落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

宇宙戦争

2005年06月30日 | movie
『宇宙戦争』
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000FBHTO4&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

ごわ゛がっ゛だよ゛〜。ひ〜〜(号泣)。
あのねー。怖かった。とにかく。もーぐりびびりまくりです。はぁー。上映中ずうっとハンドタオルを両手に握りしめて勝手にきゃーきゃー叫んでしまう口元を押えてたんだけど、気づいたら両足の指も力いっぱいグーしてたよ。全身緊張しまくってたので、終わった時ドッと疲れが。
けど後ろの席の外国人はぐりがぴーぴー泣いちゃうとこでもゲラゲラ笑ってたなぁ。なんで。

ぐりはハリウッドSF大作って普段あんまり観ないんだけど(コレもほぼおつきあいで鑑賞)、アメリカ人ってホントこういうパニック映画好きだよねえ。そしてうまい。
スピルバーグはインタビューで「911以来変わってしまったアメリカ人の精神世界を描きたかった」みたいなことを云ってて、なるほどあの当時報道された現場の映像をそのまま再現したような演出も印象的に出てくるんだけど、もともとアメリカ人の本来の出自そのものが「未知の敵との戦い」から出発してるからね。医療技術も情報伝達機能もほとんど役に立たなかった時代に、見たこともなくよく知りもしない土地にろくな財産も持たずに引越して来て、宗教と家族だけを支えに、とりあえず何がどうでも自分たちが生残るためには手段を選ばないことを正義として生きて来たひとたち。だからこういう「何が何だか分からない恐怖と戦うお話」が古典として繰り返し語り継がれ、支持され続けるのだろう。

この映画だってストーリーらしいストーリーはほとんどない。トム・クルーズが今は離れて暮らすふたりの実子を元妻から預かり、宇宙人襲来の大パニックの中、必死で彼らを元妻の実家まで送り届ける。それだけ。シンプルだ。オーソドックスだ。
これだけストレートな話でありながらここまでしっかり観客を怖がらせるスピルバーグ、上手いですね。さすがー。今回極力CGに頼らず(もちろん使ってはいるけど)、なるべく実写─模型とかロボットとか、いわゆる昔からある特撮技術─での表現にこだわったそーですが、見せ方が巧みです。ハリウッド映画にしては珍しく“説明”が少ない。説明がなくてなかなか辻褄があわないのが余計怖い。見せないで怖がらせるなどと云うこれまたクラシカルな演出もうまく使ってます。クローズアップや手持ちカメラの臨場感あるカメラワークと、分量を最低限に抑えたスペクタクルシーンのバランスが絶妙。
それと音。音ってやっぱりスゴイなーと思いました。たとえば劇中に何度も出て来るある「効果音」なんか実は昔から我々がよく知ってる馴染み深い音そっくりなんだけど、使い方によってこんな効果が出るんだなぁー、と妙に感心しちゃう。こういうとこもヘンにひねったりしないで、あえて正直にストレートな表現を使おうとしてるんじゃないかなと思う。

でもぐりが一番怖かったのは宇宙人でも巨大ロボでもない。パニックにさらされ凶暴化したした群集でした。人間が一番怖かった。マジ泣きました。怖くて。
ヘタレですいません。
しかしこの映画、トム・クルーズが出る必要は全然ナイね(笑)。あの主役はダレでも出来るよ。ダコタ・ファニングのスクリーミング女優っぷりは天晴れだけど。
っつーかこーゆー内容があってないよーな映画をわざわざスピルバーグ&トム・クルーズでつくっちゃう、しかもご大層に“世界同時公開”ってとこがアメリカなんかなぁ。

この映画の原作ハーバート・ジョージ・ウェルズの『宇宙戦争』は1953年にも映画化されてるけど、その前、1938年のハロウィンにオーソン・ウェルズが全米をパニックに陥れたラジオドラマ『火星人襲来』の原作でもあります。53年版にも根強いファンはたくさんいるし、件のラジオドラマは既に伝説と化して久しい。要するにSFパニックの古典中の古典なんだよね。
今回の映画の雰囲気がどっかちょっとクラシカルなのはそのせいかも。

ダニエル・レオン

2005年06月27日 | movie
『ワンナイト イン モンコック』
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B0009V28A0&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

