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落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

藍、ふたたび

2004年09月23日 | book
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『藍宇』(北京同志著)再読しました。
っても前に読んだのは単行本版の日本語訳、今回読んだのはインターネット版の日本語訳です。原典はネット版の方で、単行本化にあたって結構な改訂が行われたらしいので、内容は全く同じではないようです。訳者も違うし。
らしい、ってのはぐりが前回読んだ単行本バージョンの方をもう忘れてしまっているし、本も手元にないからですー。
改訂が行われたのは主に性行為に関する描写だそーだ。へー。

最初は映画版の監督もプロデューサーも脚本家も安っぽいポルノ小説に過ぎず読むに値しないと感じたそーですが、確かに性描写の量だけはハンパじゃないです。主演の胡軍と劉燁に至ってはふたりとも「冒頭部分を読んだだけで『ムリ!』と思い」以後は読んでないと云うくらいだから、まともなヒトには─特に男性─は読めないでしょーね。それくらい、小説版の捍東と藍宇やりまくりです。て云うかヤリ過ぎ。まぁそんなに倒錯的なことはやってないから読んでて気持が悪くなるほどのこともないんだけど、ここまでこれでもかってくらい何度もやられちゃうとむしろエッチじゃなくなって来ます(気分的には中学の冬休みの宿題でやらされた百人一首の書き取りに似ている。傑作ばっかりなのに書く量が多過ぎて意味が心にしみて来ない)。
ただ逆に先に単行本バージョン=性描写減量版を読んでたぐりはネット版を読んで初めて、なぜコレがあれほど中華圏の人々に熱狂的に支持されたかやっと分かった気がしました。お金にも権力にも欲望の対象にも不自由したことのない享楽的な捍東と、ストイックで純粋な藍宇との間には一見何の共通項もないように見える。そのふたりが互いに麻薬に溺れるかのように相手に溺れ、何度別れても必ずふたたび惹かれあってしまうのは、ひとえにセックスそのもののためである。ネット版にはそのように描かれている。どんなにひどい別れを経ても再会すれば絶対に寝てしまう。理由は書かれていない。書かれてるのはただただ肉欲を貪りあう(笑)ふたりの営みのみ。
要するにアレでんな、恋愛小説ではないワケだ。理屈じゃない、官能の絆の物語なワケだ。極端に純粋な愛の姿─『愛のコリーダ』@大島渚みたいな─と云うことも出来る・・・かもしれない(相当厳しいけど)。
まぁいいや。とにかくこの官能小説から性描写を削った単行本版が無味乾燥に感じたのは当り前です。だってそれなしには成立しない話だから。

読めば読むほど却って映画版の凄さを思い知ります。単行本の感想にも書いたけど、小説そのものは全く稚拙なしろものです。ツッコミどころ満載っす。特にぐりがそりゃないぜと思ったのは藍宇の人物造形。若く美しく情熱的で高潔、ミステリアスでセクシーで聡明、しかも勇敢でかつ従順・・・ってそんな完全無欠な人間おらんわ!!!みたいな。理想的過ぎてあたたかみとか奥行きのようなものが感じられない。つうか可愛げがないよ(笑)。大体そんな人間が売春するってのがヘンじゃないすかね。少なくともぐりの中でこの藍宇像と劉燁はおよそ結びつかない。
この役をミステリアスでもセクシーでもない健康的で純朴なごくごく普通の青年=劉燁が演じたことで、藍宇像にしっかりと血の通った人間性が生まれ、それに伴って藍宇と捍東の関係も原作とは違った色合いと深みを帯びています。小説では刹那的で常に緊迫していたふたりの間の感情が、映画の中ではもっと互いを癒すような、穏やかで自由なものに変わっている。原作では藍宇が捍東との関係にこだわる理由がいまひとつ明確に伝わって来なかったけど、なりきってる劉燁を見てるとなんとなく犬が飼い主を慕う無償の愛に似たものが感じられて妙に納得させられる。
これに反して捍東は胡軍のイメージにまさにぴったりです。実際胡軍の方がかなり早い段階でキャスティングされてたらしいし、いかにも男臭い捍東のキャラクターは彼のタイプキャストでもあるそーです。
この胡軍と劉燁と云う組合せの醸し出す“化学変化”があれだけのリアリティを生み出したのだとすれば、この映画はキャスティングの勝利でもある。

