落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

一輪車と竹馬

2018年01月28日 | book
『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』 リチャード・ロイド・パリー著 濱野大道訳

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震災直後から被災地に通い続けた在日20年の英国人ジャーナリストが、その場所にたどり着いたのは半年後のことだった。
以来5年間の取材を、石巻市立大川小学校で起こった事故と多くの被災者が経験した霊体験を軸にまとめ、2017年に英米で刊行されるやガーディアンやエコノミストなど各国メディアから注目を集めたノンフィクションの日本語版。

私が初めて東日本大震災の被災地を実際に目にしたのは2011年の4月のことで、それは石巻市だった。
そのとき感じたえもいわれぬ感情を、いまも、ありありと思い出すことができる。
思い出すことはできるのだが、うまく言葉にすることはできない。

唇が震え、のどがきゅっとしめつけられる。小さく縮んで固まった胃が、襟元までぐいっと上がってくるような感覚。顔がかっと熱くなり、こめかみのあたりの筋肉がきりきり緊張するのがわかる。
それは、涙もでないほど悲しい光景だった。
目に映るすべてのものが壊れ、損なわれ、泥に汚れ、奪いつくされていた。
いまを生きている人間が想像できる範囲をはるかに超えた、巨大な暴力の破壊。

とにかく読みやすく、わかりやすい本だった。
まずテーマをふたつだけに絞ったのがすばらしい。東日本大震災という災害は規模も大きければ被害の側面も実に多様である。それをいちいち全方位的に取り上げるのではなく、学校管理下で児童を死なせた唯一の小学校・大川小学校と、1万8000人が突如として地上から姿を消すという特殊な環境で生じる生死の狭間のエアポケットという題材だけに限ることで、この未曾有の大災害が日本社会に与えた傷の奥にはいりこむことに成功している。かといって、このふたつだけを切りとってマニアックに追求しているだけの本でもない。描こうとしているのはあくまでも、これらの出来事を通して手にとることのできる、あの大災害と日本社会との関係性の全体像ではないかと思う。

アプローチもおもしろい。インタビュイー(本書では主に被災者)の体験を、彼ら個人の経験談として徹底して主観的に描いているのだが、一方で外国人の視点から海外読者に向けて、日本独自の価値観・世界観をストレートに描写してもいる。だからものすごく繊細でありながら、同時に、日本国内のメディアにはなかなかできないくらい大胆でもあるのだ。
私自身は日本生まれ日本育ちではあるが、東北人ではなくまた外国人でもあり、この独特のアプローチが読んでいてとても心地よかった。いままで、強く感じてはいても口に出して誰かにいうことは憚られていたことを、いきなりずばりといってもらえたような感覚だった。
一方で、ボランティアを始めた当初の、忘れがたい切なさを改めてまざまざと思い出させられるような気分にもなった。自分でも忘れるまい、忘れてはいけないと思っていてもつい棚上げにしてしまいがちな初心を、ほらここにあるよ、わかってるからねとリマインドしてもらった感じ。

ジャーナリストではなく復興支援ボランティアとして災害被災者に接する身なので、私個人はこれまで、被災された方々に自分からストレートに被災体験を訊ねるということをほとんどしたことがなかった。ボランティアが被災された方に接するのは、取材ではなくあくまで皆さんに寄り添うのが目的だからだ。
だから、この本に描かれた「個人の体験としての震災」の再現を読んでとてもすっきりした気分にもなれた。触れたくても触れることができなかった、触れ方もわからなかったものに、やっと少しだけ触れたような気がした。登場する大川小学校被災児童のご遺族のなかには、実際に何度かお目にかかったりお世話になったりした方々も含まれている。面と向かってお会いしていても、目的もなく彼らの体験について細かい質問なんかできないことが多い。でも知っておかなくてはならないこともあるから、既出のインタビューなどで補完するしかないのだが、それだけではあまりにも間接的で断片的すぎた。そんな認識の隙間が、この本でかなり埋まったのではないかと感じている。

もうすぐあの大災害から7年が経とうとしている。
復興の歩みは決して止まってはいないけれど、被害もまたいまも続いている。
なのに、被災地の外ではしっかりと風化が進んでいる。
絶対に風化させてはいけない、と思う。
あんなことがあったんだから、私たちは変わらなくてはならない。
あのときから始まった価値観の分断ー原発事故、震災遺構、復興事業をめぐる地域や家族や行政の間の溝ーは、何も災害によって初めて発生した分断ではない。それはもともと私たちが暮らす現実社会の中にあったのに、誰もが都合よくみないようにして蓋をして誤魔化してきた分断だった。
この分断を、あれほどの大災害によって目の当たりにした私たちが、もしまた「見なかったこと」「なかったこと」にしてしまったら、未来はどうなるだろうか。
そこに、果たして未来はあるといえるのだろうか。