原題『旺角黒夜』。2004年の作品なので最近の香港映画、それも成龍(ジャッキー・チェン)とか周星馳 (チャウ・シンチー)の大作アクション、あるいは王家衛(ウォン・カーウァイ)と云ったビッグネーム─あくまで日本市場における─が関わらない映画としては比較的早い日本上陸ではないでしょーか。
それもその筈、これは今年の金像奨を始め各映画賞で監督賞・脚本賞を総ナメにした、新しいタイプの“香港ノワール”の傑作なのだ。
いや、観て良かった。観ないとソンです。面白かったよー。そして痛かった。悲しかった。

タイトルの旺角=モンコックとは香港でも有数の繁華街。黒夜→ワンナイトとはある年のクリスマスイブ。
その2日前、この街でチンピラの些細な小競り合いからヤクザの抗争事件が勃発する。一方は敵のボスを暗殺するために大陸から殺し屋(呉彦祖ダニエル・ウー)を呼び寄せる。殺し屋には祖母を訪ねて香港に出たまま音信不通になっている恋人がいた。彼は偶然助けたコールガール(張柏芝セシリア・チョン)の道案内で恋人探しに奔走するが、殺しのクライアント(林雪ラム・シュ)が逮捕され、マル暴刑事(方中信アレックス・フォン=実は『ダブルタップ』の役柄と同一人物。設定もつながっている)は暴力組織の一斉検挙と殺し屋の確保に一大捜査網を展開する。
コールガールの滞在期限はイブの日の正午。それまでに殺し屋は恋人に会えるのか、ターゲットを仕留めることは出来るのか。コールガールは無事故郷に帰れるのか、刑事は事件を解決することが出来るのか。

この映画のこれまでの香港ノワール、黒社会映画と決定的に違うところは、暴力を絶対に肯定しないところです。暴力シーンは多いです。でもそれによって正義や名誉が回復したりはしない。傷つき損なわれるのは常に弱者で、結果はどこまでも虚しい。
さらに因果は応報する。殴った者は殴り返され、殺した者は殺される。裏切り者は裏切りによって自滅するし、自己を過信する者はその過信の前に斃れる。チンピラもヤクザも警察も皆その運命から逃れることは出来ない。それは冒頭の喧嘩のシーンで既に暗示されています。
そこがぐりはとても気に入った。ビミョーに説明的な台詞が鼻につくこともあるけど、それを差引いても、良い映画だと思う。

ダニエルの役柄はかつて『レオン』でジャン・レノが演じた殺し屋によく似てます。てゆーかこの映画そのものが香港版『レオン』と云えるかもしれない。設定やテーマには共通するものがいくつもあります。主人公はレノのようにヒロイックじゃないし、ストーリーも単純な勧善懲悪ではない。ヒロインは立派な大人の女で、しかもふたりにはたまたま出会った同郷人と云う以上の明瞭な感情は生まれないけど、それだけにあの映画よりも重く説得力がある。さらに緩急の利いたストーリー展開とリズムで観客をぐいぐいと引張っていく。考えさせられる。かつ泣かせる(えー、実はボロ泣きしました)。リアリティと説得力とは別ものなんだな、と強く感じさせる映画です。
大都会の強大なうねりの前に哀れなほど非力な人間たち。その渦の中で、誰の意志が働いている訳でもないのに、まるでゴミ同然に踏みにじられ、無意味に消費されていく人間の命、尊厳。
ダニエルはセシリアに「希望を捨てるな」と説くけれど、この映画に出てくる人物は皆がどこか都会の運命に絶望している。誰も街の未来に何の期待もしていないし、だからこそ誰が何をやっても物事が悪い方に転がっていってしまうように見える。そんな中で友を信じ仲間を思いやる、下町独特の人情がしみるようにあたたかい。

