落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

救いはどこに?

2016年01月23日 | lecture
もう一週間前だけど、アムネスティ・インターナショナルのボランティアチーム主催の講演会「子どもの貧困~日本とアメリカでの現状~」に行ってきた。
スピーカーはふたりいたけど、アメリカの方の発表は純粋に教育制度の概要と統計だけでとくに個人的に参考にはならなかったので(時間が充分じゃなかったのかも)、とりあえず国内の発表だけメモります。

スピーカーはNPOさいたまユースサポートネット代表の青砥恭氏。現役の高校教師ということです。

教育制度
いまの日本の教育制度は戦後の教育制度改革からスタートした。当初は現実を学ぼうというゆとりのある制度だったが、高度経済成長に伴って競争社会が加速するにつれ、国の役に立つ人材を量産するシステムに変わっていった。競争社会の中で当然生まれるのが貧困問題だが、日本の教育制度には貧困層に対応する制度が存在していない。
現在ヨーロッパで問題になっている100万人の難民のように、そもそもは国がすべての公衆の利益に奉仕するシステムを構築するべきなのに、その保護を受けない人がいて、国はますますその分断を拡大している。それは明らかに間違っている。

子どもの貧困=若年層の貧困
北欧では70〜80%とされる20代の投票率は日本では4人にひとり。誰ひとり自分のための政治が行われてるなんて思ってない。
たとえば国は貧困問題のための基金を設立したが、現実問題としてほとんど基金(寄付)が集まっていない。企業もどこも寄付しようとしていない。日本社会全体が貧困層に対して冷たい。貧困層=少数派だと勝手に思いこんでいる。
しかし現在は3人の労働人口がひとりの高齢者を支えているが、これが2060年には1:1になるほど少子高齢化が進んでるんだから、50〜60年先のことを見越した改善が必要なはずである。
若者の自殺率は1990年にはOECD加盟国中最下位だったのに、現在は最上位にまで上がった。

若者の不安定化
現在、不登校の子どもは小中学校で12万人いる。他の要因も含む長期欠席児童や、不登校の子どもを学校に戻すための適応指導教室に通う子などを含めると、ふつうに通学できない子は20万人程度とみられる。子どもの数は減るのにこの子たちが減らないの原因のひとつは、貧困層の拡大である。
卒業して進学しても中退してしまう、進路未定のまま卒業になってしまう、きちんとした収入のある安定した仕事もない。若者の半数は初めから半数が“不安定化”してしまう。
そもそもいまの職業安定法は学校制度に依拠している。以前は学校を出さえすれば仕事があったのに、いまの若者の半数は非正規雇用(47.3%)。将来が想定できない現状が彼らからモチベーションを奪っている。

教育費
日本の教育費は高すぎる。大学に進学すれば100万円の初年度納付金が必要になる。多くの大学生が奨学金の貸与を受け、700〜1000万円の借金を背負って社会に出ていくことになる。現在の自己破産年間7万件のうち1万件は奨学金滞納が原因だそうだ。
たとえば青砥さんは埼玉の高校生の父親の職業を学校の偏差値ランキング別に統計を取ったが、これが見事に経済状態=成績ランクになっていた。つまり成績ランクの高い学校の子の親は会社員や公務員など安定した職業に就いているケースが多数派になり、低い学校ではそれが逆転、驚くなかれ「父親の仕事がわからない」と回答した子がめだつようになっている。わからない、というのは何度も職業を変えているか、自宅に居着かないかといった問題があることが推察できる。この統計はそのまま東大入学者の背景にも結びついていて、現在の入学者の60〜70%は東京か神奈川の中高一貫校(=教育費が高額で親の安定した収入が必須)出身者が占めている。

解決策
子どもの貧困=親の貧困問題だが、学校にはその問題にとりくむだけのスキルもフローもない。国は現在1000人(!!)のスクールカウンセラーを1万人に増やす計画だが、それには時間がかかる。小中学校は全国に3万校だから、1万人でも足りない。
青砥さんの団体で毎週土曜日に開いている“たまり場”には毎回50〜60人の子が通っていて、大学生や中高年のボランティアが子どもに勉強を教えている。全国に広がりつつある子ども食堂のように、地域が運営する子どもの居場所が解決につながる糸口になるかもしれない。

