落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

青い炎

2006年09月30日 | book
『エディンバラ 埋められた魂』アレグザンダー・チー著 村井智之訳
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思春期の物語だ。
ぐり自身は自分の思春期のことをよく覚えていない。これはごく個人的な事情によるもので、一般論として人が大人になってから思春期をどう思い返すのかが単に想像がつかないというだけのことである。まあでもそんなもの人それぞれなのかもね。
この小説は、韓国人とスコットランド人のハーフという半ば分裂したアイデンティティと、同性を愛するセクシュアリティと、性的虐待を受けたうえ同世代の親しい友人を相次いで亡くすというトラウマを背負った少年が、長い長い思春期という枷からゆっくりと自由になっていく過程を描いている。

全体のトーンに統一性はあるものの、章によって時制や人称や語り手が微妙にシフトチェンジしていくという独特の文体が非常に美しい。まさしく「リリカル」と形容するに相応しいスタイルだ。といってもただ若さに任せて独自性を気取っているというわけでもなくて、このスタイルそのものが小説全体の世界観の根幹を司っている。
自分は大人なのか子どもなのか、これから何が起きようとしているのか、自分はどこへいこうとしているのか、どうしたいのか、どうするべきなのか、何ができるのか。自分は周囲にどう見えているのか、まるで自分が透明になってそこにいないような感覚、まったくの五里霧中、地に足がついていないような、ふわふわと心もとない現実。
その苦しいようで不思議にクリアな気分が、短いセンテンスで淡々と語られる情景描写の連続によって非常に巧みに表現されている。なにもかも全てが他人事のようにみえて、どれだけ手を伸ばしても届かないような距離感。それでいて、現実の全てが真夏の豪雨のように全身に降り注いでくる。

主人公は小児性愛者の罪を知りながら、犯罪者と同じ少年に恋する自分も犯罪者なのではないかと苦悩し続ける。
このモチーフはある意味で非常にリスキーでもある。というのは、ホモフォビアの人たちにとっては、同性愛者差別の根拠のひとつが小児性愛になっているからだ。
厳密にいうなら小児性愛と同性愛はまったくの別物である。同性愛が自己と対象との同一性に基づくものであるのに対し、小児性愛はあくまで「現実」の自己と対象との非同一性─年齢差─に基づいている。もっとひらたくいうなら、男性同性愛者は相手が男性だから恋をするけど、小児性愛者は相手が子どもだから恋愛感情をもつ。同性愛者は相手が年をとっても愛し続けることができるけど、小児性愛者はそれができない。子どもが大人になってしまったら、小児性愛者にとって相手は恋愛の対象ではなくなる。
だがそんなことはまだローティーンの主人公にはわからない。わからないからこそ苦しみ、愛する人をも苦しめ、愛してくれる人をさえ苦しめ、取り返しがつかなくなるまで自己の殻に閉じこもってしまう。
そんな風にして、性犯罪者はあらゆる人々の人生を、将来を、生活をとめどもなく破壊しつくす。静かに、音もなく、かつみるも無惨なまでに徹底的に。
性犯罪の真の罪はそこにある。被害者がいて、加害者がいて、事件があった、それだけでは決して済まない。それは永久に治癒することのない病魔のように、周囲の人々を、環境を、記憶のすべてを、永久に汚染し続けるのだ。

偶然だけどこないだ読んだ『ブレンダと呼ばれた少年』とこの本は訳者が同じでした。この村井氏の訳すごく読みやすいです。全体にサッパリしてて、クセがなくて、リズムが良い。
しかし邦題はいったいどーしたもんかね?『ブレンダと呼ばれた少年』もかなりどーかと思ったけど、『エディンバラ 埋められた魂』もねえ・・・なーんかすっげー陳腐なんですけど(原題は『EDINBURGH』)。もーちっと純文学らしい格調のあるタイトルってなかったんかいな・・・。

