落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

虎とどんぐりとよもぎ

2011年11月26日 | book
『朝鮮の歴史と日本』 信太一郎著
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韓国語や韓国料理など韓国の社会習慣からほぼ完全に遮断された環境で育った在日コリアン3世のぐりにとって、朝鮮は母国であると同時に外国でもある。
そんなぐりの「朝鮮」のイメージは1920~30年代に来日した祖父母、なかでも大好きだった母方の祖母のイメージである。
彼女は1910年、日韓併合の年に慶州北道の両班(ヤンバン)の家に生まれた。韓流ドラマをご覧になる方はご存知かと思うが、両班とは科挙を受けて役人になった貴族が後に地主になった、戦前の朝鮮の地域支配階級のことをいう。
祖母の実家ももともとは資産家だったはずだが、彼女が生まれたころには日本の植民地支配が始まり、悪名高い土地調査事業によって朝鮮のあらゆる人々の財産が収奪されていった。祖母の家でも食べるにもひどく困窮したらしく、慢性的な栄養失調のために彼女の身長は130センチにしかならなかった(ちなみに祖父の身長は180センチ)。初潮が来たのは19歳の時。17歳で結婚して2年も経ってからだった。
嫁ぎ先も両班の家。お陰で彼女は結婚後も来日後もひたすら身を粉にして働き、子どもを産んでは育てながら働き続けるという人生を強いられることになる。なにしろ両班の男はまず働かないからだ。ごたぶんにもれず祖父は勉学や趣味にはうるさく、アルコール中毒で糖尿病になるほどの暮らしを求めながら、自分では死ぬまで一度も働こうとはしなかった。130センチの小柄な身体で10人の子どもを育てながら行商をして働き、小さな畑を耕し、山野で食べられる植物を採集し続ける生活に追われた彼女は、ぐりが物心ついた頃はまだ60代だったにもかかわらず完全に90°に腰が曲がり、髪は純白の白髪になっていた。
そんな身体でもまだ自転車を乗り回し、常に台所や畑で際限なく働き続けていた祖母。考えられないほど多くの苦難に満ち満ちた一生を生きながら、どこまでも善良で優しく思いやり深かった祖母。教育を受けたことがまったくなく、日本語どころか韓国語の読み書きもいっさいできなかったが記憶力に優れ、常に高潔さと気品と知性を忘れなかった祖母。
遊びに行くたび、帰りには手作りのキムチやムク(どんぐりの実でできたくずもちに似た食べ物)、どくだみ茶をたくさん持たせてくれた。どれも彼女の日々の労働の賜物である。春にはいっしょにたけのこ掘り、よもぎ摘み、つくし採り、秋にはどんぐりを集めたり栗を拾ったり、祖母との思い出はほとんど食べ物につながっている。彼女の住んでいた地方は果物が名産で、季節にはいつも上等の桃やぶどうや梨も送ってくれた。
ぐりは祖母が大好きだったが、元気だった頃の彼女はいつも忙しくしていて、あまり孫の面倒は見てくれなかった。たけのこ掘りにくっついていっても会話はない。彼女は日本語がほとんど話せず、ぐりは韓国語が話せなかったからだ。祖父母との会話は常に母が通訳してくれなければ成立しなかった。そもそも祖父は家の中で王様のような人で、まっすぐ目を見つめたり直接口をきいたりしてはいけない人ということになっていたから、ぐりはかなり大きくなるまで、お年寄りと直接会話ができないことになんの不思議も感じていなかった。
年を取って働けなくなった祖母を散歩に誘って、ふたりきりになっていろいろと聞いてみたこともある。そのとき、ぐりと祖母の間にあるのは言葉の壁だけでなく、決して理解を求められないほどの苦痛の連続でしかない長い歳月があることが、中学生だったぐりにもなんとなくわかった。
97歳で亡くなるまで家族運には微塵も恵まれることがなかった祖母だが、ぐりは彼女を哀れだとは思わない。一言も愚痴らず、弱音を吐かず、自らの置かれた状況から絶対に逃げなかった祖母を、ぐりは今も尊敬している。寝たきりになった後、病院のベッドでぐりの手を握って「ぬくい」といって笑った童女のような祖母の笑顔は、ぐりの一生の宝物だ。

