落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

バビロン再訪

2019年04月13日 | movie
『オール・アバウト・マイ・マザー』
 
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女手ひとつで育てた息子エステバン(エロイ・アソリン)を交通事故で喪ったマヌエラ(セシリア・ロス)は、わが子の死を父親に伝えるため、かつて暮らしていたバルセロナに戻り、友人のアグラード(アントニア・サン・フアン)と再会。彼女の紹介でシスター・ロサ(ペネロペ・クルス)と知りあう。身重のロサの世話をしながら、舞台女優ウマ(マリサ・パレデス)の付き人として働きはじめたマヌエラだが・・・。
スペインの国民的映画監督ペドロ・アルモドバルの出世作。
 
1999年て20年前ですね。これ劇場で観たのもうそんなに前かあ。
学生時代に『キカ』を観てからたいていの日本公開作は観てるけど、記憶にある限りアルモドバル作品でつまんなかったってことが一度もない。どの作品にも毎回頭を思いきり殴られたような強烈な印象を受けるし、観たあとは何日も深く考えさせられる。気づけばものの受けとめ方や考え方にも影響を受けていることがある。
かといって過度にシリアスでもないしストレートに社会派なわけでもない。視覚的にもおもしろいし、作品によってそれぞれセンセーショナルだったり猟奇的だったりタイムリーだったりアーティスティックだったりブラックだったり、要するに映画として絶妙にバランスのとれた作品を撮る、非常に成熟した作家だと思う。
 
この作品での時事ネタはHIVですね。まだ抗レトロウィルス療法が確立されたばかりのころで、多くの感染者がなすすべもなく命を落としていた時代だった。字幕が全部「エイズ」なのがいちいち気になる私は細かいですかね(エイズはHIV感染によって発症する後天性免疫不全症候群のこと。つまり感染しているかどうかを検査するシーンでは「HIV」と表現するのが正しい)。
いまは適切な治療を受けさえすれば感染後35年は生きられるが、90年代まではエイズは不治の病だった。しかしこの病が、物語の中では人々の運命を前に前にと押し流していく役割を果たしてもいる。奇妙な物語である。
 
最後のテロップでも語られる通り、この映画は究極の女性賛歌である。
ヒロイン・マヌエラを含めた登場人物のほぼすべてが、心の底から求めるものを次々に失っていく。マヌエラのひとり息子は母親の告白を聞くことなく17歳の誕生日に世を去るし、アグラードは友人ロラ(トニ・カント)に全財産を盗まれ、ロサは妊娠によって紛争地での社会貢献活動という目標を失い、ウマはパートナーのニナ(カンデラ・ペニャ)をドラッグ中毒から救い出すことができない。
彼女たちは悲しみや悔しさをかみしめながらも前を向き、現実を受けいれ、目の前にいる友人の手をとり抱きあい、微笑もうとする。
彼女たちを単純に「強い」という言葉でまとめるのは浅はかだと思う。彼女たちにも、弱いときも、間違っているときもたくさんある。ただ彼女たちは人生を愛しているのだ。生きていること、わが身に起きたことを幸も不幸も含めて、ただすべてを認めたいと願っている。
その美しさはやっぱりすごいなあと思う。こんな風に生きられたらなと思う。
 
最初に観たときもバルセロナに行ってみたいと思ったけど(プロダクションデザインがめちゃめちゃキュートだった)、そういえばまだスペイン自体行ったことがない。
今度こそ旅行してみようかな。
 
 


おいしいパパイヤの育て方

2019年04月12日 | movie
『KANO 1931海の向こうの甲子園』

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日本統治下の台湾南部の都市・嘉義に日本政府が設立した嘉義農林学校の野球部は内地人・漢人・台湾先住民が入りまじり、おおらかでのんびりしたチーム風土が特色だったが、それゆえに一度も試合に勝ったことがなかった。そこに名門・愛媛県立松山商業の元監督・近藤(永瀬正敏)が指導者として着任するや、それぞれの特性を生かした個性豊かなチームへと急成長、全国大会を制覇し、台湾代表として夏の甲子園への初出場を果たす。
1931年の甲子園大会での実話を元に台湾で2014年に映画化。

自宅のすぐ目の前に公式戦対応の野球場があるところで生まれ育ったせいもあって、好きとか嫌いとかではなく、野球は物心ついたときからそばにあって当たり前のスポーツだった。
親族や幼馴染にも野球経験者は多いから(というかそのころは運動ができる男の子はみんな野球をやっていた。野球部がいちばんモテた)、贔屓のチームもないし選手にもまったく詳しくはないけど最低限のルールはわかるし練習や競争の過酷さはよく知ってるし、個人的に最も身近に感じるスポーツだと思う。
だから高校生が野球をやるドラマというだけですでに若干涙腺がキビしいんだけど、これが戦前の貧しい時代の台湾で、多国籍の子どもたちのサクセスストーリーという設定だけで完全にアウトである。