愛という名の檻の中

2006年09月27日 | book
『家畜』 フランシス・キング著 横島昇訳
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決して実ることのない想いに身を焦がし、報われない相手に魂を捧げつくした挙句にズタズタに傷ついてしまう、そんな恋愛は誰にでもひとつやふたつ経験があるだろう。
ぐりにもありますよ。もちろん。すっげー昔だけど。青春時代よね。ほほほ。
そういうちょっと身におぼえのある読者にとってはかーなりイタイ物語です。これ。
時代は1960年代のイギリス。半ば成功した40代の作家トムソン氏は近所の女友だちの家に下宿しているイタリア人留学生にひとめ惚れしてしまい、大家が彼の生活態度を煙たがっているのをこれ幸いと自宅へひきとって同居を始めるのだが、問題の男は故郷に妻子がいるだけでなくたいへんな女好きだった。やがて彼は年端もいかない若い愛人を下宿にひっぱりこむようになり、彼女と彼との奇妙に緊迫した三角関係に主人公は懊悩する。
主人公が独身の中年イギリス人、相手が色事に達者なのが国民性ともいえるイタリア男という設定が類型的といえば類型的ではある。ストーリーも初めから結末がわかっているようなものだ。
でもこれものすごくおもしろいです。異様に緻密な人物描写と、その内面を鋭く克明に赤裸々に抉り出していくような、ときに冷酷ともいえるような筆致の確実さはもうまさに天晴れのひとこと。よくもここまで細かくかつストレートに描けるものだと思う。語彙がどうとか表現方法がどうとかいう問題ではない。対象に迫る力強さこそがすばらしいのだ。

絶対に叶わない恋に苦しみ、自ら差し出せるものを何もかも差し出して相手の足下にひたすら跪く主人公。いい年をして、社会的地位も信用もあるまともな大人がすることではない。誰がどうみてもみっともない。
けど恋をしている人間のすることなんてみんなみっともないものだ。そういう意味では彼はまことに潔い。自分の欲望や感情から逃げず、目を背けることもせず、ただただ忠実であろうとしている。ふつう人間そこまで正直にはなれない。みんな我が身かわいさにもっと小ずるく立ち回ったり卑怯になったりするものだ。それもまた恋ゆえなのだが、それを主人公はあえてしようとしない。みっともないならないまま、きたないならきたないまま、恋心のままに相手にすべてを与え続ける。
最初読んでいるうちは彼のこのみすぼらしいまでの献身がうざったく感じられるのだが(『リプリー』のマット・デイモンのウザさを想像していただきたい)、慣れてくると今度は相手のイタリア男の身勝手さが目についてくるのがまた不思議だ。主人公が恋に囚われながら恋に醒めてくるのと同時に、若く美しくセクシーだった素敵な人が、うわっつらだけ優しくて理知的に見えて単にあさはかで利己的なだけの哀れな貧しい人間にみえてくる。
それでも主人公は彼を思うことをやめられない。彼の不完全さをも愛しく懐かしく思う。そこが悲しい。なんのとくにもならない、まるで意味もなくどこへ行くあてもない恋を諦められない、それが人間の性というものなのだろうか。

この小説は恋愛小説ではない。
題材は恋愛だが、著者がほんとうに描き出そうとしているのは、恋愛によって浮かび上がる人間の愚かさや矮小さと、そこに反映される純粋さではないだろうか。そうでなければ、彼らの恋がこれほど苦しいばかりなのはあまりにせつなすぎる。
タイトルの“家畜”とはニーチェの「彼らは狼を犬にし、さらに人間そのものを、人間の最良の家畜にしたのだ」という言葉によるという。果たして“家畜”とは、イタリア男の虜になった主人公か、不倫の恋に溺れた愛人か、はたまた中年男の献身にほだされて自ら泥沼にはまったイタリア男なのか。
この物語は著者本人の実体験に基づいているそうだ。このため初版は作中人物のモデルになったさる著名人の訴訟と妨害によって改訂を余儀なくされ、オリジナル版の邦訳が出版されるまでに実に37年という歳月を要した。だが作品にはそうした経年による古さや綻びはいっさい見受けられない。それこそがこの作品が文学史に残る傑作といえる所以ではないかとぐりは思う。