そんな彼女を一度だけ「かわいそうに」と思ったことがある。
やはり97歳で亡くなった曾祖母の葬儀に出た時、初めて祖母の妹という人に会った。祖母が二人姉妹だったこともそのときまで知らなかった。
しかし実際には祖母と妹の間にはもうひとり妹がいた。祖母がまだ幼かった頃、曾祖母と曾祖父が大喧嘩をして曾祖母が家出してしまった(原因はアルコール)。末の妹はまだ赤ん坊だったので、曾祖母は彼女だけを抱いて家を出た。
まだ4歳だった祖母は泣きながら曾祖母を追いかけた。すぐ下の2歳の妹もその後をついてきた。真夜中の真っ暗闇の田舎道で、気づいたときには妹の姿は見えなくなっていた。以来、妹の姿を見た者はいない。まだ朝鮮の山野に虎がいた時代で、祖母は妹を「虎にとられたんだ」といっていた。
祖母の悲しみは妹を失っただけでは終わらなかった。曾祖母はそのことで彼女を一生責め苛んだ。祖母とは正反対にプライドが高く気の強い性格だった曾祖母の怒り方は幼心にとても恐ろしかったのを覚えている。そんな曾祖母に責められ続けた祖母を、「かわいそうに」と思った。
今もやっぱり、かわいそうだと思う。

祖父母との間に会話がなく、戦後に日本で生まれた両親も朝鮮の話はまったくしなかったので、ぐりの朝鮮に関する知識は非常に貧しい。
この本は日本人教師によって書かれた歴史書だが、高校生向けの教科書としてつくられているので、ぐりのような無知な人間にとっても誰にとっても読みやすいレベルの本である。
両班の意味も、父の祖先が古代朝鮮の王族だという説の謎もわかったし、祖母が妹を「虎にとられた」といった意味もなんとなくわかった。
虎は朝鮮の昔話に出てくる定番の悪役で、日本の昔話の鬼やイソップ童話のオオカミに近い存在である。何の知識も教養もなかった祖母の想像力の範囲では、もしかすると妹を奪っていった「悪役」は「虎」以外に考えつかなかったのかもしれない。

本書には古代から現代(書かれたのが1980年代なのでそのころが“現代”)までの日本と朝鮮との関わりが丁寧に書かれているが、ページの半分が1910年以降、つまり日韓併合以後の時代に充てられている。
日本と朝鮮は古代から深い関わりのあった国で、とくに古墳時代から飛鳥・奈良時代にかけては大量の朝鮮人が来日し、文字や宗教、土木技術や建築、工芸などあらゆる知識と情報を伝えた。今上天皇は桓武天皇の母は朝鮮の人だと公言したが、それ以外の著名人でも額田王や山上憶良、柿本人麻呂、坂上田村麻呂、最澄も渡来人の子孫だという。
しかしそれ以上に今日の日本と朝鮮半島の間で最も深く果てしなく暗く厳しい関わりがあったのが、日韓併合後の35年間だったのだ。
そして、そのころの時代というのが、ぐりの祖父母が生まれ育った朝鮮でもあった。
この本を読み終わった今、会話もできずどこか遠かった彼らの存在が、ほんの少しだけ近づいた気がする。

朝鮮という国は、いまは地上にはない。
でも、遠い昔、祖父母が生まれた国は朝鮮だった。
祖国をなくすというのがどんな気持ちなのか、正直にいってぐりにはよくわからない。
日本に生まれたものの自分では日本人だとは思えないぐりにとって、どこが祖国なのかは未だに謎だからだ。
できることなら、祖父母とそんな話がもっとしたかった。
今はみんな鬼籍に入っているし、生きていても聞いたところで何も答えてはくれなかっただろうとも思う。
それでも、話さなかったことで、彼らが味わった苦しみや悲しみや惨めさまで全部なかったことになってしまうのが悔しい。
死んでしまった今でも、彼らの気持ちを少しでもわかりたいと思う。
わかろうはずはないかもしれないけど、それでも。


