『朝鮮の歴史と日本』 信太一郎著
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韓国語や韓国料理など韓国の社会習慣からほぼ完全に遮断された環境で育った在日コリアン3世のぐりにとって、朝鮮は母国であると同時に外国でもある。
そんなぐりの「朝鮮」のイメージは1920~30年代に来日した祖父母、なかでも大好きだった母方の祖母のイメージである。
彼女は1910年、日韓併合の年に慶州北道の両班(ヤンバン)の家に生まれた。韓流ドラマをご覧になる方はご存知かと思うが、両班とは科挙を受けて役人になった貴族が後に地主になった、戦前の朝鮮の地域支配階級のことをいう。
祖母の実家ももともとは資産家だったはずだが、彼女が生まれたころには日本の植民地支配が始まり、悪名高い土地調査事業によって朝鮮のあらゆる人々の財産が収奪されていった。祖母の家でも食べるにもひどく困窮したらしく、慢性的な栄養失調のために彼女の身長は130センチにしかならなかった(ちなみに祖父の身長は180センチ)。初潮が来たのは19歳の時。17歳で結婚して2年も経ってからだった。
嫁ぎ先も両班の家。お陰で彼女は結婚後も来日後もひたすら身を粉にして働き、子どもを産んでは育てながら働き続けるという人生を強いられることになる。なにしろ両班の男はまず働かないからだ。ごたぶんにもれず祖父は勉学や趣味にはうるさく、アルコール中毒で糖尿病になるほどの暮らしを求めながら、自分では死ぬまで一度も働こうとはしなかった。130センチの小柄な身体で10人の子どもを育てながら行商をして働き、小さな畑を耕し、山野で食べられる植物を採集し続ける生活に追われた彼女は、ぐりが物心ついた頃はまだ60代だったにもかかわらず完全に90°に腰が曲がり、髪は純白の白髪になっていた。
そんな身体でもまだ自転車を乗り回し、常に台所や畑で際限なく働き続けていた祖母。考えられないほど多くの苦難に満ち満ちた一生を生きながら、どこまでも善良で優しく思いやり深かった祖母。教育を受けたことがまったくなく、日本語どころか韓国語の読み書きもいっさいできなかったが記憶力に優れ、常に高潔さと気品と知性を忘れなかった祖母。
遊びに行くたび、帰りには手作りのキムチやムク(どんぐりの実でできたくずもちに似た食べ物)、どくだみ茶をたくさん持たせてくれた。どれも彼女の日々の労働の賜物である。春にはいっしょにたけのこ掘り、よもぎ摘み、つくし採り、秋にはどんぐりを集めたり栗を拾ったり、祖母との思い出はほとんど食べ物につながっている。彼女の住んでいた地方は果物が名産で、季節にはいつも上等の桃やぶどうや梨も送ってくれた。
ぐりは祖母が大好きだったが、元気だった頃の彼女はいつも忙しくしていて、あまり孫の面倒は見てくれなかった。たけのこ掘りにくっついていっても会話はない。彼女は日本語がほとんど話せず、ぐりは韓国語が話せなかったからだ。祖父母との会話は常に母が通訳してくれなければ成立しなかった。そもそも祖父は家の中で王様のような人で、まっすぐ目を見つめたり直接口をきいたりしてはいけない人ということになっていたから、ぐりはかなり大きくなるまで、お年寄りと直接会話ができないことになんの不思議も感じていなかった。
年を取って働けなくなった祖母を散歩に誘って、ふたりきりになっていろいろと聞いてみたこともある。そのとき、ぐりと祖母の間にあるのは言葉の壁だけでなく、決して理解を求められないほどの苦痛の連続でしかない長い歳月があることが、中学生だったぐりにもなんとなくわかった。
97歳で亡くなるまで家族運には微塵も恵まれることがなかった祖母だが、ぐりは彼女を哀れだとは思わない。一言も愚痴らず、弱音を吐かず、自らの置かれた状況から絶対に逃げなかった祖母を、ぐりは今も尊敬している。寝たきりになった後、病院のベッドでぐりの手を握って「ぬくい」といって笑った童女のような祖母の笑顔は、ぐりの一生の宝物だ。
