落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

みえない罪の翳に

2023年09月28日 | TV

去年、全国水平社創立100周年を記念して製作された映画『破戒』を観たんだけど。
実は島崎藤村が好きで原作は中学生か高校生のころに読んでたので物語の内容にはまったく何の違和感もなかったんだけど、映画としての完成度がね…ちょっとというか、わりと残念で。推しの眞島秀和氏が主人公に大きな影響を与える活動家の猪子蓮太郎役で出てて、彼のお芝居なんか超・超素晴らしかったんだけどね…何でこうなっちゃったのかなー。

冒頭に貼ったAbema Prime「【部落差別】なぜネットで暴走する?地名やルーツを晒される被害が?就職や結婚に今も壁?『知らない世代』どう学ぶべき?」のアーカイブを観て改めて感じたんだけど、人権侵害とは何であるか、差別とはどういうものか、って概念自体が日本ではあまり認識されてないのがいちばんの問題だなと思います。

誤解を恐れずにいえば、人権侵害なんか世界中どこででも起きている。差別なんかあらゆる社会に蔓延っている。
だけど、少なくとも私が知る限りアメリカやフランスをはじめとしたヨーロッパや中国などの市民の間には、「我が国には人権侵害が存在している」「差別がある」というコンセンサスがある。それをよしとするか否かは個人の判断として。
だから「人権はまもられるべき」「差別はなくすべき」という意見が正義として認知されている。逆に、人権侵害や差別による衝突を回避するために、あえて差別的な政策が採用されることもある。政策を支持するのも支持しないのも人それぞれだけど、その判断には合理的な理由が存在する。合理的な理由も人それぞれだ。
ただし、そうした非人道的な政策はあくまでも、危機的状況を一時的に解消するための緊急避難的措置であるべきで、どこの政府にも、根本的に人権侵害をなくし、差別をなくす社会を築くための政策を模索する義務があると思う。

これが日本ではまったくお話にならない。
日本は単一民族国家だという言説を耳にしたことがある人は少なくないと思う。日本で人権侵害なんか聞いたことがない、差別なんかあるわけがないという人も多いはずだ。
当たり前のことだ。だって人権侵害が何なのか、差別がどういうものなのかを知らないんだから、認知しようがない。コンセンサスなんか存在し得ない。

そもそも憲法で保障されている基本的人権は義務教育で教わるものだけど、それが骨身に浸透している人はどれくらいいるだろうか。
検索すると、知恵蔵では「人間が人間らしく生きていくために必要な、基本的な自由と権利の総称」と定義している。
人権の考え方は18世紀末以降に世界各国の憲法に明文化されるようになったものなので、人の歴史全体の中で考えれば比較的新しいものだ。
もともとは人間の尊厳、法の下の平等、生命身体の安全、自由の保障、思想・信仰・言論・集会・結社の自由、移動の自由、プライバシー保護、財産権の保障、公平な公開裁判の保障、教育の権利や参政権などを指すという。新しい概念なので、時代によって微妙に変化はしている。

で、現代の日本では、これがすべての人にまるっと保障されなくてはならんということになっている。
なのに、「いいや違う」という人々がいて、他人の人権を侵害したり、差別したりする権利を主張し、行使する困った人々がいる。
彼らには彼らの正義があって、それをまもるためには、基本的人権を認めるわけにはいかないということにせねばならんという話です。
勝手な話です。まったく。

そしてもっと困ったことに、この基本的人権を認めませんよという人々が政府にいて、公の場でそれを堂々と口にして、みんながそれでわっはっはと笑ってしまっていたりする。公権力が堂々と人権侵害をしても許されている。むしろ差別や人権侵害を助長するような教育や制度が、たくさんの人々の批判をものともせずに横行するがままになっている。
なぜか。
人権侵害が何なのか、差別がどういうものなのかが、とことん軽視されているからだ。
それはもう絶望的に。
軽視されているから、それは何とかしなくてはという国民的議論には決してなることがない。

Abema Primeでも若い世代が部落差別を知らないのなら、みんな知らない方がいいという意見があった。賛同している出演者もいた。
その発言に悪意はないと思う。
だけど、その感覚こそが、人権侵害が何で差別がどういうものかを知ろうとしていない、知る必要がないという独善的な価値観に基づいていることを、もっと自覚してほしいと思う。
自分が人権侵害を経験したことがないから、差別をしたことがないから、そういうものを見聞きしたことがないからそれでいい、というのではもはや人間社会は成り立たない。

