落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

還らざる河

2013年04月30日 | movie
『藁の楯』

少女の惨殺体が発見され、ほどなく彼女が蜷川財閥会長(山崎努)の7歳の孫娘であり、犯人は過去にも幼女を殺害して服役した清丸(藤原竜也)であることが判明する。蜷川に10億円の懸賞金をかけられた清丸は警察に保護を求めるが、そこは逃亡先の北九州。
SPの銘苅(大沢たかお)と白岩(松嶋菜々子)、警視庁の奥村(岸谷五朗)・神箸(永山絢斗)、福岡県警の関谷(伊武雅刀)の5名が、清丸を東京の警視庁まで護送する任に就くが・・・。
カンヌ国際映画祭コンペティション部門にも選出されたアクション・エンターテインメント。

はっきりさせておかなくてはならないことがいくつかある。
まず、人間の命の価値など人が決めるものではない。殺されても仕方がない人間などどこにもいない。思い出してみてほしい。サダム・フセインが殺されてイラクは平和になっただろうか。ビン・ラディンが殺されてテロとの戦いは終結しただろうか。人を殺して解決することなど、いまやどこにもありはしない。誰かが殺されてすなわち誰かが救われるほど、人の生は単純ではない。逆に、誰も殺さなくても人を救う道はある。それが人間の知性だと思う。
確かに清丸はカスだ。そこは誰しも認めざるを得ない。ここまで来たら天晴れなくらい、とことん力いっぱいカスだけど、こういう人が実際に存在するかどうかは別として、最初からカスに生まれる人間はいない。自らカスになりたくてなる人間もいない。自己責任、自業自得という評価ほど無責任なものもない。
この映画では10億円という懸賞金を巡って日本中がデスゲームに巻き込まれるが、そもそもカネで何もかもが解決できるわけじゃない。もしかしたら、1000兆円くらいあったら何だってスッキリ解決するのかもしれない。そこまではぐりはわからない。けど、人の世の中はそんなにシンプルじゃない。お金に困っている人がお金を得ればそれで何もかもがすべてキレイに一件落着するくらいなら、この地球上に人権問題や環境問題や暴力なんてものはいっさい必要なくなるはずだと思う。お金は物事を解決するためのもっとも重要な道具のひとつでしかなくて、ほんとうに解決できるのは人間の精神以外にない。
もうひとつ。誰かを「殺したい」と思うことと、ほんとうに誰かを「殺す」ことは同義ではない。他人に殺意を抱くことそのものは自由だ。人の心だけは、いつどこにあっても自由だからだ。何にも縛れるものではない。だが、その殺意を行動に移すとなると別問題である。実際に殺さないまでも、殺意を言葉にしたり、手段を選んだりした時点で、その殺意は心の問題ではなくなり、その人自身を、社会を蝕み始める。取り返しがつかなくなる。

その意味では、己に厳しい戦いを強いながらも必死に清丸を守ろうと命をかける主人公・銘苅の心情には安心して共感することができる。
彼自身にも、清丸のような人間に対する殺意はある。その感情をどこまでも律することで、彼は自分の心を、最愛の人への大切な思いを守ろうとしている。観ていてひたすら彼を励ましたくなる。
だからクライマックスでの彼の迷いも心から許せる。そこまで堪えて堪えて堪えぬいた彼だからこそ、自分の意志で納得できる結末を選んでほしいと思える。
逆に、そうは考えない観客はどう思うのだろう。ひたすら結末を先延ばしにする主人公にイライラしたりするのかしらん?隣の席のカップルはやたらケータイいじってばっかでむしろぐりがイライラしちゃいましたけども。

警察もマスコミも一般市民も誰も彼も、それこそキャッチコピー通り日本国民全員が敵となった列島を48時間かけて横断していくロードムービーでもあり、常にどこかで主人公たちを監視しているのに目には見えない敵と、誰が味方かもわからない極限状態と自らの職業倫理と精神的重圧に葛藤する護送チームと、決して他人と心を通わせることなく護送チームの職業意識を執拗に翻弄する清丸の三すくみ構造のアクションサスペンスでもあり、最後の最後まで観ているものに気を抜かせない、第一級の娯楽映画でした。非常におもしろかった。マジで手に汗握りまくりです。
もうまずしょっぱなの高速道路上でのカースタントから物凄いです。ここまで景気よくがっしゃんがっしゃんやってる映画って邦画じゃ珍しいんじゃないかな?ハリウッド映画並みです。その後の展開も豪華です。観ててひたすら感心し倒しちゃうくらいの物量勝負。ネタバレになるので詳細は書きませんけど、この豪華さと景気よさだけで一見の価値あります。
まあ欲をいえば、監督は阪本順治で主演が佐藤浩市と真木よう子だったら、さらに見応えあったかもね~(爆)。

