落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

13歳の別れ

2023年10月19日 | movie

『CLOSE/クロース』

レオ(エデン・ダンブリン)とレミ(グスタフ・ドゥ・ワエル)は兄弟同然に育った幼馴染みの大親友。
中学に上がっても同じクラスになったふたりは、親密なあまり周囲に「付き合ってるの?」「オトコオンナ」などとからかわれ、それを意識したレオはレミと距離を置くようになる。
第75回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。

子ども時代にこんな友だちがいたらよかったのにな、と憧れたことがある。
レオとレミは夏休みも食事も眠るときもいつもいっしょ、互いに助けあい、支えあってきた。
明るい日射しの降り注ぐ自然の中を子犬が戯れあうように駆けまわり、演奏会本番の前夜、緊張で眠れないレミのために、レオは即席のおとぎ話を聞かせて寝かしつける。
これぞ幸せ、平和そのものの情景に感じる。

でもそんな幸せは永遠には続かなかった。
どうして、ふたりは離れ離れになってしまったのだろう。

ふたりをからかったクラスメイトたちに悪意はなかったのだろう。ただの好奇心、ただの悪戯心。
だけどそれがレオの心を傷つけてしまう。
なぜレオは傷ついたのだろう。
なぜ彼は、あんなに仲良しだったレミを避けるようになってしまうのだろう。

大して興味がありもしないアイスホッケーを始め、他のクラスメイトたちと遊び、家業の農作業を手伝うレオの表情に大きな変化はないように見える。
それでいてどこか寂しげにも見える。
レミはどこ?どうしてレミと遊ばないの?レミといる方が楽しいはずでしょ?
つい、彼に話しかけたくなってしまう。その言葉が、レオの頭の中を飛び回っているような気がする。

子どもの友だちが成長とともに変わっていくのはありふれた成り行きだと思う。
レオとレミも、こんな明確なきっかけがなくてもいつかは離れていく関係だったのかもしれない。だが、だとすれば、レミが選んだ結末は説明がつかない。レオはどうあれ、レミは切実にレオを必要としていた。ほんとうはレオにもレミが必要だったはずだ。
その真理を、レオは拒否してしまった。

セリフが必要最低限しかなく淡々とした映画なので、レオの行動の理由に説明はない。
だからこそ、観客側は自分の心に「なぜ」と問い続けることになる。

レミとの関係を「カップルのようだ」と揶揄されたレオが傷ついたのはどうしてなのか。
レオの心理に、クラスメイトたちの間にホモフォビア(同性愛嫌悪)があったのではないか。
だとしたら、それはいつ、どんな形で無垢な彼らの心に入りこんだのだろう。
レオがアイスホッケーを始め、ことさら男の子らしく振る舞おうと装うのは、自分がゲイのように見えるのではないかという恐怖心があったからではないのか。
その恐怖心はどこからくるのだろう。
誰がどうしたら、レミをまもれただろう。

映像が眩いほどに美しい。
レオの家族は花を育てているのだが、季節ごとに変わる広大な花畑の景色はまさに天国そのもの、一面に咲き乱れる花の間を跳ねまわる13歳の子どもたちはまるで天使のようだ。ふたりが自転車で通学する田園風景は印象派が描く絵画そっくりです。
カメラは基本的にエデン・ダンブリン演じるレオのクローズアップか、もしくは彼らの視線の高さにあわせたローアングルで、物語は一貫してレオの主観で描かれる。だから観客は常に「あなたならどうする?」「それでいいの?」と己の心と会話しながら映画を観ることになる。

公開されてしばらく経ってしまったけど、ひとりでも多くの人に観てほしいと強く思いました。

あなたなら、どうする?
それでいいの?


