落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

It's no use crying over spilt milk.

2014年06月24日 | diary
鈴木章浩都議がセクハラやじ認める 「早く結婚したほうがいい」

ぐりは男尊女卑思想の根強い朝鮮人家庭に生まれた。
だから女性差別というものは生まれた時から、物心つく前から常に我がこととして身近な問題だった。両親はそんな環境の中でもどちらかといえばラディカルな方ではあったが、親族間での女性差別はとにかく激しかった。具体的にどんなことが起こっていたかはもう思い出したくもない。
親族間だけではない。小学校に通うころからはしょっちゅう痴漢に悩まされた(過去記事)。恥ずかしく恐ろしい思いをしても共感してくれる人間などいなかった。「隙があるから」「不用心だから」の一言で片づけられるか、なぜかこっぴどく叱られてよけい恥ずかしく恐ろしい思いをするかのどちらかだった。どれだけ考えても痴漢に遭った被害者である自分がなぜあれほど叱られたのか、未だにまったく意味が分からない。知らない人についていかない、ひとりで人気のないところへ出歩かないなど最低限の自衛はできても、7つや8つの田舎の子どもに隙もなにもあったものではない。
痴漢には30代後半まで不快な思いをさせられたが、10代後半でアルバイトをするようになると今度はセクハラにも遭いはじめた。飲食店で客や同僚から気分の悪い言葉をかけられたり体に触れられるだけではない。マスコミ業界に入ってしまえばそこはもうセクハラ天国だった。前にも何度か書いたので細かいことはもう繰り返したくない。他にストーカー被害にも遭ったことがある(過去記事)。

その後ボランティア活動を始め、女性と子どもの人権保護のためのNGOでインターンも経験した。そこでひしひしと感じたのは、女性を直接差別し虐待する当事者よりもなによりも、その問題を無視し、ないものとしたがる傍観者こそが、問題を深刻化させ助長するもっとも大きな要因になっていることだった。
家庭や学校に居場所がない、極端な貧困状態で頼る者がいない、あるいは詐欺や脅迫や誘拐の被害に遭っているなどの理由で性産業に従事せざるを得ない女性や子どもを理由もなく差別こそすれ、彼・彼女たちの事情を顧みて本来の問題解決を願ってくれる人間などこの世の中にはいない。そんな存在に対する暴力や搾取を許容しているのは、そういう社会そのものだ。
今回の都議会で問題の野次を発言したのは鈴木議員だけではないというが、問題は発言者が誰かということではない。野次が飛んだその瞬間、議場は笑いに包まれ、都知事や登壇者である塩村議員本人ですら笑っていたという。ぐりはそれが許せない。誰もが断じて笑うべきではなかった。すぐさま、そこでその発言を議題として取り上げるべきだった。女性問題に対し誰もが敏感に反応できない議会に女性問題を解決などできるわけがない。たったそれだけのことを都議会で誰ひとり理解していない。そのことをこそ、有権者は決して許すべきではないのだ。

鈴木議員は謝罪会見で「早く結婚してほしい思いでいってしまった」と述べたが、その見識が既に大きく間違っていることを、どの出席者も一言も指摘しなかったことには心から落胆した。
世の中の人間が早く結婚しさえすれば晩婚化や少子化が解決するとでも考えているような幼稚な人間が施政者であってはならないのだ。どうして、都議会を取材する人間たちがそのことを追求しないのか。何のための会見なのか。
晩婚化や初産年齢の上昇は女性差別問題があるからこそ進行するし、その結果である少子化には、不妊医療の難しさや子育て世代の経済状態の悪化や行政支援の貧しさも関わっている。
ぐりは結婚も出産も一度もしていない40代の独身女だが、周囲で子育てをしている人々の声を少し聞くだけで、行政がいかに子育てに無関心か、すぐにでもできるはずのことを何ひとつやろうとしていないことに激しい怒りを感じる。結婚や出産は個人の生き方の問題だから、したくない人間に強制することはできない。ぐりだって強制されてもやりたくない。でも、結婚を望み子どもをほしがっていてもかなわない人、子育てに苦心惨憺している人たちをまず支えることすらできずに、ただ「結婚しろ」「子どもを産め」というのはただのファシズムではないのか。
それがわからない人間には、市民の代表となる資格など認めてはいけないのだ。

