落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

すべて水の泡

2023年10月08日 | play

『My Boy Jack』

 

人気作家のラドヤード・キプリング(眞島秀和)の15歳の一人息子・ジョン(前田旺志郎)は、強度の近視が理由で入隊検査に失敗し続けていた。父親はコネクションを利用してさまざまな有力人物にはたらきかけ、最終的に息子を戦場に送り出すことに成功するのだが、まもなく彼の消息は不明となる。
『ジャングル・ブック』『少年キム』などで世界的に知られるノーベル文学賞受賞作家の家庭を舞台にした物語。

個人的な話で恐縮だが、私も強度の近視でメガネなしではできないことがままある。周りで私より近視の人はまずお目にかかったことがないレベルだ。
舞台上のジョンの視力検査をみる限り、おそらく彼は私より目が悪い。劇中のセリフにもあるが、その状態でもし前線で眼鏡を失くしたら、間違いなく一巻の終わりだと思う。経験的に。
でも彼はどうしても軍隊に入りたいという。この家にいるのが我慢ならないからだと、二人きりの夜、姉・エルシー(夏子)に打ち明けるのだ。

ストーリーは史実に基づいているし、ジョンがどうなるかは観客誰もが知っている。そしてその結果、一家がどうなったかもわかっている。
そこに至るまでの登場人物たちの感情のぶつかりあいの嵐に、とても胸が痛んだ。

国際的な緊張が高まり、地元の若い男はわれ先に入隊して故郷を離れていく。まして父親は男は軍隊に入ってなんぼ、国をまもるために身体をはってなんぼという熱烈な愛国主義者だ。
夭折した長姉・ジョゼフィンの死の影に囚われたままの家で、両親の期待に応えなくてはというプレッシャーと、そこから一刻も早く逃げ出したいという相反する思いに苦しむジョンの懊悩が痛々しい。

家族の皆がそれぞれ自分なりにジョンを愛し、わかってやりたい、まもってやりたいと熱望する。
だがほんとうは誰も、ジョン本人の本心を理解してはいなかったのではないだろうか。3人それぞれが、自分に都合の良い「ジョン」を彼に投影し、それを実像と重ねて溺愛していたのではないだろうか。

父親は一人息子を立派な軍人にしてやることで彼の名誉をまもろうとする。
母親・キャリー(倉科カナ)にとっては、ジョンは小さなかわいい末っ子だった。
姉は弟の告白を聞くが、彼のためにできることといえばせいぜい父親を皮肉たっぷりに攻撃することぐらいしかないと思っている。

ジョン本人にも、自分の本心はわかっていなかったかもしれない。

ひとついえることがあるとすれば、誰も、戦争で家族を失うことがどれだけ悲しく、せつなく、苦しいことか、その死がどれだけ凄惨なものか、ことが実際に起こらない限り真に理解することはできないということだろうか。

ジョンの死が判明したとき、キャリーは「あの子に会いたい」という。ラドヤードは泣く。
誰が正しいとか間違ってるとかそういうことは関係なく、死んでしまったら二度と会えないという事実は動かしようがない。
まだ17歳だったジョンは勇敢に戦った。でもいくら勇敢でも砲弾を身体に浴びたら誰だって痛い。直撃されたら生きて家には帰れない。

描かれている出来事ひとつひとつはものすごく当たり前のことなんだけど、舞台上の人物たちの感情表現がとにかく激しくて、言葉のひとつひとつがリアルに胸に突き刺さってくるようだった。
お互いに正面から向かいあい、ぶつかりあっているそのパワーが圧倒的だった。

それをひとつの世界観にまとめているのが、眞島秀和演じる主人公・ラドヤードだ。
上流の家庭に生まれ育ち、威風堂々とした壮年の家長。すでに人気作家として成功し、社会的影響力があり、有力者にも顔がきく。それでいて、世間に求められている「ラドヤード・キプリング像」に自ら無意識にしがみついてしまっていることには気づいていない。
彼は真剣に母国を愛している。同時に家族も愛している。ただ己の「愛し方」がある方向に傾いていることを自覚していない。戦争に向かっていく世の中の「空気」に流され、それでいて自分がそれを煽ることの本質を考えようとはしていない。

