『エディンバラ 埋められた魂』アレグザンダー・チー著 村井智之訳
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思春期の物語だ。
ぐり自身は自分の思春期のことをよく覚えていない。これはごく個人的な事情によるもので、一般論として人が大人になってから思春期をどう思い返すのかが単に想像がつかないというだけのことである。まあでもそんなもの人それぞれなのかもね。
この小説は、韓国人とスコットランド人のハーフという半ば分裂したアイデンティティと、同性を愛するセクシュアリティと、性的虐待を受けたうえ同世代の親しい友人を相次いで亡くすというトラウマを背負った少年が、長い長い思春期という枷からゆっくりと自由になっていく過程を描いている。
全体のトーンに統一性はあるものの、章によって時制や人称や語り手が微妙にシフトチェンジしていくという独特の文体が非常に美しい。まさしく「リリカル」と形容するに相応しいスタイルだ。といってもただ若さに任せて独自性を気取っているというわけでもなくて、このスタイルそのものが小説全体の世界観の根幹を司っている。
自分は大人なのか子どもなのか、これから何が起きようとしているのか、自分はどこへいこうとしているのか、どうしたいのか、どうするべきなのか、何ができるのか。自分は周囲にどう見えているのか、まるで自分が透明になってそこにいないような感覚、まったくの五里霧中、地に足がついていないような、ふわふわと心もとない現実。
その苦しいようで不思議にクリアな気分が、短いセンテンスで淡々と語られる情景描写の連続によって非常に巧みに表現されている。なにもかも全てが他人事のようにみえて、どれだけ手を伸ばしても届かないような距離感。それでいて、現実の全てが真夏の豪雨のように全身に降り注いでくる。
主人公は小児性愛者の罪を知りながら、犯罪者と同じ少年に恋する自分も犯罪者なのではないかと苦悩し続ける。
このモチーフはある意味で非常にリスキーでもある。というのは、ホモフォビアの人たちにとっては、同性愛者差別の根拠のひとつが小児性愛になっているからだ。
厳密にいうなら小児性愛と同性愛はまったくの別物である。同性愛が自己と対象との同一性に基づくものであるのに対し、小児性愛はあくまで「現実」の自己と対象との非同一性─年齢差─に基づいている。もっとひらたくいうなら、男性同性愛者は相手が男性だから恋をするけど、小児性愛者は相手が子どもだから恋愛感情をもつ。同性愛者は相手が年をとっても愛し続けることができるけど、小児性愛者はそれができない。子どもが大人になってしまったら、小児性愛者にとって相手は恋愛の対象ではなくなる。
だがそんなことはまだローティーンの主人公にはわからない。わからないからこそ苦しみ、愛する人をも苦しめ、愛してくれる人をさえ苦しめ、取り返しがつかなくなるまで自己の殻に閉じこもってしまう。
そんな風にして、性犯罪者はあらゆる人々の人生を、将来を、生活をとめどもなく破壊しつくす。静かに、音もなく、かつみるも無惨なまでに徹底的に。
性犯罪の真の罪はそこにある。被害者がいて、加害者がいて、事件があった、それだけでは決して済まない。それは永久に治癒することのない病魔のように、周囲の人々を、環境を、記憶のすべてを、永久に汚染し続けるのだ。
偶然だけどこないだ読んだ『ブレンダと呼ばれた少年』とこの本は訳者が同じでした。この村井氏の訳すごく読みやすいです。全体にサッパリしてて、クセがなくて、リズムが良い。
しかし邦題はいったいどーしたもんかね?『ブレンダと呼ばれた少年』もかなりどーかと思ったけど、『エディンバラ 埋められた魂』もねえ・・・なーんかすっげー陳腐なんですけど(原題は『EDINBURGH』)。もーちっと純文学らしい格調のあるタイトルってなかったんかいな・・・。
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思春期の物語だ。
ぐり自身は自分の思春期のことをよく覚えていない。これはごく個人的な事情によるもので、一般論として人が大人になってから思春期をどう思い返すのかが単に想像がつかないというだけのことである。まあでもそんなもの人それぞれなのかもね。
この小説は、韓国人とスコットランド人のハーフという半ば分裂したアイデンティティと、同性を愛するセクシュアリティと、性的虐待を受けたうえ同世代の親しい友人を相次いで亡くすというトラウマを背負った少年が、長い長い思春期という枷からゆっくりと自由になっていく過程を描いている。
全体のトーンに統一性はあるものの、章によって時制や人称や語り手が微妙にシフトチェンジしていくという独特の文体が非常に美しい。まさしく「リリカル」と形容するに相応しいスタイルだ。といってもただ若さに任せて独自性を気取っているというわけでもなくて、このスタイルそのものが小説全体の世界観の根幹を司っている。
自分は大人なのか子どもなのか、これから何が起きようとしているのか、自分はどこへいこうとしているのか、どうしたいのか、どうするべきなのか、何ができるのか。自分は周囲にどう見えているのか、まるで自分が透明になってそこにいないような感覚、まったくの五里霧中、地に足がついていないような、ふわふわと心もとない現実。
その苦しいようで不思議にクリアな気分が、短いセンテンスで淡々と語られる情景描写の連続によって非常に巧みに表現されている。なにもかも全てが他人事のようにみえて、どれだけ手を伸ばしても届かないような距離感。それでいて、現実の全てが真夏の豪雨のように全身に降り注いでくる。
主人公は小児性愛者の罪を知りながら、犯罪者と同じ少年に恋する自分も犯罪者なのではないかと苦悩し続ける。
このモチーフはある意味で非常にリスキーでもある。というのは、ホモフォビアの人たちにとっては、同性愛者差別の根拠のひとつが小児性愛になっているからだ。
厳密にいうなら小児性愛と同性愛はまったくの別物である。同性愛が自己と対象との同一性に基づくものであるのに対し、小児性愛はあくまで「現実」の自己と対象との非同一性─年齢差─に基づいている。もっとひらたくいうなら、男性同性愛者は相手が男性だから恋をするけど、小児性愛者は相手が子どもだから恋愛感情をもつ。同性愛者は相手が年をとっても愛し続けることができるけど、小児性愛者はそれができない。子どもが大人になってしまったら、小児性愛者にとって相手は恋愛の対象ではなくなる。
だがそんなことはまだローティーンの主人公にはわからない。わからないからこそ苦しみ、愛する人をも苦しめ、愛してくれる人をさえ苦しめ、取り返しがつかなくなるまで自己の殻に閉じこもってしまう。
そんな風にして、性犯罪者はあらゆる人々の人生を、将来を、生活をとめどもなく破壊しつくす。静かに、音もなく、かつみるも無惨なまでに徹底的に。
性犯罪の真の罪はそこにある。被害者がいて、加害者がいて、事件があった、それだけでは決して済まない。それは永久に治癒することのない病魔のように、周囲の人々を、環境を、記憶のすべてを、永久に汚染し続けるのだ。
偶然だけどこないだ読んだ『ブレンダと呼ばれた少年』とこの本は訳者が同じでした。この村井氏の訳すごく読みやすいです。全体にサッパリしてて、クセがなくて、リズムが良い。
しかし邦題はいったいどーしたもんかね?『ブレンダと呼ばれた少年』もかなりどーかと思ったけど、『エディンバラ 埋められた魂』もねえ・・・なーんかすっげー陳腐なんですけど(原題は『EDINBURGH』)。もーちっと純文学らしい格調のあるタイトルってなかったんかいな・・・。