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「小さな命の意味を考える会」座談会
講演会「小さな命の意味を考える~大川小事故6年間の経緯と考察」
『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』 池上正樹/加藤順子著
『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』 池上正樹/加藤順子著
『呼び覚まされる 霊性の震災学』 金菱清(ゼミナール)編
文藝春秋増刊「つなみ 被災地のこども80人の作文集」 2011年 8月号 森健編
『遺体 明日への十日間』

復興支援レポート

パイプとバイブ

2018年01月27日 | book
『ここは、おしまいの地』 こだま著

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狂ったように怒ってばかりの母、衝突してばかりだった妹たち、友だちもなく楽しい思い出もなかった学校生活。
「ヤンキーと百姓が9割を占める集落」だった地元を離れることだけを考えていた思春期から時は流れ、厄介な持病すら軽妙に綴ることができるようになった『夫のちんぽが入らない』著者のエッセイ集。

あの『おとちん』ショックから早1年。また一気読みしてしまった。
題材はただただ貧しく退屈だった寒村で過ごした子ども時代、どこか普通じゃない家族たち、職場の先輩や入院先の同室仲間やスタッフなど、誰にとっても身近なものばかりだ。
なるほど書かれたエピソードのひとつひとつはちょっと特殊かもしれない。著者は自分の境遇の特殊さがコンプレックスで、「なんでうちは普通じゃないのか」とひたすら悩んだというが、大なり小なりどこの家にもどの地域にも、他とは違っておかしなところはいくらもある。ちょっと客観的にとらえてみれば互いの差なんて大したものではなかったり、逆に個性になったりもする。乱暴な言い方をすれば、要は受けとめ方の問題だし、大概の人はなんでもないこととして受け流しながら暮らしているのではないだろうか。世間一般の子どもはテレビの「サザエさん」みたいなのが普通だとどこかで思い込んでいるが、あんなものは所詮虚構でしかないのだから。
ところがこだまさんにはそういう自己処理が、長い間まったくできなかった。

その強烈なコンプレックスが、傍目にはなんの価値もない些細な日常のエピソードのすべてを、珠玉のエッセイに磨き上げている。
絶妙なリズム感と軽やかさ、夫や両親をはじめとする親族や同級生たちなどの登場人物たちだけでなく、自分自身とのえもいわれぬ微妙な距離感のなんと心地よいことか。その距離は苦悩や絶望ですらどこか滑稽にパッケージしてしまう。それでいて、ちょうどいいバランスで混ぜられたリアルなディテールがスパイスのように効いている。詳しすぎるわけでもなく、かといって漠然と誤魔化されてもいない、読んでいて情景がなんとなく頭に浮かんでくるぎりぎりのリアリティなのだ。そんなのどうやって調整してるんだろう。
いつか、この文体にいたるまでの葛藤も詳しく読んでみたい気がする。

『おとちん』もそうだったけど、彼女の文章を読んでいると、全然状況は違うのに、自分自身の過去のコンプレックスもなんだか許せるような気分になってくる。
親兄弟との確執や親族関係の軋轢も、子ども時代に味わった惨めさも悲しさも寂しさも、うまく忘れられもせず折りあいもつけられないままの自分の未熟さすら、「まあいっか」と思えてくる。
こういうのをまさに癒しっていうんだろうな。
悩んだり苦しんだりした時間を忘れるのではなく、それはそれとしてちょっと切り離して眺められるようになれば、無駄に肩に乗っかっていたしんどさもどこか適当な場所にしまって、その重さからは自分を解放することもできる。

こだまさんは、自分のプライベートを題材に文章に書いて公表していることを親族の誰にも伝えていないというが、去年大ベストセラーにもなった『おとちん』はすでに実写映像化まできまっている。個人的な希望としては吉田大八監督、満島ひかりと松田龍平主演でお願いしたい。
公開されたあと、家族がこの事実に気づくのか気づかないのか、こだまさんがそのことを題材にこんどはどんな作品を書くのか、いまはそれがもう楽しみでしょうがないです。

灯台の思い出

2018年01月25日 | movie
『嘘を愛する女』

5年間同棲した恋人・桔平(高橋一生)がくも膜下出血で倒れ、名前も職業も嘘だったことを知った由加利(長澤まさみ)。親族も友人もおらず携帯電話もパソコンももたず、クレジットカードも銀行口座も健康保険証すらない桔平の身元を、由加利は何も知らなかった。
いつ桔平の意識が回復するかわからないまま、コインロッカーに隠されていたノートPCに残された小説を頼りに、瀬戸内海で桔平の身元を調べてまわるのだが・・・。