あとこの映画のスタッフに同性愛者が多かった(關錦鵬監督はカミングアウト済み)のも勝因のひとつだと思われます。原作を書いたのは女性なので何から何まで全てが架空の物語だけど、現実の体験を伴った表現には圧倒的に説得力があるし、演じる俳優の環境としても理想的な状況だったんじゃないでしょーか。同性愛者=特殊・異常、と云う一般的な感覚から逃れやすくなれば役づくりもやりやすくなる筈です。
しかしあれだけやってやってやりまくる(爆)話からセックスをごっそりひっこぬいてシンプルな愛情物語に仕上げた脚本家(魏紹恩)はやっぱエライよなぁ。大胆です(台湾金馬奨脚色賞受賞。ちなみにプロの脚本家ではない)。そしてそれをまたわざわざエロく撮る關錦鵬。いやはやさすがでございます。
けど原作のファンは怒って当り前だろーなー・・・製作者はそんなのどーでもいいんだろね。なにしろネット小説だもんねえ。相手ドシロートだもん。

ぐりにはかつてボーイズラブ小説を書く友人がいたことがあり、この手の小説もいくつかは読んだことはあります。正直な話あんまり好きではない。少数の例外を除いてはそれほど面白いと思わない。ただイメージにとらわれさえしなければ、こういう素人小説を映画化するのはなかなか利口なビジネスかもしれません。なにしろ観たい人間はいっぱいいるから動員は保証されるし、原作がユルいぶん好きなことが出来る。
ちょーどぐりにも映画化したいBLコミックがあったりします(映画関係者数人に読ませたもののはかばかしいリアクションは今のところなし)。胡軍と劉燁にピッタリな役もあるので香港映画でどうでしょー。でもラブじゃないけどね。コメディだけどね。ははははは。

映画版『藍宇』の感想はこちら
単行本版『藍宇』の感想はこちら

劉燁まつり

2004年09月18日 | movie
『小さな中国のお針子』
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1971年、文化大革命のもと、ブルジョア階級の再教育を目的とする下放政策のため、医者の息子であるルオ(陳坤)とマー(劉燁)は四川省の山岳地帯に連れて来られる。ほとんどが文盲で目覚まし時計もバイオリンも見たことのない人々の暮す村で銅の採掘や農作業に従事させられるふたり。やがて出会った美しいお針子(周迅)と恋におちるルオ。ふたりは彼女に外国の小説を読んで聞かせることで「無知」の世界から彼女を救い出そうとする。
フランス在住の戴思杰監督作品。

舞台は中国だし台詞も中国語、出てる俳優も中国人なんだけどこの映画はフランス映画です。
観終わってみれば確かに中国映画ではない。それは光や色彩の使い方などヴィジュアル的な面も含めて、この物語があくまで外国から見た目線、エキゾチシズムとノスタルジーに終始してしまっているからです。しかもそれがまた中途半端なんだよ。極端にデフォルメされた背景描写も人物造形も全てが「死んで」いる。ディテールにも設定にもリアリティとか愛情とか説得力がまるでない。監督が中国人であるにも関わらず。

ええぐりはこの映画キライですね。好きにはなれない。少なくともぐりの目には監督のやりたかったことが表現しきれている作品には見えなかった。
作中には“知識と自由の象徴”アイテムとして外国小説やモーツアルトの音楽が登場するけど、それがストーリーにほとんど反映されて来ない。ただの上っ面の小道具で終わっている。成人してバイオリン奏者になる設定のマーの音楽やバイオリンへの情熱に関する内面描写が決定的に欠けているのが不自然。ルオとお針子の恋愛も“愛情”そのものがろくに描けていない。見せ場が随所にあるにも関わらず展開が淡々としていてダイナミックさもない。カメラワークや物語の構成、音楽の使い方など全体的な演出に品がないのもぐりは気に入らなかった。

要するに全てにおいてヘンにドライなんですわ。これはこういうテイスト、スタイルなのかもしれないけど、ぐりには「じゃあナニが云いたいの?」と云ういちばん大事なところがさっぱり響いて来なかった。観客を物語の世界へ連れていくパワーが作品に感じられない。
これは憶測だけど、個人的な自伝的要素も含んだ文芸映画にしたかった監督と、ただオリエンタル趣味なエンターテインメント映画にしたかった製作者側の意向がかみあわなくて、こう云う最終形になったのかも・・・ともとれる。
見た目は小綺麗にまとまっている。周迅はカワイイ。風景も美しい。技術的には平均点程度の完成度もクリアしている(完璧とはとても云いがたいにせよ)。でもそれだけ。ごくろーさんです。

