落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

さらば輝く風の光

2013年07月08日 | movie
『耳をすませば』
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中学3年生の月島雫は本が大好きな女の子。受験勉強もそっちのけで本ばかり読んでいた夏休み、借りた本の図書貸出カードにいつも「天沢聖司」いう名が書かれていることに気づき、まだ見ぬ彼を意識するようになる。
ある日、偶然迷い込んだアンティークショップで男爵と呼ばれる猫の人形を見つけた雫は、店主の老人と懇意になり、バイオリン職人を目指す孫の少年に巡りあう。
1995年に公開された近藤喜文最初で最後の監督作品。

今更観てみたジブリ作品。
ジブリ映画は好きでけっこう観ていて、それもこの作品では監督を務めている近藤喜文の絵がとにかく好きだったからだ。でもこの映画は公開当時からいままで観ていなかった。
理由は単純、原作が少女マンガだったからだ。
ぐりも子どものころは少女マンガを読んだし、いまも好きな作品はある。だが当時からどちらかというと社会派な、シリアスなマンガが好きで、この原作を描いた柊あおいのようなふわふわした個人的な恋愛ものはあまり趣味ではなかった。とくにぐりが「りぼん」を読んでいた小学生時代は柊あおいはまだデビューしたての未熟な新人だったから、「あの柊あおいのマンガの映画化じゃなあ」という偏見だけで敬遠していた。我ながら小さい。

とはいえ、この映画もストーリーそのものは少女マンガらしい、たわいもない思春期の恋愛物語だ。
恋に進路に自立、考えなくてはならないこと、悩まなくてはならないことに常に追いまくられる世代、家庭でも学校でもほんとうの自分の居場所が見つけられず、どこかで自分を偽ることを覚え、純粋さを失っていく子どもは多い。人はそれを妥協と呼んだり、成長と呼んだりする。
自分が目指す道を発見し、それを追求することで自分自身を取り戻していく子もいる。そういう子どもは既に青春の勝利を約束されている。人生に勝ち負けはないけど、一瞬のうちに燃えつきる青春の刹那に自ら火をつけられるのは、紛れもなく勝利の証だ。
『耳をすませば』の雫と聖司は間違いなくその意味で勝者だし、だからこそこの物語は眩しく輝かしいのだろう。

近藤喜文らしく、人物の設定や伏線、演出のディテールの隅々にまで温かい愛情が溢れた、優れた映像作品ではあるけど、劇中劇の『猫の恩返し』の描写が中途半端で少し消化不良な感じがしてしまった。どうせなら物語の半分をこのファンタジーにして、世界観に広がりをもたせた方がジブリ映画らしくなったような気がする(『猫の恩返し』そのものは後に別作品として公開されているが未見)。
だがそれはそれとして、この映画が多くの人に支持された理由もよくわかる。雫や聖司のような青春を夢見た思春期の自分を愛おしく懐かしく思う人にとって、彼らの恋は、二度と決して叶えられることのない、自分自身の恋の幻なのだろう。好きな人にうまく思いを伝えられず、勉強にも手がつかず、なんのために頑張らなくてはならないのかもよくわからなかった自分にも、彼らのような恋ができたらどんなに励まされただろう。そういう子どものころの自分の不器用さも、年月が経ってしまえば遠い思い出でしかなくなる。

近藤喜文はこの映画の公開からわずか2年半後に、47歳の若さで世を去った。遺作は『もののけ姫』になる。
ぐりがジブリ映画の新作に関心を失ったのは、彼の死がきっかけだった。ジブリといえばイコール宮崎駿というイメージは強いかもしれないけど、ぐりにとっては、こまやかにやさしく、かつ宇宙のようなスケールと謎めいた奥行きを感じさせる近藤喜文の絵の世界の魅力が大きかった。1997年末に病に倒れたという報道があったときはまさか亡くなるとは思っていなかったから、年が明けて訃報を耳にしてもうまく信じられなかったし、とてもショックを受けたのをよく覚えている。
あれ以降もたまにジブリの新作を観るけど、もう前ほどはわくわくできない。とても残念だとは思うのだけれど。

岸のない川

2013年07月02日 | movie
『さよなら渓谷』

渓谷の街で男児が殺害され、その母親(薬袋いづみ)が容疑者として逮捕されるなか、隣家に住む尾崎(大西信満)との不倫が動機ではないかという疑いがかけられる。
事件を取材する週刊誌の記者・渡辺(大森南朋)は、尾崎を警察に告発したのが彼の妻・かなこ(真木よう子)と知り、ふたりの過去を調べ始めるが・・・。
吉田修一の同名小説の映画化。先日モスクワ国際映画祭で審査員特別賞を受賞したばかり。