観ている最中、ふと昔の彼のことをふと思いだした。
穏やかで優しくて、ちょっと頼りないところはあったけどいつも私のことをとても大事にしてくれた、すてきな男性だった。
丸い眼鏡がちょっとミステリアスで、頼めば大抵のことは何でもしてくれたところは映画の桔平に少し似ている。そのころの私は、映画の由加利同様しゃかりきに働いていて、常にへとへとに疲れていた。あまりにも疲れていて、電話しながら私が寝てしまっても、せっかく会えてもどこにも出かけられなくても、彼は決して怒らなかった。
もちろん私はそんな彼のことが大好きで、いっしょにいるだけでとにかく幸せいっぱいだったけれど、彼は私に嘘をついていた。
この映画の桔平がついたような大それた嘘ではなかったにせよ、その嘘は、大人が交際相手についてもいい範囲は完全にこえていた。
彼は嘘をついていたことを自ら告白したし、私も聞いた当初は大した嘘じゃないと思った。騙されたわけじゃない、私から問いつめなくても、ちゃんと自分から白状したんだからと。それくらい彼のことが好きだった。
でも最終的に私が彼から離れた最大の理由はやはり、その嘘だった。
嘘が、時間をかけて、彼を恋する気持ちから熱を奪っていった。
いまではもう彼の何が好きだったのか、びっくりするぐらいさっぱり思い出せない。
どれだけ眺めていても飽きないほど、長い指が綺麗だったことぐらいしか覚えていない。
それが、時間が経って記憶が薄れたからなのか、恋愛感覚そのものを失ってしまったからなのも、わからない。

予告編はすごく良くできていたし、キービジュアルもなかなかオシャレにまとまっていたと思う。ストーリーの入り口も悪くないと思う。
だがしかし、それだけが魅力の映画になってしまっていて非常に残念だった。
シナリオも画面構成も色彩設計もライティングもプロダクションデザインも衣装も編集も音響も音楽も、何もかもが信じられないくらい古臭すぎる。昭和臭さ満載です。回想にちょいちょいハイスピード撮影は挟んでるけど、観ててときめくとかドキドキするとか、観客の感情を動かす描写はいっさい皆無。芸がないにもほどがある。
構成もクドすぎる。ワンシーンが無駄にだらだら長くて、展開にメリハリも何もない。この内容だったら117分もいらないね。90分でも余ると思う。テレビの2時間ドラマ(といっても何年も観てもいないけど)でも冗長で怒られるレベルだろう。
長澤まさみも高橋一生も旬のいい役者だし、主演二人の演技は文句のつけようがない。観ていてとにかくもったいない、残念という気持ちしかわいてこなかった。監督含めてクルーが何をモチベーションにこの作品をつくったのか、全然わからなかった。設定決めてキャスティングしただけで仕事終わった気分になってたんじゃないかという印象も拭えない。
だから上映中ずっと、昔の彼の記憶を手繰りまくっていた(それでもやっぱりほとんど何も思い出せなかったんだけど)。

観終わってからアタマにきて監督の経歴を調べたけど、劇場用長編映画はこれが初めてっぽいですね。
だからしょうがないのか。うーん。



踏めない踏み絵

2018年01月22日 | diary
仏女優ドヌーブ氏、性的暴行の被害者に謝罪

過去にセクハラやら痴漢やらストーカーの被害にさんざっぱらあってきた私だけど、Metooには参加はしていない。といって反対なわけでもない。どっちかといえば賛同している。ただ少し距離をおいておきたいだけである。
なぜか。世の中には弱者の被虐体験を聞いて興奮する変態がいっぱいいるからである。まああまり詳しくは書きたくないので割愛しますが。とにかく思い出したくもない体験を言語化して、見ず知らずのど変態のマスターベーションの道具になるのはちょっととりあえず勘弁してもらいたい。

とはいえMetooがたいへん意義深い社会運動だということだけは断言できるだろう。
これまで人間の長い歴史のもと、性虐待は万国共通、被害者の罪とされてきた。いまでも世界にはレイプの被害者が厳しく罰せられる国がいくつもある(イスラム圏に多い)。よしんば罪に問われなくても、家族や親しい者ですら、隙があった、用心がたりなかったなど被害者の責任ばかりをあげつらい、被害について発言でもしようものなら「ふしだら」「はしたない」「非常識」などと後ろ指をさされる。場合によってはそれどころではすまないケースも珍しくない。精神的に追いつめられ、人生そのものを大きく損なう事態に陥ることもある。それがこわくて被害者は口をつぐみ、加害は闇に葬られ、犯罪者は好きなだけ再犯を繰り返せる。そして無反省に被害だけが拡大していく。
被害者を責めるということは、加害者以外の第三者によって被害が無限に再生産され続けることでもある。それも、無自覚に。Metooは、被害者自ら沈黙の蓋を開くことで、その負のスパイラルを食い止めようと始まったのではなかっただろうか。