戦場に出ていけば誰もが、汚辱にまみれ、暴力に慄き、痛みと苦しみの中で人間性を失っていく。
想像力を生業とするラドヤードが、そのリアリティをわかろうとしていなかった哀しさ。

これは昔話ではない。
シリアでは内戦が延々と続き、ウクライナへのロシア侵攻はいっこうに終わりが見えてこない。イスラエルではまた大規模な空爆で3,600人以上の死傷者が出ている。
世界中で、日々緊張がじわじわと高まっている。

そんなときに、世間のためでもなく、誰かのためでもなく、自分自身にとって、愛する人にとって何がいちばん大切か、いまだけではなく遠い未来のことまで含めて、真摯に心に問うてほしい。
私は、これはそういう物語だと思いました。

紀伊國屋サザンシアターで10月22日まで、地方公演は福岡キャナルシティ劇場で10月28〜29日、兵庫県芸術文化センターで11月3〜5日、愛知県東海市芸術劇場で11月11〜12日。

ひとりでも多くの人に観てほしい舞台です。機会があれば是非。

公式ウェブサイト
公開ゲネプロ映像

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悲しみの深い穴の底の石

2019年12月15日 | play
『月の獣』

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第一次世界大戦下のオスマントルコで発生したアルメニア人虐殺事件を生き延びた19歳のアラム(眞島秀和)と15歳のセタ(岸井ゆきの)。
仲介業者を通じて結婚したふたりは新天地アメリカ・ミルウォーキーで新婚生活を始めるが、アラムが切望する子宝にはなかなか恵まれないだけでなく、夫婦らしい会話すらないないまま時間ばかりが過ぎていく。
世界20ヶ国以上で上演されている傑作の日本再演。

およそ150万人が犠牲になったといわれ、いまなお国際社会ではセンシティブな問題とされるアルメニア人虐殺事件。
発生100年になる2015年に一次資料をまとめて刊行されたファクトペーパーを読んでみたが、もう何がどんな風に書いてあったかここで要約するのすら憚られるほど、人が人として果たしてほんとうにこれほど残虐になれるものかという恐ろしい証言や報道の記録が満載の資料だった(一次資料なのでそれなりに信憑性は高いと判断して間違いはないにせよ)。興味のある人は読んでみてもいいと思う。

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最近この手合いの資料を読み慣れてる(慣れるなよ)私でさえ相当満腹になった逸品でございます。

アラムとセタはこうした暴虐の下のトルコを逃れ、故郷を遠く離れて新たな家庭を築いていこうとする。
ところがふたりそれぞれに描いていた家庭像があまりにも異なっていたことから、夫婦の道程は初手からかなり険しいものとなってしまった。
地方出身で、町で唯一の写真家で政治家でもあった父をもつアラムにとって、家庭とは厳格な家長と敬虔な信仰を頂点とするヒエラルキーだった。こってこてのガッチガチである。いいとか悪いとかの問題ではない、アラムにとってはそれが家庭だった。そしてセタはそれを実現するための“道具”だった。アラム自身は決して乱暴な人物ではないんだけど、女はプレゼントやら甘いもので釣ればいいぐらいのことしか思いつかないなんて、いっちゃ悪いけど恋愛スキルもほぼゼロだよね絶対。ハンサムなのに(近所のビネッティさん談)もったいない話である。
より自由な家庭で育った都会っ子のセタは純粋で素直そのもの、彼女にとって結婚とは、愛しあう人々が互いに思いやりいたわりあって助けあっていく、甘やかな夢だった。それが初対面の“夫”から、なんの前置きもなくいきなりこれから夫婦の営みをやらんといかんぞよなんていわれたら、そりゃ怖いよ。安全な暮らしが手に入るとばかり思いこんで飛びついた結婚話だったけど、もしかして私はとんでもない選択をしてしまったのでは?とびびってしまうのも仕方がない。何しろまだ15歳の乙女なのだ。
しかも彼女には帰る家も逃げる場所も何もない。彼も彼女も、ひとりぼっちの天涯孤独なのだから。