ぐりはこの作品の出演者はどの人もとくに好きでもないし注目もしてないし、三池崇史監督のファンでもない。
でもこの映画だけはどうしても観たかった。
ぐりは死刑制度には反対で、犯罪を犯した人、あるいは犯罪者だと目される人の人権保護にも関心がある。ただ正直なところ、自分でもどこまで「人権」をわかっているかは自信はない。煎じつめれば、そんなもの単純に自分で自分をどこまで許せるかという話でしかないような気がする。
この映画でいえば、自分が置かれるならどちら側を選びたいかという話になる。清丸のようなカスを命がけで守る護送チームの側を選ぶか、10億円目当てに清丸を狙う側を選ぶか。許容する側と罰する側。この映画ではあえて、罰する側である狙う側の人物それぞれに同情すべきもっともな背景を設定してある。清丸を殺してほんとうに彼らの人生すべてが救われるかどうかは別の話だけど。
そこに正解はない。正義もない。自分自身どんな人でありたいか、という魂の問題でしかない。
それを描こうとした物語として、いい映画だったと思う。

クローンの夢

2013年04月28日 | diary
職場の人もいっしょに青年の家のような場所に滞在中のぐり。
宿泊棟には朝鮮大学校の女子生徒や、正体不明の十代の少年グループもいる。
朝鮮大学校の子たちが施設を離れるというので、片付けを手伝う。そこを十代の少年グループの何人かが覗きにくる。通常は男子棟と女子棟の行き来はとめられているが、好奇心に負けたのか、ドサクサに紛れて見るだけ見てみたいということなのだろう。

少年グループの一部はごくふつうに歩いているが、3人はストレッチャーに載せられて半身を起した状態で連れてこられる。
ひとりはまだ幼くて10歳だといい、あとのふたりは16歳だという。連れの少年たちは、3人ともクローンだとこともなげにいう。いわれてみれば、3人とも年齢の割りに雰囲気が大人びている(DNAは年齢で変化する性質があるので、細胞を全部コピーすると親と同年齢のDNAがコピーされるため、クローンの成熟速度が早く、生存年数が短くなる)。
少年グループは某タレント事務所のタレント養成員たちで、クローンは既に売れっ子になっている先輩タレント(実在。テレビを観ないぐりでも知ってる)からつくられたそうだ。タレントの若く美しい時期は短いから、売れることがあらかじめ保証されている子どもを密かにつくって育てているという。
とんでもない話だがありえなくもない。しかしその生い立ちをクローン本人が承知だというのにびびってしまう。

まわりの女性たちはなんといっていいのか驚いている様子だったが、ぐりは何か一生懸命少年たちに話しかけていた。3人はおとなしくてはしゃいだところがまったくなく、どことなくクールで、驚かれることに慣れている様子だった。顔立ちは親であるタレントとはあまり似ていない。うっすら似ているという程度でそっくりうりふたつというわけではなく、それが彼ら本人を落胆させていることがなんとなく伝わる。16歳といえば既にタレント活動をしていてもおかしくはないのに、ふたりはまったくそれをしていないし(あるいは健康上の理由でできない)、あとからつくられた10歳の子も似なかったということは、おそらくこの試みは失敗とされているのだろう。親である先輩タレントが予想に反してまだ活動しているのだから、クローンの存在意義もない。それも本人たちは感づいている。
考えてみれば彼らには、生まれながらの家族というものがいない。DNAを提供したタレント本人はクローンのことは知らないらしいし、学校にも通わず、医療施設と養成所のなかだけで育てられているわけだから、父母兄弟といったような肉親もいない。
老成してみえるのはそういう境遇のせいかもしれない。

彼らが部屋を出ていくとき、何気なく10歳の男の子と握手をしたら、しばらくじっと握って離してくれなかった。
その手がものすごく柔らかくてあたたかくて、しっとりしめっていて、こちらからも離しがたく感じたところで目が覚めた。


高校時代、遺伝に興味があってその手の本を何冊か読んだのを思い出す。
SFのようだがまったくありえなくもない夢だった。なんとなく『わたしを離さないで』みたいな感じ。あの本泣けたなあ。また読もう。


気仙沼市、造船所の風景。

救助の夢

2013年04月27日 | diary
東北でボランティアをしている間、近くの親戚の家に滞在することになる。
(実際には東北には親戚はいない。現実の親戚が夢の中でなぜか東北に住んでいる)
夜中に物音で目が覚め、音がする部屋に行ってみると、親戚が部屋の窓が開かない、と困っている。
見ると窓枠が微妙に歪んでいる。室内にいる人間が動くと、微かに床や壁がたわむような感覚があり、柱や梁がきしむ音がする。玄関にまわって外に出てみると、その部屋の下に地割れが発生しかけているのが見える。