何年か前、しばらくの間、性暴力や性的搾取の被害に遭った女性や子どもの支援活動に関わっていたことがある。
そのときに見聞きしたこと、体験したことはそうそうどこでも言葉にはできないものだけど、活動から距離を置こうと思ったきっかけについてははっきりと話せる。
いっしょに活動している人の中に、加害者の人格をいっさい認めようとしない、決して受け入れようとしない人がいたことだ。
気持ちはわかる。とてもよくわかる。でもあえて綺麗事をいわせてもらうなら、弱い立場の存在への虐待は、決して直接的な加害者だけによって引き起こされるものではない。もちろん、被害者に非はない。どんな人にも、暴力を受けなくてはならないいわれなどあるわけがない。だが、暴力は引き起こされるべき環境があって初めて生み出されるものだ。その環境要因を排除しないうちは、加害者だけを責めたところで何も解決はしない。そういう感情論が何かの役に立つとも思えない。
だが、実際の活動の中で、そんな本音はなかなか口にできるものではなかった。なんといえばいいのかもわからなかった。それほど、性暴力、性的搾取は悲惨だった。いちばん許せなかったのは、それだけの暴力と搾取の存在を誰も知ろうとせず、知りもしないのにそれを受け入れている世の中だった。

モスクワでの受賞のニュースが昨日入ってきたばっかりで今日は映画の日、ということでなんと立ち見まで出る大盛況ぶり。観客は男ばっかりで、学生と思しき若い男の子のグループもいたけど、彼らはどういうつもりでこの映画を観に来て、そしてどう思ったのだろう。
決して楽しい映画ではない。むしろかなりつらい映画だ。画面はいつもとげとげしいような緊張感と攻撃性に満ちているし、当然のように登場人物は誰ひとりにこりともしない。
主人公であるかなこと尾崎はほとんど喋らないので、渡辺と後輩記者の小林(鈴木杏)の会話が物語を全部説明してくれるのだが、もちろんふたりの台詞はただの状況説明でしかない。なのに、このふたりの会話と行動が、現実社会の男女観の溝を実にストレートに象徴していて非常にわかりやすい。
この物語の主題は尾崎夫妻の奇妙な絆ではあるのだが、その意味を表現する上で、レイプという暴力の残酷さとそれによって生み出される絶望の深さは、ただそれだけを尋常になぞっただけでは伝わらない。第三者のうわっつらの一般論と対比することで、そのリアルな痛みが画面を通してこちら側に突き刺さってくるようになっている。秀逸である。

人間は誰でも幸せになりたくて生きているが、かなこと尾崎はそうではない。かなこは尾崎を不幸にするために生き、尾崎はそれを受け入れるために生きている。復讐と贖罪、いってみれば利害が一致してしまっているわけで、そこに矛盾が生まれる。その矛盾が誰の価値観も割りこむ隙のない絆になっている。いつか、その絆からふたりが解き放たれる日はくるのだろうか。
復讐劇という点では『その夜の侍』にちょっと似たところもあるし、他者の入りこむ余地のない男女の絆の物語という点では同じ吉田修一の『悪人』と共通したテーマでもあり、渓谷を舞台にしたサスペンスというジャンルとしてはやはり真木よう子が出ていた『ゆれる』にも近い世界観があるけど、ものすごくパーソナルなようで実はムチャクチャ社会派で、かつ日本映画には珍しいくらい女性をしっかりと描きこんでるというところで確固たるオリジナリティを感じさせる作品でした。
すっごくよかった。最近観た日本映画(ってほど観てないけど)ではいちばんだと思う。すごかった。
それにしても真木よう子はなんだろうねあの迫力は。いままでとくにそんなに興味なかったけど、好きになっちゃったかも。
あと井浦新もよかった。3回くらいしかでてこなかったけど、さすがの存在感。新井浩文もあいかわらずすばらしい。まったく期待を裏切らないねこの人は。毎回。ほんと感心しちゃいます。

魂の殺人といわれる性暴力だけど、その罪の深さをほんとうに知る人は少ない。
こんな映画一本みたところでわかろうはずもないかもしれない。
だけど、いったんそれが現実に起きてしまったら、誰にとっても、二度とそれはなかったことには絶対にできないということはわかるかもしれない。
ひとりでも多くの人に観てほしい映画でした。

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『ハーフ・ザ・スカイ 彼女たちが世界の希望に変わるまで』 ニコラス・D・クリストフ/シェリル・ウーダン著 北村陽子訳