人権侵害が何で差別がどういうものか、私はここで説明するつもりはない。
ただいいたいのは、知らないことは罪だということだけです。
たとえあなたが知らなくても、あなたのすぐそばに、人権侵害や差別に苦しんでいる人がいます。いっぱいいます。それは現実です。
その現実に、見ないふり、知らないふりをするのは、とても卑怯なことだと、私は思う。
個人的な意見として。

関連リンク:日本国憲法

関連記事:『福田村事件』


守らない人々

2023年09月11日 | diary


(あくまで個人の意見です)

9月7日にジャニーズ事務所が記者会見をし、元社長ジャニー喜多川氏の性加害を謝罪、被害者の救済・補償を実施すること、現社長・藤島ジュリー景子氏が退任し、新社長に東山紀之氏が就任することが発表された。
顧問弁護士とジャニーズアイランド社長の井ノ原快彦氏も同席して4時間余にも及んだという会見は、一部しか観られなかった。そんな長時間観てられない。

でも、当日以降にスポンサー企業がジャニーズ事務所所属タレントの広告起用についての見解を相次いで発表し始め、契約更新を見合わせるか、あるいは今後は起用しないなど、概ね否定的な反応だったところをみれば、会見は失敗だったんだなと思った。

会見の一部と、各方面の報道を総合的にまとめた限り、ジャニーズ事務所が明言したのは大雑把に

1)藤島ジュリー景子氏は経営からは退くが、代表取締役に留任、被害者の救済・補償にあたる。
2)所属タレントとの関係性において東山氏が新社長に適任と判断した。
3)社名は変更しない。

の3点あたりと捉えてます。
間違ってたらごめんなさい。

個人的には、企業の再出発表明としてはアウトかなあという印象をもってしまった。

まずひとつめ。
被害者には「法を超えて」補償をするというが、では具体的に何をどうするかというディテールには言及されていない(してたらごめん)。
実際に誰が被害者かをどう認定し、どう補償をするのかというストラクチャーが提示されなければ、単にジャニーズ事務所の「やる気」を言葉にしただけでしかない。それで「そうかそれはよかった」と信用する人間っていますかね。私はちょっと厳しいっす。
担当する藤島氏は加害者張本人の親族なので賠償責任はあるけど、適任かどうかという点ではまったく違うと思う。言葉はきついけど、筋違いも甚だしいと思う。
たとえばあなたが性被害に遭いました。何年も経って加害者の家族がしゃしゃってきて「私があなたが被害者本人か認定します、補償の内容を決めましょう」なんていわれたとする。いや無理でしょ。え、何様?って思うでしょ。
そこは、性犯罪の被害者救済の実績のあるスペシャリスト集団で構成した専門家チームがあたるべきで、藤島氏にできるのは、補償と実費には加害者であるジャニー氏や加害を隠蔽したメリー氏から相続した遺産を全額充てますといってお金を出すことぐらいだと思う。だって故人の性加害の補償に、いま活動してるタレントたちの収益を充てるのはおかしい。意味わからんやん。

ふたつめ。
藤島氏は保有しているジャニーズ事務所の株をすべて放棄、持株会社に管理を移し、代表取締役や他グループ会社の役員職も降りるべき。
本人がいくら口頭で「経営からは退く」といったところで、株をもってる限り経営への発言権はある。株を保有し続けるのなら、社長を交代してもぶっちゃけほとんど意味はないと思う。
かつ、藤島氏は性加害の加害者とその罪を隠匿した人物の親族であり、この問題の中心人物のひとりでもあるからには、今後この会社やグループ会社があげる収益から利益を得る立場にないと思う。
彼女がいまのポジションにいる限り、どう足掻こうがこの会社の解体的出直しなど絵に描いた餅でしかない。彼女は補償金だけ出して、グループ全体から完全に身を引くべきだと思う。

みっつめ。
東山氏は十代のころからジャニーズ事務所の特異な企業体質にどっぷり浸かって人生を過ごしてきた。そういう人にこの会社の解体的出直しをリードするに能うスキルがあるかどうかを考えれば、答えは一目瞭然だと思う。
ジャニーズ事務所が本気でこの問題に向きあうのなら、連綿と受け継がれてきた異常な企業体質をまるっと解体して、できる限り新しく再建する必要がある。それを、問題の企業体質の中で育った人にやれるか。いややれないよ。普通に考えて。
もし、東山氏が極めて高度なモラルと何者のいかなる抵抗にも屈しない超人的胆力の持ち主であれば話は別だけど、会見ではさっそく東山氏の過去のハラスメント疑惑が追及されてたし、本人もしっかり否定はできなかったみたいだし。
社長を交代するなら、不祥事を起こした企業を再建した経験のある人に外部から来てもらう以外ないと思う。だって東山氏にそのスキルが足りてないことは誰からみても明らかなんだから。