関連レビュー:
『怪物』


『マティアス&マキシム』


さとくんといっしょに

2023年10月18日 | movie

『月』

洋子(宮沢りえ)と夫・昌平(オダギリジョー)には幼い息子がいたが先天性疾患がもとで亡くなり、その後、洋子は障害者福祉施設で働き始める。入所者に対する職員の虐待や、同僚の“さとくん”(磯村勇斗)の差別的な言葉に動揺した彼女は所長(モロ師岡)に報告するものの、大したことではないと一蹴され…。
2016年に発生した相模原障害者施設殺傷事件(通称「津久井やまゆり園殺傷事件」)をモチーフに、事件が起こるまでを描いた辺見庸の同名小説を映画化。

小学校1〜2年生のとき、クラスメイトに自閉症の男の子がいた。
ひらのくんといって、ひょろっと痩せて背が高くて手脚が長くて人形劇のマリオネットのような風貌で、愛嬌のある子だった。見た目にも明らかに「障害がある」と誰でもわかるようなひらのくんだったが、とくにいじめられることもなければ、取り立てて誰かに構われたり庇護されたりすることなく、自然にクラスに馴染んでいた。並外れて記憶力がよく、算数がとても得意だったのを覚えている。算数の授業では早口でぺらぺらと喋りながら問題を解いていた。

その小学校は全校生徒がおよそ3,000人にもなるマンモス校で、私は3年生に上がる段階で分離された新設校に移ったので、ひらのくんがその後どうなったのかは知らない。新設校でも障害児は普通学級で学んでいたように記憶している。
いまの公立の小中学校ではどうなっているのだろうか。

個人的には、たとえ障害があっても、誰かの助けが必要な子でも、可能な範囲で、普通学級でいっしょに学ぶのがベターだと私は思っている。
自分と他人は違うこと、違っていてもいいこと、必要なときは互いに助けあうことは社会性動物である人間にどうしても必要な能力だ。小中学校はそれを養う上で絶好の機会でしかない。

こういうことをいうと「障害児は教材じゃない」といった反発があることは知っている。
でも、障害児を普通学級から排除することは「社会は健常者専用なのだから障害者を排除してもいい」という偏った価値観の端緒にもなってしまっていると私は思っている。その価値観が、異物をうけいれようとしない内向きで攻撃的な社会の根源のひとつなのではないだろうか。

この作品は神奈川県の施設「津久井やまゆり園」で起きた凄惨な事件をモデルにしているが、ストーリーそのものはフィクションだ。加害者のニックネームや言動は実際の加害者である植松聖死刑囚から引用されているものの、映画の中の“さとくん”は植松死刑囚の物真似をしているわけではない。
この物語の軸はもっと根源的な疑問だ。

“人”って何?
“生きる”ってどういうこと?
“普通”ってどういうこと?
“命”はどうしてたいせつにしなきゃいけないの?

もちろん、そんなこと知ってるよ、わかってるよ、という人もいるだろう。
私自身も、ある程度はわかっているつもりではいる。
だけどそこをあえて、「あなたはわかってますか」「もう一度よく考えてください」と問うているのだ。

植松死刑囚は意思疎通が困難な重度の障害者を“心失者”と呼び、社会に必要ないと決めつけ、彼らを抹殺することで社会が良くなると信じていた。
確かに極端な考え方だが、では私は、あなたは、何をもってして誰を“人”と認め、社会には何が必要で、社会を良くするためにはどうすればいいか、理解しているだろうか。
「さとくん」がどうしてそんな考えに至ってしまったのか、なぜ誰も彼を止められなかったのか。19人もの犠牲者の命に報いるためには、ひとりでも多くの人間が、改めて心から誠実にその疑問に向きあい続けるしかないと思う。
そのために、この映画はつくられたのだと思う。
主人公の洋子は無力な新人職員ではあるけれど、観客を、人として忘れてはならない葛藤の入り口に導くための重要な役割を果たしている。

『舟を編む』の石井裕也監督作品にしては全体につくりが古くてクサイ雰囲気に面食らってしまった(テロップの書体やデザインがダサい・施設のセットがあまりにボロ過ぎるし汚過ぎる・全編照明が限度をこして暗過ぎる)が、いつの間にか展開が加速していくのにつれて物語に引きこまれていて、終わってみればちょっとした見苦しさも演出なのかなという気もする。
気がするだけかもしれないけど。