世間ではこの問題が海外でも報道されたことを恥ずかしいなどという言葉も聞かれるけど、日本の女性差別はもうとっくに世界に知れ渡っている。
昨年、世界経済フォーラムが発表した男女平等指数ランキングで日本は136ヶ国中105位。せんだってイスラム過激派組織に女生徒200名余りが拉致される事件が起きたナイジェリアの上、政府による苛酷な人権侵害が国際的な批判を浴びているカンボジアの下である。ちなみに日本でもよく人権問題が報道される中国は69位、衝撃的な誘拐婚が問題視されているキルギスは63位、寡婦が夫を火葬する火に飛び込んで自殺するサティという習慣が残っているインドは101位。
世界中の人が既に日本の男女差別をよく知っている。いまさらそれを恥じてもどうしようもない。問題は、これからどうするか、どんな社会を目指すべきかという主体性の問題ではないか。
どうかこれを機会に、もっと多くの人にこのことをちゃんと考えてもらいたいと思う。犯人探しはこの際どうでもいいから、この野次の本質を、ちゃんととらえてほしいと思う。


Because she saw the salad dressing.

2014年06月08日 | movie
『マイ・ブラザー』
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妻グレイス(ナタリー・ポートマン)と幼い二人の娘を残してアフガニスタンの前線に派遣されたサム(トビー・マグワイア)。サムの弟で銀行強盗で服役していたトミー(ジェイク・ギレンホール)は、出所後なにかにつけてグレイス一家を献身的に支えるが、そこにサムの戦死の一報が届く。
悲しみにくれるグレイスを慰めるために、トミーは友人と協力してキッチンを改装し子どもたちを遊びに連れ出し、一家と打ち解けていくのだが、戦死したはずのサムが生還し・・・。
2004年のデンマーク映画『ある愛の風景』のリメイク。

オリジナル版を観たのがもう7年も前なので記憶に自信はないけど、ストーリーはほぼそのままなんじゃないかと思う。だから見た目の印象はそっくりといっていいほどよく似ている。映像の色合いや光の具合、台詞のトーンや音楽までなんだか似ているような気がする。一家の暮らす地域の地名は作中には登場しないが、雪深く寒そうな冬の情景もデンマークを思い出させる。厳密に見比べてみないとなんともいえないけど、まるで同じ映画を時間をおいてもう一度観ているような、そんな感覚のリメイク。
じゃあなんでそんなリメイクをやらなきゃいけなかったのか?というところがミソになってくるのだろう。
2001年のアメリカ同時多発テロに端を発したアメリカ軍のアフガニスタン侵攻は、2011年のビン・ラディン殺害を経てまだ終わらず、既に13年が経とうとしている。オバマ大統領は2016年末での撤退を明言しているが、その後の現地の治安維持など撤退後の問題が解決していないため、実現には疑問が残っている。
一方アメリカでは、帰還兵の精神疾患や退役後の社会復帰が深刻な社会問題化している。経済格差の拡大に伴って、生活の糧を得るため、進学費用の助成を受けるため、市民権を得るためなどさまざまな動機で多くの若者が軍隊を目指すが、苛酷な戦場で受けた過剰なストレスから精神のバランスを崩したりアルコール中毒を患ったり、またその影響で家族と不和になったり軍隊以外の職に就けなくなったり、最終的にはホームレスになってしまう元兵士も多い。2013年の情報では、全米のホームレスの3分の1が帰還兵であるともいう。
だが彼らをケアするだけの行政システムは機能していない。多くの若者が戦地での体験に一生孤独に苦しめられるままになっている。

