『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』 リチャード・ロイド・パリー著 濱野大道訳
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震災直後から被災地に通い続けた在日20年の英国人ジャーナリストが、その場所にたどり着いたのは半年後のことだった。
以来5年間の取材を、石巻市立大川小学校で起こった事故と多くの被災者が経験した霊体験を軸にまとめ、2017年に英米で刊行されるやガーディアンやエコノミストなど各国メディアから注目を集めたノンフィクションの日本語版。
私が初めて東日本大震災の被災地を実際に目にしたのは2011年の4月のことで、それは石巻市だった。
そのとき感じたえもいわれぬ感情を、いまも、ありありと思い出すことができる。
思い出すことはできるのだが、うまく言葉にすることはできない。
唇が震え、のどがきゅっとしめつけられる。小さく縮んで固まった胃が、襟元までぐいっと上がってくるような感覚。顔がかっと熱くなり、こめかみのあたりの筋肉がきりきり緊張するのがわかる。
それは、涙もでないほど悲しい光景だった。
目に映るすべてのものが壊れ、損なわれ、泥に汚れ、奪いつくされていた。
いまを生きている人間が想像できる範囲をはるかに超えた、巨大な暴力の破壊。
とにかく読みやすく、わかりやすい本だった。
まずテーマをふたつだけに絞ったのがすばらしい。東日本大震災という災害は規模も大きければ被害の側面も実に多様である。それをいちいち全方位的に取り上げるのではなく、学校管理下で児童を死なせた唯一の小学校・大川小学校と、1万8000人が突如として地上から姿を消すという特殊な環境で生じる生死の狭間のエアポケットという題材だけに限ることで、この未曾有の大災害が日本社会に与えた傷の奥にはいりこむことに成功している。かといって、このふたつだけを切りとってマニアックに追求しているだけの本でもない。描こうとしているのはあくまでも、これらの出来事を通して手にとることのできる、あの大災害と日本社会との関係性の全体像ではないかと思う。
アプローチもおもしろい。インタビュイー(本書では主に被災者)の体験を、彼ら個人の経験談として徹底して主観的に描いているのだが、一方で外国人の視点から海外読者に向けて、日本独自の価値観・世界観をストレートに描写してもいる。だからものすごく繊細でありながら、同時に、日本国内のメディアにはなかなかできないくらい大胆でもあるのだ。
私自身は日本生まれ日本育ちではあるが、東北人ではなくまた外国人でもあり、この独特のアプローチが読んでいてとても心地よかった。いままで、強く感じてはいても口に出して誰かにいうことは憚られていたことを、いきなりずばりといってもらえたような感覚だった。
一方で、ボランティアを始めた当初の、忘れがたい切なさを改めてまざまざと思い出させられるような気分にもなった。自分でも忘れるまい、忘れてはいけないと思っていてもつい棚上げにしてしまいがちな初心を、ほらここにあるよ、わかってるからねとリマインドしてもらった感じ。
ジャーナリストではなく復興支援ボランティアとして災害被災者に接する身なので、私個人はこれまで、被災された方々に自分からストレートに被災体験を訊ねるということをほとんどしたことがなかった。ボランティアが被災された方に接するのは、取材ではなくあくまで皆さんに寄り添うのが目的だからだ。
だから、この本に描かれた「個人の体験としての震災」の再現を読んでとてもすっきりした気分にもなれた。触れたくても触れることができなかった、触れ方もわからなかったものに、やっと少しだけ触れたような気がした。登場する大川小学校被災児童のご遺族のなかには、実際に何度かお目にかかったりお世話になったりした方々も含まれている。面と向かってお会いしていても、目的もなく彼らの体験について細かい質問なんかできないことが多い。でも知っておかなくてはならないこともあるから、既出のインタビューなどで補完するしかないのだが、それだけではあまりにも間接的で断片的すぎた。そんな認識の隙間が、この本でかなり埋まったのではないかと感じている。
もうすぐあの大災害から7年が経とうとしている。
復興の歩みは決して止まってはいないけれど、被害もまたいまも続いている。
なのに、被災地の外ではしっかりと風化が進んでいる。
絶対に風化させてはいけない、と思う。
あんなことがあったんだから、私たちは変わらなくてはならない。
あのときから始まった価値観の分断ー原発事故、震災遺構、復興事業をめぐる地域や家族や行政の間の溝ーは、何も災害によって初めて発生した分断ではない。それはもともと私たちが暮らす現実社会の中にあったのに、誰もが都合よくみないようにして蓋をして誤魔化してきた分断だった。