この役にダニエルを抜擢した方も偉いと思う。だって全然違和感ないもん。彼が従来持ってるイメージとこれだけ極端にかけ離れたキャラクターもないくらいなのに。実際ぐりは作品を観るまでこの役を彼がどう演じているのか、さっぱり想像がつかなかった。
それがねー、もうもう不思議なくらいぴたっ!!とハマッってました。ほんとスゴイです。見るからにおとなしそうで不器用で、愚直なくらい一途で、お金の価値もろくに分からず、生の野菜サラダさえ食べたこともない、無知で無学で、悲壮感をいっぱいに背負った大陸人。殺し屋と云ってもこれまでに殺人を犯した経験もない、香港では道案内なしでどこへ行くことも出来ない、不馴れなコンタクトレンズに不安そうに眉をひそめ、迷子の子どものようにトボトボと歩く、うら寂しげな異邦人。黙って画面に映ってるだけで可哀想。たまりません。
こういう役は少し前なら梁朝偉(トニー・レオン)あたりにオファーされていただろう。それが30代になったダニエルにまわって来たことに、彼の役者としての成長と香港映画界の微かな世代交代が表れているのかもしれない。
ぐりは彼のデビュー作『美少年の恋』をちょっと思い出しましたね。台詞が北京語ってのもあるし、心優しくはあるけど野生の動物のような狂暴性と残虐さをも秘めた、刹那的な二面性を持った若者像が、自分の性衝動と恋人と家族愛の間で揺れる悲劇の青年像と、どこか重なるような気がしました。
ただこの作品ではあのまぶしいような笑顔は見る影もないけど。

今にも泣き出しそうな顔で、行方不明の恋人が娼婦などと云う汚れ仕事に堕ちていることを頑なに否定するダニエルを、恩人だから最後にサービスよと云って無邪気にセックスに誘うセシリア。滞在期限が近づき、故郷に待つ家族への土産選びにはしゃぐ彼女と、クリスマスだと云うのに恋人は行方知れずで、よりにもよって人殺しのために華やいだ街を彷徨う彼との対比がまた悲しいけど、無駄に陰惨に染まり過ぎないのはふたりのスター性に因るところもあるのではないかと思う。
乱暴な云い方をすれば、ダニエルもセシリアも決して大陸人には見えないし見たてようがない。しかしあえて大陸人でない代りに香港人でもない彼ら(ダニエルは中国系アメリカ人、セシリアはイギリス系クォーターでオーストラリア育ち)がもともと持っていた香港との距離感が、はかなくよるべない主人公たちのフィクションらしいキャラクター描写に絶妙な効果を与えている。そこがリアリティ≠説得力たるこの作品の特徴でもある。
例えば、同じ話を劉燁(リウ・イエ)や袁泉(ユエン・チュエン)みたいな本物の大陸人俳優でやったりしたら、痛過ぎて直視出来なくなってしまうか、説教じみた文芸映画へと作品全体が完全にシフトしてしまう可能性もある。文芸映画もいいかもしれないが、こういう話は娯楽映画であってこそ的確に観客に伝わるものもあるのではないか。
この主人公ふたりが安易に恋に堕ちたりしないとこもぐりは好きだ。ふつー、ハリウッドとか日本とか(ヨーロッパでもいい)他の国の映画だったら、少なくとも軽くキスシーンくらいは入りそうなシチュエーションでも手さえ握らない。そーゆーとこが妙に香港ハードボイルドらしいと云うか、「中国人らしい」と云うか。一見境遇は似ているようでいて、香港を去ろうとする女と香港に来たばかりの男と云う立ち位置の違いを、一定以上の距離を踏み越えないふたりのストイックな関係によって表しているともいえる。

とにかく良い作品です。日本でもヒットして欲しい。
なのに日本版公式HPもないってどーゆーことよ?公開2日め日曜の1回めなのにガラガラ。もっとちゃんと宣伝しろーー。<配給

仏的豆氏

2005年06月18日 | movie
『オーギュスタン恋々風塵』
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000B63G4U&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

ホントは今日『オペレッタ狸御殿』を観るつもりだったんだけど、昨日終わってしまったので予定変更。イヤ、前から観ようとは思ってたけど、絶対公開初日に観たる!とまでは思ってなかった(笑)。