セタのキャラクターが現代的なために観客はつい彼女側の視点からストーリーを追っていくことになるから、どうしてもアラムが夫として厳しすぎる、妻への要求もあまりに偏りすぎているように感じる。自ら読んで聞かせる聖書に書かれた夫婦のあり方にも、非現実なほどしがみつきすぎている(その割りには自分ではそこに書かれているような夫にはなれていないのだが)。
相手にどう接していいのかわからなくて寂しいのも、子どもができなくて苦しいのも夫ばかりではない。それほど当たり前のことが彼には理解できない。でもそう考えると、この二人が抱えている心の壁が、時代や歴史的背景とは全く無関係に普遍的なもののようにも思えてくる。
妻にどう向きあえばいいのか、夫の気持ちをどうくめばいいのか、そんなありふれた迷いを分けあう場所もない。自分が追い求める理想の家庭・理想の夫・理想の妻という幻想が、胸の痛みを忘れるための逃避であることを認めうけいれるだけの機会もない。

八方塞がりの夫婦の家に飛びこんでくる孤児・ヴィンセント(升水柚希)が、そんなふたりの触媒の役割を果たすようになる。
セタは未成熟に柔らかな心をもった彼を通じて、アラムを雁字搦めにしている呪縛の正体を知る。アラムは、己が家族に起きた悲劇から逃げようとすればするほどどこへもいけなくなっていくジレンマを知る。
だからこの物語の結末は“ハッピーエンド”なんかではないのだ。長い長い時間と苦しい苦しい闘いの末に、悲しい悲しい過去を背負った男女が、ようやくにしてたどり着いた、第二の人生の再出発点でしかないのだ。

それにしても悲しい。
泣いて泣いて泣いて、涙が枯れてもまだ悲しい。あのとき自分もいっしょに死んでしまった方がどんなに楽だったか、どうして自分はまだ生きているのか、何のために生きていなくてはならないのか、ふたりは心の内で自分に、もう二度と会えはしない家族に向かって何度そう問いかけたことだろう。眠れない夜にも、眠れた夜に見た夢の中でも、彼らはきっと何百回何千回何万回、同じ問いに煩悶したに違いない。家族が流した血と小便と大便と死臭の記憶。幸せだったころの彼らを思い出したくても、目にしたあまりにも残酷な最期の瞬間がそこに重なってしまうときもあっただろう。
でもふたりきりの夫婦が心を許しあいさえすれば、互いの悲しみを分かちあうことも、ときにはできる。泣きたいときは泣いてもいい。それだけでも、人は随分救われる。
そういう相手にめぐりあえたことだけでも、ふたりは幸せの尻尾くらいは、つかめたのかもしれないと思う。


初日レビュー

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山梨県にて。

母の物干しロープ

2019年12月08日 | play

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アメリカ・ミルウォーキーで写真屋を営むアラム(眞島秀和)は、仲介業者を通じて故郷アルメニアから呼び寄せた孤児のセタ(岸井ゆきの)を妻に迎える。だが亡母の形見の抱き人形を手放そうともしないわずか15歳の少女と、早く子どもをもうけて失った“家族”を取り戻すことに執着する夫との溝はいっこうに埋まらない。
あるときセタが近所で出会った孤児のヴィンセント(升水柚希)を家に入れたことから、アラムが記憶から消し去ろうとしていた過去が暴かれ・・・。
2001年にモリエール賞を受賞した戯曲の日本再演。紀伊國屋ホールでの鑑賞。

そもそも赤の他人が家族になることがいくら何千年も引き継がれてきた当たり前の習慣だとしても、それが誰にとっても決して簡単ではなく、あらゆる努力や妥協や苦悩をともなう現実は、いつのどの時代のどこの国でも変わらない。
ところが結婚といえばすなわちおめでたいこと、一生を添い遂げようと決心することができる相手がいることは幸運だという認識も、同じように、いつのどの時代のどこの国でも変わらない。
それは、家庭を築き命を引き継いでいくという宿命を背負う人が生き物として、刷込みとして本能的に備えていなくてはならない感覚なのだろう。まるで、ひよこが初めて見た動くものを親と思いこむみたいに。