登場人物が全員、弱かったり卑怯だったり無神経だったり、人間がいかに不完全な生きものかということを嫌というほど力一杯再現していて、彼らの言動ひとつひとつがすべて残らず、物語の大事な要素になっている。
感動作ではないけど、「衝撃の問題作」などという軽薄なキャッチフレーズではくくれない、大事な映画だと思います。

劇中、昌平の発言にさとくんがハッとした表情を見せる瞬間がある。彼はここで、自分の考え方が間違っていることに気づいている。
結果的にさとくんはその気づきを自ら見過ごしてしまうのだが、この短いやりとりには「所詮、当事者に面と向かって発言できないような意見は、そもそも正しいことではない」というごくありふれた倫理観がこめられているのではないだろうか。
ほんとに、当たり前のことなんだけど。

関連レビュー:
『彼女の名はサビーヌ』
『ブラインドサイト〜小さな登山者たち〜』
『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』
『ボウリング・フォー・コロンバイン』
『累犯障害者─獄の中の不条理』 山本譲司著
『福祉を食う―虐待される障害者たち』 毎日新聞社会部取材班著
『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』 佐藤幹夫著
『舟を編む』


茶番劇─その後

2023年10月13日 | diary

世間は毎日毎日、ジャニーズ事務所の件で話題もちきりのようですが。
性被害の経験者としては正直きついので、なるべくニュース番組やニュースサイトは目に触れないように生活している。それでもSNSを通じて勝手に情報が流れてくるのがまあまあ精神的にまいります。

各方面の話題は性被害問題をどう解決していくかというよりも、記者会見に不正があったとか、不正の責任の所在が曖昧だとか、被害者への誹謗中傷とか、ファンへのいいがかりとか、被害そのものから離れた地獄絵図の様相を呈しているように思える。
あのさ、少しは被害者の気持ちを慮るとか、なんぼか冷静になれる人はいないわけ?

性暴力は「魂の殺人」といわれるけど、いったん被害に遭ったら最後、一生その恐怖感と屈辱から逃げられなくなる。
中には「え、いや私はさっぱり大丈夫ですけど?」と仰るつわものもいずこかにはおられるかもしれない。
そういう人はそういう人として、性被害による心の傷に長い間苦しみ続ける経験者も少なくないと思う。私自身も含めて。

いま現在メディアやらSNSで騒がれてる騒動は、そういう人たちの存在をまるで無視しているように感じる。
それがすごく悲しい。淋しい。

記者会見が公正ではなかったことにお怒りの意見が多いのは、至極まっとうなことだと思う。
だけどメディアの怒り方はなんだか奇妙にも感じる。
そもそもジャニーズ事務所は長きにわたって芸能界で不正な権力をふりかざし続け、メディアはろくに抵抗もせず従ってきた。その関係性が一朝一夕にひっくり返ったりするわけがない。
誤解を恐れずにいえば、ジャニーズ事務所の記者会見が不誠実だとしても、そこをつつきまわせばつつきまわすだけ、メディアはジャニーズ事務所の術中に嵌りこんでいく(=被害の実態から世間の関心が離れていく)だけで、結果的に得するのはジャニーズ事務所だ。

会見に登壇した東山紀之氏も井ノ原快彦氏も、企業の代表である以前にベテランの俳優でありタレントなんだから、他人を欺き場の空気を操るわざにかけては超一流のスキルを備えていることは誰もが先刻承知のはずだ。
かつ、ほとんど独占企業よろしくエンタメ界を牛耳ってきた芸能事務所のリスクマネジメントなんか凡人の常識で察れるものではない。メディアは視聴率やら部数やら数字がとれさえすればなんだって構わない。要はいくら無茶をしてもされても結局はなかったことになってしまうというパワーバランスはそう簡単に変わらない。あるいは意図して変わらないようにみんなで立ち回っている可能性もある気がする。