この映画でも一番の見どころは、生還したサムの苦しみ方のリアルさではないかと思う。
戦地で乗っていたヘリがアルカイダの攻撃を受けて墜落し、生き残ったものの囚われて拷問を受け、心に深い傷を負ったサムだが、その事実を誰に話すことも出来ない。人は深く傷ついたとき、その傷をひとりで背負うことも出来ず、さりとて誰かと共有することも出来ず、繰り返しその傷を自分でなぞっては自らを苦しめ続けてしまうことがある。自分で自分の傷に逃げ込むことでしか、自分自身を保てないのだ。その気持ちはとてもよくわかる。ぐりは戦争に行ったことはないけど、それでも。
別人のように痩せこけて青ざめ、目つきから表情までガラリと変わったトビー・マグワイアの鬼気迫る演技が恐ろしい。たったひとりの軍人の変化が、戦争の恐ろしさを能弁に物語る。
拷問の末にサムが殺害してしまった部下(クリフトン・コリンズ・Jr)の遺族との対面シーンが素晴らしい。まだ歩くこともできない乳飲み子のあどけない表情におののくサム。事実を責める人がいなくても、彼は生涯その罪の重さに苦悶し続けなくてはならない悲壮感が、子どもの幼さを通じて画面の向こうから伝わってくる。
彼の変貌を対照的にひきたてるのが弟トミーの存在である。元軍人の厳格な父(サム・シェパード。しかしこのおっさんはこんな役ばっかしでんな)に抑圧され実母を亡くし、すっかりグレてしまった次男坊だが、正義感溢れる優等生な兄を失った兄嫁親子をサポートするうちに、彼らの良き庇護者として柔和な誠実な人物に成長していく。
冒頭のサムの出征を祝うディナーと、終盤の次女マギー(テイラー・ギア)の誕生パーティーではサムとトミーのポジションが完全に入れ替わっている。家族の輪に馴染めず、平和な夕食の席にわけもなく苛立ってしまう悲しみ。ささやかな食卓での風景を通じて、戦争が人の心をいかに残酷に傷つけるかを、悲しく静かに再現している。

キャスティングがおもしろい。
兄弟役のトビー・マグワイアとジェイク・ギレンホールは年齢は離れているがふたりともベビーフェイスで一時期同じ役を取り合うライバルだったことがあり、よく比較される存在だったという。ジェイク・ギレンホールとナタリー・ポートマンは互いに子役出身でユダヤ系という共通の出自もあり幼馴染みといっていいほど親しく、交際が噂されたこともある。
演技派の3人のピリリと緊張感のある関係性も見応え抜群だが、なかでも最も驚いたのが長女イザベル役のベイリー・マディソン。『テラビシアにかける橋』にも出演していたそうだが、わずか10歳とは思えないほどの繊細な芝居に思わずほろりとしてしまった。両親を気遣いながらも、思春期を前に愛くるしく天真爛漫な妹に嫉妬する少女の苦悩を、ほんのささいな表情で切実に訴えてくる。

オリジナルとの違いをひとつだけ挙げるとすれば、兄弟の確執というミニマムにパーソナルな題材にフォーカスしたオリジナル版に加えて、アメリカ社会が持つ潜在的な愛国精神のプレッシャーの怖さがかなりはっきり描写されている部分だろうか。そのプレッシャーがサムを始めとする帰還兵への無理解につながっていることが、この映画では意外なほど明確に表現されている。
そういう意味では、戦争がごくふつうの市民の家庭に投げかける影の濃さをより強調したアメリカ版にはなっていると思う。


関連レビュー:
『ある愛の風景』
『告発のとき』
『ジャーヘッド』
『リダクテッド 真実の価値』
『キングダム─見えざる敵─』
『華氏911』
『アメリカばんざい』
『ジャーヘッド アメリカ海兵隊員の告白』 アンソニー・スオフォード著