『薔薇よ永遠に―薔薇族編集長35年の闘い』 伊藤文學著
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1971年に創刊された雑誌「薔薇族」の編集長・伊藤文學によるエッセイ。といっても本文のほとんどが読者の投書や古い年代の寄稿文、対談など、雑誌のために書かれた発表済かあるいは未発表の原稿ばかりである。創刊号の表紙を流用した装丁が妙にレトロだけど、刊行は2006年。
先月内藤ルネ展を観て自伝を読んだが、そういえば「薔薇族」は読んだことがないなと思いだして手にとった。まあ一般的にいって「薔薇族」に用のある女性はあんまりいないだろうけど。
それとこの本には伊藤氏が擁護する小児性愛者の証言も収録されているというのも読んだ動機のひとつではある。今週末公開の映画『闇の子供たち』を観る前に、加害者側の言い分も聞いてみたかったからだ。彼らにもいいたいことは勿論あるだろうし、それを聞かずにあたまごなしに変態扱いするのもどーか?と思ったので。
本文は5章に分かれていて、1〜2章は創刊前後の日本の同性愛者の不遇、3章は三島由紀夫の切腹フェチ、4章が同性愛者の結婚問題、5章が少年愛─いわゆる小児性愛─となっている。
全体としては、やはり伊藤氏が70歳代ということもあって価値観も情報も古くささが鼻にはつく。35年以上男性同性愛者の自由と権利のために闘って来た人の言葉にはそれなりに重みはあるけど、正直読んでて激しく違和感を覚える箇所もかなりある。ぐり自身のセクシュアリティがどうのという問題ではない。
この本を読んで改めて気づいたのだが、伊藤氏が擁護する同性愛者、セクシュアルマイノリティは基本的にみんな「男性」なのだ。伊藤氏自身も男性である(ちなみに伊藤氏は異性愛者)。ぐりは女性だから、相手のセクシュアリティに関わらず男性の価値観にはどうしてもついていけないところ、共感できないところが当然ある。そこはわかろうと思ってわかれるものじゃないし、わかるはずと考えること自体が思い上がりだともいえる。ぐり自身はずっとそれを意識してきたつもりだったが、この本を読んでいて今さらのようにその壁の厚さに思い当たった。
だから結論からいえば、どう読んでもこの本に書かれている内容には心の底から共感するのはかなり無理があった。とくに三島由紀夫のパートは全然ダメでした。文学者としてもミシマにもともと興味がない・リスペクトしてないってのもあるけど、生理的にマッチョが苦手・軍服恐怖症・右翼も怖い・切腹フェチに至ってはマニアック過ぎてついてけませんとなれば、もう理解も共感もクソもないでしょ。難しすぎますて。すいません。これは余談だが、三島氏の本籍地はぐりの地元に近く、徴兵検査で自ら不合格になったという検査会場も子どものころからよく知る身近な場所である(コチラ)。
問題の小児性愛者の投書や対談はかなり興味深いものではあったけど、うーん・・・あのねえ、これ証言者が自分の主張にスジが通ってるって思ってる時点でアウトやと思うよ。無理無理無理。ぐりだって鬼じゃない。幼い子どものすべすべした肌や、無邪気なまるい頬を美しいと思う心は自由だと思うし、それを見て自然に性的に興奮しちゃう人の生理現象までを凶悪犯罪だなんて決めつけたくはない。
けど相手が子どもだろうが大人だろうが、自分の性欲のために相手を思い通りにしたいと考え、その権利を正当化することそのものが、相手を人として見ていない、自分の欲求を満たす道具としかとらえていないということであり、相手が人格的に未成熟な子どもであれば、互いの欲求を確かめあうだけのフェアネスはそもそも介在しないということになる。実際に子ども相手に性行為を楽しむ人間は、最初から性愛にフェアネスなど必要としていないか、幻想としてのフェアネスを言い訳にしているだけである。
小児性愛者に同情して長年ひとりで擁護し続けている伊藤氏には申し訳ないし、ぐりだってすべての小児性愛者が犯罪者だとは思いたくないけど、彼らの発言にはやはりどうしても納得はいかなかった。納得したくても、ダメでした。ごめんなさい。