危険なので避難しようと、眠っている家人を起こし、酒を飲んでいる男性陣に声をかけるが、事情が飲み込めないのか全員がその危険な部屋を見に集まってしまう。
地割れがあるから避難しようと、ひとりひとりに説明して誘導しようとしていたところ、地割れが崩落し部屋ごと中に落ちてしまう。
咄嗟に窓ガラスや家具など怪我のもとになるものから室内の人をかばうが、結局自分を含めて4~5人が閉じ込められ、外にいた家人も怪我をしてしまう。

救助を呼ぶように外の人間に声をかけて、そばにあったはずの携帯電話を探すが見当たらない。
レスキューが重機と一緒にすぐにやってくるが、消防隊でも自衛隊でも警察でもなく、ボランティアの女性たちしかいない。同時多発的に同じような地割れが起きて、人が足りないのだという。
助けを待っている間にも崩落が進み、穴の中に立っていると生埋めになりそうなので、垂れ下がった家の柱につかまり、ぶら下がる形になる。一刻も早く助けてほしいけど、夜明け前の闇と土砂と壊れた部屋の残骸が邪魔になって、なかなかうまく進まない。
悲観的に感情的になっても無駄にエネルギーを消耗してしまうので、閉じ込められた人同士必死に励ましあう。

夜が明けて、レスキューの人から水分補給をしてもらいながら救助を待っている間に疲れて眠ってしまう。
気がつくとぐりだけが救助され、地面のブルーシートの上で毛布にくるまって眠っていた。
地割れの中では救助が続いている。怪我をした家人は重傷で、骨盤や肋骨を6ヶ所も折って病院に運ばれたという。彼の安否も気にかかるが、自分が他の遭難者より先に救助されたのが申し訳なくて、どうしていいのかわからない。
レスキューの人に、現場のそばに行っていいかと訊ねるが、行っても何もできないよと一蹴されたところで目が覚めた。


ものすごくリアルだったけど、現実にそういうことが起きたらこんなに冷静に対処できるか自信はない。
なるべく冷静でいたいとは思いますけどええ。
静岡の地割れどうなるのかなあ。すごい怖いよねえ。地元の人はどうしてるんだろう。あんまし報道がないのがメチャ気になりますけど。


福島県浪江町沿岸の風景。

水の上と下

2013年04月24日 | movie
『ハッシュパピー バスタブ島の少女』

ハッシュパピーというとどうも靴のブランドを思い出しちゃうんだけど、もともとはルイジアナ州あたり、アメリカ南部でポピュラーなクレオール料理の塩味の揚げ菓子のことらしいです。コーンミールと塩、小麦粉、ベーキングパウダー、ガーリックパウダー、牛乳、タマゴをまぜて油で揚げるだけ。おいしそう。
なんでこれを子犬を叱る言葉で呼ぶのかはよくわかんないけど。

映画はおそらくアメリカ南部、ルイジアナ州あたりが舞台になっている。地盤沈下が進み、海抜が低く、外部社会から隔絶された“バスタブ島”と呼ばれるコミュニティに父と暮らす6歳の少女が主人公だ。
父娘と地域の人々は現代社会を拒絶し、自由気侭な暮らしに拘泥するが、そこに嵐がやってくる。かねて予言されていた通り、バスタブ島はあっけなく水没する。“常識”ある人々は避難し、バスタブ島の自由を何よりも大切にする人々は死を覚悟で居残ることを選ぶ。
おそらくはハリケーン「カトリーナ」が背景になっている物語。

これすごく何かに似てる。どっかで観た。という気分がしてしょうがなかったんだけど、クライマックスでそれが何かわかる。
初期の宮崎駿アニメに似てるんだよね。『未来少年コナン』とか。『風の谷のナウシカ』とか。ただし世界観の設定がなかなかわからないという点では、けっこう観客に厳しい映画だと思う。でも主人公が子どもだったり、お母さんがいなくて、母親のイメージが内面的な救世主のような捉えられ方をしているところなんかはすごくアニメっぽい。

