落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

友が蜜なら全部なめるな(シリアのことわざ)

2015年04月27日 | lecture
シリアを知ろう

ややこしく理解しにくいシリア問題。
シリア人ジャーナリストがスピーカーだというセミナーに行ってきた。定員オーバーで机なしだったためノートがうまく取れず、ちょっと時間もたってしまってるので記憶もあやふやですが、とてもおもしろかったのでシェアします。たぶんとんでもない間違いだらけだと思うけど。

まずこの画像をご覧あれ。
左上から時計回りにご存知ウサマ・ビン・ラディン、パレスチナ解放人民戦線設立者のジョージ・ハバシュ、イスラエル人政治家のアズミー・ビシャーラ、フセイン政権時のイラク副大統領ターリク・ミハイル・アズィーズ、シリア・バース党設立者のミシェル・アフラク、そして息子の方のジョージ・ブッシュですが、さて、この中で信仰が違う人をひとりだけ挙げるとしたら誰でしょう。

この質問は、スピーカーのナジーブ・エルカシュさんが話しはじめに参加者に訊いた質問である(違うかもしれないけどだいたいあってると思う)。
「ブッシュだと思う人は?」と訊かれて大半の参加者が挙手したが、実際はビン・ラディン以外の5人全員がクリスチャン。
日本のメディアではやたらにISのテロ行為ばっかり報道されるけど、シリア国内で殺される人の95.4%はアサド政権軍の犠牲者。2.7%がIS。この歴然とした落差。当り前である。ISは爆撃機もミサイルも持ってない。
無意味な固定概念ほど怖いものはない。固定概念は人為的につくられるものだけど、それを補強するのは無知と、自ら知ろうとせずにタダでバラまかれている情報を無批判に鵜呑みにすること、つまり思考停止である。
ヨーロッパと中央アジアとアフリカに接する場所に位置し、古代からあらゆる文明の交差点でもあったシリア。ナジーブさんは古代ローマ時代に公衆浴場文化を生んだカラカラやフィリッポス・アラボスもシリア人だったこと、アルファベットの生みの親はシリアだったこと、ガラスやパテオやダマスクローズやハムスターも実はシリア発など、シリアは豊かな文化に溢れた国だとも語ってました。やはりスピーカーのジャーナリスト・石合力氏は、文化的で料理がおいしくて女性が綺麗だから「中東の京都」と呼んでいるそうである。
それからシリアはもともと移民も文化で、紛争前から2000万人が国外に住んでたそうです。コスメで有名なオバジさんやポーラ・アブドゥル、ポール・アンカもシリア人。その一方で砂漠と地中海とユーフラテス川流域のみっつの地域に分かれ、それぞれまったく違った風土をもっている。世俗的な地中海沿岸に比較してユーフラテス川流域は農業と石油という大きな産業がありながらとても貧しい。国が何の開発もしてこなかったからである。なぜか。国が腐敗しているからである。

そのシリアだが、1970年のクーデターで今のアサド大統領の父ハーフィズが首相となって以来、親子二代にわたって40年以上も独裁状態が続いている。
政府は腐敗し、自由はなく、イスラエルに奪われたゴラン高原も戻らないなかで起きたのが5年前の「アラブの春」だった。シリアでは2011年に反体制派と政権の本格的な衝突が始まり、これまでに女性や子どもを含む20万人以上の市民が犠牲になり、900万人が難民となっている。シリア全体の人口が2200万人だから、半分近くが家を追われた計算になる。
宗教対立のように思われがちなこの内戦だが、地中海カルチャーの影響もあり、もともと紛争前にはさほど宗教色のめだたない国だったという。確かにイスラム教の国ではあるが、アルコール類を口にするのも大して難しくはなかったし、外国人ジャーナリストとシリア人の間で宗教問題が話題になることもあまりなかったらしい。
しかし、いまやあまりの危険度の高さに、多くの大使館や国際機関がシリアを捨てて国外に避難していった。だが首都ダマスカスにもまだふつうの市民が暮らしている。水や電気も通っている。暮らせてしまっているということもできるのかもしれない。