感想としては。
以前ボランティアでもっともっと苛酷な事例に接していたので(家出して強制売春の被害に遭っている10代・売春して子どもを育てているシングルマザー・経済的に困窮して我が子の児童ポルノを売らされる女性etc.)、なんかもひとつぬるく感じてしまったのはきっとワタシ個人のせいですかね。けど質疑応答もイマイチ盛り上がらず、なんとなく消化不良な講演会でした。
しかしこういう話を聞くにつけ、子どもは国の資源なのに、ヨーロッパでできている教育費無料制度がなんで日本でできないのかがムチャクチャ謎。だいたい小中学校が授業料無料とはいえ、やれ学校行事だの部活だの給食だのなんだので結局お金はかかる。そんなん全部タダでよろしいやないですか。そのためにみんな税金払ってんのちゃうの?ワケのわからんODAやら軍拡のためとちゃいまっせ。ほんまに。

今日は1月19日。

2016年01月19日 | diary
今日は1月19日。

一昨日17日は阪神淡路大震災があった日で、兵庫県出身の私にとって一生忘れられない日だ。
朝、まだ暗いうちに東京の家の電話が鳴ったこと。妹とふたり暮らしで都内の大学に通っていた私たちに、そんな時間にかけてくるのは実家しかないとかけ直したけど、もう繋がらなかったこと。すぐにテレビをつけたら、既にニュースで地震を報じていたけど、まだ映像はなくて、やっと映ったと思ったら倒れた阪神高速の高架や、真っ黒な煙を上げながら燃える商店街の映像が、なんだか現実の出来事には見えなかったこと。報道では電話回線が混乱しているので被災地にかけないでほしいと何度もいっていて、10時を過ぎて家族からかかってくるまでどうしていいかわからなかったこと。家族はみんな無事だから、とにかく卒業できる3月まで地元のことは心配するなといわれたこと。いわれた通り3月に卒業して帰ったら、見慣れた街が瓦礫の山になってしまっていたこと。実家は大丈夫だったけど、青春を過ごした神戸の街が消えて、自分の過去が勝手にどこかに去っていってしまったような気持ちになったこと。そのまま決まっていた都内の就職先に入社して、街の復興のための行動は何もしなかったこと。10年経って地元の友だちに再会したら、神戸の街で壊れた家を建て直す大工さんに頼んで弟子入りして、4年間修行してほんものの大工さんになっていたこと。

それから6年後、今度は自分が大地震にあった。
毎日朝から晩まで報道を見ていて、今度こそ後悔しないように行動したいと思った。募金をして、ボランティアに応募した。宮城県石巻にいったのは4月だった。その惨状を見て、これは一度来たぐらいじゃダメだと、何度も足を運んだ。南三陸、気仙沼、名取、岩手県陸前高田、福島県南相馬市、浪江町、飯舘村。いろいろな人にお世話になって、いろいろな人に助けてもらった。想像もしたことのなかった世界を知り、たくさんのことを教わった。信じられないような経験もした。勇気づけられもした。
ボランティアをしていて「遠くから来てくれてありがとう」と声をかけてくれる人もいたけど、東北への行き帰りに汚れた作業服を着て大荷物を背負って都内を歩いていて、「もしかしてボランティアの方ですか」と東北出身の方に話しかけられたことも何度かあった。「地元の自分がいけないのに、見ず知らずの人がいってくれてありがたい」といわれたこともあった。
どこ出身だろうといける機会に恵まれた人間がいってるだけだと思うし、いける自分はほんとうに幸運なんだと説明したけれど。

とにかくいろいろなめぐり合わせで東北に通うことができて、いろいろな人に支えてもらった。
そしてそのひとりが、ちょうど1年前の今日、死んだ。
だから1月19日は、一生忘れられない日だ。

その人はたくさんのボランティアを支えてくれていた。
地域で活動するボランティアの要のような存在だった。
その人の助けなしには、私たちは何もできなかっただろうと思う。

それなのに、誰もその人を助けることはできなかった。

人間が人間を助けることはできないのだと、当たり前のことを改めて知った日。
それが1月19日だ。

その人にしてもらったこと、してあげたこと、されてアタマに来たこと、やりかえしたこと、なにひとつ後悔はしていない。
後悔しても死んだ人はかえってはこない。
だからせめて、1年に1度、この日だけは、その人のために過ごしたいと思う。
笑顔や、声や、つくってくれたごはんの味や、たばこの匂いを思いだして過ごしたいと思う。



