落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

カエルの歌が聞こえてくるよ

2016年12月26日 | movie
『箱入り息子の恋』

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天雫健太郎(星野源)は35歳の市役所職員。無遅刻無欠勤で13年勤めて一度も昇進したことがない。酒もタバコものまず上司や同僚とのつきあいもなく、余暇は部屋に閉じこもってペットのカエルと遊ぶか格闘ゲームに明け暮れる息子の将来を危惧した両親(平泉成・森山良子)は親同士の代理見合いで結婚相手を探そうと考え、その席で出会った今井夫妻(大杉蓮・黒木瞳)の娘・奈穂子(夏帆)の美貌を見初めるのだが・・・。
ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』で注目を集めた星野源の映画初主演作品。

タイトル上はまるで息子が主人公みたいだけど、そうじゃないですねこれ。
実際には、ちょっと変わった息子をとりまく家族や社会の不条理をほのぼのと描いた社会派ホームコメディです。
息子は確かにかなり変わってます。35歳で童貞ってところはいまやもう現実としてそう変わってるとはいえないだろう。だって独身男女の6〜7割に交際相手がいない・4割以上に性交渉の経験がない世の中です(2016年 国立社会保障・人口問題研究所調べ)。ただそれでも大多数の人間はそれでもどうにかこうにか人と関わり、あるいは関わりたいと願い、その願いゆえに傷ついたりつまずいたりしつつも生きているわけで、健太郎のように家族以外の人との交流をほぼ完全に遮断した人生に完結できる人間はそうはいない。

健太郎のほんとうに変わっているところは、自分ではそう完結しているつもりでいながら、奈穂子の父・晃に何度罵倒され、暴力をふるわれようと決して折れることのない厚顔無恥なんじゃないかと思う。見合いの席で「今井さんは知りもしない相手に面と向かって笑われたことはありますか」と問うように、おそらく彼は幾度となくいわれのない嘲笑や陰口に傷ついて来たのだろう。その痛みを、おそらく彼は満足に消化しないまま35年間生きていたのではないかと思う。だから心を閉ざし人と関わることを避け、貝のように殻に閉じこもって暮す人生を選んだ。一方で健太郎はその痛みを知らない・あるいは我がこととして共感できない晃の非礼に、正面から反論する理性がある。そこが普通じゃない厚顔無恥ぶりだし、その一点だけがこの物語を前に進めていく動力になっている。

とはいえ、息子のために代わりに見合いをする天雫夫妻や今井夫妻も、いまどき変わった両親ともいえない。健太郎のプロフィールを見て“不合格”のレッテルを貼る晃にせよ、奈穂子の障害に驚きうろたえ、晃の剣幕に憤慨する寿男やフミにせよ、子どもの将来を案じる親としてはごく当たり前のキャラクターではある。
それなのに物語がどこか滑稽にみえるのは、人間誰もが我が子のこととなるとつい夢中になって周りが見えなくなって、冷静な判断がしにくくなってしまう、ごくふつうの親心がしばしば極端な行動に結びつきやすいからだろう。
ふた組の親はただ我が子の幸せだけを願っているだけなんだけど、本人たちの思惑は親の願い通りにはなかなかいかない。健太郎の性格や奈穂子の障害は、単に親子のディスコミュニケーションをひきたてるための道具でしかないのだが、その意味では非常に映画的にうまく機能している。

物語全体がものすごく淡々としていて、健太郎のキモいキャラにときどき辟易しそうになるのだが、奈穂子に接するときのあくまでも優しくあたたかく誠実な態度が爽やかなのが、さすが映画・さすがファンタジーと毎回しみじみと感じてしまいました。展開がいちいちマンガなんだよね。そんなワケあるかーな展開しかないの。
だから全体通して観ると完全にコメディなんだけど、パッケージとしてはコメディじゃないんだよね。
学齢期や年齢や職業や性的指向や障害の有る無しで人を“値踏み”することや、人の幸不幸を価値観で判断することの無意味さを訴えたかったってところはまあわかるんだけどね。



果てない波

2016年12月26日 | movie
『ハナミズキ』

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1997年、北海道・道東の漁師町で出会った高校生の康平(生田斗真)と紗枝(新垣結衣)。漁師になろうと家業を手伝う康平は、受験勉強に励む紗枝を誠実に支え、無事彼女は早稲田大学に合格。英語を学んで海外で働く夢を抱く紗枝だが、水揚げが上がらず借金がかさんだ康平の家では父(松重豊)が急死、船も手放すことになり、康平は遠距離で交際を続けて来た紗枝の近くで暮したいという思いを捨てる決意をする。
求めあいながらもすれ違う男女の10年を描いたラブストーリー。