しかも世間では「報道陣の態度が悪い」「見苦しい」などという批判まであるのがアホらし過ぎる。
極論をいえば、まともなジャーナリストなら会見をピリつかせることぐらい通常業務の範囲内だと思う。むしろ多少ピリつくぐらいの会見でなければほんとうに重要な事実なんか引き出せないのではないだろうか。
報道陣は痛いところをうまく攻撃するのが仕事だけど、会見するジャニーズ事務所側はあくまで会社をまもるためにあらゆる手段を用いて逃げまわる。すったもんだしない方がおかしいし、すったもんだしてもらわないと困ります。
史上最悪レベルの人権侵害事件なんだから、芸能界仲良しこよしクラブの段取り通りの穏やか会見なんかやっても意味がない。

けど実際には報道陣の攻め方は戦略不足に終始してしまったし、なんだかんだいってジャニーズ事務所は「死んだ人間のやらかした犯罪はあくまで過去の出来事=他人事」というスタンスから1ミリも動いていない。
TBSは社内でヒアリングをして報道特集で調査報告を放送したけど、誰ひとり一言の反省の弁もなく全部が全部やはり「他人事」でしかなかったし、このままでは日本のエンターテインメント界とメディアにはびこるもろもろの搾取と不正は何も解決しないまま、過去の出来事がお金で清算されてハイおしまいで終わってしまいそうな雲行きにみえる。

MeToo運動をきっかけに改革が進行しているグローバルスタンダードはどんどん遠ざかっていく。
これで勇気を出して名乗り出た被害者の方々は報われるのだろうか。
こんな国で、これから表現者を目指す子どもたちの未来を、どうすればまもれるというのだろうか。


児童の権利に関する条約(外務省)
基本的人権(コトバンク)
ジミー・サヴィル事件(BBC)
ハーヴェイ・ワインスタイン事件(SCREEN ONLINE)
ジャニーズ事務所ウェブサイト:一連の問題に関する最新情報ページ

関連記事:
10月2日に行われたジャニーズ事務所記者会見レビュー
9月7日に行われたジャニーズ事務所記者会見レビュー
8月29日発表:外部専門家による再発防止特別チームの調査報告書レビュー
BBCドキュメンタリー「J-POPの捕食者:秘められたスキャンダル」レビュー
児童ポルノ・買春事件裁判傍聴記
『児童性愛者―ペドファイル』 ヤコブ・ビリング著
『スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪』 ボストン・グローブ紙〈スポットライト〉チーム編
『Black Box』 伊藤詩織著


ジャニーズ事務所とはなんら関係ない私の推しのライブ風景。貼ってみただけ。
「性的に消費されるのがメンタル的に我慢できない」そうですがメジャーデビューもしたしタイアップも始まったし、そうは問屋が卸すかどうかはわからない。


すべて水の泡

2023年10月08日 | play

『My Boy Jack』

 

人気作家のラドヤード・キプリング(眞島秀和)の15歳の一人息子・ジョン(前田旺志郎)は、強度の近視が理由で入隊検査に失敗し続けていた。父親はコネクションを利用してさまざまな有力人物にはたらきかけ、最終的に息子を戦場に送り出すことに成功するのだが、まもなく彼の消息は不明となる。
『ジャングル・ブック』『少年キム』などで世界的に知られるノーベル文学賞受賞作家の家庭を舞台にした物語。

個人的な話で恐縮だが、私も強度の近視でメガネなしではできないことがままある。周りで私より近視の人はまずお目にかかったことがないレベルだ。
舞台上のジョンの視力検査をみる限り、おそらく彼は私より目が悪い。劇中のセリフにもあるが、その状態でもし前線で眼鏡を失くしたら、間違いなく一巻の終わりだと思う。経験的に。
でも彼はどうしても軍隊に入りたいという。この家にいるのが我慢ならないからだと、二人きりの夜、姉・エルシー(夏子)に打ち明けるのだ。