さて劉燁ですが、デビュー作の『山の郵便配達』と『藍宇』も両極端に違う役柄だったけど『お針子』では前2作とさらにガラッと違うキャラクターをがっつりと自分のものにしています。町育ちのブルジョア、音楽と文学を愛する無口な男の子─内向的で一見頼りなさそうなんだけど誠実で友だち思い、胸に静かなプライドを秘めたナイーブな少年─と云う複雑で分かりにくい人物造形に不自由しているフシが一切ない。やっぱウマイわこの子。梁朝偉似の目力は今回びしばしとカマしておられました(笑)。て云うかムダにカマし過ぎじゃないかと云う。そんでまた梁朝偉似の困惑顔もイイ。
こうして続けて出演作を観ていると、そういう年頃なんでしょうが1本ずつ着実に成長してってるのがすごく分りやすい。若いんだなぁ。今後も型にハマったりアホな挫折に転んだりしないで、このまま順調に大物になっておくれ。青年よ。
ココまで絶賛しといてナニですけども、このヒトがどーしたってイモいのはもうしょーがないんでしょーか・・・。この役では一応町っ子と云う設定ですしそれはそれでクリアされてるんだけど、じゃあ多少なりともそれらしくソフィスティケートされてるかっつーと・・・うーんやっぱどっちかっつーとダサイ方の町っ子にしか見えない。それはそれでアリだろうし、共演の陳坤の容貌がごっつ都会的なので好対照っちゃ好対照なんだけど。いつかイモくない役も見たいなぁ(笑)。章子怡みたいにゲーノージン!!っぽくなったりはしなくてもいーけどね。役者のスペックとしてさぁ。

ルオ役の陳坤や周迅は中国国内では大人気のアイドルだそうですが、とりあえず『お針子』でのこのふたりの演技はなんだか観念的と云うかTVっぽくてぐりはいただけませんでした。台詞も少なくキャラクターとしては物凄く控えめな劉燁の方の実力ばかりが目につくのが不思議なりー。監督本人や劉燁のインタビューを読むと、原作を書いた監督自身の少年時代がこのマー少年のキャラクターに重なってるそうで、云われてみればそういう思い入れもビミョーに感じないこともナイ。
あと別のインタビューで見たんだけど、この『お針子』の撮影中、劉燁はその前に撮った『藍宇』の後遺症で男性と仲良くするのが楽しくて、陳坤にくっついてばかりいて周迅にツッコまれてたそーです。アブナイですね。マーのお針子に対する感情がなかなか“恋”に見えないのはそのせい・・・ではないか(笑)。

ところでこの『お針子』は2002年のカンヌ映画祭に出品されたとやら聞きますがまさかコンペじゃないでしょーね?ちなみに劉燁くんの出演作は2001年の『藍宇』、翌年の『お針子』、2003年の『パープルバタフライ』と続けて3本(出演作は今年までで10本少々)がカンヌに出品されてますが、今のところ無冠。今年は出品はなかったみたいですが、こんなに若くて既に国際的に評価される作品にコンスタントに出てるってスゴイじゃないですかー(フォロー?)。『お針子』はぐりは好かんかったけど『パープルバタフライ』はどーでっしゃろな。本国ではなんやエライ評判悪かったみたいだけど。

今日本国内で観れる劉燁作品はコレと『郵便配達』と『藍宇』しかナイです。若いんだもんね。
さー次観るなら『藍宇』つながりなら胡軍の出演作だけど・・・『東宮西宮』か『インファナル・アフェア/無間序曲』しかナイじゃん。『東宮西宮』は劇場公開時に観たし(傑作だべさ)『インファナル・アフェア』の方は前作観てないし・・・ってことはとりあえず前作を観ますかね。よし(?)。

劉燁まつり

2004年09月17日 | movie
『山の郵便配達』
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80年初頭、中国・湖南省の山岳地帯。僻地を歩いて郵便物を配っていた配達夫(滕汝駿)が引退することになり、後任の息子?i劉燁)といつもの集配コースを引き継ぐ2泊3日120キロの旅に出る。1998年、霍建起監督作品。99年中国金鶏奨(中国アカデミー賞)最優秀作品賞・最優秀主演男優賞ほか全5部門受賞。同年モントリオール映画祭観客賞受賞。