関連レビュー:
『在日一世の記憶』 小熊英二/姜尚中編
『裁判の中の在日コリアンー中高生の戦後史理解のために』 在日コリアン弁護士協会著
『海峡のアリア』 田月仙著
『海峡を渡るバイオリン』 陳昌鉉著
『悲情城市の人びと』 田村志津枝著
『ウリハッキョ』
『麦の穂をゆらす風』

被災地の夢

2011年11月21日 | diary
最近、連続して同じ夢を見たのでメモ。

場所は被災地。
といっても実際に訪問した現実のどの被災地とも似ていない。
いわゆる田舎ではなく近代的な建物が密集した都市部。海のすぐ傍から斜面になり山が迫っているような、地形的には西宮市や芦屋市に似ている。
市街地は大地震と津波でゴーストタウン化し、地盤沈下が激しく、いたるところが水没したままになっている。
季節は今よりも暖かい、おそらく5月か6月頃。

ぐりは期間を空けて複数回被災地を訪れているボランティアなのだが、ボランティアたちは倒壊した倉庫のような廃屋で生活し、食糧や生活用品は唯一開店しているコンビニで賄っている。
移動は小さめの軽自動車。道路の大半が水没あるいは陥没しているので、浅い小川や遊歩道など、走れるところが全部移動経路になっている。もちろん乗り心地は最悪である。

被災地では支援物資の生鮮食料品があまり使われず、人々はスナック菓子やインスタント食品などで飢えを凌いでいる。
外から来た人間があれこれと提案をしてみるがほとんど採用されることはなく、支援者と被災者同士で固まりあってよそ者を受け入れないような空気になっている。
ふと気づくとボランティアのコミュニティにも何やら怪しい人物が混じっている。災害で無防備になった土地はさまざまな存在を吸い寄せる。そんな現象に誰もが疑心暗鬼になっている。

起きたらすぐにメモしようと思っていたけど、思い返してみるとそれほど記憶に残っていなかった。
ボランティア生活のことも含め被災地のことを夢に見たのは今回初めてだと思う。
実際の被災地とあまりにもかけ離れているけど、夢の中で起こっているようなことももしかすると現実に起きても不思議ではないような気がした。


破壊された自動車。陸前高田市にて。

こんにちはさようなら

2011年11月12日 | 復興支援レポート
震災直後、テレビでは通常の放送が再開された後も一般企業のCMは放送されず、ACの公共CMばかりが繰返し流れていた。
その中でも最も多くの人に強く印象づけられたのはこのCMではないだろうか。



言語に絶する悲惨な大災害の報道で日々埋め尽くされたメディアの中で、画面の色鮮やかさと牧歌的なメロディーは確かに異彩を放っていた。
これを見てイライラした人も、うっとうしいと思った人もいるだろう。でも、インパクトだけは間違いなく強烈だったと思う。

3月下旬の物資仕分けボランティアに参加したのが2日間、現地での復興ボランティアにはGWから半年強の間に合計でのべ39日間参加した。
最初はまず行ってみたい、どうなってるのか見てみたい、そこで何かできることがあるならしてみたい、そんな曖昧な気持ちで参加したけど、実際行き始めたらきりがなかった。何回行っても達成感なんかない。帰る時にはいつも、次はいつ来ようかと一生懸命頭の中でスケジュールを繰った。行くたびに東北という土地がどんどん好きになった。ここで起こっていることがどれほど残酷でも関係ない。ただただこの土地を離れ難かった。ここでできることはずっと続けたいと思った。