2010年の作品ですが初見です。
きっかけは主人公・生田斗真の職業が“漁師”という設定だったから。これ、当事者である漁師の感想がものすごく気になる映画です。
というのも康平の辿る展開がめちゃくちゃしょっぱい。ここからはネタバレになるので知りたくない方はとばしていただきたいのですがもう6年前の作品なんで書いちゃいますけど、まず康平は高校進学の時点で漁師を継ぐことを決めている。父は反対するものの息子はそのまま水産高校に進学。父は息子のためにローンを組んで船を新調するも返済はままならず、結果的には船は売却、家族はバラバラになり、息子は遠洋マグロ漁船の乗組員になる。
水産業に関わる人ならたいていはどこかで一度や二度は耳にしたことがあるような話なのではないかと思う。

というのも、水産業はランニングコストが高くもともとがハイリスクハイリターンな産業ではあるものの、近年は気候変動や市場のグローバライゼーションの影響もあり、国内の水産業者にとってより厳しい状況が続いているからだ。長い間深刻な後継者不足に悩まされていても、多くの漁業者は近親者(息子・娘)に積極的に家業を継がせようと自発的にアクションはしない。自らの力ではコントロールできない自然を相手にする漁業の不安定さを知っていればこそ、子どもの幸せを思えば、他の土地で他の仕事をした方がと考えがちなのかもしれない。私の知る漁業者のほとんどは、高校・大学を出て一度べつの地域で別の仕事に従事したあと、転職や結婚などを契機に地元に戻り家業を継いでいる。いまは地元で漁師をしているが、若いころはマグロ船やタンカー、水産庁の取締船などで働いていたという人にもたくさん出会った。
広い広い海に毎日向かいあう漁業の仕事はとても厳しいが豊かで、一度その魅力を知れば虜になってしまうほど心楽しくもある。そこで生まれ育ち働き続ける康平の歩く道は、のどかな田舎町といえど決して平坦ではなくむしろ険しい。果たして彼のストーリーはフィクションとしてコンテンツとして誰の共感を得るものなのだろう。漁業の実情を知っているとはいえない私の目から見ても、あまりにも一方的に生々しく厳しすぎて、痛々しく感じてしまう。どうせなら、漁業の世界のもっと生き生きと華やかな面も描いてほしかったと思ってしまう。物語全体からみれば必要ない要素だったんだろうけど、それでも。

一青窈の楽曲「ハナミズキ」をモチーフにしているという物語だけど、実際どのあたりがモチーフなのかはよくわからず。なぜ十年愛なのかも正直よくわからない。
もととなった歌は911同時多発テロをきっかけに書かれたというけど、完成した歌詞のどのあたりにそれが反映されているのかは読みとれない。映画の中にも911はほんの一瞬の会話にしか登場しない。
地方の一次産業に従事する若者の恋愛の難しさを描こうというのであれば確かにリアリティはある。ホントに嫁不足だから。どこでも誰でも寄ると触ると結婚の話ばっかりしてるから。
逆に、新垣結衣演じる上昇志向盛んな少女の10年という意味では相当な消化不良になってしまっている。大学でイケメン自由人のフォトグラファー(向井理)に偶然めぐりあってニューヨークにまでほいほいくっついていって(?)、康平を捨てた彼女が実際にその過程でいったい何を得てどこへ行こうとしていたのか、まったくわからないまま物語が終わってしまうからだ。確かに彼女は必死に勉強してはいたのだろう。だが「英語を活かして海外で働きたい」などという曖昧な動機で就職活動に挫折するのも当たり前の話で、彼女自身の将来のビジョンがまったく観客側に伝わってこないのだ。ただフラフラと東京に行きたい、英語がやりたい、海外に行きたいと漠然と望むのは夢ですらない。どうしたいの?何がしたいの?そのうち説明してくれんでしょーね?と待っているうちにエンディングです。はあ。そんなんでいいんだろうか。