よっつめ。
社名は変更するべきだと思う。
これまで何十年と積み上げてきたブランド力を維持したい気持ちはわかる。
でもね。ブランド力ってジャニーズ事務所が築いたものであると同時に、所属タレントの努力の賜物であるコンテンツや、彼らのファンが支えてきたものでもあるんだよね。だから逆にいえば「ジャニーズ」という元社長=性犯罪者の名前にこだわる必要は全然ないと思う。
むしろ「ジャニーズ」という名前を捨てることで「解体的出直し」の出発になるはず。歴史上稀にみるスキャンダルのイメージから脱却するためにも、社名は変えた方がいい。
「ジャニーズ」という名前が残る限り、被害者も、一般のオーディエンスも、それを耳にするたび元社長の性加害を連想するだろう。そんなのタレントさんたちが可哀想過ぎるでしょ。ブランド力もへったくれもない。逆に、社名に「ジャニーズ」を残すメリットって何?私には想像つかない。

個人的な話だが、中学生か高校生の一時期、東山紀之氏が好きだったことがある。父がヒガシ推しで(うちの父はイケメンに目がない)その影響で、確か写真集のような小さな本を買って眺めてた記憶があるけど、アルバムを買ったりライブに行ったりしたことはないし、長い彼のキャリアに関する知識もほとんどない。
ただとてもストイックで厳しい人だという評判はどこかで耳にしたことはある。それはそうだろう。でなければ30年以上も日本のショービジネス界の第一線で活動を続けることなんかできないんじゃないかと思う。
だとしても、彼のエンターテイナーとしてのキャリアと、とんでもない不祥事を起こした企業の建て直しには何ら関連性はない。むしろ彼が会社の看板として君臨することで、これまでの企業体質がそのまま受け継がれる可能性の方が高いと思う。すごく残念なことだけど。

残念といえば、会見を伝える報道の中に、被害と被害者について明確に言及するメディアが少なかったことが寂しかったです。
一部には、ジャニーズ性加害問題当事者の会などすでに被害を告白した方々のコメントを引いてる番組もあったけど、少なくとも、会見そのものは「被害そのものを中心にした組織改革」のスタートにはなってなかったんではないかと思う。
それでは、この問題の本質に対峙していくことにはならないのではないだろうか。

この問題はジャニー氏個人の犯罪というだけでなく、子どもの人権の問題だと思う。

1994年に日本が批准した「児童の権利に関する条約(通称:子どもの権利条約)」第19条にはこう書かれている。

1 締約国は、児童が父母、法定保護者又は児童を監護する他の者による監護を受けている間において、あらゆる形態の身体的若しくは精神的な暴力、傷害若しくは虐待、放置若しくは怠慢な取扱い、不当な取扱い又は搾取(性的虐待を含む)からその児童を保護するためすべての適当な立法上、行政上、社会上及び教育上の措置をとる。

2 1の保護措置には、適当な場合には、児童及び児童を監護する者のために必要な援助を与える社会的計画の作成その他の形態による防止のための効果的な手続並びに1に定める児童の不当な取扱いの事件の発見、報告、付託、調査、処置及び事後措置並びに適当な場合には司法の関与に関する効果的な手続を含むものとする。

この条文に則って今回の問題に対応するとなれば、ジャニーズ事務所は専門家の法的な援助のもとで、過去現在すべての所属タレントの「子どもの人権」をまもるためのプロセスに着手するべき、ということになる。

ジャニー氏の性加害とそれに連なる出来事はすべて、人が生まれながらにもっている基本的人権に関わる問題で、基本的人権は世界中どこでもまもられなくてはならないグローバルスタンダードだ。このグローバルスタンダードがまもれなければジャニーズ事務所は新たな再出発なんかできないし、取引企業もろとも投資家の信用を失うことになるだろう。海外にも多くのファンをもつ所属タレントたちの今後の活動にも大きく影響するかもしれない。