ストーリーは史実に基づいているし、ジョンがどうなるかは観客誰もが知っている。そしてその結果、一家がどうなったかもわかっている。
そこに至るまでの登場人物たちの感情のぶつかりあいの嵐に、とても胸が痛んだ。

国際的な緊張が高まり、地元の若い男はわれ先に入隊して故郷を離れていく。まして父親は男は軍隊に入ってなんぼ、国をまもるために身体をはってなんぼという熱烈な愛国主義者だ。
夭折した長姉・ジョゼフィンの死の影に囚われたままの家で、両親の期待に応えなくてはというプレッシャーと、そこから一刻も早く逃げ出したいという相反する思いに苦しむジョンの懊悩が痛々しい。

家族の皆がそれぞれ自分なりにジョンを愛し、わかってやりたい、まもってやりたいと熱望する。
だがほんとうは誰も、ジョン本人の本心を理解してはいなかったのではないだろうか。3人それぞれが、自分に都合の良い「ジョン」を彼に投影し、それを実像と重ねて溺愛していたのではないだろうか。

父親は一人息子を立派な軍人にしてやることで彼の名誉をまもろうとする。
母親・キャリー(倉科カナ)にとっては、ジョンは小さなかわいい末っ子だった。
姉は弟の告白を聞くが、彼のためにできることといえばせいぜい父親を皮肉たっぷりに攻撃することぐらいしかないと思っている。

ジョン本人にも、自分の本心はわかっていなかったかもしれない。

ひとついえることがあるとすれば、誰も、戦争で家族を失うことがどれだけ悲しく、せつなく、苦しいことか、その死がどれだけ凄惨なものか、ことが実際に起こらない限り真に理解することはできないということだろうか。

ジョンの死が判明したとき、キャリーは「あの子に会いたい」という。ラドヤードは泣く。
誰が正しいとか間違ってるとかそういうことは関係なく、死んでしまったら二度と会えないという事実は動かしようがない。
まだ17歳だったジョンは勇敢に戦った。でもいくら勇敢でも砲弾を身体に浴びたら誰だって痛い。直撃されたら生きて家には帰れない。

描かれている出来事ひとつひとつはものすごく当たり前のことなんだけど、舞台上の人物たちの感情表現がとにかく激しくて、言葉のひとつひとつがリアルに胸に突き刺さってくるようだった。
お互いに正面から向かいあい、ぶつかりあっているそのパワーが圧倒的だった。

それをひとつの世界観にまとめているのが、眞島秀和演じる主人公・ラドヤードだ。
上流の家庭に生まれ育ち、威風堂々とした壮年の家長。すでに人気作家として成功し、社会的影響力があり、有力者にも顔がきく。それでいて、世間に求められている「ラドヤード・キプリング像」に自ら無意識にしがみついてしまっていることには気づいていない。
彼は真剣に母国を愛している。同時に家族も愛している。ただ己の「愛し方」がある方向に傾いていることを自覚していない。戦争に向かっていく世の中の「空気」に流され、それでいて自分がそれを煽ることの本質を考えようとはしていない。

戦場に出ていけば誰もが、汚辱にまみれ、暴力に慄き、痛みと苦しみの中で人間性を失っていく。
想像力を生業とするラドヤードが、そのリアリティをわかろうとしていなかった哀しさ。

これは昔話ではない。
シリアでは内戦が延々と続き、ウクライナへのロシア侵攻はいっこうに終わりが見えてこない。イスラエルではまた大規模な空爆で3,600人以上の死傷者が出ている。
世界中で、日々緊張がじわじわと高まっている。

そんなときに、世間のためでもなく、誰かのためでもなく、自分自身にとって、愛する人にとって何がいちばん大切か、いまだけではなく遠い未来のことまで含めて、真摯に心に問うてほしい。
私は、これはそういう物語だと思いました。