10年の物語を2時間程度で語ろうというのだからどうしてもダイジェスト的になってしまうのはしょうがないとしても、康平側の物語のシビアさと、紗枝側の物語のご都合主義具合が非常にアンバランスな印象の映画でした。
ちゃんと漁師に弟子入りして役作りしたという生田斗真のなりきりぶりなど、出演者の演技には好感がもてただけに、なんだか残念です。

関連レビュー:
『これから食えなくなる魚』 小松正之著



赤いランドセル

2016年12月23日 | book
『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』 池上正樹/加藤順子著

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いじめられっ子で友だちもあまりいなかった私は、小さいときから学校が好きではなかった。
学校生活(小中学校)にいい思い出はひとつもないし、だから思い入れも何もない。思いだしたくもないくらい惨めだった子ども時代の、ろくでもない舞台背景以上でもなければそれ以下でもない。
だから、震災復興ボランティアとして被災した地域を訪問して、学校という存在が地域にとってどんなにたいせつなものなのかを初めて知った。

最初に被災地で活動したときに寝泊まりしたのは石巻専修大学のグラウンドだった。その後、登米市旧鱒淵小学校の校舎に滞在して活動したこともあった。気仙沼市小泉中学校では、被災された方々の仮設住宅への引越しが終わった後に、避難所として使用された体育館の清掃に参加した。南三陸町歌津中学校でもお掃除をお手伝いした。気仙沼市小原木小学校ではお祭りのお手伝いをさせていただいた。
東北で、数えきれないくらいたくさんの学校にお世話になった。災害によってズタズタに破壊された地域の復興の要になっていたのは、やっぱり学校だった。
子どもたちが勉強し、成長の過程を友だちと共有する場所。行政と教職員にきちんと管理された、いちばん安全な場所。学校があるから地域の人はそこで子どもを生み育てることができる。地域社会の未来を担う場所。音楽会や運動会など、学校行事は地域のイベントでもあった。多くの地域で学校は災害時の避難場所にも指定されてもいた。避難生活が長引けば、学校は生活の場にもなった。

そんな学校の中で、戦後他に例がないという惨劇を引き起こしたのが、石巻市大川小学校だ。
確か、初めてその姿を見たのは震災から1ヶ月余り過ぎた4月末ごろだったと思う。雄勝町に炊出しの食事を届けにいく北上川沿いの堤防道路を右に折れる交差点から、その無惨な建物が見えた。地盤沈下で辺り一帯が湖のように冠水し、瓦礫が散乱したままの、泥だらけの学校。目の前の新北上大橋は津波で倒壊し、辺りには、そこに町があったことなど到底想像つかないほどに破壊しつくされ水浸しになった瓦礫が、累々と折り重なっていた。まだ遺体の捜索中でもあり、学校のある釜谷地区そのものが通行止めになっていたのを覚えている。
それから半年後の秋、福地体育研修センターで写真洗浄のボランティアをしたときのことは忘れられない(当時の投稿)。大川小学校から4キロほど川上にあり、もともとは1970年に閉校した大川第二小学校の体育館だった場所だ。その古びた小さな体育館いっぱいに、近隣で瓦礫の中から見つかったさまざまな品々が集められ、綺麗に洗って泥を落として並べられ、持ち主が引き取りにくるのを待っていた。
その中でもひときわ目を引いたのが、無数のランドセルの列だった。ランドセルだけではない。お揃いの何台ものピアニカやリコーダー、運動靴、野球のグローブ、バレーボール、制服、体育着、帽子。子どもたちの学用品、大切に使っていたであろう学校の備品の数々。いうまでもなく、津波に襲われた大川小学校から流失した品々だった。そしてそれらの持ち主の多くはもう、愛用の品を迎えにくることがなかった。
大川小学校周辺の瓦礫はそのころにはかたづけられていて、校門の前に無数の花束が手向けられていた。

あの日、地震直後に子どもたちは教職員の指導のもと校庭に避難し、全校児童108人中30人が迎えに来た家族と帰宅したか、当日欠席していて難を逃れている。保護者が帰宅を促しても「学校にいた方が安全だから」とその場に残った子どもたちもいた。教頭を始めとする教職員たちはラジオなどで津波が襲来することを知っていたが、なぜか50分以上も避難せず校庭に留まっていた。
地図を参照していただければすぐわかることだが、大川小学校の校舎は北上川と小渕山の山裾に挟まれた三角形の土地の先端に位置している。つまり川に向かってたって振り向けば、すぐ手の届くところに山=高台があった。子どもたちは日常的にこの山で遊んだり実習をしたりして登っていた。「山に逃げよう」と訴えた子どもも、教師もいたという。実際に山に登ろうとして叱られ、連れ戻された子もいた。
そこへ、2階建ての校舎を越えて、津波が襲いかかった。
そして校庭にいた78人のうち74人の児童と、校内にいた11人の教職員中10人、そしてスクールバスの運転手も犠牲になった。校舎の時計は、3時37分を指して止まっている。85人が命を奪われたその瞬間だ。