これまでのエンターテインメント業界では、しばしば人権は疎かにされてきた。
だけど、2016年に発覚したジミー・サヴィル事件や、ハーヴェイ・ワインスタイン事件(2017年)などを端緒に始まった業界の改革によって、性暴力や性差別や人種差別、セクハラ、パワハラなどの人権侵害は断じて許されないものとされるように変化しつつある。
ジャニーズ事務所は、長きにわたって続いた被害そのものを軸に据えて、こうした改革の流れに続くべきで、それは今回発表された計画(といっていいのだろうか)では達成される見込みは極めて低いと考えられる。

ジャニーズ事務所は長い年月をかけて、若い男の子で構成される特異なアイドルグループ産業を確立し、海外にまで及ぶエンターテインメント業界の発展に大きく寄与してきた企業だ。
その功績の偉大さに間違いはない。
だからこそ、過去に犯した誤りを矮小化することなく、正々堂々と向きあい、完全に決別するために実効的かつ透明性の高い計画をたてて、弛まぬ努力でそれを完遂してほしいと思う。

ま、どーせそんなの無理っしょ、って思ってる人もいっぱいいると思う。ていうかそれが大多数だと思う。
でもさ、そんなの寂しいじゃん。
私は寂しいと思うな。
曲がりなりにも、悶々と人権問題を考えてきたひとりの人間として。


児童の権利に関する条約(外務省)
基本的人権(コトバンク)
ジミー・サヴィル事件(BBC)
ハーヴェイ・ワインスタイン事件(SCREEN ONLINE)
ジャニーズ事務所ウェブサイト:外部専門家による再発防止特別チームの調査報告書

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鏡の向こうの悪魔の素顔

2023年09月04日 | diary

ジャニーズ事務所元社長・ジャニー喜多川氏によるタレントへの性加害がBBCのドキュメンタリーによって国際社会に暴露されて、元ジャニーズJr.たちの告発が相次いだころ、ある人に意見を求められた。
そのとき私は、「専門家の正式な調査の結果がはっきりするまでは何もいえない」と答えた。
ほんとうにそう思ったし、ごく個人的なやり取りの中でも無責任に勝手な意見を述べられるような問題ではないと思ったからだ。

ジャニー氏の性加害についてはかれこれ何十年も前から元所属タレントの暴露本が何冊も刊行されてたし、裁判にもなっている。いわば周知の事実だった。
にもかかわらず、長い間、ジャニーズ事務所に対しても、ジャニー氏個人に対しても、ほとんど事態の解明も法的責任も追及されないどころか、日本中のメディアがジャニーズ事務所に平伏し、依存し、彼らの提供するエンターテインメントに集まる莫大な利益を、何ら臆することなく堂々と貪り続けてきた。

私も、ジャニーズ事務所所属のタレントが出演している映画やテレビ番組を観ていたし、そのときには、彼らが晒されていたかもしれない暴力についてはちらとも考えていなかった。
それはそれ、これはこれ、である。

でも、被害を告白した人々に攻撃が向かうような事態になって(攻撃の内容にはここでは言及しない。気分が悪すぎるから)、果たしてそれでいいのかという疑問が湧いてきた。
8月29日に発表された外部専門家による再発防止特別チームの調査報告書によれば、ジャニー氏の性的虐待・不同意性交は1950年代から始まり、被害者は数百人にのぼるという。ある被害者は200回以上被害に遭ったと発言しているから、大雑把にいえば、ジャニー氏はごく日常的に未成年者にやりたい放題の性的暴行を続けていたということになる。
したがって、被害者の中には、いまもジャニーズ事務所に所属しているタレントや、退社したとしてもまだ一線で活動しているタレントが含まれている可能性がなくはないといえなくもない。

6月5日放送の報道番組で所属タレントが「憶測で傷つく人がいる」「あらぬ憶測を呼ぶことは何よりも避けなくてはいけない」と発言してたけど、結局はそういうことになる。
となると、憶測は脇においたとしても、「それはそれ、これはこれ」では済まされないと思う。でなければ、すでに明るみにでたとんでもない性犯罪を、これまで通り、無視し続けるのと同じになってしまうのではないだろうか。

多くのエンターテインメントには、性的付加価値が欠くべからざるパーツとして含まれている。中には性的付加価値なくしては成り立たないエンターテインメントもある。
とくにジャニーズ事務所は、年端もいかない子どもに露出過多な衣装を着せて(あるいは何も着せず)オーディエンスの視覚や性的刺激に訴えるコンテンツを湯水の如く量産し続けてきた。それこそ伝統的ともいえるぐらい大昔から。
これについてはかねがね「何でこんな小さい子の裸を見せられなきゃいけないんだろう」と個人的に思ってたけど、何十年も同じようなものがもりもりと提供されるからには、相応の需要があるのだろう。たぶん。