親愛的

2016年01月17日 | movie
『最愛の子』

2009年の中国・深圳。3歳の息子ポンポンを誘拐されたウェンジュン(ホアン・ボー黄渤)とジュアン(ハオ・レイ郝蕾)。警察に任せず独自に情報を集め、国中を必死に探しまわった挙げ句、3年後に安徽省で再会できた息子は親の顔を忘れていた。
一方、亡き夫に「深圳の女に生ませた子」と説明されてポンポンを育ててきたホンチン(ヴィッキー・チャオ趙薇)は、息子とともに当局に奪われた娘を取り返すため、故郷の村を出て深圳の児童養護施設を訪れるのだが・・・。
『君さえいれば』『ラヴソング』『ウィンター・ソング』などウェルメイドな恋愛映画を多く手がけてきた香港の娯楽映画監督ピーター・チャン(陳可辛)によるヒューマン・サスペンス。

中国で深刻な児童の人身取引。
背景には去年廃止が発表された一人っ子政策がある。法的にはひとりしか子どもはつくれないが、農村では労働力を担い家を継ぐ男の子が望まれるため、娘しか生まれない家には男の子の需要が生じ、逆に男の子ばかりで嫁不足になった地域では女の子の需要が高まる。需要のあるところには供給が生まれるわけで、子どもを誘拐したり黒孩子と呼ばれる無戸籍児(人口の1%程度存在するといわれる)を買ってきて売る人身取引集団も出現する。
この映画は奇跡的に解決した誘拐事件をもとにしているが実際には解決しないケースの方が圧倒的に多く、被害児童の数は累計数万人にも及ぶという。

といってもこの映画のテーマは一人っ子政策や人身取引だけではない。
物語の前半は誘拐被害者の苦悩が主軸に描かれているが、後半は加害者側の視点に完全に転換する。深圳という経済特区に住むウェンジュンとジュアンの生活背景と、安徽省の農村に住むホンチンのそれの間には、天と地ほどのギャップがある。言語すら違うのだ。
「中国人は生まれた場所で運命が決まる」といったのはウーアルカイシ(吾尔开希)だったか、中国人に移動の自由はない。たとえば娘や息子との再会を願うホンチンは簡単に深圳に移り住めないし、どんなに求めても子どもを引き取れないシステムになっている。つまり養育環境が娘の出生地とされる深圳で、かつひとり親家庭でないことが絶対条件になってしまうからだ。
住んでいる場所が違い生活環境が違えば、経済状態や教育レベル・得られる情報量も平等ではなくなる。誘拐された子を息子として引き渡されたホンチンはある意味では被害者でもあるのだが、その意味で、離婚して対等にわたりあっているウェンジュンとジュアンの関係と、ホンチンの夫婦関係は完全に逆ともいえる。彼女は夫が伝えたことの真意を確かめる術をなにひとつもっていなかった。その無知と男女の不平等が、こうした悲劇の原因のひとつでもあるのだろう。

社会派の重い題材で上映時間は130分とボリューミーな作品だが、そこはさすがピーター・チャン、人物の感情表現を重視し、観念的にはならずに、しかし丁寧に中国の子どもを巡る問題を描写したうえで、物語の中に観客をしっかりと引き込んでいく、絶妙にバランスのとれた完成度の高い作品に仕上がってました。もっとこの手の作品観たくなってきたよ。
宣伝でやたらに「あのヴィッキー・チャオが全編スッピン」を推されてましたが、アイドル女優だった彼女ももうアラフォーだもんね。役柄同様安徽省出身だとは知らなかった。しかしそれよりも何よりも、個人的には、あのピーター・チャンが香港ではなく本土が舞台の社会派ドラマを撮ったってところの方が驚きだったし、期待以上の良作だったことがなんだか嬉しかったです。



悲しくて寂しくて虚しい

2016年01月14日 | movie
『恋人たち』

3年前に通り魔事件で妻を喪った橋梁点検技師の篠塚(篠原篤)。趣味でお姫様と王子様が登場する小説を書きながら地方都市の弁当屋で働く主婦・瞳子(成嶋瞳子)。一回り以上年下の若い同性の恋人と暮らすエリート弁護士・四ノ宮(池田良)。
『ハッシュ!』『ぐるりのこと。』の橋口亮輔監督が無名の新人をメインキャストに描いた愛情をめぐる物語。