そんな彼女を一度だけ「かわいそうに」と思ったことがある。
やはり97歳で亡くなった曾祖母の葬儀に出た時、初めて祖母の妹という人に会った。祖母が二人姉妹だったこともそのときまで知らなかった。
しかし実際には祖母と妹の間にはもうひとり妹がいた。祖母がまだ幼かった頃、曾祖母と曾祖父が大喧嘩をして曾祖母が家出してしまった(原因はアルコール)。末の妹はまだ赤ん坊だったので、曾祖母は彼女だけを抱いて家を出た。
まだ4歳だった祖母は泣きながら曾祖母を追いかけた。すぐ下の2歳の妹もその後をついてきた。真夜中の真っ暗闇の田舎道で、気づいたときには妹の姿は見えなくなっていた。以来、妹の姿を見た者はいない。まだ朝鮮の山野に虎がいた時代で、祖母は妹を「虎にとられたんだ」といっていた。
祖母の悲しみは妹を失っただけでは終わらなかった。曾祖母はそのことで彼女を一生責め苛んだ。祖母とは正反対にプライドが高く気の強い性格だった曾祖母の怒り方は幼心にとても恐ろしかったのを覚えている。そんな曾祖母に責められ続けた祖母を、「かわいそうに」と思った。
今もやっぱり、かわいそうだと思う。
祖父母との間に会話がなく、戦後に日本で生まれた両親も朝鮮の話はまったくしなかったので、ぐりの朝鮮に関する知識は非常に貧しい。
この本は日本人教師によって書かれた歴史書だが、高校生向けの教科書としてつくられているので、ぐりのような無知な人間にとっても誰にとっても読みやすいレベルの本である。
両班の意味も、父の祖先が古代朝鮮の王族だという説の謎もわかったし、祖母が妹を「虎にとられた」といった意味もなんとなくわかった。
虎は朝鮮の昔話に出てくる定番の悪役で、日本の昔話の鬼やイソップ童話のオオカミに近い存在である。何の知識も教養もなかった祖母の想像力の範囲では、もしかすると妹を奪っていった「悪役」は「虎」以外に考えつかなかったのかもしれない。
本書には古代から現代(書かれたのが1980年代なのでそのころが“現代”)までの日本と朝鮮との関わりが丁寧に書かれているが、ページの半分が1910年以降、つまり日韓併合以後の時代に充てられている。
日本と朝鮮は古代から深い関わりのあった国で、とくに古墳時代から飛鳥・奈良時代にかけては大量の朝鮮人が来日し、文字や宗教、土木技術や建築、工芸などあらゆる知識と情報を伝えた。今上天皇は桓武天皇の母は朝鮮の人だと公言したが、それ以外の著名人でも額田王や山上憶良、柿本人麻呂、坂上田村麻呂、最澄も渡来人の子孫だという。
しかしそれ以上に今日の日本と朝鮮半島の間で最も深く果てしなく暗く厳しい関わりがあったのが、日韓併合後の35年間だったのだ。
そして、そのころの時代というのが、ぐりの祖父母が生まれ育った朝鮮でもあった。
この本を読み終わった今、会話もできずどこか遠かった彼らの存在が、ほんの少しだけ近づいた気がする。
朝鮮という国は、いまは地上にはない。
でも、遠い昔、祖父母が生まれた国は朝鮮だった。
祖国をなくすというのがどんな気持ちなのか、正直にいってぐりにはよくわからない。
日本に生まれたものの自分では日本人だとは思えないぐりにとって、どこが祖国なのかは未だに謎だからだ。
できることなら、祖父母とそんな話がもっとしたかった。
今はみんな鬼籍に入っているし、生きていても聞いたところで何も答えてはくれなかっただろうとも思う。
それでも、話さなかったことで、彼らが味わった苦しみや悲しみや惨めさまで全部なかったことになってしまうのが悔しい。
死んでしまった今でも、彼らの気持ちを少しでもわかりたいと思う。
わかろうはずはないかもしれないけど、それでも。
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『ウリハッキョ』