活動中、しんどいことももちろんあった。
見知らぬ人間同士の寄せ集めの共同作業だから、思うようにいかないこともあれば気に入らないこともあった。本気で頭に来ることだってもちろんある。単純に作業がしんどくて体力的に疲れることもあるし、精神的にキツいこともあった。信じられないくらい広大な被災地のあまりの惨状や、考えられないくらいたくさんの人たちの命が失われた大災害の現場での活動であることを、常に忘れないように慣れてしまわないように意識し続けるのは、理屈でいうほど簡単な話ではない。

それでも、いつでも、ああここに来てよかった、参加してよかったと心の底から思うことがあった。
この被災地では、誰でも、どんな人でも、どこで出会っても決して挨拶を忘れない。
地元の人も、ボランティアも、警察官も、消防の人も、自衛隊の人も、目があえばにっこり笑って「こんにちは」「お疲れさま」と声をかけあう。地元の人のなかには、深々と頭を下げて「ご苦労様」「遠くから来てくれてありがとね」といってくれる人もいる。
拠点から出発する時、拠点に残る人はみんなでクルマに向かって全力で手をふる。クルマが見えなくなるまで手をふる。何も帰る人にだけふるだけではない。単に活動場所に行くだけ、夕方戻ってくることがわかっていても、みんな力いっぱい「いってらっしゃい!」と手をふる。戻ってくればもちろん「お帰りなさい」「お疲れさま」と労いあう。ここでは挨拶はいちばん大切なタスクのひとつなのだ。
先日滞在した拠点は本来レストランなのだが、ここのオーナーはリピーターのボランティアが到着すると「お帰り」といい、帰るときは「いってらっしゃい」という。先週帰る時、今月はもう来れないことを告げると(この拠点は今月で閉鎖される)、「来月また来ればいいっちゃ」と笑ってくれた。さりげなくこんなふうにいえる気持ちのよさが、東北という土地のほんとうの美しさなんだと思う。

最後の活動日、作業を終えて拠点に戻る時、クルマの窓を下げて両手を出したら、漁師さんのうちのお母さんが両手を伸ばしてぎゅっと握ってくれた。
何かいいたかったが、なかなか言葉が出てこなかった。手紙を書くこと、必ず戻ってくることはもう伝えてある。ぐりが黙っていると、お母さんはにこっと笑ってうんうんと頷いてくれた。
ぐりの手にはまだその手の温かさが残っている。
その温かみがまだ残っている間に、何かしたい。し続けたいと、心から思う。
そしてそう思えることで、ここに来たこと、続けて来たことは間違ってない、これでよかったんだと思う。


肉を焼く漁師さんたち。どこのお国のヒトかわかんないくらい真っ黒けの日焼けは労働の勲章です。そして11月でも全員半袖。どういうことだ。
現在このあたりの漁師の皆さんは本来の家業がなかなかできない状況なので、ふだんは瓦礫撤去作業など自治体から依頼された地域の復旧作業をしている。どっちみち焼ける。
わかっていても、朝、顔を見るたび「黒くね?!」とビックリしてしまう。思わずいっちゃうときもある。それくらい黒い。

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牡蠣漁師一家のお話

2011年11月09日 | 復興支援レポート
今回お手伝いした漁師さんのおうちは9人家族。
おじいちゃんとおばあちゃん、お父さんとお母さん、長男夫婦と孫。いまどき珍しい四世帯同居である。つーても仮設住宅は狭いので2世帯分使ってるそーですが。それでも狭い。すごい狭い。あまりの狭さに夕食風景をテレビが取材に来るくらい狭い(本当)。
おじいちゃんとおばあちゃんは引退していて、家業の主役はお父さんお母さんと息子。震災後は主に息子さんがイニシアチブをとるようになったそうだ。世代交替である。