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1971年に創刊された雑誌「薔薇族」の編集長・伊藤文學によるエッセイ。といっても本文のほとんどが読者の投書や古い年代の寄稿文、対談など、雑誌のために書かれた発表済かあるいは未発表の原稿ばかりである。創刊号の表紙を流用した装丁が妙にレトロだけど、刊行は2006年。
先月内藤ルネ展を観て自伝を読んだが、そういえば「薔薇族」は読んだことがないなと思いだして手にとった。まあ一般的にいって「薔薇族」に用のある女性はあんまりいないだろうけど。
それとこの本には伊藤氏が擁護する小児性愛者の証言も収録されているというのも読んだ動機のひとつではある。今週末公開の映画『闇の子供たち』を観る前に、加害者側の言い分も聞いてみたかったからだ。彼らにもいいたいことは勿論あるだろうし、それを聞かずにあたまごなしに変態扱いするのもどーか?と思ったので。
本文は5章に分かれていて、1〜2章は創刊前後の日本の同性愛者の不遇、3章は三島由紀夫の切腹フェチ、4章が同性愛者の結婚問題、5章が少年愛─いわゆる小児性愛─となっている。
全体としては、やはり伊藤氏が70歳代ということもあって価値観も情報も古くささが鼻にはつく。35年以上男性同性愛者の自由と権利のために闘って来た人の言葉にはそれなりに重みはあるけど、正直読んでて激しく違和感を覚える箇所もかなりある。ぐり自身のセクシュアリティがどうのという問題ではない。
この本を読んで改めて気づいたのだが、伊藤氏が擁護する同性愛者、セクシュアルマイノリティは基本的にみんな「男性」なのだ。伊藤氏自身も男性である(ちなみに伊藤氏は異性愛者)。ぐりは女性だから、相手のセクシュアリティに関わらず男性の価値観にはどうしてもついていけないところ、共感できないところが当然ある。そこはわかろうと思ってわかれるものじゃないし、わかるはずと考えること自体が思い上がりだともいえる。ぐり自身はずっとそれを意識してきたつもりだったが、この本を読んでいて今さらのようにその壁の厚さに思い当たった。
だから結論からいえば、どう読んでもこの本に書かれている内容には心の底から共感するのはかなり無理があった。とくに三島由紀夫のパートは全然ダメでした。文学者としてもミシマにもともと興味がない・リスペクトしてないってのもあるけど、生理的にマッチョが苦手・軍服恐怖症・右翼も怖い・切腹フェチに至ってはマニアック過ぎてついてけませんとなれば、もう理解も共感もクソもないでしょ。難しすぎますて。すいません。これは余談だが、三島氏の本籍地はぐりの地元に近く、徴兵検査で自ら不合格になったという検査会場も子どものころからよく知る身近な場所である(コチラ)。
問題の小児性愛者の投書や対談はかなり興味深いものではあったけど、うーん・・・あのねえ、これ証言者が自分の主張にスジが通ってるって思ってる時点でアウトやと思うよ。無理無理無理。ぐりだって鬼じゃない。幼い子どものすべすべした肌や、無邪気なまるい頬を美しいと思う心は自由だと思うし、それを見て自然に性的に興奮しちゃう人の生理現象までを凶悪犯罪だなんて決めつけたくはない。
けど相手が子どもだろうが大人だろうが、自分の性欲のために相手を思い通りにしたいと考え、その権利を正当化することそのものが、相手を人として見ていない、自分の欲求を満たす道具としかとらえていないということであり、相手が人格的に未成熟な子どもであれば、互いの欲求を確かめあうだけのフェアネスはそもそも介在しないということになる。実際に子ども相手に性行為を楽しむ人間は、最初から性愛にフェアネスなど必要としていないか、幻想としてのフェアネスを言い訳にしているだけである。
小児性愛者に同情して長年ひとりで擁護し続けている伊藤氏には申し訳ないし、ぐりだってすべての小児性愛者が犯罪者だとは思いたくないけど、彼らの発言にはやはりどうしても納得はいかなかった。納得したくても、ダメでした。ごめんなさい。