人生劇場

2006年09月23日 | movie
『太陽』
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もうすぐ首相を退任する小泉純一郎氏とぐりは誕生日が同じです。どーでもいーけど(爆)。
この人が首相になってから「ワイドショー内閣」とか「小泉劇場」なんて言葉が生まれたりもしたけど、世間から注目される人のすることって多かれ少なかれ芝居じみてるものだ。世論はそこになにかしらの偶像を求めるし、うまく自分の思い通りにことを進めたい人はその偶像をしばしば利用する。
そんな偶像の最たるものが天皇と、天皇家の人々だ。といっても、彼らにはその偶像性を利用する権利もないわけだけれど。

映画はねー、すっごいよく出来てましたよ。ホントがんばったなー、と思いました。
コレ全編ロシアで撮影されてるんだよね。だから大半が室内シーンで、屋外は皇居の庭以外は全部VFXなの。CGもいっぱい使ってます。
でも画面の調和が大変よくとれている。60年前の時代の空気の匂いとか、天皇周辺の人物たちの呼吸に漂う緊張感とか、そういう独特の雰囲気が非常に説得力をもって再現されていて、なおかつ色や光が柔らかで深みがあってちょっと幻想的で、とっても上品な映像になっている。音楽もいいし、ぐりはこの映画大好きです。
天皇を演じてるイッセー尾形の芝居がまたおもしろい。昭和天皇もそうだけど、かつて華族とかいわれた高貴な人々の歩き方って特徴ありますよね。なんだか空中を歩いてるみたいな、フワフワヒラヒラした、優雅というかなんとも軽やかな歩き方。あれを忠実に真似ている。世間では口をもぐもぐさせる癖や喋り方が似てるってのが話題になったけど、ぐりは歩き方や感情を抑えた一見眠たげな表情とか、そういう挙措動作の似方の方がおもしろかった。

昭和天皇もそうだったけど、今の皇族の人たちも人前で感情を出す機会は滅多にない。というか全然ない。
けど世の中の人たちは彼らにいろんな幻想を押しつけている。それを拒否する権限は彼らにない。そーゆーのってキツイだろーなと思う。さぞしんどいだろうと思う。
映画の中の昭和天皇も「不便だ」という。彼は、神であることをやめて自由になったといった。けどその「自由」にはあまりにも大きな犠牲が支払われた。奥さんや子どものことを考えている彼はほんとうに幸せそうだったけど、彼が心からその幸せを満喫する瞬間が一生にどのくらいあったろうか。
いずれにせよ、映画の中でも天皇は感情をほとんどみせない。周囲が求めている言葉、求めている行動に沿って、「天皇」という役を延々と演じ続けている。しかもその役は彼が生まれたときから決まっていて、死ぬまでやめることは出来ない芝居なのだ。これはキツイ。
なので映画全体のトーンがなんとなく舞台演劇っぽくもなってます。それも味ですけど。

昭和天皇が亡くなった日のことをよく覚えている。
高校生の時で、早朝に亡くなって一日中TVではどのチャンネルでもそのニュースを放送し続けてました。土曜日で、ぐりは妹たちに食べさせるお昼ごはんをつくりながらそのニュースをみていて、誤って包丁を左手の人差し指に深く突き刺してしまった。やけにいっぱい血が出て一瞬気絶しかけたけど、止血をしてごはんをつくって、午後からは予備校にいった。
それがぐりの1989年1月7日の思い出だ。
この映画、一時は日本公開は不可能とまでいわれたけど、なんだかんだで全国的に公開されることになっている。よかった。しかしネットのレビューをみると、やはりロシア映画やアートムービーを見慣れてない観客からはけっこう厳しいことを書かれてしまっている(汗)。あのさー、たかが映画なんだからさあ(以下省略)。


The Long and Winding Road

2006年09月16日 | TV
『Queer as Folk』
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前にも何度か書いたアメリカのTVドラマ『Queer as Folk』、やっと観終わりましたー。
な、長かった〜〜〜。なにしろ放送期間にして足掛け6年、5シーズン全部で83話もあるんだからそりゃ長いです。ふだんまったくドラマを観る習慣がないし、これまでに観た中国のドラマも長くて30話かそこらだったので正直最後まで観れるかどーかと思ってたんだけど、観たね。自分でも驚き。
しかも英語だし。中国語圏のドラマはみんな中国語の字幕がついてるからまだいいけど、アメリカのにはそれがない(実はついているのだが日本のTVやPCには表示する機能がない※)。ココとかココとか、部分的にでもエピソードガイドや採録シナリオをアップしてるサイトがなければカンペキ挫折してたでしょー。慣れてくると台詞もぼちぼち聞き取れるよーにはなったけど。覚えても絶対人前で使えないスラングとか、しょうもないダジャレとか。TVドラマだから大して難しいことはいってないし、シーズン2くらいまでは台詞を全部理解しようとかなりマジメに観てたけど、さすがに途中からは疲れてすっ飛ばしましたがー(爆)。
※追記。コメント欄へのまりさんからの投稿によれば、PCではDVD再生ソフトの種類によってはクローズドキャプションが表示できるようです。

