落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

夢中山

2008年10月27日 | diary
今朝見た夢を夜になって思い出した。
ときどきこういうことがある。起きた直後は覚えてなかったのに、時間が経ってから「あ、今朝はこういう夢をみていたんだった」と。
そんなもの思い出してもなんの役にたつでなし、それに何がきっかけでその記憶が甦ってくるのかもよくわからない。
人間の脳って不思議。

夢の中でぐりは高校生くらい。外見もぐりとは違う。つまり別人。
ぐりは父親(現実の父親とは別人)とクルマに乗って山道を走っている。父親はぐりといっしょに自殺をしようとしていて、ぐり本人はとくだん死にたくはないのだが、べつにそれでもいいな、などと適当に考えている。
だがいざ土壇場になると父はぐりをクルマから下ろし、ひとりで死にに行ってしまう。
取り残されたぐりは捜索隊に助けられる。
まだ未成年だったのでよその家に預けられて生活することになるのだが、誰も彼もがぐりに親切にしてくれる。
あまりにみんなが優しくて、ぐりは困惑してしまう。
ぐり自身には親切にしてもらう理由は何もない。
そればかりかみすみす実の父親を死なせて自分だけ生き残ったひどい親不孝娘のはずなのに、誰も態度に出してそれを責めたりしない。
責められないことで却っていたたまれない思いで苦しくなる。

死んだといっても父親の遺体はみつかっていない。
大人になったぐりは、夏になると山を訪ねて父の遺体を探すようになる。
夏に探すのは気象条件がよくて比較的安全だから。
といっても真剣に捜索するわけではなく、みつかるといいけどみつかんなくてもしょうがないな、という程度の半分トレッキング気分で適当に山を歩き回っている。
父親を探すのは、完全にひとりきりになるための口実である。

ある年、ぐりが預けられていた家の男の子がいっしょに山についてくる。
理由はよくわからない。
わからないが断る理由もないので、ぐりは黙っている。
ところが山に入ると、男の子の方はかなり本格的に捜索し始める。
なんでそんなに一生懸命探すの?とぐりは訊ねる。
男の子がなんと答えたのかはよく覚えていない。そんなの当り前だろうとか、みつからないことには終わらないとか始まらないとかなんとか、そんな感じの答えだった気がする。

どこかで聞いたような話だがどこでだったかは思い出せないし(微妙に『永遠の仔』に似てなくもないがTVドラマは観ていない)、ぐり本人も含めて出てくる人の顔にも見覚えはない。
こういう夢っていったいどこから出てくるのかな?


待ち犬。図書館にて。
館内にいる(と思われる)飼い主に向かって必死に吠えていた。

今日は健診の再検査だった。結果は「要経過観察」。グレーってとこですな。半年後にまた再々検査。
いつもつっけんどんでちょっと怖い担当医だけど、今日はやさしかった。なんでだろー。

地獄行きのバスに乗って

2008年10月26日 | movie
『ボーダータウン 報道されない殺人者』

アメリカと国境を接するメキシコ・フアレスで頻発する強姦殺人事件の取材に派遣された記者ローレン(ジェニファー・ロペス)と、かつての相棒で現地で新聞を発行しているディアス(アントニオ・バンデラス)は、事件に巻き込まれて奇跡的に生還した16歳のエバ(マヤ・サパタ)と接触することに成功。命を狙われている彼女を助けるうち、ジャーナリストとしての使命にめざめていくローレンだったが、彼女たちの前には自由貿易協定の利権を守ろうとする国家権力が立ちはだかり・・・。

力作。すんごい力作。
『ファーストフード・ネイション』『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』『バベル』などハリウッド映画でも昨今しばしば題材にされるアメリカとメキシコの因果な関係の物語。
と同時にこれは、『いま ここにある風景』『女工哀歌』『この自由な世界で』『おいしいコーヒーの真実』『ダーウィンの悪夢』などでも描かれた、グローバリズム経済の暗部の物語でもある。
豊かな国が貧しい国の貧困そのものを食い物にするとどうなるか。人が人の尊厳をカネで買い叩くということがどういうことかを、実話をベースに娯楽サスペンス映画として告発した作品。そりゃ重いですよ。くどくもなります。しょうがなし。
とはいえ二転三転どころか四転五転するストーリーテリングはかなり凝ってるし、アメリカの観客に極力わかりやすく受け入れやすくつくろうと必死な作り手の思いも強く伝わってくるし、何がいいたいのかはとてもストレートな映画です。そこは素直に好感が持てる。