紀伊國屋サザンシアターで10月22日まで、地方公演は福岡キャナルシティ劇場で10月28〜29日、兵庫県芸術文化センターで11月3〜5日、愛知県東海市芸術劇場で11月11〜12日。

ひとりでも多くの人に観てほしい舞台です。機会があれば是非。

公式ウェブサイト
公開ゲネプロ映像

関連記事
『月の獣』
『海峡』
『なぜ君は絶望と闘えたのか』
『ザ・空気 ver.2 誰も書いてはならぬ』
『太陽の子』
『1917 命をかけた伝令』
『アメリカン・スナイパー』
『ハート・ロッカー』
『リダクテッド 真実の価値』
『アメリカばんざい』
『告発のとき』
『ボーフォート ─レバノンからの撤退─』


9月、横浜の丘で

2023年10月04日 | book

『それは丘の上から始まった』後藤周著/編集:加藤直樹

関東大震災直後の朝鮮人虐殺事件に所縁の場所をまわるフィールドワークに初めて参加したのは6年前だ。
横浜でのフィールドワークが終わった後、悲惨な虐殺事件が多発したという平楽の丘をみたくて主催の研究者グループのひとりに地図を確認したところ、連れていってくださるという。暗くなりかけた狸坂を上って、活動家の山口正憲がおよそ3万人もの避難民に演説をしたという辺りや、朝鮮人が暴行されている現場が目撃された植木会社の辺りを案内していただいた。

どこで何が起こっていたか、半日かけて現場を歩きまわるうち、二度とこんな過ちを繰り返さないためにほんとうに大事なことが何か、明瞭にわかってきたような気がした。

震災当時に殺害された朝鮮人はおよそ6,000人以上に及ぶという数字がある。公的かつ包括的な調査が行われていないため、正確なところは誰にもわからない。
殺され方はもういちいち酸鼻を極めるというか何というか、まあいうたら無茶苦茶なわけです。細かいことは各々なんか資料とか読んでください。今年発生からちょうど100年で本がいっぱいでてますし。

その話を聞きにくる人、フィールドワークや勉強会にくる人の動機はそれぞれだと思うんだけど、私は在日コリアンでどっちかといえば被害者側の立場でもあり、日本人参加者の心情に対してどうしても穿った見方をしてしまう。

歴史を繰り返さないために、事実をよく知って周りにも伝えていかなきゃいけない。
こんな負の歴史を学ぼうとしてる私は、ネトウヨなんかとは一段違う人間だ。
どんだけ惨たらしいことが起きたのかを詳しく知りたいという好奇心が辛抱堪らん。

性格悪くてごめんなさい。

でもね。虐殺の現実がホントに信じられないぐらい無残過ぎて、ホラーというかスプラッターとかそういう変態的に暴力的なコンテンツを愛好する人々に「消費」されてるんじゃないかという気がしてしょうがないんですよ。
感じ方は人それぞれだから、そういう「消費者」がいてもいなくてもどっちにしろ私個人にはどうしようもないんだけど。
それに、悲惨な事故や事件をコンテンツとして消費するのはいまに始まったことでもないし、ターゲットも朝鮮人虐殺だけに限らない。

とすれば、事件の暴力性をひろく伝えていくだけじゃダメだと思うわけです。

震災当時、大勢の日本人がデマに惑わされて凶器を手にしたけど、中には「そんなことがあるわけない」と朝鮮人たちを匿ったり、助けたりして必死にまもってくれた日本人もたくさんいた。
彼らがなぜそうしたのか。どんな人たちだったのか。そして何ができたのか。それをこそしっかり伝える必要があると思ったのだ。

なぜなら、災害時に必ず氾濫するデマに流されることなく、冷静に対処できる精神を広めていくには、実際にそう行動できた人たちの存在を知ることの方がずっと有効だと思う。
殺された人たちの無念に思いを馳せることもたいせつだけど、祖先たちが犯した罪にただ項垂れるだけでは、正しい未来を手繰り寄せることなんかできない。