作品自体は上映時間180分と長尺。嘉農の子どもたちが近藤監督のもとでスポーツマンシップを身につけ、一試合一試合着実に強くなっていくさまをたっぷりと丁寧に描いているので、展開のリズムそのものがかなり贅沢というか要するにゆるいところがある。細かいところまで真面目にきっちり表現しすぎていて、娯楽映画のバランスとしてはもうちょっと追いこめたのではという気もする。
その一方で、ここまでちゃんと描いてこそ伝えたいことがあったのだという作り手の情熱もすごくよくわかる。
劇中、甲子園大会を取材する記者(小市慢太郎)が嘉農の選手に向かって「野蛮」「日本語がわかるか」など侮蔑的な言葉を投げかけるシーンがある。彼に向かって近藤監督は「民族なんか関係ない。他校の選手と同じ、野球が大好きな球児だ」と部員をかばう。だがこんな会話があってもなくても、彼ら全員が言葉や民族や出自の壁をこえて、純粋に野球を愛する魂の尊さと、チームが一丸となることで生まれる力の意味を心の底から信じあっていることと、その心のつながりの美しさとあたたかさが、作品全体から切実に感じられる。
甲子園での嘉農の躍進は史実でもセンセーショナルだったという。おそらくは多くの観衆の心を打ったのもまた、彼らのすべてを超越したまっすぐなスポーツマンシップだったのではないだろうか。

いまの日本社会から振り返ってみれば、その時代から約90年、日本はずいぶん遠くに来てしまったんだなと思う。それがとても寂しい。
冒頭でも述べた通り、この映画は台湾でつくられた。制作費は日本円にして約10億円。甲子園と同じサイズのセットを組んで、野球経験のある出演者を5,000人の中から選んだ(投手・呉明捷役の曹佑寧は21Uワールドカップ台湾代表で最優秀外野手に選出。今作で台北電影節で助演男優賞を受賞した)。台湾映画だがセリフの90%は日本語のため、ほとんどが台湾出身の出演者は日本語を学び演技の指導をうけ、野球合宿に参加して撮影に臨んでいる。そしてできあがった本編は堂々の3時間、つまり要するにぱっつぱっつに全力の一大超大作なのだ。同じ規模で同じ内容の作品をこれだけの気合を入れていざつくろうといっても、日本でできるものだろうか。

現在、人口にして日本の4分の1ほどの台湾の国民一人当たりの国内総生産額は約25,000ドル。10年後には日本(2018年:約38,000ドル)を超えるともいわれている(日本経済研究センターの予測)。劇中に登場する学校も駅も灌漑用水も、当時台湾を治めていた日本政府がつくったものだ。舞台になった嘉義農林学校は国立大学として存続している。台湾では植民地時代の記憶がこうして大作映画になり大ヒットして評価もされている。いまも国際政治的には微妙な立ち位置にいる台湾だが、侵略の歴史を着実に糧にしているのは間違いないだろう。
それを考えても、日本の現状が却って寒々しく感じてしまう名作でした。



最期の愛の代償

2019年04月07日 | movie
『後妻業の女』
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柏木亨(豊川悦司)の結婚相談所で知り合った武内小夜子(大竹しのぶ)と結婚後、脳梗塞で倒れた中瀬耕造(津川雅彦)には、前妻との間に尚子(長谷川京子)と朋美(尾野真千子)という娘がいた。間もなく耕造は世を去るが、全財産をひとりで相続すると書かれた公正証書を持ちだした小夜子に不審を抱いた朋美は、弁護士の守屋(松尾諭)に相談。元警官で探偵の本多(永瀬正敏)が調査に着手すると、柏木と小夜子をめぐる怪しい事件の数々が浮かび上がり・・・。

誰かにそばにいてほしい。大事にされたい。人のあたたかみに触れていたい。
そんなものは人間が生まれてから死ぬまで、誰もが当たり前に抱く感情で、大なり小なり人はその欲求に翻弄され、あるいはどうにか消化しながら生きている。中にはうまく消化することができず、己を見失うほどその業に溺れる人もいる。だからこそその業を道具に商売ができると考える人間もいる。実際に世界中にその手のビジネスは隆盛しまくっている。是も非もない、それが世の中だ。
そのビジネスを極端に先鋭化したのが、この映画に描かれる「後妻業」なのかもしれない(この呼称はフィクションらしいけど)。