でもなんだかんだいって観ちゃったのはやっぱり内容がおもしろかったからだと思う。
自分でもどこまで理解できてるのかイマイチ自信はないけど、ヘンな話、このドラマで何を訴えようとしているのかという肝心なところは言葉がよくわからなくてもしっかり伝わってくる。橋田寿賀子ドラマ並みの台詞の量にも関わらず、不思議とちゃんとわかるのだ。それこそが、つくり手の情熱や作品の力なのだろう。
一部にはシーズン5までひっぱる必要はなかったという批判もあるらしいけど、ぐりはそうは思わない。確かにシーズン3と4の間には大きな方向転換はあっただろう。現にオープニングタイトルもこのタイミングで改変されている。放送時の反響や社会環境の変化もそれなりに内容に反映されてはいる。ただこの番組はもともと最初から最低5年間をかけて制作される計画ではあったらしいし、観ていてもその必然性は明らかだ。シーズン4以降は視聴率が落ちたというのも、ある意味では必然といえる。
つまり、セクシュアル・マイノリティの生活をモチーフにするからには、番組そのものに期待される社会的要素を相応に盛りこむ必要があり、それが登場人物たちの年齢的な成長とともに物語の前面へ強く押し出されてくるという流れは避けようがないわけで、そうすると刺激的な性描写や非現実的な恋愛物語を主に好む若い視聴者の共感はどうしても得にくくなってしまう。ぐりはどっちの路線も好きだけどね。前半のおバカで下品でエロ満載なトーンも、後半のどすーんとシリアスなトーンも、それぞれおもしろかったです。
どちらにしても、世の中にはいろんな人がいて、いろんなライフスタイルがあって、それぞれの人生はそれぞれに長く曲がりくねってはいるけれど、どんな人にもみんなに平等に幸せになる権利があるはず、という大事なメッセージはきちんと表現されてると思う。リアリティがあるかどーかはべつとしてね。
物語の構成自体は強引なとこも多々あるし、カメラワークや編集がやたらめったらトリッキー過ぎて目にうるさいのが難ではあったけど。

観ててホントにいろんなことを考えさせられました。
友情、恋愛、セックス、結婚、離婚、家庭、家族、仕事、出産、育児、教育、健康、老化、などというごく身近なテーマはもとより、セクシュアリティも含めたアイデンティティの確立、差別、児童虐待、売春、暴力、犯罪、テロリズム、ドラッグ、政治、社会貢献、HIV、宗教、などなどなどなど、グローバルでしかも日本のドラマや映画ではまずお目にかかれないディープなテーマがそれぞれいちいちがっつりつっこんで描かれている。
説得力があるかどーかの評価はもちろん人によるし、たかがTVドラマなんだから明確な結論らしきものを求めるのも酷な話だ。けど、それらのテーマを考えるきっかけになるだけでも番組で語る意味は充分あるだろう。少なくともぐりにとっては観る意味はあるドラマだった。観れてよかったと思ってます。心から。
これを観るように薦めてくれた某氏に感謝します。