つまり極論をいえば、ジャニーズ事務所のクライアントとオーディエンスは、ローティーンの子どもたちを性的に消費することで、この会社がタレントに強制してきた性的な犠牲に加担してきたことになるのではないだろうか。
私自身も含めて。

こういうことをいうとすごく怒る人が少なからずいると思う(間違いなくいるだろう)。
だけど、この件で私自身の意見を述べるとするなら、そこに言及せざるを得ない。

そして、私はこれはジャニーズ事務所だけの問題にしてはならないと思っている。
未成年のタレントの肌を露出するコンテンツなら、他のタレント事務所もじゃんじゃんとつくり続けている。

性的付加価値が成果に強く影響するビジネスは、エンターテインメントだけに限らない。
たとえばスポーツ。昨今、アスリートを性的にとらえた画像や動画が問題になっているが、競技によってはコスチュームやユニフォームがすでに性的刺激に触れる場合がある。特定の競技を具体的に挙げるとどこかから爆弾が飛んできそうなので挙げないけど、露出度が高かったりボディラインが強調されるコスチュームや、アスリート本人の容貌なり体型なり性的アピール力が競技そのものの注目度や人気と結びついているケースは枚挙に遑がない。
競技によっては、運営組織があえて所属選手の性的付加価値をマーケティングに利用していることもある。

私は何も、エンタメやらスポーツから性的付加価値を切り離すべしなどというつもりはない。
そんなこと不可能だから。ていうかこの世の中、性的付加価値のないビジネスなんかほぼほぼ存在しないし(とジェンダー問題の専門家に聞きました)。
問題は、そこに、そのコンテンツを提供する本人―タレントなりアスリートなり―が成年であることと、彼ら自身の自発的かつ主体的な合意があるかないか、というところにある。

ここをはっきりさせないと、この問題は未来永劫解決なんかしないと思う。

ジャニー氏は芸能界デビューをエサに、十代の男の子たちを性的に虐待し続けた。
そういうことをして来たのは、決してジャニー氏だけではないと思う。同じようなことが、おそらくエンターテインメント業界の他の場所でも起こっていたはずだし、スポーツ界でも教育界でも起きていた。コーチやトレーナーや監督にセクハラを受けた、性的暴行をうけたというアスリートやアスリートの卵たちはいったい何人いるだろう。学校教師や部活や学習塾や習い事の教師に性的に虐待されたという子どもは数えきれないだろう。先月発覚した四谷大塚の事件がろくに報道されていないのは、ジャニーズ事務所の問題とどこかでつながっているはずだ。

それらの現場では必ず、加害者と被害者のパワーバランスに偏りがある。加害者はそれを利用して、被害者を弄び続けて来たのだ。
しかもそれは、一部の小児性愛者(ペドファイル)やジャニー氏が指摘された性嗜好異常(パラフィリア)だけの責任でさえない。
私は、こうした事件の責任を加害者の性的嗜好だけに求めるのは、完全な思考停止だと思う。
なぜなら、性犯罪にはそれを許容する環境が必要不可欠だからだ。弱い者を食いものにすることが可能なのは、それを問題としない社会があるからだ。

もうこういうことは絶対にやめなくてはならない。
立場を利用して誰かを性的に弄ぶなどということが決して許されない社会を築いていかない限り、子どもたちに健全で安全な未来を用意してあげることなんか、できない。
そのために何をしたらいいのか、どこを目指したらいいのか、みんなが真面目に向きあっていく必要があると思う。

そんなことがほんとにできるかどうかはさておいて、とにかく、スタートラインにつこうよ。つきたいよと、私は思う。

 

ジャニーズ事務所ウェブサイト:外部専門家による再発防止特別チームの調査報告書

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羊たちの暴走

2023年09月03日 | book

『羊の怒る時 ――関東大震災の三日間』 江馬修著

関東大震災当時、東京・代々木に在住していた作家・江馬修が体験した被災の日々に起きた朝鮮人に関する流言蜚語と目撃談を記録した「小説」。作家本人は小説としているが、中身は地震発生後の数日間を時系列で描いたノンフィクション。