この分断を、あれほどの大災害によって目の当たりにした私たちが、もしまた「見なかったこと」「なかったこと」にしてしまったら、未来はどうなるだろうか。
そこに、果たして未来はあるといえるのだろうか。
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震災直後から被災地に通い続けた在日20年の英国人ジャーナリストが、その場所にたどり着いたのは半年後のことだった。
以来5年間の取材を、石巻市立大川小学校で起こった事故と多くの被災者が経験した霊体験を軸にまとめ、2017年に英米で刊行されるやガーディアンやエコノミストなど各国メディアから注目を集めたノンフィクションの日本語版。
私が初めて東日本大震災の被災地を実際に目にしたのは2011年の4月のことで、それは石巻市だった。
そのとき感じたえもいわれぬ感情を、いまも、ありありと思い出すことができる。
思い出すことはできるのだが、うまく言葉にすることはできない。
唇が震え、のどがきゅっとしめつけられる。小さく縮んで固まった胃が、襟元までぐいっと上がってくるような感覚。顔がかっと熱くなり、こめかみのあたりの筋肉がきりきり緊張するのがわかる。
それは、涙もでないほど悲しい光景だった。
目に映るすべてのものが壊れ、損なわれ、泥に汚れ、奪いつくされていた。
いまを生きている人間が想像できる範囲をはるかに超えた、巨大な暴力の破壊。
とにかく読みやすく、わかりやすい本だった。
まずテーマをふたつだけに絞ったのがすばらしい。東日本大震災という災害は規模も大きければ被害の側面も実に多様である。それをいちいち全方位的に取り上げるのではなく、学校管理下で児童を死なせた唯一の小学校・大川小学校と、1万8000人が突如として地上から姿を消すという特殊な環境で生じる生死の狭間のエアポケットという題材だけに限ることで、この未曾有の大災害が日本社会に与えた傷の奥にはいりこむことに成功している。かといって、このふたつだけを切りとってマニアックに追求しているだけの本でもない。描こうとしているのはあくまでも、これらの出来事を通して手にとることのできる、あの大災害と日本社会との関係性の全体像ではないかと思う。
アプローチもおもしろい。インタビュイー(本書では主に被災者)の体験を、彼ら個人の経験談として徹底して主観的に描いているのだが、一方で外国人の視点から海外読者に向けて、日本独自の価値観・世界観をストレートに描写してもいる。だからものすごく繊細でありながら、同時に、日本国内のメディアにはなかなかできないくらい大胆でもあるのだ。
私自身は日本生まれ日本育ちではあるが、東北人ではなくまた外国人でもあり、この独特のアプローチが読んでいてとても心地よかった。いままで、強く感じてはいても口に出して誰かにいうことは憚られていたことを、いきなりずばりといってもらえたような感覚だった。
一方で、ボランティアを始めた当初の、忘れがたい切なさを改めてまざまざと思い出させられるような気分にもなった。自分でも忘れるまい、忘れてはいけないと思っていてもつい棚上げにしてしまいがちな初心を、ほらここにあるよ、わかってるからねとリマインドしてもらった感じ。
ジャーナリストではなく復興支援ボランティアとして災害被災者に接する身なので、私個人はこれまで、被災された方々に自分からストレートに被災体験を訊ねるということをほとんどしたことがなかった。ボランティアが被災された方に接するのは、取材ではなくあくまで皆さんに寄り添うのが目的だからだ。
だから、この本に描かれた「個人の体験としての震災」の再現を読んでとてもすっきりした気分にもなれた。触れたくても触れることができなかった、触れ方もわからなかったものに、やっと少しだけ触れたような気がした。登場する大川小学校被災児童のご遺族のなかには、実際に何度かお目にかかったりお世話になったりした方々も含まれている。面と向かってお会いしていても、目的もなく彼らの体験について細かい質問なんかできないことが多い。でも知っておかなくてはならないこともあるから、既出のインタビューなどで補完するしかないのだが、それだけではあまりにも間接的で断片的すぎた。そんな認識の隙間が、この本でかなり埋まったのではないかと感じている。
もうすぐあの大災害から7年が経とうとしている。
復興の歩みは決して止まってはいないけれど、被害もまたいまも続いている。
なのに、被災地の外ではしっかりと風化が進んでいる。
絶対に風化させてはいけない、と思う。
あんなことがあったんだから、私たちは変わらなくてはならない。
あのときから始まった価値観の分断ー原発事故、震災遺構、復興事業をめぐる地域や家族や行政の間の溝ーは、何も災害によって初めて発生した分断ではない。それはもともと私たちが暮らす現実社会の中にあったのに、誰もが都合よくみないようにして蓋をして誤魔化してきた分断だった。
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