なぜシリアがここまでアンタッチャブルになってしまったのか。
それはシリアで起こっている争いと、この国を取りまく状況の複雑さにあるという。シリア政権は反体制派とISと戦っていて、「軍はISから市民を守っている」とプロパガンダしているそうだ。かつシリアはイスラエルの侵略を受けておりかねてから二国間は対立状態にあるため、アメリカ政府の直接的な支援を受けにくい立場にある。テロ撲滅を標榜するアメリカとしても、シリア政権がISと戦っていることが政権軍の傍若無人を黙認するいい口実になるらしい。
そんななかでも反体制派にもいくつものグループがあり、武力闘争に反対する穏健派がシリア政権にとってもっとも危険な存在である。現にこの活動家であるアブドラ・アジズ・アラハイエ(うまく聞き取れなかったから違うかも)は逮捕されて刑務所に収監され、以来3年間行方不明のままである。
腐敗してても紛争が起こる前の方が安定してたんだから、状況を混乱させてる反体制派が悪いなんて簡単にいう人もいるみたいだけど、物事そこまで単純じゃない。何がいけないかって人権を無視して国民を殺しまくってる政府が悪いに決まってる。安倍首相がシリア周辺の難民対策を支援すると発言して、国内メディアはISに拘束された日本人を危険にさらしたと批判したけど、現に900万人の難民の命も日々危険にさらされてる。いい方は決して良くなかったし結果的に湯川さんと後藤さんの命は奪われてしまった。ただ支援を必要としているそれだけの人たちのことも知ってほしいとナジーブさんはいっていた。
 
シリア人が直面する現状は過酷だが、シリア人にはユーモアという文化もある。
スピーカーのナジーブさんはずうっとワケのわからないオヤジギャグばっかり連発してたし、シリアのメディアにはブラックな風刺漫画が満ちあふれている。
会場で見せてもらったイラストはどれも秀逸なものばかりで、それゆえに、世界中から無視され続けているシリア人のせつなさが胸に迫った。なにがしんどいって無視されるのがいちばんしんどいもんね。
それにしても900万人。行くあてもない、将来の保障もない、衣食住において人として満足な生活が安定して送れない人が900万人。
国民の半分をそんな目にあわせておいて、政権はいったい何がやりたいんだろうね。わからん。
とりあえずもうちょっと勉強しなきゃだな。

元シリア代表のサッカー選手が反体制派の兵士になって登場するとか。
寄付だけじゃなくグッズもゲットできるしくみになっている。Facebookアカウント

What We Talk About When We Talk About Love

2015年04月23日 | movie
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』

90年代にコミック原作のヒーロー映画シリーズでスターになったリーガン(マイケル・キートン)。壮年を過ぎて、“スター”ではなく俳優になりたいと再起を懸けて憧れのレイモンド・カーヴァーの短編を自らの主演で舞台化し、ブロードウェイで上演しようとするのだが・・・。
『バベル』のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥがバットマンシリーズのキートンを主演にタフでリアルなショービジネス界の裏側を描くブラックコメディ。アカデミー賞作品賞・監督賞・脚本賞・撮影賞、ゴールデングローブ賞男優賞他、2014年度の賞レースを総なめにした話題作。

アカデミー賞はおいといてイニャリトゥだしカーヴァーだし、とりあえず観るでしょ、ってことでまったく前情報なしで観に行ったんだけど、うん、超おもしろかった。素晴らしい。たまにいい映画とか芝居とか観ると、すごく疲れてたのが嘘みたいに元気になっちゃうことがあるけど、最近だと『ゴーン・ガール』以来かな。
とにかくもう全部のシーン、全部の台詞がムチャクチャ身につまされる。聡明な妻(エイミー・ライアン)に去られ、多感な娘(エマ・ストーン)はリハビリ帰り、借金と訴訟に追われ、才能は満ちみちているが人格的に問題のある共演者(エドワード・ノートン)には振り回されっぱなし、せっかくヒット作には恵まれたもののヒーロー映画に出ただけのただの有名人という評価には満足できず、自信もない。髪は薄くなってくるし腹は出てくるのに、恋人(アンドレア・ライズブロー)の妊娠におびえ、評論家(リンゼイ・ダンカン)から突きつけられるプレッシャーには堪えられない。
わかるよねえ。全部ものごつ聞いたことある話ばっかりです。心の中で首がもげるくらい頷きまくり。