物語の最初から、アラムとセタが結婚に求めているものは180°異なっている。
アラムにとってそれは、信仰に篤く厳格だった両親のような夫婦像をそのままなぞることが至上命題だった。セタにとっては、ひとりの身寄りもなく身の安全も保障されないアルメニアから逃れるための手段だった。そして彼らは互いに天涯孤独だった。
どこまでいってもただふたりきりの彼らには、妻がいうことを聞いてくれない、なかなか子どもができない、夫と心が通わない、そんなありふれた悩みを気楽に打ち明けられるような存在すらいっさいもたなかった。

セタは何度もなんども、夫に向かって「感謝している」「私は運がいい」という。そのセリフには、観る者の心を真剣で繰り返し突き刺してくるような痛みがあった。
150万人ともいわれるアルメニア人が虐殺され、トルコ領内のほとんどのアルメニア人が故郷も家族も何もかもを失った。ただ殺される、砂漠に追いやられるなどといった言葉では片づけられないほどの究極の暴力の絶え間ない嵐を乗り越え、いま生きていて、トルコ軍が襲ってくる心配のないアメリカにいて、勤勉に働いている夫がいる。彼は妻への贈り物さえ欠かさない。当たり前に雨風をしのぐ家もあれば満足な食事も清潔な衣類にも事欠かない。確かにセタは運がいい。彼女をアルメニアから連れ出して妻として娶ったアラムに感謝の念を抱いて当然だろう。
それでも彼女も、夫も、ひたすら心から血を流し続けなくてはならない。どんなに忘れたくても忘れられない暴虐の記憶だけが彼らを傷つけているのではない。たとえ伴侶がすぐそばにいても、まっすぐに向かいあい、心の底からぴったりと寄り添いあえない孤独は、愛情のほかの何をもっても埋めることができないのだ。
そして、人と人とがそのようなあたたかい愛情関係に至るのはそう容易いことではない。互いに心に深い傷を負っていればこそ、なおさらそれが高い壁になってしまうこともある。

偶然だが、私の祖父母はちょうどアラムやセタと同世代にあたる。
アラムやセタの家族が殺されたアルメニア人虐殺事件が起きた時代、祖父母の故郷・朝鮮は日本の侵略をうけていた。ふたりは互いを知ることなく家族間のとりきめで結婚し、まもなく生活の糧を得るために玄界灘を渡り日本にやってきた。何世代も受け継いできた一族の資産は、土地も家も家具調度や蔵書、装身具や什器ですら、そのころには何ひとつ残されてはいなかった。日本の侵略がなければ祖父母が故郷を捨てることはなかっただろうし、私はいまここには生きていない。ほかに選択肢はなかったのだ。
人が移民として故郷を離れ国境を渡るのに、それ以外の理由はない。他に選択肢がない。その結果を幸運といってしまうのはやさしい。だがそんな運命への“評価”が、どんなにつらくても苦しくても逃げることのできない呪縛になってしまうこともあるとしたらどうだろう。

アラムは厳格だった祖父によく似ていて(祖父もとても背の高い人だった。写真が好きだった)、小柄で料理上手なセタは働き者で誰よりも善良で高潔だった祖母(身長130センチの身体で10人の子どもを生み育てた)を思い出させた。
舞台を観ていて、猛烈に彼らに会いたくなった。涙が止まらなかった。
悲しくなったわけではない。
もう二度と会えない彼らを、力いっぱい抱きしめてあげたくなったのだ。
そして、それほどの苦難を乗り越えて生き抜いた彼らへの深い深い感謝と敬意が、改めて心の底から溢れてきた。
そう思わせてくれた祖父母をもつ私自身は間違いなく恵まれているし、今日、この舞台を観ることができた幸運にも、やはり感謝したいと思う。

アラムを演じた眞島秀和は、旧態然とした家父長制時代の男性像こそが真の男らしさと信じて疑わないキリスト教徒役にぴったりで、どこかで演出の栗山民也が彼がいたから再演を決めたと語っていたように、眞島秀和をおいて他にこのキャラクターを演じられる役者はいまの日本にはまずいない、と全力で断言できるほどのはまり役。ただ頑ななだけでなく、自ら御しかねるほどの悲しみを抱きしめて硬い殻に閉じこもった少年のような痛々しさも、同時によく伝わってくる。
妻セタを演じる岸井ゆきのの説得力も凄かった。離れたかった孤児院、幸せだった家族の思い出、一家に起きた不幸としか呼べない出来事に対しても常にまっすぐに素直であるからこそ、そうはなれない夫を理解できず苦しむ健気さを秘めた心の強さが、劇場の空気全体をびりびりと震わせているように感じた。