ただ頑張り過ぎなところが目についてしまうのもまたしょうがない。
正義を振りかざすあまりにキャラクターの人物造形が妙に平面的になってしまっていたり、ところどころ安手のホラーみたいな演出に思わず失笑させられるところも残念だったけど、なによりもいただけなかったのは、諸悪の根源をすべて自由貿易協定と決めつけて物語の世界観がそこからまったく広がっていかなかったところだ。
あるいはメキシコの事情も知っているアメリカの観客なら説明は不要なのかもしれないが、この映画を観ただけでは、フアレスの治安がなぜこれほどまでに劣悪なのか、そしてメキシコの行政がなぜここまで腐敗しているのかがうまく納得できない。それもこれも自由貿易協定のせいだなんていわれてもね。
逆にヒロインたちジャーナリストを完全な正義の味方として描くのにも疑問はある。リアリティも全然ないしさ。大体ジェニロペはジャーナリストにしては化粧が濃すぎますて(笑)。いやマジで。そんないつでもメイクばっちりな記者おらんて。ただ彼女の「この国(アメリカ)でメキシコ人でいるのはつらすぎる」という台詞はズキッと来ました。2世以降の移民ならどこの誰でも同じようなことは感じるものだからさ。

題材になっている連続強姦殺人事件は、報告され始めた1993年以降で推計5000件にものぼるという。被害者は10代から20代の若い女性ばかり、ほとんどがよそからフアレスの工場地帯に作業員として働きにきた貧困層だそうだ。政府も地方行政もまったくこの問題には真面目にとりあわないのも事実で、この作品の製作もさまざまな妨害から10年ほどの時間を要し、撮影中も銃撃を受けてやむなくメインキャストをスタンドインでロケしなくてはならないパートもあったらしい。
それほどの危険を圧してまで完成させた気概は確かに賞賛に値すると思います。

巻き戻しといてください

2008年10月26日 | movie
『僕らのミライへ逆回転』

ニュージャージーの田舎町のビデオレンタル店で働いているマイク(モス・デフ)は店主(ダニー・グローヴァー)の旅行中に店番を頼まれるのだが、親友のジェリー(ジャック・ブラック)が磁気でテープをみんなダメにしてしまう。苦し紛れにふたりで映画をリメイクした手づくりのビデオテープを客に貸し出したところ、意外なことに大評判になり店は大繁盛。建物の老朽化を理由に行政から立退きを迫られていた店を、果たしてふたりは救うことができるのか?

チョーおもろかったー。サイコー。傑作。
もうねえ、話自体ムチャクチャおもしろいんだけど。まあファンタジーなんだよね。けどファンタジーでもこれくらいゴーインにぶっちぎっちゃってくれれば気持ちいい。気持ちよく思いっきり笑える。
でもそれだけじゃなくって、映画を取りまくさまざまな問題をすっごく的確にリアルに風刺してもいる。そこがまた気持ちいい。軽くて小さくて扱いがラク(なにしろ“巻き戻し”しなくていい)なDVDに押されて市場から姿を消しつつあるテープメディアへの惜別。なんでもかんでもお金と時間をかけてCGでつくってしまううえに、やたらめったら上映時間が長くなっていくハリウッド大作映画に対する皮肉。かと思えば実話もの・リメイクものだらけな業界の企画力不足も笑い飛ばす。複雑な著作権問題・資金不足や製作費の高騰・観客動員の伸び悩みやソフト単価の下落で映画というメディアそのものが存亡の危機に陥っている、映画史の岐路に立たされている業界人のせつなさ。ついでになんでもかんでも新しいものばかり有り難がって古いものを大事にしないアメリカ社会への批判もしっかり挟まれている。
どれも笑い事ではない問題なのだが、それらをミシェル・ゴンドリーは実に巧妙に利用して、カラッとあたたかくてチャーミングなコメディに仕上げている。全編どのシーンにもどのカットにも、映画に対する愛がいっぱいにあふれている。映画が好きな人なら誰でも観てて幸せな気分になれるし、感動さえするんじゃないかと思う。
それと同時に、家庭用ビデオカメラで誰でも簡単に映像作家になれる現代ならではのおもしろさも力いっぱい表現されている。映画なんてみんなで楽しむもの。とくべつな誰かのためのものじゃない。ただ困ったことにそれだけじゃダメなんだよね・・・(はぁー)って感じ。
だからコメディなんだけどただのおバカ映画でもない。かといって正論を偉そうに押しつけたりもしない。温度加減がすごくちょうどよくって、観ててホントに気持ちがいい。