あと出演者がみんな個性的で魅力的でよかったです。どの人もマイナーで日本で他の出演作を観ることはできないのが残念。こんだけ芝居うまい人たちがマイナーって、やっぱアメリカの俳優の層の厚さはスゴイのねーとゆーとこに感心もしたり。
主人公ブライアンを演じたゲイル・ハロルドはこれがきっかけで全国区になり、今月放送が始まったFOXの『Vanished』とゆードラマで主演中。こちらはエロは関係なくて(笑)クライムサスペンス。FBI捜査官役。28歳から演技を始めて、なんだかんだと苦労されたヒトらしーけど、これでもっとメジャーにいけるといーですね。てゆーかぐりはバリバリ保守派のFOXチャンネルで、つい去年までエロエロゲイドラマやってた彼がキャスティングされてるってとこが微妙に意外だったりする。
ショーゲキ的な幼児体型ヌードでぐりの脳天をかち割ってくれた(笑)ジャスティン役のランディ・ハリソンはもともと舞台俳優で、番組終了後は演劇の世界に戻っている。彼の舞台を観るために世界中からQAFファンが渡米してるほど熱狂的な人気があるそーだ。芝居ムチャクチャうまいんでこの人にもメジャーになってほしーけど、本人は今のところいっさいその気がないという。もったいねえ〜。
女性キャストではブライアンの親友リンジーを演じたテア・ギルや、ジャスティンの親友ダフネ役のマカイラ・スミスが好きだなあ。彼女たちもどっかで他の作品を観る機会があるといーなー。
この番組みてて気づいたんだけど、同性愛をテーマにした映画やドラマに出てくる女性ってみんなすっごくかっこいいんだよね。綺麗だし知的だし人間的にも強くて、並みの男なんかよりずっとクールだ。もしかしてゲイ映画やゲイドラマが女性に人気なのってそのへんが潜在的な理由だったりしてね。

不幸の科学

2006年09月15日 | book
『ブレンダと呼ばれた少年』 ジョン・コラピント著 村井智之訳
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1965年、カナダ・ウィニペグで一組の一卵性双生児の男の子が生まれた。名前をブルースとブライアンという。
生後8ヶ月になるころ、仮性包茎が原因で尿が出にくい状態になったため、ふたりは包皮除去手術を受けることになった。手術中の事故でブルースはペニスのほとんどを失うという大火傷を負い、一方のブライアンは結局手術を受けないまま包茎は治癒した。
性器を失くした息子をどう育てるか苦悩した若い両親は、当時世界的にマスコミの注目を浴びていた性科学者のアドバイスに従ってブルースに性転換手術を受けさせ、女の子として育てることにした。ウーマンリブ全盛の時代、今も一部で頑なに信じられている「性は生まれより育ちによって規定される」という主張で広く支持を集めていた科学者にとって、またとない絶好の人体実験の被験者となった双子はその後どうなったのか。両親と科学者の生立ちから被験者本人や彼らに関わった人々への詳細な調査とインタビューがまとめられた医学ルポルタージュが、本書『ブレンダと呼ばれた少年』である。

「性は生まれより育ちによって規定される」というこの実験の起点となった説は、現在医学的に完全に否定されている。というか、本書を読めばわかることだが、この学説そのものにほとんど裏付け可能な根拠が実在しなかったことが証明されているのだ。日進月歩で進化する医学界ではごく当り前のことかもしれない。しかし重要なことは、そうした医学の進歩ではなくて、この説を唱えた科学者が医師免許を持たない心理学者であり、彼の名声によってこの説の不十分さと実験の失敗が長い間秘匿されてきたことだ。
そう、ブルースに施された性転換手術と女の子として育てていく治療はものの見事に失敗し、彼本人と家族の生涯を目も当てられないほど残虐に破壊した。それなのに、それなのに、この一大スキャンダルが医学界とマスコミから無視され続けている間に、同じ悲劇が他の同じような状況に陥った何人もの子どもたちの身に起きていたのだ。
文字通り、ブルースの一生はめちゃくちゃになってしまった。この本の原書が出版された2000年の時点では、デイヴィッドと改名したブルース─女の子だったときはブレンダと名乗っていた─は女性と結婚し3人の継子の父となり自立した社会人としてたくましく生きていた。しかしその後仕事に失敗したうえ離婚し、2004年に38歳の若さで自殺してしまった。弟のブライアンはその2年前にやはり自殺している。ふたりの自殺の経緯は不明だが、アイデンティティを否定する残酷な人体実験を強要された孤独な子ども時代が、彼らの死に何の関係もないとは誰にもいえない。