関東大震災の際の朝鮮人虐殺を書いたノンフィクションは何冊か読んだし、フィールドワークにも参加してきた。どんな流言蜚語が拡散してどこでどれだけの人が殺されたとか、軍が混乱に乗じて朝鮮人や中国人や活動家を殺戮したといった断片的な「情報」には触れてきた。
でもずっと、重要なピースが足りない気がしてきた。
一次資料だ。

犠牲者の数は当時の調査で6,000人以上とされている。
避難中や収容された警察署の中での集団リンチだったり、収容所から引きずり出されて処刑されたり、朝鮮人たちが殺害された状況は千差万別だが、そこには必ず加害者と目撃者がいたはずだ。それもたくさん。
その目撃者の声が聞きたかった。
横浜では震災後に子どもたちが書いた作文が残されている(関連記事)。東京でも約1,000点の作文が新たに見つかり、そこにも朝鮮人が殺害される現場を見たという体験が書き残されている。
それはそれとして、民衆が集団ではたらく暴力になす術もない子どもではなく、大人の視点から書かれた真実が読みたかった。

震災前から高く評価され、社会的弱者に注目する作風から人道主義作家とよばれていた江馬修のことはつい最近知った。それもそのはず、この『羊の怒る時』は1925年の発表当時ろくに顧みられず、1989年の復刻を経て、震災から100年になる今年文庫化された。
100年といっても事件の全容が明らかにされないままの通過点でしかないけど、各地で講演会や慰霊祭など事件を回顧する催しがあったり、本書のような関連書籍が何冊も発刊されたり、それはそれで事実に少しでも近づくきっかけになればいいと思う。
その中で本書に出会えたことは、個人的に嬉しかった。

江馬さんが住んでいた代々木でも家屋の倒壊などの被害はあったが、火災はなかったらしい。だが神宮の森の向こうの猛火が夜空を照らす明かりで、この地震が只事ではないことを知る一方、通信網も流通網も途絶え、確実な情報は何も伝わってこない。
これからどうなるのかも、東京市内で暮らす家族や友人たちの安否もいっさいわからないという不安の中で右往左往する江馬さんが見聞きしたことが、まあびっくりするぐらい事細かに書かれている。読んでて映像がくっきり浮かんでくるぐらい細かいです。なので、だんだん著者が自分の知ってる人みたいに感じられてくる。だから江馬さん。

江馬さんが最初に流言蜚語に接したのは、2日の午後3時ごろと書かれている。情報源は隣家の軍人で、「何でもこの混雑に乗じて朝鮮人があちこちへ放火して歩いていると言うぜ」という噂話だった。軍人は続けて「日頃日本の国家に対して怨恨を含んでいるきゃつらにとっては、言わば絶好の機会というものだろうからね」という。
映画『福田村事件』でもいつもいじめられている朝鮮人が仕返しをしてくるだろうという表現があったが、冷静に考えれば、食べるものも着るものも眠る場所さえない未曾有の災厄の最中に、日本人と同じように被災している外国人に犯罪を目論む余裕があるとなぜいえるのか、簡単に想像がつくはずだと思う。『羊〜』には朝鮮人が避難者に化けて悪事をはたらいているとふれまわる人物も登場するけど、朝鮮人も被災すれば避難するのに、化けるも何もない。控えめにいってちょっと頭おかしいです。

そもそも井戸に投げこむという毒や爆弾を朝鮮人がどうやって入手するというのか。集団で人々を襲うとか強姦するとか、それは朝鮮人ではなく、日本人が朝鮮でしてきたことに違いなく、となると流言蜚語の出所は「自分たちがしてきたことをそのままやり返される」という、罪悪感がそのまま警戒心に変換された単純な被害妄想ではないだろうか。

江馬さんはその直後に軍人の息子から、新宿で朝鮮人が追い回されていたという目撃談を耳にする。「朝鮮人を見たら片っぱしから殺しても差し支えないという布令が出た」と発言する者までいる。
海軍省船橋送信所が朝鮮人を取り締まるよう各地の地方長官に向けて打電したのは3日午前8時だ。ということは、それ以前に流言飛語はすでに広範囲に流布していて、ほぼ同時に虐殺が始まっていたことになる。

江馬さんは1日から3日の間に被災地を歩きまわる道中、あらゆる場所で見聞きする朝鮮人に対する流言蜚語と自警団の検問に閉口するが、朝鮮人の犯罪の現場をその目で見たという人には一度も会っていない。
当然だ。そんな朝鮮人はいなかったのだ。それは、朝鮮人を虐げてきた日本人の心の中にいた悪魔だった。その悪魔が、罪もない朝鮮人を殺したのだ。