「恋人たち」なんてスウィートなタイトルですが、中身はまったくスウィートではございません。
どっちかといえばその真逆。ちょーしょっぱいです。もーお、めっちゃくちゃしょっぱい。
篠塚くんはだいじなお嫁さんを突然亡くしたショックと怒りと戸惑いから立ち直れず、裁判準備と病気療養にばかりお金を使っていて健康保険料すらまともに払えていない。
瞳子さんは毎晩毎晩憧れの皇太子妃が映った映像を繰返し眺めては、誰に読ませるあてもなく夢物語を執筆し挿絵まで描いている。
四ノ宮さんはクライアントどころか恋人の気持ちすらうまく理解することもできず、無神経に見下してばかりいる。
具体的に年齢を説明する場面がないからハッキリしないけど、みんなアラフォー?ぐらいじゃないかな?まあいい大人です。

住んでいる場所も仕事も生活環境もまったく違う3人それぞれ別々のお話は互いに交差することはないけど(例外は篠塚と四ノ宮が画面上でいっしょに映るワンシーンのみ)、テーマはひとつです。
愛が去ってしまったあとの絶望と孤独。
篠塚くんの愛する人は骨になってしまった。瞳子さんの夫は妻に関心がない。四ノ宮さんがほんとうにずっと恋してる人には家庭がある。声を限りに「そばにいてよ」と叫んでも届くことはない。少なくとも本人はそれぞれそう認識している。
悲しくて、寂しくて、虚しくて、どうしたらいいのか、どこにいけばいいのかもわからない。悩むこともできない。ただじっと身を縮めて、なんとなく平気なふりをして、日々をやり過ごしている。
自分で感情をコントロールできていてもできていなくても、悲しくて寂しくて虚しいことに変わりはない。お金があってもなくても、社会的地位があってもなくても、愛する人が隣にいない、手を伸ばしても触れられない、目を見交わすことも笑いあうこともできないせつなさは、誰にもどうしようもない。
逆にいえば、それだけの愛にめぐりあえた過去の幸運をたいせつに生きていくこともできるはずなんだけど、そこになかなか気づけないのも人情である。
観ていてつらくてつらくて、共感し過ぎて疲れてしまう。でも名作です。すごかった。

橋口さんの作品のキャラクターってだいたいこんな風にみんなダメなんだけど、そのダメさ具合が滑稽で魅力的だったりもするんだよね。けど今回はきれいさっぱり笑いゼロです。くすりとも笑えるパートがなくて驚きました。いつもその微妙な笑いがスパイスになってたんだけど。スパイスなしの真っ向勝負。
つうても前作から7年て間開き過ぎですよ。ビックリするわ。『二十歳の微熱』でデビューしてもう20年以上になるのに、劇場用長編5本しか撮ってないて寡作にもほどがあろー。なのにそれ全部劇場で観てるよワタシ(何を隠そう自主制作の『夕辺の秘密』もスクリーンで観た)。
あと全員ダメなんだけどお気に入りキャラがわかりやすいのも橋口さんの特色ですね。今回は篠塚くんだね。メイン3人の中でもとびぬけてダメなんだけど、共感しやすいダメ具合です。逆に監督自身を投影したキャラクターはだいたいやなやつなんだけど、これが今回は四ノ宮さんですね。ホントやな感じだもんね。

それと毎度思うんだけど、女性キャラクターの人物造形にいちいちものすごい悪意を感じる(笑)。今回はこれまで以上です。女性の観衆に喧嘩売ってんのかってくらい悪意MAX。だって画面に出てくる女性全員一人残らずみんな、とんでもないバカか下品な俗物ばっかりなんだよー。しかもそのバカっぷり俗物っぷりが圧倒的にリアルなうえに、それぞれのバカさと俗物加減にあらゆる個性とバリエーションがある。悪意にも根性ハマってるぜ。どうしたんだ。なんかあったんでしょーかね。
私ゃ橋口さんの作品好きだしどれも本当にいい映画だと思うんだけど、どの作品もこんな調子だから身近な人には若干勧めにくいんだよね。ははははは。

主人公が全員無名であて書きでって日本映画ではほとんど実験映画に近いと思うんだけど、ものすごく完成度は高いし、ほぼほぼ傑作といっていい映画だと思います。正直、よくこんなの撮れたなと思う。
ここまで妥協なしに追いこんだ映画、ちょっと国内では他に撮れる人いないんじゃないかなあ。少なくとも現役ではこんな作家思いつかないです。
にしても無名というかほぼ素人とプロの俳優の共演シーンの緊張感はハンパなかったね。そこだけでも一見の価値あります。