出演陣は「普遍的な家族の物語」だと説明しているけど、そうした説明から連想しやすい安直な甘さはまったくない。
だが葛藤を乗り越えた先にしか見いだせない光もある。
その旅路の伴侶の手を握りしめて、相手のほのかな体温を宝物にできることの僥倖を、とにかく丁寧に描いた戯曲でした。名作、傑作だと思います。


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日本語版シナリオ掲載誌。

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所の風景(訪問記)。手前の線路はユダヤ人を詰め込んだ貨車を収容所の敷地に入れるための引込み線。等間隔に並んでいる杭は高圧電流を流す鉄条網の柵。


1989年を遠く離れて

2019年03月03日 | play
『チャイメリカ』

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1989年6月4日、「彼」は両手に買い物袋を提げて、天安門広場で一列に並んだ戦車の前にひとり立っていた。
その姿を、世界中の人が見た。そして彼は天安門事件のアイコンになった。
にもかかわらず、「彼=戦車男」が誰なのか、どうしてそこに立っていたのか、その後どうなったのか、誰も知らない。
ホテルの窓から「彼」を捉えた新聞社カメラマン・ジョー(田中圭)は23年後の「彼」を再び捉えようとする。
世田谷パブリックシアターでの鑑賞。

ジョーは事件当時19歳。「戦車男」に会おうと一念発起したときには40代になっている。
世界中の人が見た写真を撮った彼だが、自分自身のキャリアには━意識的にせよ無意識的にせよ━納得していない。もう一度、みんながあっと驚く一瞬を捉えて、新聞の一面を飾りたい。
でも時代はもう変わっている。米中関係も変わればメディアのコンプライアンスも変わってしまった。自由や民主主義なんという美辞麗句がいったい何を欺き何を犠牲にしているのか、世の多くの人は知ってしまった。
時代の変化にうまく順応することができなかった新聞社カメラマンが、遅まきながら自分と現実とのギャップに気づくまでがこの物語の一方の側面である。
もう一面は、1989年のその日からただ立ち止まったままの「当事者」のひとりの独白とでも言えばいいだろうか。

先日、某所でこの「戦車男」の画像があるものの喩えに引用されたのに、その場にいたほとんどの人がこの写真が何なのか理解できなかった、ということがあった。一度もこの画像を目にしたことがないと、彼らは答えた。
ロンドン演劇界でも最も権威ある賞といわれるローレンス・オリヴィエ賞を受賞した(2014)『チャイメリカ』を書いたルーシー・カークウッドは1984年生まれ。つまりこの作品の題材となる天安門事件のときはわずか5歳、戯曲を発表したときでさえ弱冠29歳だった。この画像を知らないと答えた日本人の大半が彼女と同世代前後であることを思うと、いかにこの作品が先鋭的であるか/逆にいえば日本のオーディエンスと歴史を動かした大事件との距離感を痛感せざるをえない。
ちなみに画像を引用したのはアジア系欧米人である。

ジョーの友人ヂァン・リン(満島真之介)がジョーに「戦車男?ひとりの話にしちゃうのか?」というセリフがある。
確かに、あのとき、あの場所には10万人の人がいた。ろくな武器も持たず、丸腰でただ広場にすわって政府に民主化を求めていた。
それなのに世界が注目したのは、たったひとりの「戦車男」だった。
天安門事件で検索すれば、いまも様々な画像がヒットする。多くは圧倒的な大群衆や彼らと対峙する人民解放軍や目を疑うほど残虐な殺され方をした犠牲者たちの画像だが、中でもやはり目を引くのはいろいろな角度から撮影された「戦車男」である。
当事者がどう考えたとしても、それほどあの画像のインパクトはストレートに人の心をうったのだ。その先に、戦車男の周りに、前に後にどんな人々がいて何を願ってあの場所に集まったのか、それを中国政府がどんな暴力でねじ伏せたのかという事実の入り口として、「戦車男」は最も機能的にその役割を果たしたのだろう。