江馬さんは本郷の壱岐坂付近で、10人ほどの群衆が若い朝鮮人留学生たちを取り囲んで暴行しているところに遭遇し、どうにかして助けてやりたいと思いながらも、何もできずにその場を立ち去る。
内心で自分を「卑怯者」と罵りながら。

私が読みたかったのは、この一節だったのだと思う。
いくら非常時とはいえ、日本人の全員が流言蜚語を何の疑いもなく鵜呑みにし、朝鮮人なら誰でも捕まえて殺してしまえばいいと思いこんでいたわけではないはずだと思う。
だけど、集団の狂乱に正面きって異を唱え暴力に抵抗するほど人は強くない。そして、すでに起こってしまったこと、犯してしまった過ち、主張できなかった正義を省みることは簡単なことではない。
江馬さんは自らそれを素直に「卑怯者」と書いた。
そのささやかな良心に触れることができただけで、この本を読んでよかったと思った。

江馬さんは浅草区長だった兄に同行して悲惨な被災地を見て回るんだけど、その間の兄と区役所職員たち周囲の人々との会話が無茶苦茶強烈です。
浅草区は現在の台東区の東部にあたり、地震後の火災で実に96%が焼失、死者行方不明者は約3,600人にも及んだ。なかでも、堀で囲まれた敷地に3階建の遊郭がひしめくように密集していた吉原では500人以上が亡くなっていて、火から逃れようと大勢が弁天池に飛びこんでそのまま焼死してしまった。
そうした犠牲者の遺体を収容する厳しい作業を、彼らは笑い話にしていた。
惨状があまりにも酷すぎて笑うしかないのだろうか。彼らの表現が具体的(かつ江馬さんの記憶力が驚異的)なせいで情景がありありと想像できてしまうのだが、もし自分がその場にいてそれを笑えるかと問われるとちょっとそこは想像が追いつかない。
東日本大震災のときの遺体捜索に従事していた方々の体験談と似てはいるけど、東北の皆さんは決して笑ってはいなかったし。

全体にわたって描写がとにかく細かくてすごくリアルです。
震災の被害を大局からまとめた吉村昭の『関東大震災』と、ミクロで記録したこの本は、いい対になると思います。
題材が題材だから重くて読みづらかったらどうしようと思ったけど、杞憂でした。読んでよかったです。

関連記事:
『福田村事件』
『関東大震災』 吉村昭著
『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』 加藤直樹著
『虐殺のスイッチ 一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか』 森 達也著
加藤直樹さんと一緒に、埼玉から関東大震災・朝鮮人虐殺を考える(フィールドワーク)
関東大震災時の朝鮮人虐殺地のフィールドワーク

外部リンク:
9月、東京の路上で


あたしの名前はキム・ソンリョ

2023年09月02日 | movie

『福田村事件』

日本統治下の朝鮮を離れ、妻・静子(田中麗奈)とともに故郷に戻ってきた澤田(井浦新)。リベラルな村長・田向(豊原功補)は京城(ソウル)で教師をしていた澤田の帰郷を喜び、村の学校で教えてほしいと頼みこむが、なぜか心を閉ざした澤田はにべもなく断るのだった。
一方、薬の行商をしている新助(永山瑛太)は一族を率いて讃岐を出発、関東方面に商いの旅に出る。
関東大震災直後の1923年9月6日、千葉県福田村(現在の野田市)で起きた行商団虐殺事件をドキュメンタリー作家の森達也が映像化。

このブログで何度か書いている通り、私は在日コリアン3世だ。
祖父母が渡日したのは関東大震災から数年後の1920年代後半〜1930年代と聞いているから、私自身と関東大震災当時の朝鮮人虐殺事件に直接的な関わりはない。
でも、2011年の東日本大震災をきっかけに各地で災害復興支援ボランティアとして活動したとき、被災地で100年前とほとんど同じデマを何度も耳にした経験は、トラウマのような傷となって、心の底にこびりついて離れなくなった。

デマを口にする人々に悪意はないかもしれない。だが、自分が発しているその言葉に何の責任も保とうとはしていない。むしろ善意で語っていることさえある。怖かった、傷ついた、という被害者意識がそうさせていることもある。
人間には知性があるから、極端に偏った情報に触れたとき、本来ならば一度立ち止まって冷静に判断することができるはずなのに、できなくなってしまうのはなぜなのだろう。