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韓国語や韓国料理など韓国の社会習慣からほぼ完全に遮断された環境で育った在日コリアン3世のぐりにとって、朝鮮は母国であると同時に外国でもある。
そんなぐりの「朝鮮」のイメージは1920~30年代に来日した祖父母、なかでも大好きだった母方の祖母のイメージである。
彼女は1910年、日韓併合の年に慶州北道の両班(ヤンバン)の家に生まれた。韓流ドラマをご覧になる方はご存知かと思うが、両班とは科挙を受けて役人になった貴族が後に地主になった、戦前の朝鮮の地域支配階級のことをいう。
祖母の実家ももともとは資産家だったはずだが、彼女が生まれたころには日本の植民地支配が始まり、悪名高い土地調査事業によって朝鮮のあらゆる人々の財産が収奪されていった。祖母の家でも食べるにもひどく困窮したらしく、慢性的な栄養失調のために彼女の身長は130センチにしかならなかった(ちなみに祖父の身長は180センチ)。初潮が来たのは19歳の時。17歳で結婚して2年も経ってからだった。
嫁ぎ先も両班の家。お陰で彼女は結婚後も来日後もひたすら身を粉にして働き、子どもを産んでは育てながら働き続けるという人生を強いられることになる。なにしろ両班の男はまず働かないからだ。ごたぶんにもれず祖父は勉学や趣味にはうるさく、アルコール中毒で糖尿病になるほどの暮らしを求めながら、自分では死ぬまで一度も働こうとはしなかった。130センチの小柄な身体で10人の子どもを育てながら行商をして働き、小さな畑を耕し、山野で食べられる植物を採集し続ける生活に追われた彼女は、ぐりが物心ついた頃はまだ60代だったにもかかわらず完全に90°に腰が曲がり、髪は純白の白髪になっていた。
そんな身体でもまだ自転車を乗り回し、常に台所や畑で際限なく働き続けていた祖母。考えられないほど多くの苦難に満ち満ちた一生を生きながら、どこまでも善良で優しく思いやり深かった祖母。教育を受けたことがまったくなく、日本語どころか韓国語の読み書きもいっさいできなかったが記憶力に優れ、常に高潔さと気品と知性を忘れなかった祖母。
遊びに行くたび、帰りには手作りのキムチやムク(どんぐりの実でできたくずもちに似た食べ物)、どくだみ茶をたくさん持たせてくれた。どれも彼女の日々の労働の賜物である。春にはいっしょにたけのこ掘り、よもぎ摘み、つくし採り、秋にはどんぐりを集めたり栗を拾ったり、祖母との思い出はほとんど食べ物につながっている。彼女の住んでいた地方は果物が名産で、季節にはいつも上等の桃やぶどうや梨も送ってくれた。
ぐりは祖母が大好きだったが、元気だった頃の彼女はいつも忙しくしていて、あまり孫の面倒は見てくれなかった。たけのこ掘りにくっついていっても会話はない。彼女は日本語がほとんど話せず、ぐりは韓国語が話せなかったからだ。祖父母との会話は常に母が通訳してくれなければ成立しなかった。そもそも祖父は家の中で王様のような人で、まっすぐ目を見つめたり直接口をきいたりしてはいけない人ということになっていたから、ぐりはかなり大きくなるまで、お年寄りと直接会話ができないことになんの不思議も感じていなかった。
年を取って働けなくなった祖母を散歩に誘って、ふたりきりになっていろいろと聞いてみたこともある。そのとき、ぐりと祖母の間にあるのは言葉の壁だけでなく、決して理解を求められないほどの苦痛の連続でしかない長い歳月があることが、中学生だったぐりにもなんとなくわかった。
97歳で亡くなるまで家族運には微塵も恵まれることがなかった祖母だが、ぐりは彼女を哀れだとは思わない。一言も愚痴らず、弱音を吐かず、自らの置かれた状況から絶対に逃げなかった祖母を、ぐりは今も尊敬している。寝たきりになった後、病院のベッドでぐりの手を握って「ぬくい」といって笑った童女のような祖母の笑顔は、ぐりの一生の宝物だ。