当初Metooが実現しようとしたのは、決して魔女狩りやリンチ合戦などではなかったはずだとも思う。客観的にみれば、Metooそのものが魔女狩りやリンチ合戦なのではなく、そうした二次的な騒動はあくまで運動の副産物でしかない。かつ副産物そのものにも、やはり意味はあると個人的には思う。いずれにせよ加害者はこれまで告発を免れることで二重三重に被害者を貶め、不当に利益を得てきたことになるのだから。
誤解を恐れずにいえば、誰かの性的魅力について言葉や態度で表現することや、心ときめく相手にデートを申し込む行為自体が罪なのではない。そこにリスペクトがありさえすれば。だが相手がリスペクトを感じることができなかったら、それは簡単に「ロマンチックな/ハートウォーミングなコミュニケーション」ではなく「おぞましい虐待以外の何ものでもない下衆な暴力」と化してしまう。そして世の中には、その区別がつかない人がまあまあいるのだ。残念ながら。

ほんとうにほんとうに残念なことだけれど、すごくきちんとした、ちゃんとした、社会では尊敬に値する立場にいる人物だって、けっこう平気でそういうことをしてしまう。びっくりするくらい、あっさりと。
そしてそのことについて、私たちは今日も口をつぐんでいる。
卑怯なことはわかっている。とてもとてもよくわかっている。そんな自分の不甲斐なさを思えば、いつも涙が止まらなくなるほど悔しい。悲しい。
きっと人間は自分で思うよりずっとずっとずるくて、弱い。ひどいことだとわかっているのに、どうしてもその被害を解決するための一歩がなかなか踏み出せない。

だからこそ、一歩を踏み出した人には、最大のリスペクトをおくりたいと思う。
立派だよ。すごい勇気だよ。ありがとう。
それでいいではないですか。とにかく、とりあえずは。
少なくとも、私は、そう思う。


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『スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪』 ボストン・グローブ紙〈スポットライト〉チーム編
『性犯罪被害にあうということ』 小林美佳著


Darling, if you save the world, you can have a backstage pass.

2018年01月07日 | movie
『キングスマン:ゴールデン・サークル』

独立諜報機関キングスマンのエグジー(タロン・エガートン)はある日かつてのキングスマン候補生チャーリー(エドワード・ホルクロフト)に突然襲われ、やがて背後にゴールデン・サークルというアメリカの麻薬組織の陰謀があることを知る。
ゴールデン・サークルを経営するポピー(ジュリアン・ムーア)は商品に致死性の人工ウィルスを混入させ「解毒剤と引き換えに麻薬取引を合法化せよ」とアメリカ大統領を脅迫、世界中で感染パニックが勃発する。
2014年のイギリス映画『キングスマン』の続編。

生まれて初めて4DXで鑑賞してみましたが。まあもういいです。一回観てみりゃ十分だね。ふつうにテーマパークのアトラクションです。
作品自体も期待外れでした。やっぱ一作目はコリン・ファースが超バカバカしいスパイコメディで鉄仮面の無表情のままバリバリにアクションしまくるギャップがおもしろかったんだよね。続編はアホらしさだけ残って、作品の世界観もただ「ほーれスケール感あるやろあるやろほれあるやろ」的な虚しい自己満足の道具になっちゃってる。
頑張ったとは思うけど、前作の何が面白かったのかが製作者にがっちり消化しきれてなかったんだなあと、ちょっと残念な気持ちになりました。

前作はエグジーという新人が幾多の関門を乗り越えてキングスマンになっていく過程と、後半の大富豪ヴァレンタイン(サミュエル・L・ジャクソン)との攻防の二段構えがいいコントラストになってたんだけど、今作も、記憶喪失になったハリーの回復とゴールデン・サークルとの戦いという二段構えになっている。単純な勧善懲悪ではなく、敵対する価値観それぞれの正義がいりくむ複雑な社会構造のリアリティも表現されている(選民思想、違法薬物極悪論)。
そういう意味では、すごくちゃんとした映画だと思うし共感もするし、一定の評価はされてしかるべきだとは思うんだけど、このままシリーズ化していいもんかどうかは若干首をひねってしまう。

最大の敗因は、娯楽映画としていったい何が観せたかったのかがもうひとつ判然としないところじゃないかと思う。
エルトン・ジョンの登場シーン(ネタバレになるので詳細は秘す)には驚かされたけど、とはいえ作品全体に占めるウェイトは大きくないし、人間ミンチも20年以上前に『ファーゴ』で観ちゃった人間にとっては「だからなんだ」で終わっちゃうし、どのスペクタクルシーン(やたらいっぱいある)にもまったく新鮮味もない。
コリン・ファース大好きだし前作もすごく好きな作品なので、次回作はもう少し気持ち引き締めて、もう一度観客をあっといわせてほしいです。
頑張れ。