とはいえ、実は息子さんは漁業の道に入ってまだほんの数年である。以前は都市部で会社勤めをしていたという。
このへんの若手の漁師さんたち(30~40代。20代はちょっと見ない)には似たようなキャリアの持ち主がちょくちょくいる。というかぐりが出会った人はほとんどがそうだった。学校を出て一度就職し、転勤なり転職なり結婚なり出産なり子どもの入学なり何らかの契機で実家に戻り、家業を継いでいる。だから年齢の割りには漁業の経験そのものは長くない。
長くないが若くて新しい情報に敏感なので、家に伝わる昔ながらのやり方で通して来たお父さん世代とは当然価値観がズレている。ぐりがお手伝いしたおうちの息子さんも、ちょいちょいお父さんと言い合いをしていた。けっこうな勢いでわいわいぶつかるので最初はちょっと驚くが、お母さんが「いつもこうだ」といって笑っているので端で見ている我々もすぐに慣れてしまう。ふたりともそれだけ仕事に真剣だってことだしね。

今回ぐりがお手伝いしたのは主に種牡蠣の挟み込み。
稚牡蠣がくっついたホタテの貝殻をロープに挟んで、そのロープを海上のいかだに提げる。提げる作業もお手伝いする。


参考動画。同じ地域の別のお宅での作業。
震災の影響で時期外れの作業のため、稚牡蠣がすっかり成長してしまってエラいことになってます。
同時期にぐりもやったけど、やりづらかった・・・。


今回ロープに挟んだ種牡蛎。1本のロープに20枚ほど挟む。
ぐりは毎日20本前後挟んでました。これだけに集中すればもっとできるけど、他の作業も並行でやんなきゃいけないからね。

挟み方としては、種牡蛎は海中に提げたときにホタテの丸い部分が水面側に、蝶番部分が海底に向くように、ホタテとホタテの間隔は22~3センチに保つ。このきまりには息子さん曰くいろいろと理由があるのだが、とりあえずこのブログをお読みの皆様には関係がないので割愛します。
作業はいろんなボランティアがやっているので、挟んだロープを息子さんと海上に持ち出していかだに提げようとする段になって、間隔やホタテの向きがムチャクチャになってしまってるロープもちょこちょこある。息子さんはそういうロープは岸壁に持ち帰って挟み直していた。お母さん・お嫁さん曰く息子さんは細かい・神経質なんだそうである。対してお父さんはどっちかというと大雑把らしい。
そういう息子さんを見て、ついついぐりも細かくなる。息子さんに迷惑をかけないように、自分だけでなく初めて挟むボランティアが間違えないように毎日周りの作業に一生懸命神経を配っていた。

ある日この挟み込みの作業にお父さんお母さんも参加したのだが、ロープを海上に運んで提げようとすると、ホタテがみんな逆さにつながっているロープがたくさん出て来た。
この日も初参加のボランティアが何人もいてぐりも細かく注意してはいたので、なぜそんなミスが起きるのかがよくわからない。船上の全員が釈然としない気持ちで向きを直しながらいかだに提げていたのだが、息子さんが「これオヤジだ・・・」といいだした。
お父さんはふだん挟む作業はあまりしないので、なんとなく適当になっちゃってるんじゃないかと。作業を手伝っていた近所の漁師さんは「またケンカしないでよ」と心配していたが、必死に神経を使っていたぐりたちボランティアはつい大爆笑してしまった。だってオチとしては最高じゃないですか。息子さんが指示した通り真面目にやってる素人は間違ってなくて、肝心の漁師さんのお父さんが間違えてる。笑えるよね?

この話にはまだ後日談がある。
大多数のボランティアが引き揚げ、ボランティアツアー(別に書きます)客もいなくなった日曜日、少数のボランティアと漁師さん一家だけで残りの種牡蛎を処理し、別の作業をしている息子さんに代わってお父さんといっしょにいかだに提げた。
ロープを海中に下ろしていて、また、ホタテが逆さのロープが異常にたくさんあるのに気づいた。お父さんは全然気にしていない様子だったので(自分が逆さに挟んでるんだから当り前だ)、ぐりもいちいち注意せずそのまま提げる作業を続けた。勘定してみたところ、ホタテが逆さのロープは全体の半分くらいあった。つまり逆さに挟んでたのはお父さんだけでなく、お母さんも逆さだったということになる。他のロープは全部ボランティアが挟んでいて、彼らの作業はぐりが完璧に監視(爆)していたからである。
そこへ別のボートで息子さんが近づいて来たので、ぐりは気づかれないように急いで逆さのロープを全部海中に下ろした。見つかったらまた言い合いになるからである。