主人公に共感するのに、観客はなにひとつ彼と共通点を持つ必要がない。べつに俳優じゃなくても、愛されたい、尊敬されたい、心をゆるしあいたい、存在を認められたいという欲求は誰にでもあるものだからだ。そしてその欲求は決して満たされることがない、それほど人は愚かで不器用で不完全な存在だからだ。それゆえに人は未来を夢見て前進してこれたのだ。
けどそのしょっぱい中2なセレブ根性をストレートに映画にしたところでただしんどいだけである。そこをイニャリトゥは全編ワンシーンワンカット(にみえるけど違う)という特殊な緊張感を持たせた映像技術と、映画にしか許されない特異なファンタジーを使って、うまく観客を笑わせることに成功している。ホントに文字通り飛び道具なんだけどね。ギリシャ悲劇でいうところの“デウス・エクス・マキナ”みたいなやつです。物語の本筋とは全然関係がないから。ただし『バードマン』の飛び道具=“機械”は主人公を助けるだけではないところがミソである。
飛び道具はあっても自信が持てずに戸惑ってばかりのリーガン。でもいずれにせよ、才能ってバカみたいに自分を信じてすべてをさらけだす勇気のことをいうんじゃないかなあ。そういう心のエネルギーが、相手の心を動かして感動を呼び起こすんじゃないかと思うんだけど。

シナリオやカメラワークもスゴイと思うけど、キャスティングも完璧です。
主演のマイケル・キートンはリアル“スーパーヒーロー”俳優だし、エドワード・ノートンもホントに無駄にフェロモンだだ漏らし気味のめんどくさい怪優キャラ(設定がインポってとこがおもしろすぎ)だし、彼の相手役で売れない女優を演じているのはあのナオミ・ワッツである。この人はなんでこんなにひたすら売れない女優役ばっかりやってるんだろね。もはや売れない女優役は彼女の専売特許かと思うくらいです。彼女がブロードウェイに出たかった、幼い頃からの夢がやっと叶うなんて真剣にいうだけでめちゃめちゃ笑える。持ちネタ化してる。

観ていて、監督もいろいろ今の世の中にムカつくことがいっぱいあるんだろーなーとしみじみ思い。
ハリウッドでヒット作といえば昨今は子ども騙しの特撮スペクタクルやパニック映画、テレビではどうしようもないリアリティショーばかりがもてはやされ、インターネットではSNSで誰もが好き勝手に発信しては、どうでもいいくだらないことばかりが分刻みで拡散され消費されていく。
どんなにその現実が受け入れがたくても、もう抵抗することなど誰にもゆるされない。成熟という段階を遥かに過ぎたアメリカのショービジネス界の行方をどうコントロールするべきなのか、答えはまだない。
ただ自分を信じてすべてをさらけだせたらどんなにいいだろう。そんな気持ちを思いきりぶつけられたような映画でした。観ててスカッとしました。



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If you’re going to cut - cut it straight. Triangles.

2015年04月11日 | movie
『パレードへようこそ』

1984年、不況にあえぐイギリス。炭坑夫のストへの苛烈な弾圧を目にしたマーク(ベン・シュネッツァー)は、ゲイ仲間に呼びかけて坑夫たちを支援するグループ・LGSMを結成。紆余曲折の末、ウェールズの炭坑町ディライスが支援を受け入れることになるが、セクシュアル・マイノリティに免疫のない保守的な田舎町で、LGSMは予想通りの軋轢を生み出す。
84~85年の全国炭坑労働者組合のストライキ時に実際に起こった出来事を描く。ゴールデン・グローブ賞作品賞受賞作。

一昨年、サッチャー元イギリス首相が亡くなったとき、彼女の厳しい経済政策に苦しめられたイギリス人たちがパーティーを開いたという報道が記憶に新しいですが。この物語はそのサッチャー政権時代、エイズが流行し始めたイギリスのゲイコミュニティと、その対極にあるような地方の労働者コミュニティの交流がモチーフになっている。
マークたちから寄付を受取った坑夫代表のダイ(パディ・コンシダイン)が、ロンドンのゲイバーでお礼のスピーチをするシーンがある。

When you're in a battle against an enemy so much bigger than you, to find out you had a friend you never knew existed, well, that's the best feeling in the world.
巨大な敵と闘っているとき、どこかで見知らぬ友が応援してくれていると思うと、最高の気分です。

