や中南米からのエントリもすんごい少ない。ヨーロッパの合作ものは異様に多い。
ぐり的期待作は ダーレン・アロノフスキーの『The Wrestler』とギジェルモ・アリアガの『The Burning Plain』、北野武の『アキレスと亀』、キャサリン・ビグローの『Hurt Locker』あたりでしょーか。このへんは日本でも公開されるはず。たぶん。
そーいやもうすぐ中国で『狼災記』のロケが始まるオダジョーはヴェネツィア行けるんかいな?まあ行くんでしょーけども。


熱いアスファルトを歩くカナブン。

天安門を遠く離れて

2008年07月29日 | movie
『天安門、恋人たち』

<iframe style="width:120px;height:240px;" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" frameborder="0" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?ref=qf_sp_asin_til&t=htsmknm-22&m=amazon&o=9&p=8&l=as1&IS1=1&detail=1&asins=B001OD5PAW&linkId=a796423974349f2b37505949194ecabe&bc1=ffffff&lt1=_top&fc1=333333&lc1=0066c0&bg1=ffffff&f=ifr">
</iframe>

つい先日もこんな報道があったように、中国国内では未だにタブーとされる天安門事件当時、ぐりは高校生だった。事件に関与した学生たちとは同世代とまではいかなくてもせいぜい2〜5歳差の、ごく近い年齢の若者たちが国家を、軍隊を相手に闘っているニュースを横目に「あんなに熱くなれるほど正義を信じられるって羨ましいね」みたいなスカして醒めたコメントで片付けてた記憶がある。当時、田舎の受験生だったぐりや周りの友だちと、天安門広場にいた学生たちとの距離はだいたいそんな感じだった。 要するに共感したいけどなんかどっかイマイチ微妙、とゆー。
あれから19年。番茶も出端だった少女も民主化運動の闘士もみーんな中年。げに青春は遠くなりにけりー。

東西冷戦が終わりにさしかかり、世の中みんなが民主化!民主化!イケイケドンドン!だったころに、地方から北京の名門大学に進学した少女・余虹(郝蕾ハオ・レイ)。ハンサムな周偉(郭暁冬グオ・シャオドン) に出会い激しい恋に堕ちるが、やがて勃発した天安門事件がふたりを引き裂く。余虹は舞い戻った故郷を離れ、深圳、武漢、重慶と発展著しい大都市を移り住みやみくもに新しい恋を求め続けるが、どうしても周偉を忘れることができない。一方の周偉は事件後ベルリンに脱出するも、やはり余虹を忘れられないでいた。
要するに時代の熱と青春と若さゆえの激愛がいっしょくたのダンゴになって心の中にがっしりと根を下ろしたまま、そのまま漫然と無目的にトシをくってしまった自意識過剰な万年思春期的人種の迷走のお話です。

なので登場人物がそれぞれけっこうみっともない。矛盾だらけの行き当たりばったりで生きている。当時の北京の大学生といえばエリートのハズだし、たぶん本人もそのつもりなんだろうけど、エリートゆえの純情にがんじがらめに縛られて、にっちもさっちもいかなくなっている。
エリートじゃなくても彼らの葛藤はわりと誰にでもわかるんじゃないかなあ。あまりにも激しい恋をしてしまったばっかりに、その記憶から抜けられずにしなくていい無茶をしてしまったり、逆に殻に閉じこもってしまったり。
そこへもってきて余虹と周偉の過去には天安門事件という歴史的大事件までのしかかっている。あのときあの広場にいた学生たち全員が、生涯を懸けて民主主義にすべてを捧げ尽くしたわけではもちろんない。彼らそれぞれに人生は続いていく。事件に対して折りあいのつけ方もひとそれぞれだし、なかなかうまく折りあいがつかなくて困惑しっぱなしなんて人もいるだろう。
人の人生はみんなゴールのない迷路のようなもの。彼らの迷路の道程に、たまたま歴史的大事件が転がってただけなのだ。