映画では、被害が大きかった東京市内から避難してきた被災者の口伝いに「朝鮮人が集団で人を襲った」「強姦をはたらいている」「井戸に毒を放りこんでいる」などというデマが村にもたらされるが、そもそも地震の前から日本人に朝鮮人への差別意識が潜在的に存在していたことも描かれている。
1910年の日韓併合以来、日本が朝鮮の人々をどれだけ虐げてきたか。ならばこういうときこそひどい仕返しをされるかもしれない、という罪悪感に基づく警戒心があったことや、それが、互いに抑圧しあう閉鎖的な農村社会に不穏な波風を立てる過程も、丁寧に表現されている。

さらには、在郷軍人会の存在が悲劇を助長したことも明確にしている。戦場を経験した彼らは、命を守るためなら相手の命を奪っても構わない、いざというときには考えている猶予などない、というある意味異常な生存本能をもっている。しかも、軍国主義のもとで自警団を指揮する彼らの立場が、行政の指示系統を機能不全に陥れる。

人は、事件といえば「起こってしまった犯罪」そのもののことを認知・記憶するけれど、この映画では、犯罪に至るまでに具体的にどのようなプロセスが重ねられていったのか、どんな要因が絡まりあっていたのか、いつなら悲劇をくいとめることができたはずなのかを、わかりやすく語っている。
村長は「軍隊、憲兵、警察の許可なく通行人を誰何してはならん。許可なく一般人民は武器または凶器を携帯してもならん」という政府の戒厳令を村に伝え、自警団の解散を促す。
新助たちは、彼らを朝鮮人だと決めつけようとする自警団に、行政発行の行商人鑑札を提示している。
5日前に朝明(浦山佳樹)と信義(生駒星汰)から湯の花を買った静子と澤田は、彼らはほんとうに讃岐からきた行商人だと証言している。

立ち止まるチャンスは、何度もあったのに。
まるで、村人たちは初めから人殺しがしたかっただけのような気がしてしまうのが、悲しい。

新助の最後のセリフは、おそらく、この作品のつくり手がいちばん伝えたかった一言だと思う。
そして在郷軍人・秀吉(水道橋博士)の最後のセリフは、やはりつくり手たちが、絶対に許容すべきでないと考えた概念なのだろう。
登場人物たちのセリフで人々の名前を強調する場面が繰り返されるのも、すごく大事なメッセージだと思う。

正直にいうと、森達也のドキュメンタリーを何回か観ていて「ドキュメンタリー作家の劇映画ってどうなんだろう」という疑問を持ちつつ劇場に足を運んだ。
失礼しました。ほんとにすいませんでした。
映画は脚本というけど、今作の脚本は荒井晴彦・井上淳一・佐伯俊道という超ベテラン勢が手がけている。この脚本がもう素晴らしい。完璧。文句のつけようがない。
人物設定もよく計算されている。福田村の住人でありながら外地からの帰還者という“異物”である澤田夫妻や、新聞記者の楓(木竜麻生)、行商団の少年・信義は、現代人である観客や語り手の視線を表し、観る者を物語の世界へ導く役目を果たしている。倉蔵(東出昌大)と咲江(コムアイ)、貞次(柄本明)とマス(向里祐香)の不倫や、大地震で人々が恐れ慄いているときこそ儲けどきと意気込む新助たちの阿漕な商売など、時代背景を反映した人の業の描写も、とても生き生きしている。

劇中には、福田村事件以前に起きた亀戸事件や堤岩里事件、部落差別やハンセン病患者への差別、水平社宣言など、日本の国家犯罪や差別の歴史を語る上で欠くことのできないいくつもの事例が登場する。行商団の人々や澤田夫妻の会話でも、差別がいかに理不尽で人道に反しているか、本質から目を背ける思考停止がどれほど罪深く非人間的かが、自然に語られている。
会話の一つひとつの完成度に、この映画をつくろう、世に問おうとする人たちの覚悟を感じました。したがって、なぜこの作品が朝鮮人虐殺ではなく福田村事件をとりあげたのかという確信も伝わる。

これが世紀の傑作と評価されるかどうかはまだわからない。
だけど、誰もが観るべき素晴らしい作品であることに間違いはないです。

倉蔵のキャラ設定には笑ったよね…この役に東出昌大をキャスティングした人は鬼だと思う。
芸術的なプロポーションで露出高めな造形が存分に堪能できたのは眼福だったけどもさ…例の醜聞でなんか嫌な印象もっちゃってましたけど、大丈夫、そういう人も今作の東出さんは楽しく?観れると思います(笑)。


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