ミシェル・ゴンドリー作品て話もおもしろいんだけどキャラクター設定がまたサイコーなんだよね。
ジャック・ブラックがアホなのはいつものことなんだけど、モス・デフとかダニー・グローヴァーとかミア・ファローとかメロニー・ディアスとか、もう登場する人全員がかわいらしすぎるー。ひとりずつぎゅうーって抱きしめたくなるくらい、みんな愛くるしくてキュートでステキ。とくに今回ぐりが気にいったのはモス・デフ演じるマイク。いい人なんだけど微妙に頭の具合がユルくって、けどマヌケってほどではなくって、すごーくマジメで、観てるだけで思わずにこにこしてしまうような人物なのだ。そんな人ってなかなかいないでしょう。

ラストシーンがまたすばらしくって、不覚にも泣いてしまった。エンドロールでもなかなか涙が止まらなくて、コメディなのになんでこんなに涙が出るのか、ちょっと自分でも困ってしまいました。
単純に笑えるだけじゃなくてすごくいい映画だし、わかりやすくて誰でも素直に楽しめる映画らしい映画でもある。できたらまた観たいですね。これは。傑作です。

When you forgive, you love. And when you love, God's light shines through you.

2008年10月26日 | movie
『イントゥ・ザ・ワイルド』

1992年、アラスカの森の中でひとりのアメリカ人青年の遺体が発見された。名前はクリス・マッカンドレス(エミール・ハーシュ)、24歳。死因は餓死。2年前にアトランタの大学を卒業後、家族にも誰にも行き先を告げずに全米を放浪し続けた果ての孤独な最期だった。
ジャーナリスト、ジョン・クラカワーの綿密な追跡取材によるノンフィクション『荒野へ』の映画化作品。

欧米の若者にとって学生時代にバックパック旅行をするのは一種の通過儀礼のようなものだそうだが、ぐりにはバックパック旅行の経験はないし放浪欲もまったくないから、正直な話、こんな映画共感できるかな?なんてかなり疑問はあったんですけど。
うん、大丈夫。いい映画でしたよ。ショーン・ペンていい監督だね(爆)。
ぶっちゃけ「全然はいりこめなかったらどうしよう」とか思ってたんですよ。ぐりも偏屈だからさ。物質社会を否定したかったとか、欺瞞だらけの家庭環境に苦しんでたとか、結局そんなん言い訳じゃないの?みたいなさ。自分だけ偽善者ぶって逃げてんじゃないよとか思ったり。
実際、クリスに本気で現実社会を捨て去る気なんかなかったことは初めから明白だ。彼の放浪には明確な目的など存在しなかった。あれば放浪なんかしなくてもいい。彼ほど厳格な道徳観があれば、国内でも国外でもどこへでも、助けを求めている人々の中へ入って行って活動することだってできただろう。でも彼はそうはしなかった。初めから、自分なりに満足すれば戻って来れるつもりで旅に出たのだ。放浪ごっこだ。
あれほど恨んだ両親(マーシャ・ゲイ・ハーデン/ウィリアム・ハート)や仲の良かった妹(ジェナ・マローン)にさえ連絡しなかったのも、そうせずとも彼らが自分の帰りを待っていてくれることを、無意識にごく当り前のこととしてとらえていたからだ。その証拠に、服役中の元雇い主ウェイン(ヴィンス・ヴォーン)にはきちんと手紙を書いている。

つまり、ぐりの目からみれば、このクリスという青年はごくごく一般的なアメリカ人らしい傲慢かつ尊大なキャラクターにしっかりとハマって見える。優しくて繊細で一見そんな感じはしないけど、根底では結局自分勝手なだけじゃん。
それでも彼の気持ちはすごくよくわかる。ぐりにだって家族を恨んだ経験はある。何もかも棄ててどこか遠くへ行きたい、消えてしまいたいと思ったことも何度もある。つーかそんな風に思うことそれそのものが、子ども時代を卒業して大人になるための通過儀礼なのだ。年齢とともに自然にそんな思いは消化されて、気づけば青春は終わっている。それが人生。
だがいくら欧米で一般的なバックパック旅行といえども、クリスが挑戦した放浪は度を超していた。だって2年だよ。放浪し過ぎでしょ。そしていつでも引き返せたはずの帰り道はもうなかった。残念なり。

ぐりは原作を読んではいないのだが、クラカワーの取材がいかに綿密でも、最期のクリスの思いまでは知ることはできなかったはずである。クリスの遺体が発見されたのは死後2週間が過ぎたころだったからだ。だからおそらく映画に描かれた最期はある程度原作者や監督の創作によるものだと思われる。
けどこの最期は、どんな観客でも、いや遺族でも、これ以上の最期は望み得ないというほどのすばらしいラストシーンだった。どんなにクリス本人に疑問や反感を持っていても、クリスの選択した道をどれだけ否定していても、彼のあの最期には誰もが激しく胸を打たれるのではないだろうか。
彼が求め続けていたのは愛だった。愛されることや愛することなどではない。愛の真理を、彼は求めていた。そんなものは誰からも教われるものではない。自分で探し出すものだ。彼は自分でも何を探して旅していたのかわかっていなかった。最後の最後に、彼は自分自身の問いを発見する。そして同時に、答えを知る。
そんな最期ならば、放浪は正解だったといえるかもしれない。少なくとも、悲しくはない。