ぐりはこの前作『おとぼけオーギュスタン』を観てないんだけど、コレ「フランス版ミスタービーン」とか云われてるみたいですね。フランスのギャグってちょっと微妙なんだけど、実はぐりはミスタービーンでも全然笑わない人なので、この映画も「フランスでの上映ならたぶんここで大爆笑なんだろーな」なとこでも別に可笑しくない。それよりはちょっと違うとこがおかしかった。
主人公のオーギュスタン(ジャン=クレティアン・シベルタン=ブラン←長!)はエキストラもろくにつとまらないような役者の卵で、しかもオーディションを断ってまで映画館に通いつめるほどのカンフー映画ファン。夢はいつかカンフー映画に出ること。ある日一念発起してそれまでの生活を捨ててチャイナタウンに引越し、カンフー道場に入門して本格的に修行を始めるんだけど・・・観てるとね、身につまされるんですよ。かなり。オーギュスタンのズレたマニアぶり、熱いオタクっぷりが、中華電影にハマる我が身にふと重なってしまう。彼が滑稽なほど純粋に憧れを追いかければ追いかけるほど、「世間の人から見たらぐりもこーゆー風に見えてんのかも・・・」と思えてきて、知らず知らず自分で自分に失笑してしまう。
まぁぐりはカンフーものはほとんど観ないので、自分の部屋で跳んだり跳ねたり奇声を発したりはしませんけどもね(当り前)。そういう問題じゃない。

ヒロイン張曼玉(マギー・チャン)はカンフー=格闘技をやってるのに他者との肉体的な接触が苦手な主人公が治療に訪れる鍼医。理知的で魅力的ではあっても、中国からフランスに来て間もなく親しい友人もいない、儚げで寂しそうな異邦人役がとても似合ってました。相変わらず少女のように華奢で可憐で、そして美しい。この作品は6年前の映画だから、『花様年華』の前、まだオリヴィエ・アサイヤス氏と結婚したばかりの頃の作品ですねー。
なんで今ごろ日本公開されたんでしょね。ナゾ。

ただ幻を夢見るかのように中国に憧れていた主人公だけど、いつの間にか着実にその憧れの世界に近づいていく姿は、単純にひとりの人間の成長物語として素敵でした。
最後には彼は当初思い描いたのとは全く別の形で夢を叶える(?)んだけど、その幸せそうなホニャララした笑顔を見てると、オタク心にもある意味で人生を豊かにする力はあるのかも、と思えてくる。
ひとに何と云われようとひたすら好きな道を突き進む、そのこと自体は決して悪いことではない。傍から見ればおかしいことかもしれないけど、「自分はこれが好きなのだ」とはっきり云える、自分でしっかり「好きだ」と感じる何かを持っていると云うことはそれだけでもハッピーなことだ。
たかがしょうもないコメディ映画だけど、観た後ほのぼのとあったかな気持ちになれる、いい映画です。中華電影ファンの皆さんに特にオススメです(笑)。

王子の過去

2005年06月08日 | movie
『ブリジット・ジョーンズの日記 きれそうなわたしの12か月』
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000QUCOY4&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

シンガポール行きの飛行機の中で偶然観ました。
ぐりはこの前作を観てないし原作も読んでないからなんとも云えないけど、この2作目はどーなの?おもろいの?イヤ笑えるけどね。個人的には・・・うーん。古典的なシンデレラストーリーみたいにしか見えなかった。だってマーク(コリン・ファース)みたいな都合のいい白馬の王子さまなんか現実におるワケないやんけー。ダニエル(ヒュー・グラント)はすっごい「こういう男いるよなぁ」って感じで面白いけど。
「きれそうなわたしの12か月」ってサブタイは完全に蛇足だと思う。いつどのあたりがきれそうなのかが全く分からず。どー見ても平和でお気楽なラブコメ以外の何ものでもないと思うんですがー。
平和でお気楽なラブコメがいけないと云うんではないよ。うん。エンターテインメントとしてはこういう映画があっても構わないと思う。けど何かが引っかかる。あまりにもお話が都合よく転がり過ぎていくからなのか、ヒロイン(レネー・ゼルウィガー)がやたらにモテ過ぎるのが納得いかないのか、そのへんは自分でも何だかよく分かんないんだけど。

ただまぁブリジットのキャラはとってもチャーミングだよね。可愛いよ。ダニエルが云う通り、「飽きない女」だと思う。世間には「いい年をして」と云う言葉があるけど、本当は男も女もみんな「いい年」になろーがなんだろーが大人になんかなりたくない。いつまでも夢見る乙女・幻を追い求める少年でいたい。運命のパートナーとの出会い、永遠の愛を信じ続けていたい。
けど現実にはそれは許されない。だからこそみんなブリジットに夢を託したいんだろうなぁ。