この話をすると、ジャーナリストの加藤直樹さんは「そんなことで日本人が犯した罪は相殺されない」と答えてくれたけど、勿論その通りなんだけど、事件の酷たらしさを知ることも重要なんだけど、それと同じぐらい、非常時にこそマイノリティの立場に立ってものを考え動ける人を育成するには、ロールモデルがどうしても必要だと私は思う。

この本は横浜のフィールドワークでスピーカーをつとめてくださった後藤周先生が書いて、加藤直樹さんが編集して、今年9月に刊行された。
お世話になった6年前にも「本を出してください」とお願いしていた、待望の著書。やっと手にすることができて、感無量です。

読んで感動したのは、いわゆるロールモデルとなる大川常吉氏の「都市伝説」を詳しく調べた章があったことです。
大川氏は震災当時、いまの横浜市鶴見区にあった鶴見警察署の署長だった人だ。デマによって迫害される朝鮮人400人以上を署内に匿い、怪我人の手当てを手配した。
暴徒と化した群衆が署をとりかこみ「朝鮮人を出せ」と口々に叫ぶのを宥めたとき、大川さんが「朝鮮人を殺す前にこの大川を殺せと啖呵をきった」「朝鮮人が毒を投げこんだという井戸の水をもってこさせて一気飲みしてみせた」とかなんとかいういかにもドラマチックな美談がまことしやかに伝えられている。

後藤さんはこの美談の背景を詳しく調べ、当時の鶴見になぜ朝鮮人がたくさんいたのか、彼らはどうして鶴見署に匿われることになったのか、彼らの命をまもるために大川さんが何をしたのか、保護された朝鮮人たちがその後どうなったかを、記録をもとにひもといている。すごく客観的に。
すると大川さんはとくにとりたてて「正義のヒーロー」ではなかったことがわかってくる。
彼はただ警察官として、暴力をやめさせ、人の命をまもるという当たり前の職務をまっとうしようとしただけであって、逆に、他の警察ではこんな当たり前のことができていなかったという事実が見えてくる。

「当時、日本人が韓国朝鮮の方にあまりにひどいことをしたため、当たり前のことが美談になってしまった。だから私が日本人としてみなさんに申し上げる言葉は、これしかない。『ミアナムニダ』(ごめんなさい)」
先年、大川さんの事を知った病院長の招きでソウルを訪れた孫の大川豊さんは、集まった人々にそう告げた(ソース)。

確かに大川さんは立派な人だった。
ただ、非常時において平静を失わず、己のなすべきことに忠実でいることこそ、国家権力の当然の義務だ。
それが、あのときはほとんどできなかった。
けど、大川さんにはできた。
そういうことです。

この本にはどこでどんなことが起こっていたか/起こっていなかったのか、そこにはどんな背景があったのか、以後どんな経緯をたどったのかを、すべて記録にもとづいて丁寧に綴っている。憶測は一言も挟まれていない。無茶苦茶リアルです。
あまり話題にされない中国人虐殺についても、市民活動家たちの活躍についても、記録とともにまとめてあります。

6年間待ち焦がれた後藤さんの本、ひとりでも多くの人に読んでほしいです。
これはもう、ホントにすごくいい本です。
読めばとりあえず「朝鮮人虐殺の規模」がどれほどのものだったか、肌感はわかると思います。

関連記事:
『羊の怒る時 ――関東大震災の三日間』 江馬修著
『福田村事件』
『関東大震災』 吉村昭著
『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』 加藤直樹著
『虐殺のスイッチ 一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか』 森 達也著
加藤直樹さんと一緒に、埼玉から関東大震災・朝鮮人虐殺を考える(フィールドワーク)
著者・後藤周さんといっしょに関東大震災時の朝鮮人虐殺地をまわったフィールドワーク

外部リンク:
9月、東京の路上で

「つまずきの石」
関東大震災直後に日本全国で起きた朝鮮人虐殺事件の発生地をまとめたGoogleマップ