Strange Fruit

2008年10月25日 | movie
『Broken Sun』

舞台は1944年、オーストラリアの田舎町、カウラ。
第一次世界大戦で心に大きな傷を負い、ひとりで農場を営むジャック(Jai Koutrae)は、ある日捕虜収容所から脱走したマサル(宇佐美慎吾)と出会い、自宅に連れ帰る。捜索隊を待つ間、ふたりは互いの悲しい体験を語り合う。
公式サイトにはカウラ市の協力で製作されたと書かれているが、実際には監督とプロデューサーの完全な自主制作映画。ふたりはちょうど今日、結婚したそうだ。

545人の捕虜が集団自決同然に脱走を試みて235人もの死者を出したカウラ事件そのものは日豪両国でこれまでに何度か映像化されているが、この映画は低予算の自主制作ということもあって、事件から一歩離れたパーソナルなドラマとして描かれている。
事件そのものを見ようとするとついその犠牲者の数と事件の規模の大きさに注意が向いてしまうが、いつのどこの戦争でも、そこで戦い、命を落とした人にもそれぞれの心があり、人生があり、魂があったはずである。この物語はそこの個の部分に必死にフォーカスしている。
ジャックは前線でガス弾の被害に遭って肺を患っているだけでなく、そこで自分がしたこととしなかったことの両方に精神を苛まれ続けている。マサルは日本人としての尊厳と、一個人としての尊厳との間で激しく葛藤している。ふたりの心を通わせるのは、前線を離れてもなお戦争の不条理に振り回され、迷い続ける出口のない長い苦悩である。

実はこの映画をオーストラリアで観た日本人の批判的なレビューを数ヶ月前に読んでしまい、今日観るかどうか悩んだのだが、実際観てみてすごくよかったです。
確かに傑作ではないです。でも力作です。それも相当にきちんとつくりこまれた、真面目な力作。いい映画です。間違いなく。
やっぱり日本軍・日本兵の描写には不自然さはあるけど、ぶっちゃけそんなの何が自然で何が不自然かなんて現代のわれわれに正確な判断なんかできるはずがない。判断材料そのものがフィクション、伝聞でしかないからだ。日本でつくられてる戦争映画だってどこまで正確かわかったもんじゃない。勝手に知ったつもりになってしまうことの方がほんとうはずっと怖いことだ。
そういう枝葉末子のリアリズムよりも、ぐり個人としては、「親友を殺せるか」というジャックとマサルの問答の方がずっとずっと重く、悲しかった。どんな状況でだって親友を殺すことなんかできない、ただの想像でそういってしまうのは簡単なことだ。しかしある状況では、殺してくれとすがる親友を手にかけてもかけなくても、人は一生後悔しつづけることになる。この映画ではそれが戦争だといっている。親友を殺すか殺さないかという選択を迫られることさえあるのが戦争なのだ。これがリアルというものではないだろうか。
「ジャックは無事に生きて帰って良かったと思うか?」というマサルの問いが、深く胸に突き刺さる。

ジャックとマサルの二人劇を軸に、ふたりそれぞれの前線でのシーンがフラッシュバックで挿入される構成になっているが、全体としてかなり淡々とした穏やかな物語進行になっていて、つくりが丁寧過ぎて若干冗長には感じたものの、非常に感動的な良作に仕上がってたと思います。
ただ、デジタル撮影でしかもどうも日本での上映版のコンバートに不備があったらしく画質が悪く、音にも微妙なズレがあったりして映像のクオリティにはちょっと難はありました。それと音楽が大袈裟なのはいただけなかった。
上映後に主演の宇佐美慎吾のトークショーがあり、貴重なお話もいろいろ聞くことができた。客席はほぼ満席に近い状態だったのだが、司会者が「カウラ事件を今日まで知らなかった人はいますか」と問うと場内の大半の人が挙手したのには驚き。7月にドラマも放送されたし、てっきり知ってて観にきた人ばっかりかと思ってました。
せっかくいい映画なので、また今後も日本で公開される機会があるといいなと思います。次回上映は29日の予定。


関連レビュー:
『生きて虜囚の辱めを受けず カウラ第十二戦争捕虜収容所からの脱走』 ハリー・ゴードン著
『ロスト・オフィサー』 山田真美著