ストーリーったってこれしかないんですよ。ホントこれだけ。湖南省の緑したたる美しい山々、寡黙な父と純情素朴な息子と愛犬がひたすら歩く。集落に着くと歓迎してくれる村人との交流がある。父は若かりし頃を回想し、息子は仕事で不在がちだった父との距離を縮めていく。いつも母親を気づかっていたひとり息子をどこか頼りなく思っていた父親も、彼がいつの間にか自分の代りに田畑や家庭を守る自立した大人に成長していることを知る。
台詞はすごく少ないです。特にとーちゃんめちゃ無口です。その代りと云うか息子のモノローグが多い。こうして聞くと北京語ってメロディアスで耳に心地よい言語です。劉燁のソフトな声音がまた詩的な語り口にあっている。

風景が綺麗でメインキャストはおっさんとイモいにいちゃん、台詞が少なくてドラマ展開にも乏しい淡々とした文芸作品と云えばなんとなく眠そうなゲージュツ映画を想像しますが(ぐりは公開当時=2002年はそう思ってた。ずびばぜん)、意外にも見てるとアッと云う間に時間が過ぎる。実際ナニが面白かったんだと訊かれてもようは分からんのやけども。父と息子の世代間の葛藤みたいなものは勿論ある。息子は合理的に仕事を楽しもうとするけど、父は頑なに自分がこれまで貫いたやり方にこだわろうとする。息子はそんな父に反抗はしない。でも思ったことはきちんと云う。普段あまり顔をあわせない父親をどこかで「こわい」と思ってはいても、ただ黙って無闇に云うことを聞いている訳ではない。そしてやんわりととーちゃんの体調を思い遣る。冷たい川を渡る時、息子の背に背負われた父は思わず涙する。このシーンぐりはすごく好きです。

この話が面白いのは、こうしたふたりのやりとりの描写の細やかさもあるけど、地味な仕事に対してあくまで真摯な主人公たちの純粋さや、陸の孤島に暮す少数民族の普遍的な豊かさに向ける語り手の目線のあたたかさ、愛情の深さゆえではないかと思う。歩いて郵便を配るのは苛酷な仕事ではあっても目立つ成果は残らない。父は信頼し感謝してくれる村人のためだけにただただ寡黙に淡々と働く。息子はそんな父をおそれつつちゃんと尊敬している。息子が山の人が山に住み続ける意味を語る。山の人は山に住むのがいちばんあっているからだと彼は云う。自然と共存し父祖伝来受け継いで来たものに価値を見い出す人々は確かに充足して見える。そんな彼らをみつめる作家の目線が快い。ヘンにリスぺクトしたりはしない。これはこのままで最高に美しいじゃないか、そう思わない?みたいな感じ。
ただみょーに若くて綺麗なおかーさん(いっつもすごい不安げ)や息子と仲良くなる美しい娘(なにかっちゅーところころ笑ってばっかり)の存在がステレオタイプだったり、回想シーンの入れ方に全くセンスがなかったりってとこに大陸映画の古臭さが鼻につかないこともなかったです。強いて云えばね。一昔前のNHKのドラマみたいで。

これが映画デビューとなった劉燁は当時20歳でまだ北京中央戯劇学院の学生。ういういしいです。演技もウマイ・・・と云うかほとんど素に見える。まぁあんまりテクニックを必要とされる役柄ではない。それよりは彼自身が本来持つ空気感─無邪気で屈託がなくて純朴でいかにも健康そうなんだけどぼちぼち普通の現代っ子─みたいなものがたぶん役柄と作品の世界観にマッチしたのであろーと思われる。『藍宇』でブイブイ発射してた“目力”はこの作品ではまだそれほど目立たない(監督はこの目力に惚れて彼を採用したそーですが、聞けばこのヒトすんごいド近眼だそーで演技??ヘあんまり周りが見えてないらしい)。はにかんだようなまぶしそうな、えも云われないあの笑顔は既に健在です。たまにボケッとと云うかポカンとした白痴みたいな表情をするんだけどそれも結構可愛い。なんか動物っぽくて。

ちなみにコレが公開された年は日本では張芸謀の『あの子を探して』と『初恋のきた道』も公開されてます。ぐりはこの2本は劇場で観ました(そんで号泣した)。しかし本国でも同じ年に公開された『あの子を探して』は金鶏奨の下馬評では圧倒的優位だったそうですが、結果的には『山の郵便配達』が主要5部門を制覇している。シブイね。
すごく風景が綺麗なので、劇場で観れば良かったと悔やむことしきり。まぁでももう2年前のことだからしゃーないね。