こうしたえもいわれぬ人間の感情の本質が、この物語の醜悪さを、多面的に明るくも妖しくも変幻自在に魅力的にみせている。
劇中で大竹しのぶはいう。人間誰しも生まれるときも死ぬときもひとりで、彼岸にお金を持ち去ることはできない。
であれば、命の燃え尽きる最後のひとときを、甘美に幸せな夢で満たすことで対価を得る商売のどこに非難されなくてはならない汚点があるというのか。まあ確かに筋は通ってるし、嘘ではない。死ぬ人間にお金は必要ない。生きている人間にはお金が必要である。生きていて良かったと思える最期のために使われるお金の正当性を、他人が干渉できるものではないのかもしれない。

この映画では、人が無意識に思いこんでいる(思いこまされている)正義がいかに軽薄かを、ただただブラックにユーモラスかつ生々しく描写することに終始している。
出演者全員の驚異的な熱演も、バリッバリにキマった関西弁のシナリオも、完全にやりきった感満載のプロダクションデザインも、映像も音楽も、全部ががっちりといっさいのブレもなくまったく同じベクトルに全エネルギーを放出しきっている。
だから観てる方には彼らがいいたいこと、伝えたいことが思いっきりスパッとまっすぐ刺さってくる。こんなに気持ちのいいことはない。

大竹しのぶが天才なのはわかってたけど、この作品では他のすべての出演者が完璧にそれぞれの仕事をやりきってました。
いやもうマジ最高。うん、面白かった。大傑作でした。



黒鉛箱争奪戦in香港

2019年04月02日 | movie
『ヘリオス 赤い諜報戦』

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韓国が開発した超小型核兵器が国際犯罪組織ヘリオスの手に渡り、香港で取引されるとの情報を得た韓国政府はチェ理事官(チ・ジニ)とパク・オチョル(チェ・シウォン)を香港に派遣。香港警察のリー(ニック・チョン)の指揮でエージェント(張震/チャン・チェン)から兵器を無事取り返すのだが、兵器を母国に持ち帰りたい韓国側に対し、大陸政府側のソン・アン部長(ワン・シュエチー)が安全保障問題を盾に抵抗。国際社会を巻き込んだ抗争に発展する。

完全に張震目当てで観た3年前の香港映画。
香港アクション久々に観た気がしますが、いやあやっぱアクションは香港に限りますね。最高っす。
私自身はそもそもアクション映画が好きな方ではないけど、それでも香港アクション観ると素直に凄いなあと思います。もう清々しいね。徹頭徹尾無茶苦茶で。あらゆる銃器が惜しげもなくガンガンに撃ちまくられるし画面に映るクルマは片っ端から壊されまくるし、肉弾戦は容赦ないし、暴れる人物の身分も性別もごっちゃ。その一方で、やたらめったら暴力性ばっかり無反省にひけらかしてるように見せかけておいて、香港という場所の持つ複雑な背景やロケーションの面白さも存分に生かされている。シナリオや芝居だけじゃなく、ライティングもカメラワークも特撮も音響設計もすべてがパーフェクト。観てると無性に香港に行きたくなって、香港の屋台でジャンクフードを思いっきり食べたくなる(今作では食事シーンはかなり少ないけど、それでも)。娯楽映画は香港社会と経済を支える一大産業なんだよなと、そんな当たり前のことを改めて痛感してしまう。

張震は相変わらず美しい。
国際犯罪組織の冷血無比な凄腕エージェントというと『MR.LONG/ミスター・ロン』とキャラが完全にカブってます。でもいいの。似合ってるから。
顔が整ってるせいで無表情だとやけに冷たく見える容貌が、この手の役柄にほんとうに似合っている。劇中一度だけ相好を崩すシーンがあるんだけど、その無邪気で少年のような笑顔とのギャップがマジやばいです。悶絶です。しかしこのシーンは相手役のジョゼフィーヌ・クーと張震の雰囲気が似てるところがミソですね。詳しい説明はなくても、二人がただの昔馴染みではない、強い絆で結ばれていることが一瞬で伝わる。

映像的には見どころたっぷりだし、アクションも見応え満点、香港から韓国から大陸まで当代のオールスター総出演の作品だけど、終わり方が明らかに「続く」。どうなのそこ?続くの続かないの?張震は次も出るよね?
しかし張震もだけどジャッキー・チュンやらニック・チョンやらショーン・ユーやら、私がヘヴィーに香港映画(含む中華圏映画)を観たおしてた1990年〜2000年代からメンバーがそっくり変わってない。気づいたら画面に映ってるのが完全におじさんばっかりになっている。スターの高齢化は日本やハリウッドでもいわれてるけど、香港もいっしょなんよね。私は若い人よりおじさんの方がより萌えるので大変結構ですけれどもね(語弊)。しかしこれで若い観客がついてくるのかという懸念はまああります。