その日、保護者の多くは学校にいるのなら子どもたちは大丈夫だと信じ、自宅や避難所で子どもたちとの再会を待っていた。過疎の進んだ大川小学校の校区は広く、多くの子どもたちはスクールバスで通学していた。市街地や近隣の別の地域で働いていた保護者は地震直後に子どもを迎えにいける状況ではなかった。孤立した小学校に救助のヘリが向かっているという情報さえあった。だが待てど暮せど子どもたちは帰って来ない。
彼らが学校で起こったことを知ったのは震災2日後のことだった。泥水の中からみつかった子どもたちは苦しそうに目を閉じ、咄嗟に山肌にしがみつこうとしたのか、手の爪が剥がれた子もいたという。そんな子どもたちの遺体が、橋のたもとの三角地帯に並べられた。あの日、子どもたちが避難しようとしていた堤防の上の三角地帯だった。海抜の低い大川小学校からみれば堤防は確かに少し高くなってはいる。だがその向こうは川だ。なぜすぐ後ろの山に逃げなかったのか、どうして津波が来る川の方へ逃げたのか。そもそもどうして50分もの時間が校庭で無為に費やされたのか。
この本は2012年11月に刊行されているが、その時点でも、その後4年経ったいまも、はっきりしたことはわかっていない。なぜか。

まず校庭にいた当事者が5人しか生存していない。うち唯一生き残った教職員は震災直後の4月9日の保護者説明会を最後に、健康状態を理由にいっさいの証言を拒否しているため、文書や記録に残った彼の証言からしか状況を読みとることができない。だがその証言にも、当日この教諭本人に遭遇した目撃者が記憶している事実と大きくかけ離れた部分があり、真偽が疑われている。
残り4人は小学校の児童だが、一貫してメディアでの証言を続けて来た当時5年生の只野哲也くんを除く3人は、震災当初の石巻市教育委員会が実施した聞き取り調査以外に証言には応じていない。
ところがこの4人の子どもたちや保護者と帰宅して生き残った30人の聞き取りの記録にも、校長や教職員の証言にも、あまりに曖昧で不自然な部分が多すぎる。誰がどう見ても、都合の悪い事実を隠蔽し誤摩化そうとした形跡がありありとみてとれるのだ。
たとえば子どもたちは何人もが「山に逃げよう」と口々にいっていたことを証言し、保護者たちもそう聞いている。しかしあくまで市教育委はその事実を認めようとしなかったばかりか、子どもたちが避難を始めた時間までも誤摩化した。現場にいたのは児童と教職員ばかりではない。子どもや孫を迎えに来た親族や、避難して来た近隣住民もいた。つまり他にも目撃者がいたのだ。それなのに、学校の対応を正当化するために見え透いた嘘までついた市教育委など、誰も信頼できるはずがなかった。

この本が書かれた当時、遺族たちは決して学校や亡くなった教諭たちを責めようとはしていなかった。きっと誰もが最後まで子どもたちを必死にまもろうとしてくれていたはずと信じていた。
だが震災後なかなか学校に近寄ろうとせず遺体捜索にも立ち会わない校長の態度や、責任逃れにばかり拘泥する市教育委の姿勢が、絶望の底にいる遺族の心をさらに深く傷つけた。そして3年めの2014年3月、遺族23名が学校側の責任を追及し県と市を相手に損害賠償を求める裁判を起している。今年10月の一審判決では学校側が敗訴したが、県も市も判決を不服として控訴した。
大川小学校で子どもを亡くしても、遺族会に参加しない遺族もいれば訴訟にも関わっていない遺族もいる。石巻を離れ、被災地をあとにした方々もおられるだろう。学校があった釜谷や長面や尾崎など北上川河口付近の地域は津波と地盤沈下で壊滅し、人が住むことはできなくなった。インフラも復旧しなかった。地域のほとんどの子どもたちがいなくなり、学校も移転、ここに暮し続ける理由がなくなれば、去っていく人々を誰も責められはしない。