アフターダーク

2004年09月13日 | book
『アフターダーク』 村上春樹著
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出ました村上春樹の新刊。読んじゃいました。ふー。
うーんまだ一回しか読んでないから感想ったってよく分からない・・・ってことはあまり面白くなかった、ってことなんだよな・・・自分よ。うん・・・。
とりあえずこの新しいスタイル─時刻を章の冒頭に掲示するリアルタイムな構成と、読者(あるいは筆者)を見えないカメラのように表現する文体─はぐりは正直あんまり好かんです。シュミじゃない。読んでて上手くストーリーに入って行けない。入って行こうとしても、「カメラがどうの」「時刻がどうの」って箇所でフッと妙に冷静になってしまって、気分が断ち切られてしまう。

もうちょっとヒマになったら落ち着いてじっくり読み返そうとは思います。
しかしなぁ・・・。
ところで“アフターダーク”って今で云うスクリーンセーバーのことじゃなかったっけ・・・ってそんなこと覚えてるワタシって年寄り?

それでいいのか浅野忠信

2004年09月12日 | movie
『珈琲時光』
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いやー久々の侯孝賢ワールド、堪能しました。
うん、やっぱり好きですね。すごくイイ。
ストーリーらしいストーリーってナイです。ひたすら淡々とした日常、ごくありふれた家族の肖像。ドラマチックなことは何も起こらない、具体的な内面の描写もない。でも終わった瞬間に心の中を爽やかな風がふわーっと吹き抜けていく感じがする。ぱあーっと明るいあたたかい光が射しこんで来る感じがする。
教養のないぐりにはこれ以外に上手く感想を表現する言葉が見つからないんだけど。
ワンシーンワンカットの長回しと、風景に語らせるような実景カットの使い方が、ここ数年説明的な商業映画ばっかり観てたぐりの目には瑞々しくうつりました。これだよこれ!って感じ。

主役の一青窈はなかなか侯孝賢ワールドにキレイにハマってましたね。彼女は女優さんではないけど、侯孝賢はよく俳優ではない人を上手く使って良いお芝居をさせたりしてるんですが、今回は歌手一青窈を良い感じに女優させてました。あまりにも彼女が自然で、他の俳優─たとえば小林稔侍とか─が却ってカタく見えるくらい。
ただ一青窈に関して云えば主題歌は彼女じゃない方が良かったかも。特にあのナレーションはサムかったです。

それにしても日本語で演技する俳優を、日本語を解さない外国人の演出家がこれだけきちんと演出出来るってスゴイなぁと思いました。まぁ一青さんは北京語が話せるしコミュニケーション上では問題ないかもしれないけど、他の外国人監督の日本を舞台にした日本人が出ている映画はどれもどうも不自然な演出・演技ばかり目につくものが多かったので、そういう齟齬を全く感じさせない、日本を舞台に撮ってもあくまで完璧に侯孝賢ワールドをつくりあげた監督ってやっぱスゴイなぁ、巨匠なんだなぁ、と思ってしまったです。
うむ。

ところで浅野忠信はまた「ヒロインに想いを寄せる青年」役でしたけども、これはナニか?浅野氏のタイプキャストなのか?しかしこの役ばかりは浅野クンじゃなくても良いような気がしました。て云うかこの電車オタクが浅野クンであることが作品にとっては逆にハンデにすらなってるようにぐりには見えました。
この1ヶ月で見た浅野氏の出演作(『地球で最後のふたり』『父と暮せば』『珈琲時光』)はどれも似たキャラクター─内に秘めた思いはあるが表面的にはいささかやさし過ぎるくらい穏やかなごく普通の青年─でもあるせいか、なんとなくどっか“型にハマってる”感もして来てます。あとカオがデブってる。ちゃくちゃくとおっさんぽくなってます。ヤバいです。
と云っても毎年毎年海外の映画祭に出品されるような秀作に出まくってる割りには、浅野クンには「これぞ傑作!これぞ名演!」と誰もが唸るような出色の代表作ってまだナイよーな気がします。どれもまぁまぁ、演技もウマイ、じゃあ日本映画史に残るのはどの作品か、どの役か、っつーとどれも帯に短し襷に長しと云うか。出過ぎなんじゃないのかねえ。もうちょっと作品絞れんもんでしょーか。最近じゃとんでもない失敗作(タイトルはまだ云えませんが)にも出ちゃってるみたいだしね。
そろそろ30代なんだし、ここらへんでいっちょぱーっとやらかして欲しいもんですね。勝手ながらそこんとこちょっとお願いしときます。