落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

おやつの時間

2019年03月28日 | movie
『15時17分、パリ行き』

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スペンサー(スペンサー・ストーン)、アンソニー(アンソニー・サドラー)、アレク(アレク・スカラトス)はカリフォルニア州サクラメントの小学校時代からの友人同士。学校では問題児だったが「誰かを助けたい。役に立ちたい」という願いから軍に入隊。空軍所属のスペンサーと州兵のアレクは、夏休みにドイツに滞在していた大学在学中のアンソニーとヨーロッパ旅行で合流しようと計画する。
2015年にアムステルダム発パリ行きの高速鉄道の車内で起きたテロ事件をクリント・イーストウッドが映画化。

テロ事件の実録ものというとつい差別や偏見や無理解などといったカタめのメッセージこってりな社会派映画を想像しちゃうんですが(私はした)、あにはからんやすっごい淡々とした作品でした。
冒頭の内容紹介の通り、主人公3人をはじめ列車の乗客の一部も事件の当事者が演じている。事件から2年後というスピード映画化だからできたんだよね。でも実は私は本人が演じてるのを全然しらないで観ちゃいました。途中で気づいてビックリしてしまった。だって芝居がめちゃめちゃ自然だもん。役者さんだと思うでしょう。

物語は学校で厄介者扱いされてばかりだった彼らの幼少期から始まる。
勉強はできないし学校のルールにも馴染めない。両親は離婚していて、学校に呼び出された母親はそのことで教師に当てこすりまでいわれてしまう。頭のまわるアレクが思いつくとんでもないイタズラも、バレてしまえばただただ素直に落ち込む。
要は、とくにいい子でもなければ悪い子でもない、どこにでもいる普通の男の子たちである。ふくよかな体型をネタに嘲られる自分を変えようと一念発起したスペンサーは空軍を志すけど、入隊後の訓練だってあくまでも訓練。ぜんぜんエキサイティングなんかではない。だから空軍兵士になってもスペンサーはやっぱり「普通の」スペンサーのままである。

旅行の話になって大きくなったアレクやアンソニーが再び画面に登場しても、穏やかな物語進行に変化はない。ローマからヴェネツィア、ベルリンからアムステルダムと初めてのヨーロッパを満喫する20代初めのアメリカの田舎の男の子たちのバカンスはそのものズバリのおのぼりさんである。楽しそうですごくヨーロッパに行きたくはなったけどね。ベルリン以外は行ったので、なんだか懐かしくもあったけど、彼らのはしゃぎようが、アメリカの田舎の男の子にとってヨーロッパってアジアよりも遠いのかもしれないという気持ちにもなった。

問題のテロ事件は映画の全体の3分の1程度で、そのパートが始まるまではほんとうに静かな作品だし、事件が始まっても無駄にやかましい音楽などは使用せず、あくまでもリアリズムにこだわった実録映画になっている。
特別でもなんでもないどこにでもいる普通の男の子だった彼らが、車内で発砲しはじめたテロリストに対し、訓練で身につけた柔術と冷静な機転と団結力で暴力に立ち向かい、結果的に制圧に成功してヒーローになった。
この作品の核はたったひとつ、その一点に絞られている。
ヒーローは特別な誰かなんかじゃない。
心から平和を願って、何かひとつでも行動することができたら、その時点でその人はヒーローなのだ。
そのことを、この逸話はこれ以上なく能弁に語っている。

劇場公開時に観たかったんだけど行きそびれてしまい、今回観れて良かったです。100分と最近のハリウッド映画にしては破格の短さ(笑)で気軽に観れたのもよかったです。



1989年を遠く離れて

2019年03月03日 | play
『チャイメリカ』

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1989年6月4日、「彼」は両手に買い物袋を提げて、天安門広場で一列に並んだ戦車の前にひとり立っていた。
その姿を、世界中の人が見た。そして彼は天安門事件のアイコンになった。
にもかかわらず、「彼=戦車男」が誰なのか、どうしてそこに立っていたのか、その後どうなったのか、誰も知らない。
ホテルの窓から「彼」を捉えた新聞社カメラマン・ジョー(田中圭)は23年後の「彼」を再び捉えようとする。
世田谷パブリックシアターでの鑑賞。

ジョーは事件当時19歳。「戦車男」に会おうと一念発起したときには40代になっている。
世界中の人が見た写真を撮った彼だが、自分自身のキャリアには━意識的にせよ無意識的にせよ━納得していない。もう一度、みんながあっと驚く一瞬を捉えて、新聞の一面を飾りたい。
でも時代はもう変わっている。米中関係も変わればメディアのコンプライアンスも変わってしまった。自由や民主主義なんという美辞麗句がいったい何を欺き何を犠牲にしているのか、世の多くの人は知ってしまった。
時代の変化にうまく順応することができなかった新聞社カメラマンが、遅まきながら自分と現実とのギャップに気づくまでがこの物語の一方の側面である。
もう一面は、1989年のその日からただ立ち止まったままの「当事者」のひとりの独白とでも言えばいいだろうか。