それでも真実が知りたくて、いまも必死に葛藤している遺族と生存者がいる。
なぜあの日、子どもたちが死ななくてはならなかったのか。助けられたはずの命がどうして失われなくてはならなかったのか、その事実をひもとくことこそが、未来の子どもたちの安全をまもる手だてになるからだ。
多くの遺族が撤去を求めた大川小学校校舎は、今年3月、存置が決定した。生存者である卒業生自身が「ここに同級生や先輩後輩が生きた証があるから」と訴えて存置にむけたはたらきかけもあった。
いま何を正当化しようとしまいと、子どもたちの命は二度とは戻らない。それなら、決して同じことを繰り返さない未来のために、できる限りのことをするのが、残された者の使命なのだろう。
その鍵を握る人物はひとりしかいない。彼が口を開いてくれるのを、おそらく誰もが心から待っている。
果たしてその日は、くるのだろうか。

大川小学校津波訴訟
大川小学校を襲った津波の悲劇・石巻
大川小学校の悲劇 検証・大川小学校事故報告 検証はまだ終わっていない 東日本大震災4年

復興支援レポート



夏のコート

2016年12月22日 | book
『呼び覚まされる 霊性の震災学』 金菱清(ゼミナール)編

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2011年夏、宮城県気仙沼市唐桑半島のある漁港で養殖業者の皆さんのお手伝いをした。
牡蛎や帆立、わかめや昆布の養殖が盛んなこの地域は、津波ですべての養殖筏を失っていた。その養殖業復旧のために、筏を固定させる重りである「土俵」をつくる作業に参加させていただいた(当時の投稿)。
60キロの砕石を量って4,000〜6,000袋の土嚢に詰めて口を縛る単純作業を、10数名の漁業者と50数名のボランティアで黙々とこなす真夏の炎天下での重労働。熱中症予防に定期的に休憩をいれ、アイスキャンディーや飲料で日陰で涼をとりながらの作業だったのだが、そんな休憩中に、つい「こんなに大勢でこんな単純作業、歌とか歌えるといいですね」と口が滑ってしまった。
話していた漁師さんは気を悪くした風もなく、淡々と「俺たち、まだ歌える気持ちになれねんだ」と答えてくれた。

そこにいた漁師さんだけではない。そのころボランティアとして私が被災地で出会った人、目にした人、見渡す限り視界にいた人のすべてが、あの災害で親しい人やたいせつなものを失い、絶望に苦しんでいた。たとえ顔では笑って元気そうに振る舞ってはいても、その絶望は簡単には心を去ってはいかない。その現実感が、何度被災地を訪ねても、私にはどうしても理解できていなかった。理解したくてもできない、見えない壁のようなものがあったのも事実だ。以降、日を追うに連れて、簡単にわかった気になってはいけないという戒めの気持ちも生まれた。

そのときは不用意にたたいてしまった軽口にひどく後悔したが、この失敗談には後日談もある。
このときいっしょに作業をした漁師さんのわかめ養殖が復旧して初めての収穫シーズン、わかめの芯抜きといって茎を手で取り除く作業をお手伝いしたとき、そのうちのおかあさんが「わかめの学校」という「めだかの学校」の替え歌を歌ってくれたのだ(当時の投稿)。

「わーかーめーの学校はー、津本浜ー
だーれが生徒か先生かー?みんなで芯抜きしているよー♪」

漁師さんたちは私があの夏に土俵づくりに参加したことを覚えていて「あのときも来てくれてたでしょ」と声をかけてくれて、また会えたこと、夏以降もお手伝いを続けていることを心から喜んでくれた。半年以上も前の、50人以上いたボランティアの中のひとりだった私を記憶していてくれたことに涙が出るほど感動したし、活動を続けていてほんとうによかったと心から思った。
震災から2年めの3月のことだった。あれからもう4年。「わかめの学校」のおかあさんも、その後亡くなってしまった。