この後日談は今まで誰にもいわなかった。ここで初めて告白します。漁師さん一家の平和を願ってやみません(笑)。
ついでにいっときますが、ぐりは貝アレルギーで、なかでも生牡蛎はまず身体が受けつけない(この地域の牡蛎は生食用)。もっとついでにいうと、ここんちの息子さん、このネタの主人公も、牡蠣、食べれません(爆)。


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ボランティアデブ

2011年11月08日 | 復興支援レポート
日本の田舎の習慣をあまりよく知らないぐりですが。

田舎の人って往々にして客をもてなすのが好き、人にものを食べさせるのが好き、というのはなんとなくわかるんだけど、この震災ボランティアで訪れた地域の人たちの「客にはとにかく食べさせるべし」という情熱はちょっと異常じゃね?と思う。
だいたいぐりたちはいわゆる「客」ではない。あくまでも復興支援を目的にボランティア活動をするために自発的に来ている。もてなしてもらわなくてはならない筋はとくにないはずである。
しかし地元の彼らにはそんな理屈はどうでもいいらしい。

作業は毎朝8時~8時半頃始まり、10時半~11時頃にお茶休憩がある。余談だがこのへんの人は休憩を“お茶っこ”“たばこする”という(“たばこする”は関西でもいう)。休憩ではお茶やコーヒー以外に果物やお菓子や漬け物などの食べ物も大量に出される。個別包装のお茶菓子などは遠慮できても、手作りのものを皿に出されてしまうと断りきれずいただくことになる。
12時の昼休みには、ボランティアは自前の昼食を用意している。しかし漁師さん一家のお母さんお嫁さんはやはり手作りのおかずやあたたかい汁物をテーブルに並べてくる。これもなかなかに断りづらいのでいただくことになってしまう。
こういう手作りの料理がまたいちいちものすごくおいしい。おいしいからつい食べてしまう。

ここまではまだわかるのだが、ある日のお昼はなんとバーベキューだった。
作業中のぐりたちの隣で漁師さんたちがバーベキューセットを準備し始めたのでなんとなくイヤな予感はしていたのだが、気づけば大量の肉やとれたての海産物(てゆーかまだ生きてる)が作業場に運び込まれ、秋晴れの空の下で宴会が始まってしまった。ただしこのうちの漁師さんは一滴も飲まないのでアルコール抜きの宴会である。
それにしても焼かれる肉の量がハンパではない。もう満腹です、もう食べられませんと何度いっても許してもらえない。途中からもしかしてこれは何かのいやがらせ?罰ゲーム?イヤさては食後の我々を鍋で煮て食べる気では?と思うくらい「もっと食べて」と勧めたおされた。お陰で翌日の朝までおなかがいっぱいだった。
念のため申し添えるが、ここの漁師さんたちは津波で全財産を失い、現金収入は現在¥0である。それでこのレベルっていくらなんでもちょっとおかしいと思う。一種の強迫観念にさえ思える。

夜は夜で、わざわざ材料を都内から持ち込んで来たボランティアの方が鍋料理をふるまってくれた。しかも三晩連続で。
おいしいお鍋を囲んで夜も宴会。楽しいんだけど、あたしは何しに来たんやろ?とうっすら疑問に感じないこともない。
お陰様で5日間の活動ですっかり太ってしまった。昼間どんなに頑張って活動しても、ふだんがそんな生活じゃないから体内の代謝機能が急には追いつかない。
しばらくは摂生して少しは痩せないとなとさすがに思う。つーか胃の調子が・・・。


ショッピングセンター。天井に新品の商品がひっかかっていた。陸前高田市にて。

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