先日、某所でこの「戦車男」の画像があるものの喩えに引用されたのに、その場にいたほとんどの人がこの写真が何なのか理解できなかった、ということがあった。一度もこの画像を目にしたことがないと、彼らは答えた。
ロンドン演劇界でも最も権威ある賞といわれるローレンス・オリヴィエ賞を受賞した(2014)『チャイメリカ』を書いたルーシー・カークウッドは1984年生まれ。つまりこの作品の題材となる天安門事件のときはわずか5歳、戯曲を発表したときでさえ弱冠29歳だった。この画像を知らないと答えた日本人の大半が彼女と同世代前後であることを思うと、いかにこの作品が先鋭的であるか/逆にいえば日本のオーディエンスと歴史を動かした大事件との距離感を痛感せざるをえない。
ちなみに画像を引用したのはアジア系欧米人である。

ジョーの友人ヂァン・リン(満島真之介)がジョーに「戦車男?ひとりの話にしちゃうのか?」というセリフがある。
確かに、あのとき、あの場所には10万人の人がいた。ろくな武器も持たず、丸腰でただ広場にすわって政府に民主化を求めていた。
それなのに世界が注目したのは、たったひとりの「戦車男」だった。
天安門事件で検索すれば、いまも様々な画像がヒットする。多くは圧倒的な大群衆や彼らと対峙する人民解放軍や目を疑うほど残虐な殺され方をした犠牲者たちの画像だが、中でもやはり目を引くのはいろいろな角度から撮影された「戦車男」である。
当事者がどう考えたとしても、それほどあの画像のインパクトはストレートに人の心をうったのだ。その先に、戦車男の周りに、前に後にどんな人々がいて何を願ってあの場所に集まったのか、それを中国政府がどんな暴力でねじ伏せたのかという事実の入り口として、「戦車男」は最も機能的にその役割を果たしたのだろう。

だがその写真を撮った本人も、撮られた方も、その瞬間のあまりの巨大さに、そこから動くことができなくなってしまった。
ジョーにとっては己れの作品の影響力という栄光の巨大さであり、ヂァン・リンにとっては最愛の人を喪い後を追うこともできなかった痛みの巨大さである。
ジョーは新聞社を解雇されたことで自分の「静止」の無意味さを意識するが、1万人ともいわれる天安門事件の犠牲を払った後も経済発展の陰であらゆる人の人権を蹂躙する中国政府の不条理を許すことができないヂァン・リンはこの先どうなるのだろうか。
彼を心配してなにくれと世話をやく兄ヂァン・ウェイ(眞島秀和)でなくても、彼の将来を思うと不安で胸が苦しくなる。
事件当時高校生だった私がちょうどヂァン・リンと同世代にあたるからかもしれない。若くて無鉄砲で、自らの力でなんでも成し遂げられると信じて疑わなかったあのころのことは昨日のことのようにはっきり覚えているのに、そんなことはすべて幻想だったということを嫌というほど味わわされた。その傷の重みと痛みの方が、ずっとずっと大きくなってしまった。どこが傷だったのかもうわからないくらい、長い時間が経ったというのに。

3時間という長い戯曲だが38場と場面転換がめまぐるしく、音楽や縦長と横長の背景を組みあわせ回舞台を駆使した美術転換のテクニックがポップでアーティスティックで、いかにも若い劇作家の作品らしい舞台でした。でも3時間は長かった。
観客が疲れるぐらいだから演じるほうは相当疲れただろうと思う。とくにヂァン・リンを演じた満島真之介氏は肉体的にも精神的にもかなり消耗したんではないだろうか。お疲れ様でした。
個人的には舞台ではなく映像で観たい作品ですね。イギリス人作家らしくギッチギチに皮肉が効いてるから(アメリカ人の盲目的な身勝手さに対してとにかくむちゃくちゃ辛辣)、これを翻訳劇ではなく字幕付きの映像で観たらもうちょっとするっと入り込める気がします。

上演が決まってとても観たかったけど、もともとこの時期が多忙なため端から観劇を諦めていたにも関わらず、ふとした巡りあわせで観ることができた。感謝。


関連レビュー:
『藍宇 情熱の嵐』
『天安門、恋人たち』


一昨年、宮城県の田代島の海岸で拾ったアスファルトの欠片。波にもまれて角が丸く磨耗している。
震災から8年間に“現場”から唯一持ち帰った記念品。