だがその写真を撮った本人も、撮られた方も、その瞬間のあまりの巨大さに、そこから動くことができなくなってしまった。
ジョーにとっては己れの作品の影響力という栄光の巨大さであり、ヂァン・リンにとっては最愛の人を喪い後を追うこともできなかった痛みの巨大さである。
ジョーは新聞社を解雇されたことで自分の「静止」の無意味さを意識するが、1万人ともいわれる天安門事件の犠牲を払った後も経済発展の陰であらゆる人の人権を蹂躙する中国政府の不条理を許すことができないヂァン・リンはこの先どうなるのだろうか。
彼を心配してなにくれと世話をやく兄ヂァン・ウェイ(眞島秀和)でなくても、彼の将来を思うと不安で胸が苦しくなる。
事件当時高校生だった私がちょうどヂァン・リンと同世代にあたるからかもしれない。若くて無鉄砲で、自らの力でなんでも成し遂げられると信じて疑わなかったあのころのことは昨日のことのようにはっきり覚えているのに、そんなことはすべて幻想だったということを嫌というほど味わわされた。その傷の重みと痛みの方が、ずっとずっと大きくなってしまった。どこが傷だったのかもうわからないくらい、長い時間が経ったというのに。

3時間という長い戯曲だが38場と場面転換がめまぐるしく、音楽や縦長と横長の背景を組みあわせ回舞台を駆使した美術転換のテクニックがポップでアーティスティックで、いかにも若い劇作家の作品らしい舞台でした。でも3時間は長かった。
観客が疲れるぐらいだから演じるほうは相当疲れただろうと思う。とくにヂァン・リンを演じた満島真之介氏は肉体的にも精神的にもかなり消耗したんではないだろうか。お疲れ様でした。
個人的には舞台ではなく映像で観たい作品ですね。イギリス人作家らしくギッチギチに皮肉が効いてるから(アメリカ人の盲目的な身勝手さに対してとにかくむちゃくちゃ辛辣)、これを翻訳劇ではなく字幕付きの映像で観たらもうちょっとするっと入り込める気がします。

上演が決まってとても観たかったけど、もともとこの時期が多忙なため端から観劇を諦めていたにも関わらず、ふとした巡りあわせで観ることができた。感謝。


関連レビュー:
『藍宇 情熱の嵐』
『天安門、恋人たち』


一昨年、宮城県の田代島の海岸で拾ったアスファルトの欠片。波にもまれて角が丸く磨耗している。
震災から8年間に“現場”から唯一持ち帰った記念品。

エリートがエリートであるために

2018年06月24日 | play
『ザ・空気 ver.2 誰も書いてはならぬ』

政権を揺るがす“文書”発覚に伴う首相会見のその日、官邸記者クラブの共用コピー機から、会見での想定問答リストの原稿が見つかる。
メディアと政権との明らかな癒着を示すQ&Aをスクープにするべきと主張するネットメディアのまひる(安田成美)、隠蔽したい公共放送解説委員の秋月(馬渕英里何)、そもそもこんなものを誰が書いたのか、他の加盟各社の意向を知りたいリベラル系全国紙官邸キャップの及川(眞島秀和)、自分で原本を発見したもののどうすればいいのかわからない保守系全国紙首相番記者の小林(柳下大)、記者クラブのスキャンダルが首相との私的関係にどう影響するかに拘泥する保守系全国紙コラムニストの飯塚(松尾貴史)、それぞれの思惑が絡みあう社会派コメディ。

仕事柄、しばしば前を通りかかる国会記者会館。
中に入ったことはないです。通るだけ。出入りしてる国会メディアの皆様方にもままお目にかかることはありますが、正直、いままで共感のようなものは一度も感じたことがない。残念ながら。
彼らも仕事、一会社員にすぎないことはわかるし、であるからには妥協もやむを得ない局面もあるだろうけど、それでも、ジャーナリストとしてもっと毅然としていてほしいという感情はどうしようもない。記者クラブに所属する及川は、記者クラブのために施設や運営費用を国が負担していることを「国民の知る権利をまもるため」というが、であるならば、その“知る権利”を妨害するような行為をこそ記者クラブは厳に慎むべきではないかと思う。
日本独特のこの記者クラブ制度が、これまで“知る権利”どころかあらゆる人権をどれだけ蹂躙してきたか、改めてここで繰り返すまでもない。
メディアのすべてが間違っているとはいわない。ひとりひとりは真摯にそれぞれの使命に向きあっておられるのだろう。だからこそ、彼らが最も大事にしなくてはならないものを、決して見誤ってほしくないと、せつに思う。