2011年3月11日に発生した東日本大震災の犠牲者は15,893人、行方不明者は2,556人(2016年12月9日時点/警察庁)。震災後の関連死で亡くなった方は3,472人(2015年9月10日まで/復興庁)。
数字というものは冷酷なもので、字にしてしまえばただの字でしかない。2万人を超える人があの災害でこの世から消えてしまったという重みは、その向こうに霞んで、現実味のないどこか遠くの出来事のように感じてしまう。その最期の瞬間までそこにあったはずの21,921の人生とその物語はどうなってしまったのだろう。
大勢の人が命を失い、家も街も故郷も地震と津波で跡形もなく破壊され、人知と文明のすべてが否定された大災害。だがあれから5年が過ぎて、被災地はようやく少しずつ復興に向かって動き出している。嵩上げ工事や防潮堤建設工事は佳境にはいり、被災された方々の復興住宅への転居も1年前から始まっている。あの地獄とも思えた大災害の面影は被災地から姿を消し、悲劇は時間の経過とともに着実に過去のものになりつつある。
そんな被災地で、東北学院大学が震災死の周辺について調査したのがこのレポートである。

メディアにはタクシードライバーの霊体験ばかりとりあげられていたが、実際には、震災犠牲者の慰霊碑や震災遺構、犠牲者の遺体の仮埋葬と回葬作業など、震災死に関わる8つのテーマを社会学の専門家である編者と学生がそれぞれに調査している。
全部で180ページしかないなのでひとつひとつの調査レポートはあくまで学生の研究レポートの範囲を出ないし、完成度にもかなり幅はあるけど、被災地に暮らし、被災した方々に間近に寄り添って歩かなければ知ることのできない事実の数々に触れることのできる貴重な資料にはなっている。何度被災地に通おうと、いつか被災された方々の気持ちを理解できるようになるとは思えない私にとってはすごくありがたい本だった。
被災された方々にどれだけ親しく接しても、直接あの災害のことを訊ねることはなかなかできない。不用意に傷つけてはいけないという配慮ももちろんあるけれど、ご本人の中で整理がついて自分でお話したくなるようになるまで待つべきとも思っているからだ。実際、仲良くさせていただいている地元の方々が死んでしまった人たちのこと、あの日の体験を自ら口にして涙を浮かべるようになったのは、震災から2〜3年経ったあとのことだった。そこまで気持ちが落ち着いて、自分の中に災害との距離ができて初めて、悲しい、つらい、苦しいという感情が表情と言葉に出せるようになる。それほど深い絶望に、誰がどうやって踏み入ることができるだろう。

それほど悲しく、つらく、苦しい悲劇のなかのさらに最も悲しくつらく苦しい部分を、学術的に調査したこの研究のこれからがもっと知りたいと思う。このレポートでは宮城県石巻市・気仙沼市・塩竈市・名取市・南三陸町・山元町、岩手県山田町・宮古市、福島県浪江町のケースを取り上げているが、被災地はさらに広範囲にまたがっている。そして、人の記憶の中から災害の悲劇はどんどん薄れつつある。
でも薄れない人もいる。あの日のまま立ち止まった人、一歩が踏み出せない人、人生の半分をもぎとられたまま、どこにいけばいいのかわからなくなっている人もいる。
復興の名の下に忘れられようとしている2万の死と、その隣にいる人々の心を、このまま、見えないどこかに置き去りにしていいとは思えない。
自然の猛威のもとで、人がどれほど非力で愚かで脆い存在なのかということを記憶し続けるためにも。

復興支援レポート



死と野望の森のハードボイルド

2016年12月06日 | book
『エイズ治療薬を発見した男 満屋裕明』 堀田佳男著
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初めてエイズという病名を耳にしたのは高校生のとき、生物の授業でのことだった。
教壇にたった教師が、アメリカの科学雑誌のグラビアを広げて見せてくれたのをよく覚えている。そこには、緑の芝生の上に座った4人家族が大きく写っていた。30歳前後の父と母、まだ小さな娘と息子。一見どこにでもいる平凡な白人の中流家庭だ。洗濯用洗剤か乳製品の広告にも似た、幸せそうだが非印象的な、ありふれた家族写真。
先生は「ここに写っている家族は、娘だけを残して全員すでに死亡している」といった。父の婚外交渉で家庭に持ちこまれたエイズはまず妻に感染し、息子に母子感染したという。
1980年台半ば、エイズが不治の病、感染し発症すれば2年以内にほとんどの人が亡くなる時代だった。

