落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

玉虫色のスペクタクル

2015年11月19日 | movie
『天空の蜂』

最新の自動操縦装置を搭載した巨大ヘリコプター“ビッグB”が何者かに盗まれ、福井県敦賀市の高速増殖炉「新陽」の上空に出現。原子炉の真上8000メートルにホバリングさせたまま、犯人は「ヘリを墜落させたくなければ日本国内すべての原発を破壊せよ」と政府を脅迫した。
燃料切れまでのタイムリミットは8時間。内部には犯人が積み込んだ爆発物の他に、開発者・湯原(江口洋介)の長男でまだ小学生の高彦が乗っていた。
1995年に刊行された東野圭吾の同名小説の映画化作品。

てんこもりです。とりあえず。
原発がテロの標的になったらどうなるか。その仮定ただその一点をあらゆる価値観が取り巻いている。
原発は安全だから何が起こっても大丈夫といいきることにばかり汲々とする人々、日本経済を支えるため・あるいは人類の発展のためという大義名分に自らのすべてを懸けようとする人々、その現実の裏で使い捨てにされ闇から闇へと葬り去られる人々、原発の危険性を知って必死に反対する人々、事故の危険よりも己が正義を貫きたい人々、どうあってもとにかく無関係でいたい人々。もりもりです。
さて、このなかで最もアタマのおかしいのはいったい誰なのか。

映画を観ている間じゅう、監督自身は人として表現者としてこの中のどこに軸を置いてこの物語を語ろうとしているのか、それがもうムチャクチャ気になって仕方がなかった。
かなり前の話になるが堤監督とは面識があったものの、こういう社会問題にとくに強い関心を持った人だという印象がない。それだけに、どこのどの角度からこの作品を表現しようとしているのか、そこにどんな障壁があるのか、ないのか、その真意を観客に気づかせまいと必死に気を使っているのがありありと伝わってきてしまった。おそらくつくり手側としては、原発の是非も含めてこの作品の存在意義そのものをまるっと観客に委ねたかったんだろうと思う。その意図自体は否定しない。それはそれでそれなりに正しい。しかしその部分に深刻になるあまり結局何がいいたかったのか、どこがこの映画の中でいちばん大事なのかが曖昧になってしまっているようにも思えた。

そもそもが映像化不可能とまでいわれるほど情報量の多い原作でもあり、しかも原発を標的としたテロという、まともな人間なら誰もが当たり前に度を失うような大事件を描いたストーリーなのだから、どの展開も衝撃に次ぐ衝撃、激動に次ぐ激動でしかない。だからある程度はしょうがないのかもしれないけど、それにしても映画全体にメリハリというものがほとんどない。
序盤の数分を除いてずっと、テンションMAX状態のスリリングなシーンがひたすら延々と続く。すなわち共感をもってリアリティを感じるだけの余裕がどこにもないから、映画全体の印象がザツになる。
確かにスケールはスゴいしスペクタクルシーンの完成度もじゅうぶん楽しめる。けどその良さを活かしたうえで観客の心にしっかりと何かを残すには、映画全体のバランスをもっと精査すべきだったんではないかと思う。だって超重要なシーンばっかり次から次へ見せられても、情報量に振りまわされ過ぎて集中して世界観にはいりこめないよ。

とかなんとか文句ばっかり書いてますが、決して悪い映画ではないです。ちゃんとした力作です。観て損ではない。ただし原発や脱原発運動についての知識がない人が観てどう感じるかは保障できないけどね。私個人はこの問題にとくに詳しくはないけどどっちかといえば身近な立場にいて日常的に接している人間だから、そうでない人、たとえば原発問題に関心のない人にどう響くかまではわからない。だいたい高速増殖炉と軽水炉の違いがわかってる人間がふつうの映画の観客にどれくらいいるのよ?そこすっごい大事なんだけどさ。この映画の中では。なのに説明はつるっと一回だけという。

主演の江口洋介と本木雅弘はまさにぴったりの好敵手ぶりだなと思いましたです。演技のクオリティはさておいてとにかく裏表のないいい“あんちゃん”そのままの江口さんと、いまも昔もどことなくミステリアスなもっくん。他では綾野剛がマジ怖かった。台詞ほぼないのにめちゃめちゃ強烈。あとのキャスティングはトータル味付け濃過ぎたんじゃないかと思う。全員がやたらに根性ハマりまくった熱演ばっかりで、観てるだけで胃がもたれてしょうがない・・・そういうところもやっぱバランス大事だよね。いつ観てもやけにヘラヘラしてるだけの佐藤二朗すら若干ウザかったです。

人の命よりも電気が大切、などというストレートな台詞もあった。
ほんとうのことなんか誰も知りたくない。食べれば誰もがひるクソなのに、出ればすぐに水に流されてしまうそれをみんなの顔にぶちまけてやりたいなどというリアルな独白もあった。
この物語の舞台は95年、まだ日本は過酷事故を経験していなかった。その後20年、多くの人が目を背けて来たそれが現実になったいまも、正直な話、日本の人々の価値観は大して変わったようには思えない。
映画にもあの事故後のシーンが一瞬だけでてくる。たった一瞬。その一瞬の軽さが、どうしてもちょっと残念に思えてしまった。
現実になったのは原発事故だけじゃない。いまや無人攻撃機による空爆で毎日のように戦地では多くの罪もない市民が犠牲になっているし、インターネットを通じたサイバーテロの危険性は日々高まっている。この物語に登場する凶器の多くが当たり前の日常になってしまっているのに、その危険性を多くの人が真剣に捉えようとしていない現実の恐ろしさがサムい。

実は2日前に原作本を借りて3分の1ほど読んだところ。残りをこれから楽しみに読もうと思います。

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『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録』  NHK「東海村臨界事故」取材班編