ゲイに出会ったこともなかったダイはこんな風に喜んでくれたが、もちろん村全体が初めからそうだったわけではない。知らない、わからないというだけで敬遠する人もいれば、世間体をとにかく気にする人もいるし、あからさまな嫌悪感を示す人もいる。委員長のヘフィーナ(イメルダ・スタウントン)やシャン(ジェシカ・ガニング)のように初めから何の偏見もなく彼らを歓迎する人もいるのだが、おもしろいなと思ったのは、彼ら全員を含めてキャラクターのバックグラウンドがほとんどストーリーに直接出てこないというところ。つまり、画面上ではどの差別にも偏見にも、何の理由も根拠も示されないということだ。
それだけではない。過酷なストの背景にすら説明はない。映画は全部、徹頭徹尾、ふたつの市民グループが交わって引き起こす化学変化だけを表現している。
だから、歴史的な政治対立を描いているにもかかわらず、作品の雰囲気が全然政治的じゃない。単純に人と人とがつながりあうことのあたたかさ、美しさ、そして困難を、とにかく丁寧に、きっちりと再現してみせようとしている。
なので登場人物が多かったりストーリーが何度も何度も二転三転するのに、非常にすっきりとして観やすい映画でした。コメディなんだけど感動できて、ほろっとする部分もある。
世代的にいえば全編にふんだんに使用された80年代のディスコミュージックが懐かしかったです。ひさびさクラブに行きたくなった。

ほとんどの登場人物の細かい設定が描かれないのに対して、ひとりだけやけに詳しく背景ばかり強調されている子がいた。20歳のクローゼット・ゲイ、ジョー(ジョージ・マッケイ)だ。
家族にも自分の性的指向を打ち明けることができないため、活動に参加していることも秘密にし、嘘ばかりついているジョー。1年後に彼も大きな変化を見せるのだが、このひとりの若いゲイの葛藤を小出しに差し挟むことで、彼らが連帯を必要とする意味をさりげなく表現しているところに、作品の成熟度を強く感じた。
セクシュアル・マイノリティの人権活動家たちが主人公といえば、もっとハードな内容を期待する観客がいてもおかしくない。ゲイコミュニティの物語なんだからもっと華やかな世界観をもとめる観客もいるだろう。だがあえてそんな観客の期待を外しておいて、そのうえでジョーという非力な狂言回しを用いて、ゲイが抱える悩みと、ゲイとして生きる喜び、ゲイ同士の友情をストレートに描いている。ちょっと地味なようでとてもバランスがとれた映画だと思いました。

個人的には主人公たちがとりくんでいることと、自分がふだんやってることにいろいろと重なる部分もあり、無駄に共感し過ぎて上映中何度も涙が出てしまった。
人と人とが信じあったりつながりったりするのって、やっぱり心あたたまるものです。言葉でいうほど簡単じゃないけど、結局はそれが生きていくうえで何よりも大事なことだと思う。そういう当たり前のことを素直に思いだしました。
映画に出てきた人たちが、いまも元気に仲良く幸せに暮らしていることを、心から願います。




Sometimes it is the people who no one imagines anything of who do the things that no one can imagine

2015年04月09日 | movie
『イミテーション・ゲーム』

1952年、盗難の捜査をしていたマンチェスター警察のノック刑事(ロリー・キニア)は、被害者であるにもかかわらず非協力的なチューリング(ベネディクト・カンバーバッチ)を不審に思い彼の戦歴を調査するが、すべてが機密扱いとされ何ひとつ手がかりをつかむことができない。その後、同僚がチューリングを猥褻罪で逮捕。当時違法だった同性愛の罪で彼を取り調べたノック刑事だったが・・・。
コンピューターの父といわれ、第二次世界大戦下で絶対解読不能とされたナチス・ドイツの暗号“エニグマ”の解読に成功した稀代の天才数学者アラン・チューリングの生涯を描いた伝記映画。