そんな彼女を一度だけ「かわいそうに」と思ったことがある。
やはり97歳で亡くなった曾祖母の葬儀に出た時、初めて祖母の妹という人に会った。祖母が二人姉妹だったこともそのときまで知らなかった。
しかし実際には祖母と妹の間にはもうひとり妹がいた。祖母がまだ幼かった頃、曾祖母と曾祖父が大喧嘩をして曾祖母が家出してしまった(原因はアルコール)。末の妹はまだ赤ん坊だったので、曾祖母は彼女だけを抱いて家を出た。
まだ4歳だった祖母は泣きながら曾祖母を追いかけた。すぐ下の2歳の妹もその後をついてきた。真夜中の真っ暗闇の田舎道で、気づいたときには妹の姿は見えなくなっていた。以来、妹の姿を見た者はいない。まだ朝鮮の山野に虎がいた時代で、祖母は妹を「虎にとられたんだ」といっていた。
祖母の悲しみは妹を失っただけでは終わらなかった。曾祖母はそのことで彼女を一生責め苛んだ。祖母とは正反対にプライドが高く気の強い性格だった曾祖母の怒り方は幼心にとても恐ろしかったのを覚えている。そんな曾祖母に責められ続けた祖母を、「かわいそうに」と思った。
今もやっぱり、かわいそうだと思う。
祖父母との間に会話がなく、戦後に日本で生まれた両親も朝鮮の話はまったくしなかったので、ぐりの朝鮮に関する知識は非常に貧しい。
この本は日本人教師によって書かれた歴史書だが、高校生向けの教科書としてつくられているので、ぐりのような無知な人間にとっても誰にとっても読みやすいレベルの本である。
両班の意味も、父の祖先が古代朝鮮の王族だという説の謎もわかったし、祖母が妹を「虎にとられた」といった意味もなんとなくわかった。
虎は朝鮮の昔話に出てくる定番の悪役で、日本の昔話の鬼やイソップ童話のオオカミに近い存在である。何の知識も教養もなかった祖母の想像力の範囲では、もしかすると妹を奪っていった「悪役」は「虎」以外に考えつかなかったのかもしれない。
本書には古代から現代(書かれたのが1980年代なのでそのころが“現代”)までの日本と朝鮮との関わりが丁寧に書かれているが、ページの半分が1910年以降、つまり日韓併合以後の時代に充てられている。
日本と朝鮮は古代から深い関わりのあった国で、とくに古墳時代から飛鳥・奈良時代にかけては大量の朝鮮人が来日し、文字や宗教、土木技術や建築、工芸などあらゆる知識と情報を伝えた。今上天皇は桓武天皇の母は朝鮮の人だと公言したが、それ以外の著名人でも額田王や山上憶良、柿本人麻呂、坂上田村麻呂、最澄も渡来人の子孫だという。
しかしそれ以上に今日の日本と朝鮮半島の間で最も深く果てしなく暗く厳しい関わりがあったのが、日韓併合後の35年間だったのだ。
そして、そのころの時代というのが、ぐりの祖父母が生まれ育った朝鮮でもあった。
この本を読み終わった今、会話もできずどこか遠かった彼らの存在が、ほんの少しだけ近づいた気がする。
朝鮮という国は、いまは地上にはない。
でも、遠い昔、祖父母が生まれた国は朝鮮だった。
祖国をなくすというのがどんな気持ちなのか、正直にいってぐりにはよくわからない。
日本に生まれたものの自分では日本人だとは思えないぐりにとって、どこが祖国なのかは未だに謎だからだ。
できることなら、祖父母とそんな話がもっとしたかった。
今はみんな鬼籍に入っているし、生きていても聞いたところで何も答えてはくれなかっただろうとも思う。
それでも、話さなかったことで、彼らが味わった苦しみや悲しみや惨めさまで全部なかったことになってしまうのが悔しい。
死んでしまった今でも、彼らの気持ちを少しでもわかりたいと思う。
わかろうはずはないかもしれないけど、それでも。
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