ごく正直にいえば、ぐりはこの映画それほど楽しめなかった。たぶん体調があんまりよくなかったせいもあるけど(早く帰って寝るべきでしたすみません)。
バスタブの人たちが必死で守ろうとする“自由”の価値はすごくよくわかる。誰もが彼らのように自由に平和に暮らせればいいとは思う。現代社会のルールや価値観には確かにくだらないものが多すぎるとぐりも思う。そばにいる人同士、もっといたわりあったり受け入れあったりして、やさしくあたたかい社会を築いていくことの方がどれほど豊かなことか、そしてそれができない現代社会の厳しさ、つめたさを否定したい気持ちはほんとうによくわかる。豊かさの価値なんてひとそれぞれで、互いに押しつけあうものなんかじゃない。

それでも、観ていてしんどいなと思ったのは、なぜかどうも、映画の世界の中の価値観が観客に「押しつけ」られてるみたいなプレッシャーを感じちゃったところなんだよね。
オレらが正しくて、こんな話を映画館でふんぞり返って観てるあんたは間違ってるんだよ、みたいな。被害妄想ですけど完全に。
まあわかるんだけどさ、もうちょっとやさしくいってくれてもよかったんじゃないの、って気持ちになっちゃったのは、ぐりがいま弱ってるからでしょうかね。
おそらくそうなんでしょう。ごめんちゃい。

あとはやっぱり、大災害のもとでの地域コミュニティが題材になってるせいで、どうしても震災のことを思い出しちゃうんだよね。
毎月東北に通ってる身としては、どうしてもバスタブ島の人たちに見下されてるみたいな気がしてしまうのよ。現代社会を拒否するのがより正しいような表現をされてしまうと、実際には決してそうはできなかった東北の出来事が、まるで正しくなかったようにいわれてる気がするわけ。残念ながら。
これやっぱ被害妄想だよね。まことにあいすみません。
ただ非常に教訓的ではあると感じました。物質社会、効率至上主義の危険性。けど、それはいまさら誰にいわれなくてもみんなよくわかってることなんだよね。わかってるけどなかなか投げ出せないの。ほんとごめん。

郷愁

2013年04月18日 | diary
ぐりは生まれてこのかたホームシックというものにかかったことがない。
小さいころ、よその家に預けられて家族がそばにいなくても「寂しい」「家に帰りたい」などとは決していわない、なかなか扱いやすい子だったという。いっしょに泊まった妹が家を恋しがって泣くのを淡々とあやしながら、「この子はなぜこんなことで泣くんだろう」と不思議に思っていたのを覚えている。
通学や進学で家を離れたときも同様で、用がない限り実家には寄りつかなかったし、社会人になってからはますます帰らなくなった。たまに帰っても懐かしさのようなものも感じない。東京の家でさえ、旅行なんかで長期に留守にしていても「帰りたい」とはなぜか一度も思ったことがない。むしろ遠くにいけばいっただけ、帰りたくないと思ってしまう。
たぶん、心のどこかが欠けてるんだろうと思う。そのせいでとくに不自由はしていないので困ってはいないけど。

だから、震災や原発事故で避難生活を強いられ、故郷を遠く離れている人の気持ちは、残念ながらよくわからない。最初は不便だろうなとは思うけど、人間は慣れる生き物だし、どこだって住めば都だと思ってしまう。
その一方で、2年も通って東北の人に触れるにつれ、彼の地の方々の郷土愛には心打たれることがとても多い。
東北に暮らす人たちの多くはそれぞれの町を心から愛している。地元の自然や文化やコミュニティのあたたかさと美しさに誇りをもち、彼らの町がどんなに豊かで素晴らしい土地か、どんなに自分がわが町を愛しているか、熱心に語っては「ずっとここにいたい」「ここで暮らしたい」と口々にいう。
ぐりには感じたことのない感情だから、単純に羨ましいと思う。素敵なことだと思う。
ぐりには、一生をここで暮らしたいと彼らほど熱望する土地をもっていない。心の底から、ここが自分のための場所だと信じた経験がない。

共感できなくても、理解できなくても、それほどふるさとを愛する人が家を追われることのつらさは想像はできる。
住み慣れた家を追われた福島の人たち。帰りたくても帰れない人たち。
たとえ避難指定が解除になっても、漁業や農業で生計をたてていた人たちが、現実にもとの場所でもとの暮らしを取り戻せるのはいったいどれほど先のことか。その道の遠さが悲しい。いつか戻れるときが来て、長い間留守にしたふるさとをゼロから建て直すという選択ができる人が、いったいどれくらいいるだろうか。
それを思うと、悲しいとか切ないとか苦しいとか寂しいとか、そういう言葉では表せない、えもいわれぬ感情に襲われる。
でもそこで思考停止に陥りたくない。何かはできるはずだと思いたい。なぜなら、この災害はまだ終わってないから。終わったというにはあまりにも、この土地の人たちが負わされた運命が重すぎるから。


浪江町請戸地区の民家跡に咲く水仙。