マーク役のコリン・ファースと云えば世の中的には『アナザー・カントリー』だけど、ぐりの中ではその4年後に出演した『アパートメント・ゼロ』の印象が強いです。コレはブエノスアイレスを舞台にしたサイコ・サスペンスで、コリンは人嫌いで神経質でマザコンで、おまけに潜在的なゲイ(自覚なし)と云う奇天烈な主役を一生懸命演じてました。
ぐりはこの映画を学生時代に偶然深夜のTVで観て文字通り釘づけになってしまったんだけど、あれから17年、さすがにコリンもオトナの男になりましたねー。

『天邊一朶雲』

2005年06月07日 | movie
『天邊一朶雲』
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000KLR4PS&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

面白かったー。いやーサイコーっすよ。アホで。バカで。エロで。しかも力一杯。エロもギャグもいっぱいこっぱいです。
舞台は夏の台北、水不足で断水中のマンションに住む女(陳湘[王其]チェン・シアンチー)と、同じマンションで撮影中のエロビデオに出演する男優(李康生リー・カンション)が主人公。何でもかんでも拾うクセ(スイカとかペットボトルとか男(笑)とか)のある孤独な女と、毎日毎日職業的なセックスに明け暮れる男がふとした偶然からめぐりあい、恋に堕ち、じわじわと近づいていく。

今回小康は出演だけじゃなくて蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)と共同演出ってことになってます。
いつも蔡作品で「よくもまあそんなことまで」と呆れるほどの大胆演技をぶちかましまくっている小康、今回もスゴイです。もうね、言葉を失いますよ。やりきってますね。偉いよね。それとも本当にバカなのか(そんなワケない)。今回もまた台詞はなし。まっぱのシーンが多くて、そのせいかきっちりつくりこんだ肉体美を存分にさらしておられますです。昔は細くて少年っぽい体型だったけど、ちょっとイメチェン。アゴヒゲなんかも生やしたりしてね。相変わらずベビーフェイスでとても30代にゃ見えないけど。
陳湘[王其]もスゴイ。蔡明亮は孤独な人間の行動の滑稽さを描かせたらそれこそ右に出るものはいないけど、その演出を決して下品ではなく、キュートにセクシーに、ほどよく知的に見せる気品と演技力は毎度天晴れです。
この『天邊一朶雲』は98年の『Hole』と同じくところどころで唐突にミュージカルシーンが挿入されるんだけど、この歌と踊りと衣裳も最高(笑)。サイケでキッチュでそしてノスタルジック。私ゃこういうのホント大好きです。小柄な割りに筋肉質な小康の女装はもひとつ寒かったけど(笑)。一瞬子ども?赤ちゃん?に変装してんのかと思ったよ。

蔡さんはいつも「一生懸命何かやってる人の姿っておかしいじゃない?」というところにこだわった演出をするけど、今回はそのおかしさそのものがテーマ。何しろ断水中のマンションでエロビデオ撮るんだよ。そんな無茶なー。ありえなーい。でもやってる本人たちは超真剣。おかしいです。小康の相手役のひとりは日本の本物のAV女優さんで、この人のプロフェッショナルな(笑)アヘ声がまたおもろい。もー。思い出すだけで笑いがこみ上げてきてしまうよ。
あとねーおそろしーことに陸筏琳 (ルー・シアオリン) までAV女優役で出て来たよ。この人いつもは小康のおかーさんの役やってる人ですよ。たぶん50は完全に過ぎてるね。おかーさんもまっぱでアヘアへ叫ぶ。さらにボンデージルックで歌い踊る。わははははは。

しかしこの映画は日本で一般公開されるかなー?されるとしても絶対日本のスクリーンには映せないシーンとかあるんですけど。どーするんやろ。それが気になるよ(笑)。
空いてると聞いてたけど、映画が安い日だったからか割りとお客さん入ってました。しかも若い子ばっかり、カップルが多い。そしてみんなすごく静かに真面目に観ていた。ココは爆笑しても良いのでは?ってとこでもくすくす程度。反応がヴィヴィッドだと云う香港の観客と一緒にバカ笑いしたかったんだけどなぁ。
台詞が極端に少なくて1カットがすごく長い、独特の作風のアートムービーでもあるんだけど、途中で退席する人もいなかった。ぐり個人が大好きな作家の作品を、香港の若者も気に入ってくれたんなら嬉しいけどなー。