演劇は好きだけど、実際に観にくるのはすっごいひさしぶり。超おもしろかったです。
よくよく振り返ってみれば、いままで観たことあって記憶に残ってる演劇の大半が社会問題に関わる題材を扱ってたことに初めて気づきました。たとえば『人形の家』は女性の自立、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』はナショナリズム、『繭』は天皇制、『舞台|阪神淡路大震災』はそのものすばり阪神淡路大震災。
でも私が観るものに限らず、古今東西の戯曲は普遍的に社会問題を扱った作品が多いのではないだろうか。オイディプスは迷信が国を滅ぼす物語だし(野村萬斎凄まじかった)、ロミジュリだってラブストーリーだけど家や身分制度が引き起こす悲劇を描いている。舞台って発信者とオーディエンスの間にメディアが介在しないから、ほかのエンターテインメントよりセンシティブな題材がとりあげやすいんだろうね。オーディエンスがそこから何を受けとめるか、発信者側がその場でそのまま責任をとれる。コントロールもしやすい。
映画や音楽よりも古くから、伝統的に社会を風刺してきた演劇だからこそできる表現でもあるんだろうけど、そう考えれば、政権の誰もが法律ぶっちぎりの無茶苦茶を年中繰り返し倒すこの無法地帯時代、こういうお芝居をもっとやりたい放題にやっちゃってもいいのでは、という気もします。
それくらいおもしろかった。

登場人物5人の設定のバランスも絶妙だし、セリフに登場する大小さまざまなエピソードが全部「ああ、あのことをいってるな」という背景がわかりやすいのも楽しかったんだけど、やっぱ全部もってっちゃったのは松尾貴史の首相のモノマネ。似すぎでしょ。しかも客席がやたらウケるもんだから調子のっちゃってどんどんやる。ずるいよねえ。けどおもしろい。こんなにおもしろいんだから、もっとみんなやればいい。なんでやんないんだろう。もったいないよ。それくらい笑えた。
5人の中でいちばん共感したのは及川さんかな。スクープが続いて市民の支持もあつい大手メディアのエリート幹部記者。政権批判はしたい。でも記者クラブはまもりたい。敵はなるべくつくりたくない。正義感はあるのに、立場も大事。仕事は好きなのに、そのためにプライベートを犠牲にしなきゃいけないストレスが苦しい。わかりすぎてちょっとイタいぐらいわかります。がんばれ及川くん(年齢設定的にも近いし)。演じてた眞島秀和はテレビやら映画でしょっちゅう見かける人だけど、舞台でみると意外なくらい大柄で声もよくて、動きが派手で舞台映えする。経歴を見るとあまり出てないけど、もっと舞台をやってもいいのではという気もしました。
おそらく書き手が観客側の視点を代弁するキャラクターとして設定したのはまひるだと思うんだけど、それにしては登場シーンが多くなくさして活躍もしなかったのはなぜなんだろう。そこも含めて、上演時間1時間45分がちょっと物足りない印象はありました。

この舞台、これから7月半ばまでの東京公演を経て、三重、愛知、長野、岩手、山形、山口、福岡、兵庫、愛知(また)、滋賀と9月上旬まで全国各地での上演が決まっている。東京公演では25歳以下3,000円、高校生以下は1,000円という割引価格も設定されている。
ひとりでも多くの、とくに若い人に観てほしい。あとメディア関係者ね。どんだけ己らがみっともないか、ちょっと客観的に観てみたほうがいいかもよ。
できることなら、この上演が終わるころまでに、この物語の背景となる現状がすこしでもいい方向に変わっていることを願う。いや願ってるだけじゃダメなんだけど。ホント致命的絶望的状況だからさ。


サブタイトルはこの曲のオマージュだよね。たぶん。歌詞と内容がリンクしてるんだとすればちょっと怖い。