婁此淵蹈ΑΕぅ─亡篤弔六?鐡??横敢个破無?撤導惘,砲い拭?發蹐忙?錣留加罎凌佑世辰燭錣韻澄

悪魔の貌

2008年07月29日 | movie
『敵こそ、我が友 戦犯クラウス・バルビーの3つの人生』

第二次世界大戦下のフランス・リヨンでレジスタンスを取り締まるゲシュタポとして活躍、戦後アメリカ陸軍情報部工作員となり、南米亡命後はチェ・ゲバラ暗殺やボリビア軍事政権成立の陰で暗躍したドイツ人戦犯クラウス・バルビーの伝記ドキュメンタリー。

全編純然たるドキュメンタリーで、バルビー本人をめぐる周辺人物─通訳・弁護士・肉親・虐待被害者・被害者遺族・ジャーナリスト・研究者etc.─のインタビューと記録映像・報道写真で構成されたかなりハードな映画。
インタビューの内容はどれも衝撃的としかいいようのない証言ばかりなのだが、おそろしいことに、そんな話ばかりゴチャゴチャ聞いてるうちにだんだん飽きてくる自分がいる。またその話かよ、みたいな。
こういう感覚はおそらく、バルビー本人の裁判での最終弁論でのひとことに集約される。
「私は、敵ながら敬意を表するレジスタンス運動と非妥協的に戦いました。しかしながら、当時は戦中であり、もはや戦争は終わったのです」

バルビーは確かに国家に、軍に対して忠実だっただけかもしれない。人としての倫理よりも国の利益が優先される戦時下で、自分の良心を棚上げして暴虐の限りを尽くせたのはさぞ快かったことだろう。なにしろ誰をどう扱おうと「国のため」という言い訳さえ通ればなんだって許され、場合によっては賛美されさえしたのだから。
戦争に負けたからといってそういう価値観を覆すのは容易ではない。彼は人としての生存本能ゆえに犯した罪を償おうとしなかった。それも見ようによっては生き物として当り前ともいえる。
だが実際に戦争で心身に深い傷を負った人にはそんな理屈は通用しない。「戦争は終わった」って勝手に終わらすなや、っちゅー話ですわ。被害者感情とは自ら克服しない限り決して慰められるものではない。

バルビーのように「戦争は終わった」とうそぶいて何不自由することなく社会に復帰した戦犯たちは世界中どこにでもいる。
そして戦争が終わってもその痛みから生涯逃れられない人も世界中にいる。
どちらの感情にも、誰もが容易に共感できる。どちらの言い分にも一理はあると考えるのも、誰にとっても難しいことではない。
なぜなら、せんじつめれば、戦争を起こし戦争犯罪人を生みだしスパイやテロリストの存在を許容するのは、ほかならぬ一般大衆だからだ。ナチを支持したのはドイツ国民だし、ゲシュタポに協力したのはフランス政府、元ナチに反共工作を指示したのは冷戦真っ只中のアメリカである。日本にだって、戦争被害を「もう済んだ話だから」で片付けたがる人々は現実にいくらもいる。
バルビーは「求められたことをしただけなのに、裁かれるのは私ひとり」といった。むろんぐりも、誰かを裁かなければならないなら彼こそがスケープゴートになるべき必然に異論はない。
だが彼ひとりを裁いても何も解決はしないということを、人は決して忘れるべきではないと思う。人倫の敵はバルビーひとりではない。生きているすべての人間にその責があるのだ。

しかしこの映画、眠かった(爆)。3回くらい一瞬気絶しそうになったよー。寝なかったけど・・・。
『ラストキング・オブ・スコットランド』のときも思ったけど、この監督演出がちょっと近視眼的とゆーか、観客側の目線で客観的に構成するってセンスはイマイチな気がする。もう少し親切に見やすくつくることもできたんじゃないかと思うと、題材がいいだけに残念です。

粉川哲夫のシネマノート
パンフや公式HPには掲載されてないオモシロ情報アリ。

勝手に映画賞

2008年07月28日 | diary
映画祭でどんなにいい映画を観てレビューを書いても、その映画が一般公開されなければ誰ともその感動を分かちあえない。
当たり前のことだけどこれってけっこう寂しいな・・・と思ってこんなインデックスまでつくっちゃいました。現在のところ落穂日記にアップされてる未公開映画レビューは80本超。全体の15%以上にもなる。多いなオイ。どれもいい作品ばっかりなのにい。