ぐり個人は「性は生まれより育ち」という説をまったく支持しないわけではない。
ぐりがセクシュアリティやジェンダーをテーマとする議論に興味をひかれるのは、ぐり自身がひどい男女差別意識のなかで育ったからだ。ぐりの両親はとくに男女差別意識の強い人々ではなかったが、他の親族はほんとうにほんとうにひどかった。たとえば、ぐりには両親の両家あわせて従兄弟が80人近くいるのだが(ちゃんと勘定したことはないけど大体そのくらい)、女の子で大学に進学したのはぐりのうちの三姉妹のみである。他は高校にも行かなかったか、行って専門学校止まり、成人後実家の援助なしに自活している従姉妹はひとりしかいない。他は早くに主婦になるか、ずっと家事手伝いをしている。みんなが「女の子は嫁にいって子を生めばよし」「女の子に学は必要ない」としか考えていなかったからだ。
いうまでもないがぐりもぐりの妹たちも両親も、そいう考え方にはいっさい共感することができない。てゆーか個人的には今どきこんな考え方が現実にありえるのかも理解できないんだけど、同じ血縁でも家庭環境によってここまで人生観が変わるんだから、「性は生まれより育ち」という説があながち真っ赤な嘘ともいいきれないです。ハイ。

つーか男であるとか女であるとかってどこで決まるんだろうか?
ぐりはペニスがあるから男で、ないから女、あるいはないなら女にしちゃおう、という問題の心理学者ジョン・マネーの発想そのものがおかしいと思ったです。
大体、この本に出てくるどの論文にもペニスや睾丸を除去して女の子として育てられた症例はいくつもあるけど、逆に肥大したクリトリスを補完して男の子として育てられた症例はひとつもない。ペニスがあるから男、ないなら女なんて決め方は乱暴すぎる。あえて強いていうなら、ペニスがあるから男、ヴァギナがあるから女、どっちともいえない状態なら(もちろん性器も身体の一部なので、他の部位と同じく未発達/奇形の状態で生まれる子どももいる)とりあえずペンディング、ではなぜいけないのか。
人間とチンパンジーのDNAはわずか2%しか違いがないという説がある(否定論もある)。要するにカンタンにいっちゃえば人間とチンパンジーは遺伝子的にはほとんど同じ生き物だ。チンパンジーは雌の子も雄の子も同じように育てられる。人間の子どもみたいに、男の子にはバットやグローブ、女の子にはお人形やままごと道具、なんて別のオモチャを与えられたりはしない。それでも時期が来れば雄の子は雌を求めるし、雌の子は雄を求めるようになる。子どもは勝手に雌になったり雄になったりする。
人間はチンパンジーよりも生物学的にも社会的にも微妙に複雑な生き物だから、そう単純にはことは運ばない。けど医学的な知識のないぐりにもいえることは、そもそも男らしさや女らしさというのは生物学的背景とともに文化的環境的要素も大きく、その概念も個人や環境によって大きく異なるもので、医学的にも社会的にも本人の意志と関係なく一方的に押しつけられるべきものでは決してない、ということだ。セクシュアリティ/ジェンダーとは、本書の原題通り「自然がつくったままの姿('As Nature Made Him')」そのまま、まっすぐに育まれるべきものなのだ。それがいちばんハッピーではないですか?

本書の主人公・ブルース=ブレンダ=デイヴィッドの人生がこと細かく描かれた文面は、それこそページをみている両目を鋭い刃で思いっきり抉られるような痛みを伴うほど、異様に苛酷で無惨なものだ。涙が出るなんてなまやさしいものではない。実際読んでいて何度も何度も目をつぶって痛みを堪えなくてはならなかった。こんなひどいことができるほど、医学って科学ってそんなにエライものなんですかね?わからない。
逆にいえば、それだけの犠牲の上に、我々が享受している医学と科学の進歩は成り立っているともいえるのかもしれない。少なくとも、この本では「絶対的な学説」とそれに翻弄される世論の恐ろしさは非常によくわかる。
ところで、この巻末の解説とやらはカンペキ蛇足ですよね(2005年扶桑社版)?あたしゃこーゆー鬼のクビでもとったよーなエラソーな言説がいちばんクソだと思うよ。なんか激しく勘違いしてますよね。このヒト。