あれから30年、いま、エイズは不治の病ではなくなった。
ワクチンがなく、いったん感染してしまうと一生治療が必要になる慢性疾患ではあるものの、発症前から適切な投薬を始めれば40年は生きられるようになった。
そのきっかけをつくったのが、日本人医師・満屋裕明氏である。
抗がん剤として開発されたAZTという逆転写酵素阻害剤が、HIVウィルスの増殖を抑えることでエイズ患者の延命に効果があることが、1985年に満屋氏によって世界で初めて立証されたのだ。
エイズがまだどうやって人から人に感染するのかすら誰も知らなかったころ。満屋氏は、エイズという病気も、ウィルスの性質もわからない暗黒の森に、ひとりでわけいり、誰ひとり見たこともなかった宝物を掘り出した冒険者だった。

満屋さんは熊本大学からアメリカ国立衛生研究所に派遣され、アメリカでエイズ治療薬の研究をした。
もともと国内でも優秀な医師だったというが、アメリカの恵まれた研究環境で、かつ満屋さんだけがもっていた特異なリンパ球が奇跡の発見を可能にした。HIVウィルスはヘルパーTリンパ球の中で増殖するからである。
リンパ球といっても誰のものでも良いわけではなく、発育がよくHIVウィルスによく反応する検体が必要で、しかも何千回何万回という実験を可能にするだけの量が求められる。満屋さんはもともと、九州の風土病でもある成人T細胞白血病というウィルス性のガンを研究していた。このガンに感染したヘルパーTリンパ球は不死化する。満屋さんは意図的に検体をガン化させて実験につかうことができた。つまり無限に実験が繰り返せる検体をもっていたことになる。
未開の森にわけいる勇者が、唯一無二の武器を手にしていたのだ。

ところが満屋さんは医者だが化学者ではないので、自分で薬をつくることはできない。そこで製薬会社から可能性のありそうな薬のサンプルを提供してもらい、かたっぱしからHIVウィルスに感染させたヘルパーTリンパ球の試験管に薬を注ぎ、ウィルスだけを殺す薬を探した。こうして発見されたのがAZTだが、この薬が製薬会社から提供されていたことがあとでネックになってしまった。会社が発見者である満屋さんを認めずに特許を出願、患者一人当たりの投薬費用にして年間1万ドルもの高値で独占的に販売を始めたのだ。やはり満屋さんが開発したddIとddCが90年代に発売されて独占が解消されるまで、多くの感染者が薬に手が届かないまま亡くなった。発見者としてこれほど悲しいことはなかったのではないだろうか。
しかし満屋さんは製薬会社との特許争いに拘泥することなく新しい薬を求めて研究を続け、ddIとddCに続いて2003年にダルナビルというプロテアーゼ阻害剤を発見、2015年にはEFdAという逆転写酵素阻害剤の臨床治験にはいっている。EFdAの抗ウィルス活性はAZTの400倍以上。認可されればエイズ治療はまた大きく前進することになる。
特許を取れる新薬など一生研究してもひとつも発見できずに終わって当たり前の世界で、満屋さんはすでに5つも、死の病から人の命を救う薬をみつけた。かつまだばりばりの現役である。母校熊本大学で教鞭をとりながら、いまもアメリカ国立衛生研究所でエイズの薬を探し続けている。満屋さんが開発したエイズ研究はいまも、エイズと戦う多くの患者の健康を支え続けている。

この本では、満屋さんの生い立ちと研究過程だけでなく、エイズ研究の周辺状況やアメリカでの特許のあり方や訴訟の経緯までを幅広く、10年以上にわたって満屋さんとその研究と背景を取材してレポートしている。
感染すれば間違いなく死ぬといわれた病と毎日孤独に向かいあう満屋さんのタフな研究はもう30年を超えた。満屋さんというパイオニアの発見によってエイズ研究は飛躍的に拡大した。歴史に残る英雄というのはまさにこういう人のことをいうのだろうと思う。
エイズ問題に関心をもった当初から読んでみたかったのだが、長い間絶版になっていて図書館でも読めず、去年やっと文庫化されて入手することができた。今回読めて嬉しかったし、仕事柄、化学系のレポートを読み慣れてきたいまだから読めたともいえるから、むしろこのタイミングで読んでよかったのかもしれない。

エイズ問題は他にもいろいろ読んでみたいんだけど、読みこなせて読み応えもあってちょうどいい本ってどうやってみつければいいんでしょうね。本読むより読む本みつける方がむつかしいです。

関連リンク:
私たちが「エイズ」から学んだこと 高山義浩医師

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『中国の血』 ピエール・アスキ著