3ヶ月ぶりに、心の底からタバコが吸いたくなった。
映画とは関係ないが、今年にはいってタバコをやめた。17歳のときから25年間吸い続けてきたが、とくに不自由に感じたことがない。これまでにも体調が悪かったりして短期的には本数を減らしたりやめてみたりしたことはあったからで、その程度のコントロールくらい難しくも何ともない。現にまる3ヶ月あまり1本も吸わなかったし、真剣に我慢できないと感じたこともなかった。
でも、今日、この映画を観ていて、心の底からタバコを吸いたくなった。
それはチューリングがMI6のミンギス(マーク・ストロング)に、エニグマの解読成功を報告するシーンだった。神出鬼没のドイツ軍に翻弄される連合軍各国が、必死に試み続けて軒並み挫折したほど難解な暗号解読を2年かけて成し遂げたというのに、チューリングはそれを「軍には伝えるな」と告げる。ドイツ軍の通信を端から解読してその情報通りに反撃すれば、エニグマ解読の事実が敵にもバレてしまう。バレたが最後、2年間の労苦はすべて水の泡となり、戦争終結はさらに遠退くことになる。チューリングはバレずに情報操作ができるアルゴリズムを開発するという。つまり、解読した攻撃通信をふるいにかけ、そのまま軍に報告する通信と、無視し偽装した誤情報とすり替える通信にわけ、最低限の攻撃で最短の戦争終結を目指すアルゴリズムである。敵を欺くにはまず味方からというわけである。
ということは、無視された攻撃の犠牲者は見殺しにされるということになる。
ミンギスがここで反射的にタバコに火をつけた瞬間、心の底から、タバコがほしくなった。

天才数学者の偉業の物語だが、とくに無駄に理屈っぽくもなくストレートなストーリーで、かつ知的なシナリオがオシャレでもありヒューマニズムにもあふれていて、非常にバランスがとれたいい映画だと思う。約2時間の上映時間があっという間だった。
ぐりは数学が苦手な凡人ではあるけど、ちゃんと素直にチューリングに共感できる。極端にコミュニケーション能力に欠け(いまでいうアスペルガー障害だった可能性が指摘されている)、誤解を受けやすく友人もいないチューリングだが、人が嫌いだったわけではない。むしろ人と関わることを好み、正直で、誰よりも数学の未来を信じ愛する純粋無垢な人物として描かれている。
あまりにも正直すぎる彼を理解できなかった同僚たちも、やがて一途に目的達成をめざす彼の真意に共鳴するようになっていく。本来そこに駆け引きや根回しは必要ないことを、チューリングは身をもって証明する。
ところがその一方である何気ない駆け引きが肝心の暗号解読のきっかけになるという展開が、この映画の最高に面白いところでもある。冒頭の面接シーンでのデニストン中佐(チャールズ・ダンス)とチューリングとのやり取りも小気味が効いていて見事だったけど、物語中盤でのこのギミックこそ、このシナリオで最も成功しているシーンだと思う。さすがアカデミー賞で脚色賞を受賞しただけのことはあります。ハイ。

数学の力を信じ戦争に勝つという目的のためにどんな感情をも曲げる純粋さと、純粋ゆえに二重の秘密の重圧に戦後も苦しみ続けたチューリングの孤独。
幾多の犠牲を伴いながらも戦争終結に貢献した彼の研究は、のちにコンピューター誕生の礎ともなったが、彼本人はその成果を自らの目で確かめることができなかった。
逮捕から2年後、強制ホルモン療法を受けていたチューリングは服毒自殺で死去する。41歳の若さだった。
現在、コンピューターに関わることなく暮している人間など地上のどこにもいない。端末に直接触れることがなくても、電気やガスや水道や電話などのライフラインはいまやすべてコンピューターで制御されているからだ。それもこれも全部、チューリングが生み出した理論なしには成し得なかったことだ。それこそ空気や水と同じように、人の暮らしにコンピューターはなくてはならない存在になった。
世界のあり方に革命をもたらした神ともいうべき偉人を殺したのは、まさに理由のない差別と偏見と悪意だった。
そんな時代に生まれた彼が不運だったというわけではないはずだ。
どんな不運な人にも、生きて幸せを追求する権利は当り前にあるからだ。
しかし彼にその権利は認められなかった。死後57年を経て彼の名誉は回復されたが、イギリス政府は当時の司法判断を覆すことはしていない。
いま、彼の偉業を讃え悲劇を悼むなら、断じて二度とこんな差別と偏見と悪意を許すべきではない。
少なくとも、電気やガスや水道や電話をつかって暮している人間には、誰ひとり、そんなものを許す権利を認めるべきでないと思う。




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