てなワケで今日は、この3週にわたって観てきたぐり的夏の映画祭─東京国際レズビアン&ゲイ映画祭SKIPシティ国際Dシネマ映画祭─で勝手に映画賞企画。
どうか1本でも多く一般公開されますように、という願いをこめて。
対象作品は全部で17本。

まず新人賞から。
趙逸嵐(ツァウ・イーラン)『彷徨う花たち』
国立台湾芸術大学の学生でこれが劇場用長編映画初出演という彼女。
アニメから抜け出てきたようなルックスもさることながら、素で見せる明るくて素直でお茶目なキャラも好感度大です。
今は特異な役柄のインパクトが強烈だけど、今後の活躍によっては大きく化ける可能性も感じる。
</object>

脚本賞。
Sean Reycraft『スコットと朝食を』
多様化したゲイのライフスタイルを軸に、「男らしさ」という曖昧模糊とした価値観の真の意味を問うという真面目なモチーフを、あえて娯楽性たっぷりのホームコメディに仕立てた実に頭のいい映画。笑いと涙と考えさせられる部分とがほどよくミックスされた知的なシナリオに拍手。
</object>

ドキュメンタリー賞。
『エゴイスト』
ドキュメンタリーは17本中3本しかなかったけど、完成度という点においてはこれは比較にならない。突出してます。論点においても見せ方においてもブレというものがまったくない。それでいてリアルなパースペクティブも決して失っていない。作品そのものがかっこいい。
監督は新人とゆーことですが、とてもそーは思えません。おそるべし。
</object>

子役賞。
リノ・ミレジ『リノ』
小さな子どもがメインキャストで登場した映画は17本中5本、ティーンも含めると約半数になるが最年少の彼にキマリ。
ただかわいいというだけじゃなく、確実に観る者の心を揺さぶる堂々たるパフォーマンスと、みずみずしいばかりの生命力には誰も勝てません。将来が楽しみです。
予告編

男優賞。
ペポン・ニエト&カルロス・フエンテス『チュエカタウン』
可愛い可愛いクマ×クマコンビ。毛むくじゃらのむくむくしたクマさんそのままのような、イノセントでラブリーでキュートなゲイキャラクターを、ここまで思いっきり魅力的に演じられる俳優さんなんてなかなかいませんて。
できることならシリーズ化して、その後のふたりを是非ともまた観たい!
</object>

女優賞。
デボラ・フランソワ『赤い蟻』
怖いくらいセクシーでエロティックでかつピュア。若さの攻撃性ともろさと正直さを、こんなにはっきりストレートに表現できる女優さんは今この人以外にいないでしょー。
てゆーかマジでかわいい。スカーレット・ヨハンソンとちょっとカブッてるかな?スカージョもぐり好きですけど。すいませんスケベで。
</object>

監督賞。
イルマル・ラーク『ザ・クラス』
いじめ問題にこれほどしっかり当事者の目線で迫った作品は他にちょっとないと思うし、徹底的にやりきってしかもそこで終わりじゃなくて、世界各国で上映しては現地で観客とディスカッションをし、裁判シミュレーションまでやるという、とにかくモチーフにひたすら真摯な態度に脱帽。
</object>

作品賞。
『シェイクスピアと僕の夢』
問答無用。これ以外ないです。ってかこれは絶対一般公開すべき。ぐりももっかい観たい。『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』が公開された実績を思えば、単館で絶対イケますって。大ヒット間違いナシですから!
どーすかどーすか。<配給関係の皆様
</object>

1本でも多く日本で一般公開されて、もっとたくさんの観客に観てもらえるといいんだけど・・・。


SKIPシティで食べたジャンバラヤ。¥700。味はフツー。

東京国際レズビアン&ゲイ映画祭レビュー
『シェイクスピアと僕の夢』
『彷徨う花たち』
『ヒストリー・オブ・ゲイシネマ』
『シェルター』
『チュエカタウン』
『愛のジハード』
『スコットと朝食を』
『愛のうた、パリ』
『誓いのKiss?』
『あたたかな場所』
『ニーナの幸せレストラン』

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭レビュー
『リノ』
『ザ・クラス』
『幸せのアレンジ』
『赤い蟻』
『エゴイスト』
『キャプテン アブ・ラエド』